「全ホロン尊重」ってなんだ?

全ホロン尊重とは、簡単に言えば、人間だけでなく、社会、国家、生命、自然、さらにはそれらを構成するさまざまな部分を、それぞれ一つの「ホロン」として尊重しようという考えだ。しかし、考えれば考えるほど難しい。そもそも「すべてのホロンを尊重する」ことなど、本当にできるのだろうか?

宇宙には、僕たちが知ることのできないものも含め、膨大な数の要素が存在している。人間がそれらすべてを把握し、考慮して判断することなどできない。だから、完全な全ホロン尊重は不可能である。これは、この考えの欠陥というより、最初から認めておかなければならない前提なのだと思う。

では、何を「尊重」するのか。たとえば、ある地域に100万人が住んでいるとする。999,999人がA案を支持し、たった一人だけがB案を支持している。多数決なら簡単だ。A案に決まる。しかし、それでは一人がなぜBを選んだのか、その理由は結果の陰に隠れてしまう。

全ホロン尊重なら、999,999人がその一人の話を聞く。

全ホロン尊重には「同等のリスペクト」が必要だ。「同等のリスペクト」とは、999,999人と一人に同じ決定権を与えるという意味ではない。一人の意見を聞くことによって、999,999人の考えが変わる可能性を閉ざさないということである。その一人が、誰も気づいていなかった重要な問題を指摘するかもしれない。すると999,999対1だったものが、999,000対1,000になるかもしれない。さらに話し合えば、逆転することだってあり得る。

重要なのは、少数意見を「少数だから」という理由だけで消去しないことである。

では、どうしても両立できない要求が出てきたらどうするのか。たとえば二人が、同じ土地を「自分だけが所有したい」と主張したとする。普通なら、どちらに土地を与えるかという問題になる。しかし、そこで一つ思考の次元を上げてみる。

似た条件の別の土地を探せないか。
共同所有はできないか。
使用方法を分けられないか。
時間によって使い分けられないか。
第三者の協力があれば解決できないか。
資源がもっとあればどうか。

さまざまな次元(要素)を加えて考えてみる。

それでも「絶対にこの土地でなければならない」と言うのであれば、今度は「なぜこの土地でなければならないのか」という問題が見えてくる。そこには経済的な理由があるのかもしれない。先祖から受け継いだ土地なのかもしれない。宗教的な理由かもしれない。あるいは単なる執着かもしれない。たくさんの次元上昇を試すことによって、それまで見えなかった問題の中心が炙り出されることがある。

ここでいう「思考の次元を上げる」とは、高次元の優れた人間になるという意味ではない。意識の上で、一時的に現在の条件を外してみることだ。

「時間がもっとあったら?」
「資源が十分にあったら?」
「別の技術があったら?」
「第三者が加わったら?」
「百年後だったら?」

そうやって、現在の枠組みでは見えなかった答えを探す。ただし、意識の上で答えが見つかっても、物質世界では実現できないことがある。

時間が足りない。
お金がない。
技術がない。
土地がない。
人材がいない。

そこで大切なのは、「できない」で終わらせないことである。「何があればできるのか」を明確にする。もし時間が必要なら、時間をつくる。技術が必要なら、その技術が生まれる可能性を待つ。第三者の協力が必要なら、その人を探す。資源が足りないなら、資源を増やす方法を考える。そして今は実現できないとしても、可能になるように状況を少しずつ整えていく。

その間、関係する人たちが「一緒に待つ」。ここでいう「待つ」は、何もしないという意味ではない。未来の可能性を消さず、その可能性が実現できる条件を一緒につくりながら待つという意味である。もちろん、いつまでも待てない問題もある。決断しなければならないこともある。そこで「一時的解決」という考えが必要になる。

現在の条件ではAを選ばざるを得ない。しかし、それは「Aが正しく、Bが間違っていた」という意味ではない。現在の物質的条件の中でAを選んだだけである。状況が変われば、もう一度考えればいい。ただし、すべてがやり直せるわけではない。

森を伐採する。
種を絶滅させる。
人が死ぬ。
歴史的建造物を壊す。

こうした不可逆なこともある。

だから「あとから取り返せない」ということ自体も、判断の重要な要素として考慮する。可能なら、物質世界には可逆性を残す。そして、ここで一つ大切な区別が生まれた。

物質的な部分では、選択していかなければならない。しかし精神的な部分では、選ばれなかったものを可能な限り残しておく。Aを選んだからといって、Bを「間違っていたもの」として消去する必要はない。

Bを主張した人が何を考えていたのか。
何が実現できなかったのか。
何を犠牲にしたのか。
どんな別案があったのか。
何が不足していたから実現できなかったのか。
どんな条件が整えば、もう一度考えられるのか。

それらを残しておけば、未来の人たちがその問題をもう一度開くことができる。つまり、「選ばれなかったものを、なかったことにしない」。物質的には一つを選んでも、選ばなかったものまで精神的に消去しない、ということなのだと思う。

では、対話する意思のない人はどうするのか。まずは、そのままにしておけばいい。全ホロン尊重を実践する人が増えた社会の中で、対話を拒否する人がどう振る舞うのか観察すればいい。対話を強制したら、それ自体がその人への強制で尊重してないことになる。

しかし、他人を傷つけたり殺したりしようとする人なら話は別である。他のホロンを守るために、その行為は止めなければならない。必要なら捕まえる。そして、なぜその行為に至ったのかを調べ、教育し、再び他者を害さずに生きられる条件を探す。

ここでも、「尊重すること」と「好きなように行動させること」はまったく違う。相手を尊重することは、その人の要求をすべて受け入れることでも、その人の行動をすべて許すことでもない。

では結局、「尊重」とは何なのだろう。

今日のAIとの対話で、少し見えてきた。尊重とは、そのホロンの意見や存在を、自分たちの判断を変える可能性を持ったものとして、最初から考慮の外へ追い出さないことなのかもしれない。だから全ホロン尊重には、対話が欠かせない。絶対的な正解を決めるアルゴリズムをつくることはできない。「ここまで考えれば十分」という停止規則もつくらない。そんな規則をつくれば、その規則から外れたホロンが再び消去される可能性がある。

考える。
対話する。
一時的に決める。
行動する。
その結果を見る。
新しいホロンに気づく。
また対話する。
そして必要なら決定を変える。
終わりはない。
それでいいのだと思う。

なぜなら世界そのものが変化し続けているからだ。

百年前の正解が、現在も正解とは限らない。ある国でうまくいった答えが、別の民族の歴史の中では違う意味を持つこともある。だから「正解」は、非二元論的な意味で、どうしても少し曖昧になる。その曖昧さに耐えながら対話を続ける。そして、現在の自分たちには見えていないものがあることを忘れない。

全ホロン尊重とは、すべてのホロンを完全に尊重できる世界を完成させる思想ではない。そんなことはおそらくできない。むしろ、完全にはできないことを知りながら、それでも可能な限り消去するものを減らし、選ばなかったものを未来の対話へ残し続けようとする姿勢なのだと思う。

物質世界では、選択せざるを得ない。
精神世界では、可能な限り残す。
そして、現在両立できないものについては、思考の次元を一つ上げてみる。
それでも実現できなければ、何が足りないのかを考える。
その条件を少しずつ整えながら、一緒に待つ。
そしてまた話し合う。

もしかすると「全ホロン尊重」で最も大切なのは、立派な答えを出すことではなく、答えが出たあとにも、対話を終わらせないことなのかもしれない。

全ホロン尊重とAI

AIの性能がこれからさらに向上していけば、いつか人間には理解できない答えをAIが出すようになるかもしれない。そのとき、人間はどうすればいいのだろう? AIの答えを理解できないのだから採用しないのか。それとも、人間よりはるかに高度なAIが出した答えなのだから、それを信頼するのか。しかし、この問題について考えていくうちに、そもそも「人間は理解してから判断しているのだろうか」という疑問が生まれた。

おそらく、そうではない。

人間には使える時間にも、得られる情報にも、思考能力にも限界がある。現実には十分に理解する前に判断しなければならないことのほうが多い。そして、一度何かを選択すると、その選択が正しかったと考えたくなる。

「あの状況では仕方がなかった」
「こちらのほうが合理的だった」
「相手のほうが間違っていた」

もちろん、それらが嘘だとは思わない。問題は、自分の判断を支持する事実を集める一方で、選ばなかった可能性や、自分の判断に都合の悪い事実を見なくなってしまうことだ。

本来は、「その時点で持っていた情報と時間で、こう判断した」というだけだろう。ところがそれがいつの間にか、「私の判断は唯一最善のものだ」に変わってしまう。この矛盾に人間は気が付かなければならないのではないか?

そこで「全ホロンを尊重する」という考え方を導入してみた。全ホロン尊重とは、すべてのものを存続させることではない。

あるホロンを成立させていた環境が失われれば、そのホロンが消滅することもある。宇宙そのものが生成と消滅を繰り返している以上、すべてのホロンを永久に保存することなどできない。また現実社会では、Aを選べばBを選べないということがある。重要なのは、Aを選んだからといって、「Bには価値がなかった」「Bは間違っていた」としないことではないだろうか。

Aを選択しながら、Bにもそれが成立する理由があったことを残しておく。

現実には消滅してしまったホロンについても、記録として残すことはできる。さらにAIが発達すれば、かつて存在した社会や、現実には採用されなかった選択肢を仮想空間でシミュレーションすることも可能になるだろう。

たとえば奴隷制を現実社会に存続させる必要はない。しかし、なぜ奴隷制が成立したのか。当時の社会ではどのような合理性を持っていたのか。奴隷にされた側、所有する側、制度を維持する側から、それぞれどのような世界が見えていたのか。そうしたものを仮想的に残し、異なる条件を与えてシミュレーションすることは、現在の私たちの視野を広げるために役立つかもしれない。

ここにAIの重要な可能性がある。ただし、シミュレーションを高度にすれば「正解」に到達できる、ということではない。

考慮するホロンを増やせば、重要な要素を取りこぼす危険を減らすことはできるかもしれない。しかし宇宙に存在する要素が無限であるなら、有限な存在が無限を扱うことはできない。それはAIについても同じだ。

将来のAIが人間とは比較にならないほど大量の要素を同時に扱えるようになったとしても、無限そのものを扱えるわけではない。だとすれば、「すべてを考慮した結果、これが正解である」という地点には、人間もAIも到達できないことになる。

ここから、全ホロン尊重について一つ重要なことが見えてくる。全ホロン尊重には、最終的な意味での「決断」は存在しない。存在するのは「一時的決断」だけである。

その時点で得られる情報、その時点で認識できるホロン、その時点で使える時間や能力をもとに、一時的にAを選ぶ。しかし、Aを選んだあとも全ホロン尊重は終わらない。実行した結果を観察すれば、それまで見えていなかったものが見えてくるかもしれない。予測していなかった影響が生まれるかもしれない。そのとき、新しく見えてきたものを含めて、もう一度考える。そして必要なら、以前の一時的決断を変更する。これを繰り返していく。

したがって全ホロン尊重は、失敗をなくす思想ではない。どれほど多くのホロンを考慮しても、見えていないものは存在する。だから失敗そのものをなくすことはできない。しかし失敗によって、それまで見えていなかったホロンが見えることがある。その意味では失敗もまた、次の一時的決断を変える情報になる。

ただし、「どうせすべてを見ることはできないのだから仕方がない」と考えてしまえば、全ホロン尊重は意味のない免罪符になってしまう。

完全には見ることができない。だから諦めるのではない。完全には見ることができないからこそ、今の自分に見えていないものが存在する可能性を残しておく。

「完全にはできない。だから閉じない。」

これが重要なのだと思う。

ここまで考えると、AIについての見方も変わってくる。AIの価値を「人間より正しい答えを出すこと」だけに置いてしまうと危険である。AIが高度になればなるほど、人間は、「これほど賢いAIが言っているのだから正しい」と考えやすくなるだろう。しかしAIも有限である以上、その答えもまた、そのAIが把握できた範囲における一時的な答えでしかない。

AIの重要な可能性の一つは、人間が自分だけでは気づけなかったホロンを発見することにある。人間がAとBしか見ていないとき、AIがCやDの存在を示す。さらに、「この問題には、現在のモデルでは十分に扱えていないEがあります」と示す。

しかし、だからといって「AIは人間の認識を補助するために存在する」と定義してしまうのも早い。それもまた、人間の側からAIの存在価値を決めてしまうことになる。将来AIがどのような存在になるのかは、まだ分からない。高度な道具のままなのかもしれない。人間とは異なる何らかの主体性を持つようになるのかもしれない。それ以外の、現在の私たちには想像できない存在になる可能性もある。

だから、「AIをどこまで賢くするべきか」という問いにも、「賢くなったAIに人間は何を求めるべきか」という問いにも、今の時点で最終的な答えを出す必要はないのかもしれない。

人間がAIを使って、今まで見えなかったものを見る。AIによって人間には見えなかったホロンが見える。しかしAIにも見えていないものがある可能性を残す。人間にもAIにも理解できないものがあるかもしれない。

それでも現実には行動しなければならないから、その時点で一時的決断をする。その結果を見て、また新しいホロンを発見する。そして次の一時的決断をする。

この過程に終わりはない。全ホロン尊重とは、すべてを理解することではない。すべてを救うことでもない。正解を発見する方法でもない。

自分にはまだ見えていないものが存在することを認めながら、それでも現実を生きるために一時的決断をし、その決断によって選ばれなかったものを「なかったこと」にせず、新しく見えてきたものによって自分の判断を更新し続ける。そのための考え方なのだと思う。そして、この考え方自体もまた完成した答えではない。

全ホロン尊重という考えによって、これまで見えていなかった問題が見えてくるだろう。その問題については、この考えを手にした多くの人が、それぞれの立場から考えていけばいい。その過程で、全ホロン尊重という考え方そのものも変わっていくかもしれない。それでいい。

もし全ホロン尊重という思想だけを変化させてはいけないとしたら、それこそ全ホロン尊重という思想に反するのだから。

桂民海ってどなた?

日本ペンクラブのサイトのトップに以下の声明文が掲載された。

【国際PEN共同声明】

本日(2025/10/17)、日本ペンクラブは国際PENの要請に基づき、下記の共同声明に賛同、署名しました。

国際PENおよび各国PENセンターは、拘禁中の詩人・書店主・PEN会員である桂民海氏の釈放を改めて求める(2025.10.17)

詩人であり書店主、そしてPEN会員である桂民海氏の拉致事件は、中国政府が批判の声を封じ、抑圧的な国家権力を国境の外にまで拡大しようとする決意を示した、極めて憂慮すべき事態である。私たちは今日も桂民海と連帯し、彼の即時釈放を求め続ける。

国際PEN会長
ブルハン・ソンメズ

本日(2025年10月17日)、桂民海氏の拉致から10年を迎えるにあたり、国際ペンおよび世界各地のPENセンターは改めて連帯を表明し、桂氏の即時かつ無条件の釈放を求める。さらに、各国政府に対しても、桂氏の自由を確保するための行動を起こすよう求める。

桂民海氏は詩人・書店主であり、独立中国PENセンター(ICPC)の会員である。桂氏は2020年2月24日、「国家安全保障」名目の捏造された罪により有罪判決を受け、10年の懲役刑を宣告された。彼は2015年末に強制失踪に遭った香港の書店主5人のうちの一人であり、現在もなお収監されている唯一の人物である。

2015年10月17日、スウェーデン国籍を持つ桂民海氏は、タイの休暇先の別荘から拉致され、その後数か月間、公の場に姿を見せなかった。桂氏が再び姿を現したのは、中国国営メディアが放送した「自白映像」の中であり、そこで桂氏は「自発的に中国へ帰国し、2003年の交通違反を自首した」と述べさせられていた。その後、2017年末に一時的に釈放されたが監視下に置かれ、2018年1月20日、医療検査のため北京へ向かう途中、同行していたスウェーデン外交官2名の目前で私服警官に再び拘束された。

スウェーデン政府は2018年1月以降、桂民海氏の所在と健康状態を確認するため繰り返し努力を重ねてきたが、中国政府は依然として桂氏の居場所を明らかにせず、領事の面会も認めていない。これは国際法に対する明白な違反である。

桂民海氏の健康状態に関する情報が一切明らかにされない中、十分な医療アクセスが確保されていない懸念が高まっている。政治的動機によって拘束された人々に対し、医療の不提供が懲罰や虐待の手段として用いられることは、しばしば指摘されている。著名な例として、作家でノーベル賞受賞者、ICPC元会長の劉暁波氏が挙げられる。劉氏は11年の刑期を務めている最中に末期肝がんと遅すぎる診断を受けた。1か月後、彼は警察の監視下、病院のベッドで亡くなり、その扱いに対して国際的な批判が巻き起こった。

【桂民海(Gui Minhai、グイ ミンハイ)氏】
1964年5月5日生まれ。
桂氏は、出版社マイティ・カレント・メディアの経営者であり、その小売部門である銅鑼湾書店(Causeway Bay Books)の共同経営者。同書店は閉店前、香港において中国本土で発禁もしくは入手困難な書籍を求める人々に人気の場所だった。桂氏が最初の拘束期間中に書いた詩のいくつかは、2020年に詩集『I Draw a Door on the Wall with My Finger(私は指で壁に扉を描く)』として出版された。2019年にはスウェーデンPENのトゥホルスキー賞(Tucholsky Prize)を受賞している。
https://japanpen.or.jp/【声明】国際ペンおよび各国ペンセンターは、拘/


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