『アラブ・エクスプレス展』と『大英博物館 古代エジプト展』

 ハラーイル・サルキシアン この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利 – 改変禁止 2.1 日本」ライセンスでライセンスされています。

森アーツセンターギャラリーでおこなわれている『大英博物館 古代エジプト展』に行ってきた。本当は森美術館の『アラブ・エクスプレス展』に行ったのだけど、こちらの展示はどれもとても悲しくて滅入る作品が多かった。社会背景を反映してとても重苦しかった。ひとつひとつの作品を思い出すと胸のあたりがドヨよ〜ンとなる。

たとえばトップの写真。何の変哲もない街の写真に見えるけど、説明を読むと途端にドヨよ〜ンとする。これらはすべて公開処刑がおこなわれた場所の写真だそうだ。アラブの人たちにとって忘れられない風景で、それらを忘れるために処刑されたひとの写ってないさまを写真にしたのだとか。話聞いただけで胸に刺さるでしょう?

ほかにもこんな作品がありました。

アーデル・アービディーン この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利 – 改変禁止 2.1 日本」ライセンスでライセンスされています。

「なにこれ?」としか思いませんでしたが、解説を読むとドヨよ〜ンとします。

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門松の話

正月にここに何かを書こうと思い、さてなにを書こうかと考え、門松について書いてみようと思い立った。門松とはいったい何か? どこかであれは歳神様の依り代だと聞いた。もしそれが本当であるなら、バリ島のペンジョールに似ているなと思い、いつかきちんと調べようと思っていた。ペンジョールとはバリ島でお祭りの際に、神様が降りてくる目印として立てる高い竹竿のことを言う。竿はまっすぐ立て、先をしのらせ、その先に鳥や燈籠の作り物を吊るす。祭の日にはペンジョールが並び、とても壮観な状態になる。

ウィキペティアを見ると、門松はやはり年神を家に迎え入れる依り代と書かれている。根拠は何だろうと思い、そこに書かれていた引用文献を見ると、三冊は比較的新しい本だったが、一冊だけ『守貞謾稿』が上げられていた。これだなと思い、さっそく調べた。

自称皇帝

1859年から1880年まで、サンフランシスコに『合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世』と自称する変わり者がいた。1858年に事業に失敗し、破産を宣告されおかしくなったようだが、当時のサンフランシスコの人びとの多くは、その彼を非常に愛していたようだ。なぜなら1880年の彼の葬儀に3万の人びとが垣をなし、棺に続く葬列は2マイルにたっしたというのだから。

たまたまウィキペディアでその変わり者ジョシュア・エイブラハム・ノートンの記事を見つけた。とても興味を持った。精神疾患を患っていたようであるが、時々勅令をサンフランシスコの新聞に掲載していたという。ベイブリッジの建設を指示したり、国際連盟の設立を指示したりしている。もちろん、彼の指示では事は動かなかったが、後年実現していく。つまり、ノートンは社会が必要としていたことをきちんと知っていたと言うことになるだろう。

そんな彼はあまりにも人気があったため、最高級のレストランには「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と刻んだプレートが掲げられたそうだ。どうも彼はただで食事をしていたようだ。仕事がないので非常な貧乏だったという。あるとき食堂車で食事をしたら、料金を請求されたので、皇帝は勅令として営業停止命令を出したという。すると多くの市民が皇帝を支持したため、鉄道会社はあわてて終身無料パスを発行し、許しを請うたという。

少額の負債のために独自に紙幣を発行したりしたが、それはサンフランシスコ界隈では実際に流通し、50セントから5ドルという紙幣だったが、今ではオークションで1000ドルの価値がつくという。サンフランシスコ市は当時、皇帝の服が古くなると敬意を表し新調したそうだ。

この人に関する本があるなら読んでみたい。ほかにもたくさんの逸話があるので、興味のある方はウィキペディア「ジョシュア・ノートン」の項目を読んでみてください。

ウィキペディア「ジョシュア・ノートン」