白龍トマト館について

僕は白龍トマト館という中華料理屋さんのホームページを作っている。だから、これから書く話は、そのことを考慮して、差し引いて読んでもらえたらと思う。僕は嘘を書くつもりはない。でもひいき目に見てしまうことはあるかもしれない。

このところのコロナウィルスのおかげで、どこのお店に行ってもお客さんがかつてほどはいない。おいしいお店も、人気のお店も、お客さんが少なくなっている。ところが、白龍トマト館はお客さんがほとんど減らない。以前から、混む日と混まない日があったが、同じように混む日と混まない日がある。僕にはそれがすごいことだなと思える。いったいなんでそうなるのか考えた。

いくつかの飲食店のホームページを作ったけど、白龍トマト館だけ際立って違う点がある。それは、無理に売ろうとしないこと。身の丈にあった表現をしようと考え、それ以上を望まないこと。たいていのお店は「お金をかけたのだからその分の利益が増えるように」と考える。ところが白龍トマト館は2006年からホームページを作り、メールマガジンを発行しているが、身の丈にあったことしか言おうとしない。

それのどこがいいのか?

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農産物を商品にするな

岡田米雄の論文を読んだ。
タイトルは「農産物を商品にするな」。
商品にすることで農産物は効率化される。
その結果、本物の農産物が作られなくなり、偽物の農産物ばかりが流通するようになる。
こんな話を岡田米雄は1970年4月の「思想の科学」に書いている。
それから47年もたっているけど、いまだに解決されていない。
その論文にはこんなことが書かれている。

 化学肥料によって土壌中のバクテリアや菌類、あるいは昆虫類など生物が生きていけなくなる。これらの生物は、土壌中の動植物の遺体を食べて生きている。その代わりにそれらを分解し、無機質化して植物が吸収しやすいようにしているのである。ところが人間が、バクテリアなどそれら生物に代わって、直接無機物である化学肥料を植物に供給するものだから、それら微生物は必要がなくなるし、生きてもいかれなくなったのである。ここに自然のバランスが崩れて、いままでおさえられていた植物に有害な生物が繁殖するし、何億年も昔から植物をここまで成長させた実績を持つバクテリアや菌類の働きに、人間の科学の力がかなうはずがなく、植物体の栄養に欠陥がでて病虫害の攻撃にまけ、病気になる。そこで人間は農薬を登場させ、更に生物を殺して自然のバランスを崩し、悪循環を重ねつつ、土壌中のいっさいの生物を殺し、土壌は死に、植物も死ぬのである。
(中略)
農林省食糧研究所の西丸震哉氏が、雑誌「自然」(昭和四四年十月号)において、化学肥料や農薬を使わずに、昔ながらのやり方で堆肥をすきこんでつくった米の味が、この世のものとも思えぬくらい感激的にうまかった話をしておられるが、全くその通り。米ばかりでなく、牛乳でも野菜でも果物でも何でも、豚肉や卵にいたるまで、化学肥料や農薬が発見されるまでの、昔ながらのやり方で生産した農作物の方が、すべて感激的にうまいのである。
(中略)
農民はなぜ、化学肥料や農薬を使ったのであろうか。農民が、自家用の米や野菜には化学肥料や農薬を使わないが、販売用のそれらには十二分に使うのはなぜか。或いは、もし農民が化学肥料や農薬を使わずに、堆厩肥や牛尿を畑や田圃に運んですきこみ、農作物を生産したらどうなるか。この労働力不足の時代におそろしく手間がかかり、しかも生産量が激減することはうけあいだ。反対に、化学肥料や農薬を使えば、人手が省けるし、生産量も急増する。前者は収入減の支出増であり、後者は収入増の支出減。前者はコスト高であり後者はコスト安というわけ。つまりは前者なら経営がなりたたず、後者ならもうかることもありうるというのである。利潤追求とまではいかなくとも、農民が農業で生きていくためには、化学肥料や農薬を使わなければやっていけないように仕組まれてしまっているのだ。この仕組みに挑戦しないかぎり、農民は、私のいう本物の農業を行なうことができないのである。化学肥料や農薬を使わず、昔ながらの本物の農産物を生産し人間に供給するということは、い
ったい現体制下で可能なことなのだろうか。不可能なら、それは、人類の滅亡につながる。人間として可能にしなければならないのではないか。
(中略)
資本主義体勢にまきこまれて、農産物を商品として売買するようになってから、農民は、ニセモノをつくり出し、農業を否定する結果になったと私は思う。農産物は、他の工業製品とはちがって、これは、人間のいのちそのものだ。従って、人間が他の何よりも尊重されるなら、食べ物も人間同様、他の何よりも尊重されるべきだ。
(中略)
農民は現在、本物の農産物を生産することはできる。しかし、それによって生活することはできない。つまり、自給自足の生活は、できなくなっている。一方、消費者は、本物の農産物を待望し、目前にそれを見ながら入手することができないでいる。それは、共に現体制に押し流され、農村青年たちとどうよう、あきらめ切っているからではないか。といって、おとなしく死ぬわけにもいくまい。この現体制に抵抗して、まず、自らが生きるために抵抗の根をどこかにおろさねばならない。その方法は、ないものだろうか。少なくとも、食べものに関して、農産物に関して一つでもいい。自給自足ができないものだろうか。

それはできる。私は、生産者農民と消費者とが直結し、消費者と農民の農場をもち、ムラをその農場にし、消費者と農民との自給農場を創り出すことも、一つの方法と考える。もちろん、農民が生産担当者になるわけで、都市と農村の一体化を図ればいいのである。いってみれば、農民と消費者が、農産物に関して自給体制を創り出すことだ。もともと農産物は、商品として売買されてはいけないものだし、従って自給するしか手がないことをもう一度思い出してもらいたい。

ここまではっきり書かれた論文を読むのは爽快だね。

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初詣は鉄道省が作った?

今朝、たまたまSYNODOSを覗いたら、以下の記事が目に止まった。
初詣は新しい参詣スタイル!?――鉄道が生んだ伝統行事 平山昇 / 歴史学

上の記事の概要は、「初詣は鉄道の発達とともに生まれた比較的新しい参詣」であるとのこと。

これで思い出したのが、父の書斎から持ってきた古本に『神まうで』という古本があったこと。奥付を見ると印刷が昭和四年十二月二十日、発行が昭和五年一月一日となっている。発行したのは鉄道省。この本には全国の大きな神社が紹介されている。初詣が鉄道の発達とともに生まれたというよりは、鉄道の利用者が増えるようにと神社参拝自体が工夫されていたことがわかる。つまり明治となり国家神道が生まれ、廃仏毀釈がおこなわれ、鉄道省は神社参拝を推し進める。

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