象のおかげで携帯電話普及? アフリカ

「ひとりぼっちのケティ」の原作を書いて以来、ずっと象に興味がある。たまたまあるBlogで見つけたのは、なんとアフリカの象を携帯電話のネットワークにつないでしまうという話し。

象は広大な草原がないと生きていけない。狭い場所に閉じこめると、その地域の草木を食べ尽くしてしまうからだ。だから象は広い地域を歩き回って生き続ける。そうすることで、草原の栄養を均一化することにもなるし、草木の種を移動させることにもなる。象は食べたものをあまり徹底的には消化しない。ケニアで時々みかけた象の糞は、泥に汚れた草の固まりのようだった。だから、種が運ばれ、痩せた土地には堆肥が運ばれることになる。象は広い草原に適応するように育ってきたのだ。

ところがこの50年の間にアフリカは近代化し、道路ができ、畑が増え、人々の生活域と象の生活域の区別がなくなってきた。当然象は目の前に食べ物があれば、畑でもどこでものしのし歩き回る。だからアフリカの農民は象が嫌いだ。象がいなくなるようにいろんなことをする。それは象の行動範囲を狭めることになる。行動範囲が狭くなれば、その地域の草木はどんどん食べ尽くされる。その地域の農民は象を駆除したくなり、象は数を減らす。

そこで象の保護団体が、象の首に発信器をセットし、携帯電話のネットワークにつなぎ、もし保護区から出たらすぐにわかるようにしたそうだ。象が保護区から出ると保護団体の職員が救助に向かう。

それが成功したおかげで、さらなる工夫が生まれた。携帯電話のネットワークはまだアフリカ全土を覆い尽くしているわけではない。発信基地同士を結ぶために電気やケーブルの工事には莫大なお金がかかる。そこで、ケーブルでつながなくても済むように、太陽熱や風力で発電させる独立した発信基地を作り始めたそうだ。

象のおかげでアフリカ全土で携帯電話が使えるようになるのかも。

 

 

職業に貴賎なし

テイヤール・ド・シャルダンの全集がやっとそろった。7年かけて一冊ずつ集めてきた。これで念願の本が完成できる。やっと手にした第二巻を読んでいて、ふと思ったことがある。それを予備知識のない人にわかってもらうためには、かなりの文章を書かなければならないので、ここには書かないでおくが、それを考えていた際に「職業に貴賎なし」という感覚が必要になるなと思った。よく使われる言葉だが、その真の意味を理解している人は少なくなってきたようだ。「職業に貴賤なし」とネット上で検索すると、悲しい解釈がたくさん出てくる。いろんな解釈ができるだろうから、押しつけるつもりはないが、かつての日本ではこのような解釈だったと思う。

どんな職業でもかならずそれは誰かの役に立つから職業として成り立っている。そして、そのことの価値はそれによって得られる報酬とは関わりない。自分の仕事とのスタンスで価値は決まる。

現代の人は、貴賤の価値判断を収入に結びつける。そこが違うのだと思う。たとえば、どんなに収入の低い仕事でも、それがないと多くの人が困る仕事というものがある。それをしている人は、収入が少ないことを覚悟の上でそれをやっている。そのような人たちをもし収入が低いから劣った職業だというなら、その人たちはその仕事への意欲を失うだろう。低い収入にもかかわらず、その仕事をすることによって社会に貢献しているのだ。だから価値がある。現代はとても個人主義的な価値判断しかされなくなったが、「社会」という切り口から物事を見れば、どのような形にせよ社会に貢献している職業であれば価値があり、それは誰かがしなければならない。だから職業に貴賎はないのだ。

たとえば、現在漁業はガソリン価格の高騰で収入の少ない職業になってしまった。だからといって漁業をしている人たちの仕事が賤しくなったわけではない。たとえ収入が少なくなっても、魚を必要としている多くの人のために漁を続けるひとがいたとしたら、それは貴い仕事といえるだろう。農業も漁業も収入が少ないから賤しいという考えがあったとしたら、僕たちは食料を得ることができなくなる。同じように、どんな仕事でもそれがなくなると困る人が必ずいるはずだ。
人は仕事をすることで社会に貢献しているのだ。だから職業に貴賎はない。このような感覚は現代では「建前」としか理解されなくなってきているようだ。それは悲しいことだと僕は思う。