サクラハドコデスカ

六本木に行くために大江戸線に乗ろうと新江古田駅のホームに降り立った。いつも乗る位置にふたりの若い白人が立っていた。一人はとても背が高い。190cmはあるだろう。もうひとりは180cm程度か。

ホームに電車が入ってきて、二人は車内に入っていく。椅子があいていたが、背の高い方はドアの脇に立ち、背の低い眼鏡の男は椅子に座った。

不自然に感じた。友達なら一緒に立つか、一緒に座るだろう。少し離れた位置で一人は座り、ひとりは立つ。僕は背の高い男のそばに立った。椅子がまだあいていたので座ろうかなと思ったとき、背の高い男が「アノ」と話しかけてきた。なかなかの美男子で瞳が青い。

「何か?」

「サクラハドコデスカ?」

桜が咲き、そろそろ散ろうとしている時だった。いま盛りなのはどこだろうと考えた。

「シンジュクハ?」

「ああ、新宿御苑がいいかもしれないね」

「タクサンサイテル?」

「たぶん咲いてる。でもそろそろ散っているかもしれないし、ちょっとわからない」

「モウスグ、ワタシカエル」

「ああ、国に帰るのね。どこ?」

「アメリカ」

「アメリカのどこ?」

「ユタ。ユタシッテル?」

「知ってるよ。岩山が多い所ね」

「ナゼシッテル?」

「なぜ? 日本じゃアメリカのことは有名だよ」

「ソウ? シラナイヒトオオイ。アメリカイッタコトアル?」

「あるよ」

「どこ?」

「サンフランシスコ、ニューヨーク、ハワイ」

「ハワイイイ。イキタイ」

「ユタは行ったことないけどね」

「ウン、ヘイキ。アナタユタノコトシッテル、メズラシイ。アナタシンエコダノソバニスンデイル?」

「そうだよ」

「ワタシモソバニスンデイル」

「そう」

このとき、座った眼鏡の男も隣に座っていた人に話しかけていた。

「アナタセイショヨンダリシマスカ?」

「読んだことはあるよ。でも信者じゃない。仏教の本も読むし」

「キョウカイニハ イッタコトアリマス?」

「昔、子どもの頃にね。友達に誘われて通っていたことがあるよ。クリスマスに劇をやったな」

「オオ、スゴイ。デハマタキョウカイニキマセンカ?」

「いや、別に行こうとは思わない」

「コンシュウマツニ ヨゲンシャガ、サテライトのホウソウでオハナシシマス」

「衛星放送で話すの?」

「そう、エイセイホウソウデハナシマス」

「予言者って誰?」

青い瞳は鞄から一枚の紙を出してきた。そこには三十名ほどの顔が描かれていた。上の方は絵だったが、下に降りると白黒写真になり、一番下はカラー写真だった。

「コレガスベテヨゲンシャ」

「なんの予言者?」

「モルモンキョウ、シッテル?」

ユタ州と言われたときに気がつけば良かった。彼はモルモン教の布教のために来ているのだ。一番上に描かれていたのはジョセフ・スミスというモルモン教の開祖だった。それ以来、代々預言者が受け継がれているという。

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砂丘に立つ子供

父(綱淵謙錠)の書簡が新潟市會津八一記念館に展示されているというお知らせと一緒に、その展覧会についてのパンフレットをいただいた。パラパラとそのパンフレットを見ていくと、懐かしい絵が目についた。

「砂丘に立つ子供」と題されたその絵は、僕が幼い頃、ずっとその複製画が玄関に飾られていた。いったいどんないわれのある絵なのか、当時はまったく知らなかった。この絵で幼子をおぶっている女性は母親だと思っていた。荒涼とした土地に立っているその女性と、背中の子供の目の表情がとても印象的だ。

この絵にはたくさんの思い出が染みついている。その思い出がプログラムを開いて目にした途端、ポロポロとこぼれてきた。

父は過去の話をほとんどしなかった。父の過去について知っていることのほとんどはエッセイから知った。父は聞けば答えてくれるが、聞かない限りは黙っている人だった。生きている間にもっといろいろと聞けばよかったなと、今さらながらに思う。

僕がライターとしてはじめてまかされた仕事は「セブンシーズ」という雑誌に父との対談を一年ほど連載させてもらったものだ。その企画をもらったとき正直言ってちょっと嫌だったのだが、あのときに父と一年間対談させてもらって、いまでは本当に良かったと思っている。編集長だった髙野育郎さんには恩を感じている。あのときあの企画をもらわなかったら、父のことを本当に何にも知らなかっただろう。

僕にとってあの絵が、どんな意味を持っているのかはすぐにわかる。しかし、父にとってあの絵が、どんな意味を持っていたのか、それはもうわからない。旧制新潟高校に通っていたとき、父はあの絵を見上げて何かを思っていたのだろうか。

新潟市會津八一記念館

同じ日に、もうひとつの知らせが届いた。父の短編小説が「龍馬と志士たち」という文庫に掲載された。池波正太郎など、十人の作家が書いた坂本龍馬についての短編を集めたものだ。

幕末というと、以前はとっても昔のことのように感じていたが、自分が生きてきた年月のほんの四倍ほど昔のことと思える歳になってきた。

ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ(The Cove)」について

僕はイルカやクジラが好きだ。御蔵島やハワイで一緒に泳いだことがある。とても楽しかった。イルカがこちらに興味を持ってくれたときのなんとも言えぬ感動は、なんとも言えないのでとても書きにくい。スピリチュアルな雰囲気で書けば「癒される」みたいな感じ。(笑) 犬がしっぽを振って寄ってきてくれたときの感じに似ていた。自分のことを好きになってくれた犬が、自分のことを見つけてしっぽを振りながら全速力で走ってきて、ハッハと息を吹きかけながら顔のまわりをなめまわされるときの、あの勢いと犬の「うれしいぞ」というエネルギー、あの感じだ。

もちろんイルカとはたいてい初対面なのだけど、御蔵島には何回か行ったので、僕には認識できなかったが、イルカは認識していたかもしれない。確か三回目くらいに行ったとき、二頭のイルカにはさまれてしばらく泳いだ。たいていイルカは一緒に泳いでも人間が息継ぎをするときに離れてしまうものだが、そのときはなぜか一緒に二、三回息継ぎをしてくれた。二頭にはさまれて深く潜り、僕の息が続かなくなると一緒に海面に上がってきてくれて息継ぎするのだ。このときの感動はきっと死ぬまで忘れないだろう。

クジラもハワイに何度か見に行った。あの巨体がノッソリといるだけで、なんかニマニマとしてしまう。息をブーッと吹くだけで歓声を上げてしまう。尻尾を持ち上げて海に沈んでいく瞬間なんか、WBCで日本が優勝したときのようにガッツポーズを取ってしまう。まだブリーチングを見たことがないのだが、そのときにはいったい自分がどうなってしまうか心配なほどだ。

そんなにイルカやクジラが好きなものだから時々人に「じゃあクジラは食べられないんですか?」と聞かれる。そんなことはない。おいしいものはペロリと食べてしまう。それが日本の文化だから。

ソウルオリンピックの一週間後、僕はソウルに行った。当時韓国では目抜き通りにあった犬肉鍋屋さんを見えないところに移転させたと話題になっていた。幸運にも見つけられたら食べてみようと思っていたが、あまり熱心でもなかったので食べる機会には巡り合えなかった。犬は好きだが食べるか食べないかは別問題だ。それが人間だと思う。

何ヶ月か前、ドキュメンタリー映画「The Cove」の予告編を見た。またやってるなぁと思った。和歌山県太地町のイルカ漁についての映画だった。そのときに見たのとほとんど同じものがここにある。(この映像は現在削除されています)

これを見たときにはまったく気がつかなかったが、もし下のトレーラーを見せられていたら、きっと驚いただろう。リチャード・オバリーが登場するからだ。

(ここには動画がありましたが、YouTubeから削除されたので消しました)

リチャード・オバリーはかつて「わんばくフリッパー」という、イルカが主人公のテレビドラマに調教師スタッフとして参加した。使ったイルカは何頭か彼が捕獲したものだった。テレビドラマが終わり、イルカたちはあちこちに引き取られていく。しかし、もともと引き取られることなど考えずに撮影のために捕まえたイルカたちだったので、ひどい扱いを受けて次々と死んでいく。リチャード・オバリーが捕まえた一頭のイルカはオバリーが訪ねていったときに彼の腕の中で死んだ。それ以来オバリーはイルカの解放運動を始める。このときのいきさつについては「イルカがほほ笑む日」という本に詳しく書いてある。彼の運動は過激で、入り江に囲ってあるような場所では囲いを切って逃がしてしまう。それがもとで逮捕され、ニュースになり、アメリカでは英雄扱いされた。アメリカ海軍を相手に訴訟を起こし、兵器として育てたイルカを引き取りリハビリして海に返そうともした。そんな頃、1995年前後に僕は彼をシュガーローフに訪ねた。マイアミからキーウェストに向かう途中にある。そこのリゾート施設のオーナーに許可を取り、海軍から引き受けたイルカのリハビリをしていた。

リチャード・オバリー(以下リックと略す)とは寿司も食べたし、ビールも飲んだ。リックはとても繊細で、普通に会っているとあんな過激なことをするようには思えない。暇なときは自分のアトリエでイルカの絵を描いている。可愛いイルカの絵を描いて売るのだそうだ。そんな彼だから、日本人がクジラを食べることについて、僕の前でははっきりとした態度は取らなかった。その話をすると困った顔をしていた。しかし、彼の側にいたボランティアは違った。シュガーキーリゾートのカウンターでビールを飲みながら二、三人のボランティアと談笑していたのだが、「日本人はイルカを食うんだよな」と言われた。たぶん僕がイルカの保護に興味を持っているので「イルカを食うなんて飛んでもない」という同意を求めるつもりでそう言ったのだと思う。しかし、僕はこう答えた。

「イルカは食べたことないけど、クジラならあるよ」

その場の雰囲気が固まった。そのあとのやりとりはよく覚えてないが、最後にこういった。

「君たちは牛を食べるだろう。なぜ牛はいいのにクジラはダメなんだい?」

すると期待していた答えが返ってきた。

「イルカは知性があるからよ。人間並みの頭脳があるからダメなの」

酔いも手伝って僕はこう答えた。

「じゃあ、君たちは頭のいい人間は生かすけど、頭の悪い人間は殺すのかい?」

雰囲気が険悪になったのはいうまでもない。それ以来ボランティアの人たちとはうまく会話ができなくなった。

ボランティアは誰も話をしてくれないので、イルカのいる入り江の端に座って黙ってイルカを見つめていたときリックがやってきた。

「どうかしたの?」と言うので、「Fine.」と答えた。たぶんリックはボランティアと僕が言い争ったことを聞いたのだろう。僕の肩に手を置いて「It’s OK」と言って去っていった。

そんな彼だから、日本人の心情は重々承知しているのだと思う。それでもなお「イルカを自由にしろ」が彼の主張だ。

かつて農業系の雑誌に書いていたとき、牛を飼育している農家に取材したことがある。そこは肉牛を育てていた。一泊して翌日、ちょうど牛を市場に送り出す日だった。市場に送られる日には牛は普段とは違う声を出すという。どうやら牛たちは何かを感づいているらしい。農家の人に「情が移ったりしないのですか?」と聞いてみた。すると「情が移らないように番号で呼ぶんだ」と言っていた。その声を聞いて「情が移らない訳はないな」と感じた。それが人間の感情だ。

しかし、人間は動物を食べる。食べないではいられない。動物でも魚でも草でも木の実でも食べるから人間になったのだと思う。もし人間が雑食にならなかったら、いまのような人間にはなれなかっただろう。それが人間だ。

「イルカを食べるな」という運動はそのうち加速して「動物を食べるな」「命を食べるな」「人工のものだけ食え」なんて、ならなければいいのだが。

写真は二枚とも僕が撮影しました。

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