火がつく「The Cove」

今日、これから東京国際映画祭に「ザ・コーヴ(The Cove)」という映画を見に行く。その映画について太地町の漁協などが上映の中止を求めていると朝日新聞に掲載された。記事は以下の通り。

米のイルカ漁糾弾映画の上映中止求める 和歌山・太地町

 和歌山県太地町のイルカ漁を糾弾した米ドキュメンタリー映画「ザ・コーブ(入り江)」が、東京国際映画祭で21日に上映されるのをめぐり、同町や地元漁協が中止を申し入れていることがわかった。町側は映画は隠し撮りしただけでなく、内容に事実誤認があるとして、上映は名誉棄損にあたると指摘。しかし、主催者側は「表現の自由」だと予定通りに上映する姿勢で、町側は法的措置も検討する。

 太地町と地元の町漁協の代理人によると、映画に登場した漁協の組合員は当時撮影を拒んでおり、上映は肖像権の侵害にあたると主張。さらに、映画の内容には「漁協は害獣駆除のために漁を行う」「水銀汚染を隠すためにイルカの肉を鯨肉として販売している」などと事実ではない部分があり、漁協の名誉を棄損しているとしている。今月上旬、文書で主催者側に上映のとりやめを申し入れた。

 映画祭の実行委員会によると、「ザ・コーブ」は当初の上映計画にはなかったが、海外で多くの賞を取り話題になったことなどから、追加で上映を決定。上映で生じた論争は、製作者側が責任を持って対応すると文書で確認しているという。地元の申し入れに対し、主催母体である日本映像国際振興協会は「映画祭では製作者の表現の自由を尊重した運営を行う必要があり、問題点については製作者との間で解決をはかってほしい」と回答している。

 一方、町と漁協は「上映作品の選択権は映画祭の主催者側にあり、製作者だけでなく、映画祭にも同様の責任がある。漁協らの信用を失墜させるもので、表現の自由からも逸脱している」と反発している。予定通りに上映された場合、映画祭の主催者や製作者を相手取って、損害賠償などを求める民事訴訟を検討している。(湯地正裕)

所在URL:http://www.asahi.com/national/update/1020/TKY200910200206.html(現在このページはありません)

リチャード・オバリーと映画制作者はきっと喜んでいるだろう。このように反応してもらうことで話題になり、論争が始まる。

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仏教と科学の共鳴〜竹村真一氏と星野克美氏の対話

10月14日(水)におこなわれた「地球の未来への対話〜仏教と科学の共鳴 プレイベント第二回 地球と環境」を聞いてきた。これは11月1日におこなわれる、ダライ・ラマ法王と四人の科学者たちの対話「地球の未来への対話」のプレイベントだ。今回の対談者は竹村 真一氏と星野 克美氏。おふたりのプロフィールはこのエントリーの最後をご覧下さい。司会は青山プランニグアーツ代表の尾中 謙文氏。このエントリーはすべて会場で取ったメモを利用しているので、細部の言い回しなど再現できてない部分がたくさんあります。

今回の対談では竹村氏がポジティブな視点、星野氏がネガティブな視点を提供し続け、地球全体をどのように見ていくかを問い続けた。結果として地球がどのような状態かを知るための根本的認識がまだ地球上には生まれてないことを理解する。そのたくさんの視点と解釈を総合するためには何が大切なのかを考えるための対話となった。前回の田坂広志氏と清水博氏の対談とのうっすらとした共通点がそこに現れた気がする。

尾中謙文(以降、尾):今日の趣旨は、11月1日の会議に向けて、参加者にモヤモヤを残したい。それが気づきの準備になればいい。

お二人に聞きます。地球とは何だと思いますか?

星野克美(以降、星):地球を三つのキーワードで考えてます。ひとつは「地球惑星」としての地球。宇宙飛行士は宇宙空間から地球を見て青いと言った。今日ではそれがどうなってきているのか。あとでいろいろと話しますが、回復不能なまでに破壊されているというデータがたくさんあります。地球ができて以来、46億年の間に蓄積された資源を使い果たそうとしている。

ふたつめは「地球人類」。67億人がいるといわれているが、それぞれ別の言語を持ち、国民であり市民である。つまり単一ではなくさまざまな人がいる。その人たちにとって「幸福」とか「幸せ」というものがどんなものか、どう考えるべきかを考えていかなければならない。

三つ目は「地球文明」フェルマン、ブレーメルが言ったように(ショシャーナ・フェルマンとフレドリカ・ブレーメルのことか? ショシャーナ・フェルマンは内田樹氏が評価するフェミニスト。フレドリカ・ブレーメルはは1800年代中頃にスウェーデンの男女平等の思想の基礎となった)、地球は次第に均一化しようとしている。様々な思想が重なり均質化し、地球共同文明とも呼べるものを作り出そうとしている。

この三つ、「地球惑星」「地球人類」「地球文明」が混在することで互いに影響を与えつつ常に新しい地球を生み出し続けている。

竹村真一(以降、竹):この時代に生まれて幸せだと思う。

地球が丸いというのはすでに古代ギリシャから考えられていた。エラトステネスは地球の半径を概算した。現在わかっている半径と10%ほどの誤差しかない。10%というと大きいと感じるかもしれないが、エジプトの南北から太陽の斜角を計ることで概算した。幾何学のことをジオメトリーというが、「ジオ」は大地とか、地面、メトリーが計測という意味だから、もとは大地の計測という意味だったものが幾何学になった。なぜ高度な計測が可能だったのかというと、その頃のナイルは毎年のように氾濫し、そのお陰で肥沃な大地となったのだが、毎年土地の区画がわからなくなってしまうので、どうやって正確に計り直すかがとても大切なことだった。それで大地を計測する技術が発達したために地球の半径が計測できるほどになった。

17世紀にはジョルダノ・ブルーノが「地球のような星はたくさんある」と断言していた。

地動説的考えはすでに古代ギリシャにあった。

現代は誰でも地球を見ることができる。擬似的視点ではあるが見られる。あたかも地上から飛び上がったノミが高いところから地面を見るように。

1995年にブリージングアースという映像を作った。それは地球の呼吸を可視化したもの。地球の呼吸とは、つまり地震のこと。阪神大震災を体験して、それにインスパイアされて作った。地球は微震も入れれば一日数万回震えている。地球はダイナミックなのである。ニュートンの宇宙観はとてもスタティック。現在では生成変化していることを知っている。たとえば太古では酸素がなかった。月は今より地球に近く、ちょっとずつ離れつつある。太古では月が近かったので潮汐運動はもっと大きかった。地球も脈動している。だから胎動する地球に都市を作っているという前提に立たないとダメである。変化、脈動、循環する地球。そのようなことを考えていたという点で古代ギリシャの方が現実的だった。改めてその見方を現在の科学も得た。生成変化する地球環境をベースにコモンセンスを作っていきたいと思ったからブリージングアースを作った。

尾:宇宙的な視点は古代の人たちの方があったという訳ですね。2500年前、仏陀が生まれた頃、ほぼその同じ頃に宇宙観を持った人たちが何人か現れました。そのような立場から人間圏を見るとどう見えますか?

竹:人間圏の生成も地球の進化だと思う。よくある人間が地球を破壊しているという見方は居心地が悪い。いつの時代も最も多く生息する生物が環境を変えていく。46億年の地球の歴史で、最初の6億年くらいで生命が誕生する。当時の生命は嫌気性だった。それが20億年ほどで光合成生物へと進化し、廃棄物として酸素を出す。酸素を使わない生物にとってそれは毒だったため、当時の生物たちにとって酸素がたくさんあるというのは大打撃だった。環境汚染だった。しかし、しばらくするとその酸素を使う生物が現れてくる。現在の生物はほとんどどれも細胞に核を持っているが、核を持つようになったのは酸素の毒から遺伝子を守るためだ。そのうちに酸素をエネルギーにする生命が現れた。

いまでこそ地球は緑に覆われている、青い地球などと言いうが、40億年ほど前、大陸はみんな茶色をしていた。42億年頃から緑の大地になっていく。そして酸素が増えてオゾン層ができたために生命が陸に上がれるようになった。このように生命と地球は共進化してきたのだ。

環境破壊を肯定するわけではないが、視点を変えることで見えることが変わる。

象の上にいるノミは、象全体を知りようがなかったが、調べることができるようになったというようなこと。僕たちは地球がバランスを失いつつあることがわかるようになった。いまは根底から壊すことなく共進化するための機会だ。アンバランスな自己組織の中で次の共進化を考えるのです。

尾:カタストロフィーは恐いものではない。より良くなるための機会であるという印象を持ちましたが、悩みもあります。地球環境問題はこれからどうなっていくのでしょう。

星:私は環境の専門家ではありません。ここにいるのは世界から集めてきた情報はこうなっていますと言うことを伝える役です。そのことをまず知っておいてください。

昨年、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)がノーベル平和賞を取りました。IPCCの科学者たちは91年、95年か96年、そして2001年、2007年と報告書を発表しました。(ウィキペディアによれば第一次評価報告書が90年、以降95年、01年、07年となっている) はじめの三つはすでに翻訳されています。それを見るとぞっとします。気候変動による被害のバリエーションや規模があまりにも大きいからです。東京にいてもうすうす気がつきますが、まだ日本に来てないのは大干ばつ、大洪水、大都市での浸水などですが、そのうちに起きるでしょう。その先にどうなるかを知りたい人は映画「デイ・アフター・トゥモロー」を見ればいいです。

やっと最近温暖化はジャーナリズムでも取り上げられるようになりましたが、地球はダイナミックです。都市も第二の自然です。僕たちはまるでタイタニックに乗っているようなものです。あそこではいろんな楽しみがありました。そして階層がありました。それが氷山にぶつかっていくのです。それを誰が知っていたでしょう。宇宙船地球号も同じような運命です。資源はもうすぐ枯渇するといろんな組織が訴えています。米国内務省の資料によると金はあと10年、銅は2038年にはなくなるそうです。どう思います? もし銅がなくなったらデジタル産業は止まります。サウジアラビアは石油がピークアウト(産出量が最大から減少に転じる)したので原発を作ろうとしています。

資源が枯渇したらどうなるでしょう? 『マッド・マックス』の世界になります。資源の奪い合いです。あれは20〜30年後の地球でしょう。あと20〜30年で破局です。いま幸せだとしたら、それは「知らぬが仏」です。「知らぬが仏」は大切なのかもしれません。知らないで過ぎることができればその方がいいでしょう。もしかしたらこんなことを言っている私の方がおかしいのかもしれません。私の言うことなんか信じない方がいいのかもしれません。

尾:竹村さんはこの話を聞いてどう思いますか?

竹:その通りだと思います。食料の危機、水の危機がやってきます。温暖化でヒマラヤ氷河がもうすぐなくなります。ヒマラヤ氷河は中国インドの地下水の源流でした。それが枯渇すると20〜30億の人たちが水を失います。「知らぬが仏」とおっしゃいましたが、私は知らされてないことに怒りを感じます。

先日民主党が勝ちましたが、これから直面しなければならない問題は水資源、ピークオイル、加えて高齢化ですね。五年後には高齢者が1000万人になります。人口の半分が50歳以上の社会が30年程度で到来します。どうしますか? 僕はそれをリセットするためにも東京オリンピックを招致したかった。危機の認識は星野さんと一緒です。しかし、同時に希望も伝えたい。

かつて1980年には自然エネルギーと言っても風力も太陽熱も1%以下でした。それで何ができるのと言われていた。しかし、いまではそれらが原発の発電能力を超える可能性が出てきた。再生エネルギー、特に水素エネルギーは実現に20年ほどかかりますが、その基礎はこの5年で作られます。

レアメタルが足りなくなっていますが、それもチャンスです。どうやって集めるかの技術革新が生まれるでしょう。

バックミンスター・フラーはすでに再生エネルギーのビジョンを持っていました。

再生可能エネルギーのうち、太陽、水力、風力、バイオマスなどはどれも太陽のエネルギーが由来です。もし太陽エネルギーをすべて電力に変換したら、必要な電力の一万七千倍になります。(この記述、メモが曖昧なのでまちがっているかもしれません:筆書) つまり効率的に受けとることさえできれば、十分に太陽光がもたらすエネルギーが基幹エネルギーになる可能性があるのです。このことこそ子供たちに伝えましょう。

ゴア元副大統領が「不都合な真実」という映画を作りましたが、「好都合な真実」もあるのです。太陽を中心とするそれに見合った文明を作るべきなのです。日本は日の丸でもわかるように太陽を象徴としています。エジプトのラーも太陽神でした。

水の需要にも希望があります。水は地球上から減りません。降る雨の1/30を貯蓄できれば量的に枯渇しないで済むのです。日本ではかつて水田で保水していました。貯水量は800億トンだったといわれています。琵琶湖の三倍です。すでに大きな施設では雨水を貯水をしています。国技館が有名ですね。すべてのビルが同様のシステムを持てば、かなりの水が使えるようになります。この水の偏在性をなくすマネージメントシステムを世界に広げることで、かなりの問題は軽減できるでしょう。しかし、それでも中国インドの枯渇を防げるわけではありません。しかし、世界中の技術やシステムを集めることで乗り越えられるかもしれません。

吉田太郎が1989年のキューバについて書いています。1989年と言えばベルリンの壁崩壊です。それ以降、キューバでは飢饉が始まります。もともとキューバは作ったサトウキビをソ連に高く買ってもらい、資源を安く売ってもらっていた。ところがソ連も崩壊が近くなるとそれができなくなる。結果としてキューバは資源不足になってしまいます。ガソリンが来なくなってしまったので田舎で農産物を作っても都会まで運べないのです。そこでどうなったかというと、写真のように(スクリーンに映す)都会で農業を始めるんです。その結果、220万人の人たちが100%無農薬の農作物を食べられるようになるのです。

最近では7億人ほどが都市農業をしていると言われています。中国の上海では自給率75%、食糧自給率ほぼ0と言われるシンガポールでも食糧自給について考えている。(鶏や卵は100%と聞いた気がするが、本当か?:筆者) 都市の食糧自給はこれから大切になると思う。なぜなら雇用を創出し、貧困対策になり、高齢化の対策にもなるからだ。だから丸の内でも都市農業をやるべきだとずっと言ってます。

この5年で地球を変える基礎を作らなければならない。その推進力になるのは君たち子供たちだと、このダライ・ラマのイベントを通じて、ダライ・ラマをシンボルとして伝えたい。

尾:未来をどうするかについて情報を共有することがますます大切になりますね。

星:いま竹村さんから聞いたそれぞれの話は正しいのでしょう。しかし、経済学的に考えると疑問が残ります。太陽光発電のためにこれからたくさんの太陽光発電パネルを使うことになるでしょう。ドバイでは広大な砂漠を太陽光パネルで敷き詰めたり、EUも発電量の15%を太陽光にしようとしています。しかし一方で、レアメタルや銅などが20年ほどで枯渇するという報告があります。2050年には需要量だけで鉄は埋蔵量を超えるだろうと言われています。それほど資源が足りないのに、どうやって新しいインフラストラクチャを作るのでしょうか? 本当に太陽光発電などを世界に拡張できるのでしょうか? そのプロセスで資源がなくなったらどうなるのでしょうか? 竹村さんのおっしゃっていたようなポジテイブなビジョンは、経済学的に成り立つのでしょうか? 資源が減ってきてコストがあがるでしょう。その状況で果たして投資はできるのでしょうか? 財源は確保できるのでしょうか? ローマクラブが成長の限界というレポートを出し、それが1972年に翻訳されました。第二報告書が92年頃、三度目の報告書が2005年、4度目が2012年に発表されると言われています。

2001年にメドウズが来日した際、2030年がクリティカルポイントになると言ってました。最初の報告より早まっています。

科学者の報告は個別的で、資源配分など俯瞰的な視点が欠けています。地球の状況をすべて定量化した人はまだいません。人類は断片的な知識しか持っていないのです。

尾:では、人口が減少した方がいいということでしょうか?

星:人口が減少するというのはどういうことかよく考えてください。それは死滅していくと言うことです。マッド・マックスのような状態になると言うことでしょう。早く自給自足の体制を作ったところは生き残れるかもしれません。

竹:エネルギー消費を80%抑えることは可能だと思います。東京オリンピック以前は食糧自給率は80%ありました。つまりほとんど国内でまかなえていたのです。国内でまかなえればエネルギーは減らせますし、地産地消を徹底すれば80%のマイナスは可能だと思います。

たとえば車は走るために使うエネルギーは10%でしかない。その他のエネルギーは熱になって逃げてしまう。つまり車は走るかまどのようなものなのです。そのうち、人が移動するために使われたエネルギーは1%ほどでしょう。車を走らせるというのは、ほとんどが実は「人の移動のため」ではなく、「人を移動させるための無駄」で成り立っているのです。もっと効率の良い交通手段はいくらでもあります。このように考えて行ければ100億人くらいが地球上で生きていけると思います。

『成長の限界』はひとつの幻想です。欠乏の危機を煽る。「すべての人に安全な水を供給するために」という名目で水道を作ったが、結果として貧困層は水が得られなくなったという例がたくさんある。その強化ロジックが「資源が足りない」だと思う。資源を言い訳に恐怖政治をおこなってはならないと思うのです。米国は恐怖と不安で人を縛ります。希望で未来を作るか、恐怖で未来を作るか、それで人の未来は大きく変わるでしょう。

SF作家のアーサー・C・クラークはよく予言者と言われます。自分で衛星を設計したりもしました。そんな彼が晩年に懺悔をしました。「いまや太陽エネルギーを手にして、ずっと先に起こると思っていたことが、もうすぐ実現してしまう」と。つまり、過去の状況の積み重ねで推測する未来よりも、実際の現在の方が先に進んでしまったと言っているのです。

サハラ砂漠もソーラーパネルで埋め尽くそうとしていますが、その原料はそこにある砂に含まれている二酸化珪素です。現在は鉄でなくてもいい資材に鉄を使っていたりします。科学技術の進歩によって鉄以外の構造体が可能になるでしょう。20世紀でおこなわれていたことをそのままシミュレーションするのではなく、21世紀のクリエーションを加えない限り、正しい予測はできないでしょう。

星:2003年に出た月尾嘉男さんの著書に『縮小文明の展望』という本がありますが、G20なとで経済縮小について語られるべきだと思います。もう縮小経済に移行せざるを得ないはずなのに、なぜかその話を聞いたことがない。経済学者が言いたくないのか、国際会議で語られないのか、それが不思議でならない。

竹:私が地球環境について興味を持っているモチベーションの根幹は、この地球があり得ないほど貴重な実験をしていると言うこと。生命を育んでいる星はいまのところほとんどない。地球の歴史上でも現在は希有な状態。この豊穣さを次の段階に進化させるのが大切だと思う。次の段階に行けるかと人類の可能性は大きく広がる。いま僕たちがいるのはリスペクトすべき星の上にできた貴重な状況と言える。

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プロフィール

【竹村 真一】
1959年生まれ。
京都造形芸術大学教授。Earth Literacy Program代表。
東京大学大学院文化人類学博士課程修了。
地球時代の人間学を考究しつつ、ITを活用した独自な地球環境問題への取組みを進める。
Sensorium(97年アルス・エレクトロ二カ・グランプリ受賞)、デジタル地球儀「触れる地球」(05年グッドデザイン賞・金賞)や「100万人のキャンドルナイト」「aqua scape」など、さまざまなプロジェクトを推進。環境セミナー「地球大学」主宰。
07年「water」展ではコンセプト・スーパーバイザーとして企画制作に携わる。
08年7月の北海道・洞爺湖サミットでは、 国際メディアセンター(IMC)内の環境ショーケースにおける「地球茶室」の総合企画・プロデュースを担当。
「地球の目線」PHP新書、新著「環東京湾構想」(共著)朝日新聞出版、など著書多数。
ラジオ「GLOBAL SENSOR」放送中(J-WAVE,偶数月の最終日曜25時〜)。
竹村真一プロジェクトサイト: http://www.elp.or.jp/

【星野 克美】
1940年名古屋市生まれ、名古屋大学経済学部卒業
研究履歴:筑波大学社会工学系専任講師・助教授を経て、多摩大学経営情報学部・大学院経営情報学研究科教授
専攻:文明哲学、未来文明論、地球環境文明論、文化記号論、認知科学記号論(Semiotic Marketing世界的パイオニア)
学会:比較文明学会会員
主著:『地球環境文明論』、『社会変動の理論と計測』、『消費人類学』、『流行予知科学』、‘Semiotic Marketing and Product Conceptualization’など多数
NPO:日本技術者連盟会長、グローバルマネジメントアカデミー会長、日本プライバシー認証機構会長
創作:形而上詩、環境文学

仏教と科学の共鳴〜清水博氏と田坂広志氏の対話 その2

このエントリーはこちらからの続きです。

ふたりの話にはもうひとつ重要なキーワードが提出された。それは「ドラマ」だ。

司会者の問い「日本はめざましい発展を遂げましたが、一方で自殺者が一年に3万人もいます。日本は果たしてまっとうと言えるのでしょうか?」に田坂氏はこう答えた。

「存在する物すべてに意味があり、まっとうでないことを起こすために宇宙は日本を存在させたわけではないだろう。何か大切な意味があるはず。この文明が生まれたわけがどこかにあるはず。それを見つけなければならない。科学は発展段階の途中で、人類の歴史もまだ前史だと思う。これから本番の歴史が幕を開く。科学ですら分野をまたぐと、まだ統一された考え方はないのだから」

これを聞いて僕には二つの疑問が生じた。それは田坂氏の答えをきっかけに出てきた、僕の中によく生まれるいつもの問いだ。

1.「存在する物すべてに意味がある」ということも、「まっとうではない」という考えも、人間がもたらしていることであり、人間からの視点ではそのように考えられるだろうが、もっと高次の視点、たとえば地球からの視点とか、宇宙全体からの視点から考えることとは、関係がないのではないだろうか。

2.生命は常に進化し続ける。恐らく人間もそうだろう。もしそうだとしたら、何をもってして歴史の起点と言うのだろうか? 生命が進化することによって人間の視点が常に進化するのだとしたら、ある起点を歴史の始まりとしても、次の起点が必ず生まれるのではないだろうか。

どちらの問いもすぐには答えが出ないので、二人の対話について先を見ていこう。

司会者(青山プランニングアーツ代表尾中謙文氏)が清水氏に同様の質問をした。それに清水氏はこんな風に答えた。

「生きると言うことはシナリオのないドラマです。生きていることは研究できますが、生きていくことは科学では研究できません。ドラマは舞台と役者でできています。科学は役者だけを研究するようなものです。自殺してしまった人たちは生きていることはできたのです。しかし、生きていくことができなかった。科学はひとつひとつの物事を分けて見ます。しかし、ドラマは分けて見ることができない。ドラマは緩やかにつながった関係が動いているときに表れてくる。たとえば経済は人間と生きていく状態になければならない。ところが多くの経済学者は生きている状態を見て判断しているだけです」

カエルの解剖は分析できる。切り刻んでここは胃だとか、心臓だとか、研究ができる。しかし、カエルの存在全体はドラマのように緩やかな関係でつながっている。心臓が鼓動することで血液が流れ、その血液のいくらかが細胞に流れ込み、細胞の活動が心臓の鼓動をもたらす。これらの関係がどのように成立しているのかは分析しても現れてこない。人間は複雑な関係によって生み出されるたくさんの関係を時間軸によって追跡し、それらを適切に表現する言葉をいまだ持ってはいない。それはきっと言葉では表現し得ない何ものかなのだろう。だからこそ、その表現をするために気象を研究する人たちはたくさんのパラメータをコンピューターに入力し、些細な変化が全体の気候にどのような変化をもたらすのか常に検証し、関係を表すパラメーターや数式を更新していくことで、天気予報の確度を上げようとしている。同じように複雑なパラメーターや数式が、生命組織の行動を研究することにも必要となってくるのだろう。そして、その関係が複雑に絡まっている様を、僕たちは普通に使っている言葉では表現しきれない。ひとつの関係が変化することで、その変化が次第にまわりの要素の振る舞いにさらに変化を与え、はじめの小さな変化からは予想もつかないような大きな流れを生み出すことがある。それら全体の動きや関係は、とても言葉では表現しきれない莫大な動きや変化をもたらす。それら全体をとらえて清水氏はドラマと呼んだのだろう。

ここで司会者は別の質問を田坂氏にするのだが、田坂氏はその質問に答えず、清水氏の考えを補足してこのようなことを語った。

「ドラマというのは物語とも言えます。人生はシナリオのない物語です。心の素晴らしさは物語を見出す力にあると思う。どんなに不幸な境遇に置かれた人でも、その人なりに希望を見出す物語を見つけることができれば救われることがある。物語を紡ぐことができるのが魂の力だと言える。最近の人が生きにくくなったというのは環境が悪くなったのではなく、魂の力が弱くなったのではないか」

ここで清水氏が反論をした。「違うんです。物語ではなく、ドラマなんです」と。何が違うのかそのときはよくわからなかったが、あとの話を聞いて言いたいことがわかった。

「中一の時に敗戦を迎えました。ずっと大国を相手に戦うつもりで生きてきた大人たちが、負けて目的を失い、虚脱状態になっていたんですね。すると当時の子供たちは大人の様子を見て、自分ががんばらなければならないと思ったんです。僕なんか悩みすぎてノイローゼにまでなりました。そんな状況で立ち上がるというのは、私の命を支えることができるという信念なんです。そういうふうに苦しんで何かやろうと言うとき、それは物語ではなくドラマなんです。戦後の荒廃という舞台がない限りそのドラマは現れてこない。未来は舞台から生まれるのです。いま生きている舞台から始まるのです」

田坂氏にとって「物語=ドラマ」だったのかもしれないが、清水氏にとっては「物語≠ドラマ」であり、「ドラマ=役者+舞台」または、「ドラマ=物語+舞台」であることがわかった。(ただしこの場合の「+」は緩やかな関係にあることを前提にしなければならない) この区別はきっと清水氏にとって重要なことなのだろう。清水氏は「場の研究」をしているので、特に「場」に対する強いこだわりがあることがここに表現されたのだと思う。

なぜこれほどまでに清水氏が「場」にこだわるのかというと、それは彼が薬学博士であることに関係があるだろう。ここからは私の勝手な推測なので、そのことを断っておく。

ある化学物質を人間に投与して、それがどんな反応を起こすのかは、「実際にやってみないとわからない」。だから動物実験をおこない、ある程度の安全性を確かめてから人間に与える。そのような研究から、安全で有効な一握りの化学物質を薬と呼ぶようになる。つまり薬は、その化学組成や構造からだけではその効果を確信できない。もちろん、ある程度の推測はできる。しかし、その推測は実際に人間に投与するまで確証できない。なぜそのようなことになるのか、過去の科学的考え方では解明できなかった。つまり薬が流れ込む細胞という場と、その場が影響を与える臓器、そしてそれらの関係で生まれているからだ全体を、それぞれ別の視点や考え方でとらえない限り、うまくいかないことに、だれよりも深く清水氏は注目したのではないかと思う。

このエントリーを書くにあたり、ネットを検索して松岡正剛の書評に行き当たった。これだ。そこで紹介されている清水氏の著作『生命を捉えなおす』はずっと昔、高校生の頃に読んだ気がする。内容については全然覚えてないのだが、タイトルを覚えている。当時読んで理解できなかった大切であると思われる本のうち、特にいつか再読してみようと思った本の中の一冊だった気がする。長い間忘れていたが、11月1日のダライ・ラマとの対話の前に読み直してみよう。この書評は清水氏の考え方の骨格がある程度わかるようになっている。

話を対談に戻そう。司会者は仏教に話をつないだ。仏教の最大関心事は「1.苦しみの除去」「2.幸せの追求」だが、そのことに関して何か語ってくださいというフリがなされた。それに田坂氏はこう答える。

「仏教の苦はエゴの苦。エゴはなかなか捨てられない。しかし、二重生命と同様、苦しんでいる自分とそれを超えている自分がいることも確かなこと。エゴの自分を超えるためには、自分を他人に与えられるかどうかが鍵になる。そして、その与えることもDonationではなく、お布施の考え方が大切。『寄付したよ、何かしてくれ』ではなく、『お布施させていただきます。お布施したことによって私の中に何か崇高ものを感じるようになりました。このようなことを引き出してくださったのはあなたにほかなりません。ありがとうございます』という感覚。小我から大我を引き出してもらうためにお布施させていただいたという考え方が重要になる」

それに続いて清水氏はこのように語った。

「生命はすべて贈与でつながっている。私たちがなぜ生きていられるかというと、ほかの命をいただいているから。私たちが食べているものはすべて有機物。つまりかつて生命だったものを食べている。そして、ほとんどの命は命をいただいている。人間だけが独立して生きているわけではない。すべての生き物は命を何かに贈与している。人間も贈与することで、はじめてその循環の中に入っていける。仏教では心の問題について細かく分析されているが、餓鬼畜生から仏まで、いろんな心があり、それぞれのいろんな心をすべての人が抱えている。そしてそれは世界の状況を映し出す鏡でもある。人がひとりひとり自分の中にある心をどのように使うかで自分は変わっていける。そのようなことに気づき、どの状態の心でいるかに注意するべきだろう。今の私はいいドラマに引き込んでもらったなぁと思っている。自分が満たされつつ生きてきたと思う。それはきっといろんな人のおかげだろう。かつて学校は贈与の場だった。それが失われたのは数値で評価するようになったからだろう。数値だけで突っ走るのは贈与をもとにした生き方ではない」

お布施の話から贈与の話になるのはすごいなぁと思った。お布施の話では「何かものを差し出しながら、差し出した側がお礼を述べる」という、現在の普通の人間関係からでは考えつかないリフレーミングがおこなわれているが、贈与では「食べられている生物が食べる生物に命を差し出している」という、これもまたすごいリフレーミングがなされている。

この話の微妙なところは、どの視点からものを言うかだ。たとえば、「肉食動物が草食動物を食べているとき」それらより一段高い視点に立ったと仮定される人間が「彼らは命の贈与をおこなっていますね、このようにして命の循環がおこなわれるのです」というのはまあいいだろう。しかし、人間が人間の立場から屠殺される牛に向かって「牛は人間に命を贈与するんですね」と言ったらおかしなことになる。この区別がこれから問題になってくる気がする。

前の書き込みにも書いた「二重生命」の視点の違いである。個体の人間から見た世界と、細胞から見た世界の違い。それを拡大して、人間からの視点と地球からの視点。どんなにがんばっても人間は地球の視点を正しく持つことはないだろう。しかし、多くの人間がメディアを通してつながることで、個人や団体を超えた、地球の視点に近い視点を持たざるを得なくなってきている。この地球の視点に近い視点とはどのようなものかを考えていかない限り、次の文化の発展はないだろう。その入口の話を田坂氏と清水氏はしたように感じる。この視点について深く考えているのがケン・ウィルバーだ。『進化の構造』に詳しく書かれている。興味のある方は読んでください。『進化の構造・1』『進化の構造・2』

司会者の「田坂さんの好きな仏教の考え方は?」という質問に答えていくにしたがって、日本の仏教思想についての話になった。

「仏教の修行では厳しい戒律(セルフコントロール)を求められるが、日本の仏教ではそれへの反発か、そのままでいいとか、念仏さえ唱えれば必ず救われるなんていう考えが法然によってもたらされる。これにも非常に引かれる。悪人正機説は厳しい修行に打ち勝ってきた人たちが持ってしまう業のようなものを気づかせてくれる。私はこれだけ修行したから救われるとか、偉いとか思っている人が、善人でも救われるのだから悪人も救われるのですと言われることで、煩悩の深い落とし穴がそこにあることに気づく」

田坂氏に続き、清水氏が話した。

「近代西洋文明では我とは何かをあまり問うてない。科学は自分と他者を切り離すので、自己言及した途端に話が進まなくなると考える。二酸化炭素排出規制の話にしても、誰かやれ、俺はしないではどうにもならない。凡夫は悪を自分に引き受けるべきだ。自分の中に悪を認められれば、他者に対する態度も変わる」

これらの話には共感のための前提についての含みがあった。

僕たちは他人に共感することがある。その共感は自分の心の振れ幅が大きいほど生まれやすくなる。善しか許せない心では善にしか共感できない。多少の悪も含む人の考えや行動には、こちらにも多少の悪が必要だろう。「善」と「悪」というふたつの規準しか持たないのではなく、二重生命のようないろんな階層でもたらされる「善のような」「悪のような」「それらの中間のような」微細な区別を認識していけるように、いろんな感覚を受け入れていかなければならない。そのときに「私」という存在がどのような状態かが問われる。

この共感の前提が、人間という視点から地球の視点へ移行するための鍵の一つである気がする。ただし、これは断定ではない。「・・・かな?」という投げかけである。投げかけられた人がひとりひとり自分の心に照らして吟味しない限り、あまり意味をなさない。

メディアは人類の意識のあり方を進化させてきた。しかし、それは断定によって作られたラベルのような側面を持っている。実際に進化するためには、人類を構成するひとりひとりが自分について問いかける必要がある。私はどのような存在かと。そしてそれは、ただひとつだけの断定的な答えでは足りない。いろんな状態のいろんな視点を持つ際に、どんな答えが導かれるのか、常に問いと答えと、そして時々は解答保留の中にいなければならないということだろう。このことが多くの人にとってはっきりしてはじめて、オメガポイントに向かうあるレベルのヌースフィアが完成するのだと思う。

司会者の「科学者の倫理観はどうあるべきか?」との問いに、田坂氏はこんな話をした。

「倫理観について語るとき、それはすべきだとかすべきでないとか、二者択一のような論議を繰り返してしまう。ロゴスの限界を知るべきだと思う。感性で感じることの方が限界を超えやすい。たとえば、龍村仁監督の映画、地球交響曲を見ると、ある感覚が残る。それは一言ではうまく言えないけど、近い言葉をレーチェル・カーソンは残した。それは<センス・オブ・ワンダー>。センス・オブ・ワンダーをもって科学の限界を見つめ、それを超えていく。それは複雑系の科学といわれる分野になっていくだろう。複雑系はその系自体が生きていると言える。ケン・ウィルバーの著書に『意識のスペクトル』があるが、意識のありようによってそれぞれに真実が違うことを示している。だから、何が答えかというのではなく、私とは何かを見ることでスペクトルを把握し、そこから答えが導かれる」

これに続けて清水氏はこう語った。

「科学の問題は観察者と観察対象が別であること。分かれてみていることには限界がある。つながっているものを科学は研究できなかった。分かれていないものをどう考えるのか。これを考えないとドラマはできない。縁起は空と関係がある。我とはなにか、それは固定された実体ではない。相手が変われば自分も変わる。縁によって変わり、過去に作られた関係も関わりがある。場からの縁と人からの縁で常に変化していくもの」

ここで1932年、大不況の頃のイギリスの生物学者で西田幾多郎も同じことを考えていたという学者の話が出るが、名前は紹介されなかった。生命的直観についてと話していたのでフランスのベルクソンのことかとも思ったが、実際にはよくわからなかった。ベルクソンには「哲学的直観」や「意識と生命」という論文がある。清水氏は「環境と生物の相互整合的状態」という話をするのだが、僕にはその話が相互進化とほぼ同じことのように聞こえた。相互進化はたとえば草食動物と肉食動物が互いに補食しよう、捕食されないようにしようと進化し合うような状態のことを言う。環境と生物も同じように互いに影響を及ぼしつつある状況を作るだろうから、それを「環境と生物の相互整合的状態」と言っているのだろうと理解した。そして、その「環境と人間の相互整合状態」を続けることで、理想とする状態が生まれてくると言いたかったのかなと思う。

このあとに前のエントリーで書いた華厳経の話がされ、そのあとで清水氏からこんな質問がされた。

「人間が見ている世界が本当に世界なのでしょうか? カエルの見る世界はカエルの世界。カエルが見る世界は人間の可視光線の範囲とはまた別の範囲を見ている。その世界と人間の世界と、どちらが正しいのか言い合ってもあまり意味がない。同様に、人間が見ていると思っているものもは本当にあるものなのか? 人間は輪郭線で囲うとそこに何かあると認識するが、それは正しいことなのか? 文化によって色は違うし、ものの存在の仕方も違う。直観でしか論理を超えられないのではないか? 見ている実体はどこまで本当にあるのだろうか? 表層的な理解を超えた世界はどのようなものなのか?」

みんなの頭が「?」でいっぱいになったところで司会者が「未来を幸せにするためにはどうしたらいいか」と質問する。田坂氏はこう答えた。

「人間は幸せという言葉で思考を停止する。幸せを論じているという状態が不幸ではないか。幸せでいるためには感謝すること。感謝している瞬間が結果として幸せなのではないか。そのためには互いに生かし合っていることに気づくことが大切だろう」

清水氏はこう語った。

「なぜいま生きているかはわからない。生きてきたことを考えると、いただいてきたものをお返ししてないと感じる。たくさんのことを与えていただき、それに充足している」

これはおふたりなりの回向なんだなと感じた。

仏教と科学の共鳴 第二回  地球と環境
10月14日(水) 18時45分〜20時45 (開場時間 18時20分〜)
 ・竹村 真一(文化人類学者、京都造形芸術大学教授、Earth Literacy Program代表)
 ・星野 克美(文明哲学者、多摩大学・大学院教授、日本技術者連盟会長、グローバル・マネジメント・アカデミー会長)
 ・企画・モデレーター:尾中 謙文(青山プランニングアーツ代表、認知科学者)

◆場所:東京ウィメンズプラザ ホール
 東京都渋谷区神宮前5-53-67 B1階
 ・表参道駅(東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線) 徒歩7分
 ・渋谷駅(JR山手線・東急東横線・京王井の頭線) 徒歩12分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/map.html

◆参加費:3,000円(自由席/事前振込み)

◆定員:240名(先着順)

◆登壇者プロフィール

【竹村 真一】
1959年生まれ。
京都造形芸術大学教授。Earth Literacy Program代表。
東京大学大学院文化人類学博士課程修了。
地球時代の人間学を考究しつつ、ITを活用した独自な地球環境問題への取組みを進める。
Sensorium(97年アルス・エレクトロ二カ・グランプリ受賞)、デジタル地球儀「触れる地球」(05年グッドデザイン賞・金賞)や「100万人のキャンドルナイト」「aqua scape」など、さまざまなプロジェクトを推進。環境セミナー「地球大学」主宰。
07年「water」展ではコンセプト・スーパーバイザーとして企画制作に携わる。
08年7月の北海道・洞爺湖サミットでは、 国際メディアセンター(IMC)内の環境ショーケースにおける「地球茶室」の総合企画・プロデュースを担当。
「地球の目線」PHP新書、新著「環東京湾構想」(共著)朝日新聞出版、など著書多数。
ラジオ「GLOBAL SENSOR」放送中(J-WAVE,偶数月の最終日曜25時〜)。
竹村真一プロジェクトサイト: http://www.elp.or.jp/

【星野 克美】
1940年名古屋市生まれ、名古屋大学経済学部卒業
研究履歴:筑波大学社会工学系専任講師・助教授を経て、多摩大学経営情報学部・大学院経営情報学研究科教授
専攻:文明哲学、未来文明論、地球環境文明論、文化記号論、認知科学記号論(Semiotic Marketing世界的パイオニア)
学会:比較文明学会会員
主著:『地球環境文明論』、『社会変動の理論と計測』、『消費人類学』、『流行予知科学』、‘Semiotic Marketing and Product Conceptualization’など多数
NPO:日本技術者連盟会長、グローバルマネジメントアカデミー会長、日本プライバシー認証機構会長
創作:形而上詩、環境文学

※プレイベントには、ダライ・ラマ法王は出演されません。

 11月1日の<「地球の未来」への対話>は、ダライ・ラマ法王と、上記4名の先生(田坂広志氏、 清水博氏、 竹村真一氏、星野克美氏)の対話イベントです。

◆主催:「地球の未来」への対話 実行委員会(株式会社青山プランニングアーツ内)

◆協力:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベットハウス)

◆プレイベントお問い合わせ先:

「地球の未来」への対話 実行委員会

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「地球の未来」への対話 実行委員会
(株式会社青山プランニングアーツ内)
TEL  03‐6427-4021(平日10:00-17:00)

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