The Coveアカデミー賞受賞とEnglish Journal

「ザ・コーヴ(The Cove)」がアカデミー賞を受賞しました。

今月発売のEnglish Journalにザ・コーヴの主人公、リチャード・オバリー氏のインタビューが掲載されています。オバリー氏の紹介文を僕が書かせてもらったので掲載誌が届きました。

「The Cove」という映画は日本のメディアにはどこも悪者のように書かれていますね。でも実際に見るとそうでもないですよ。見る人によってみんな言うことが違います。つまり、それは感じる場所がたくさんあり、現実の複雑な状態が表現されていると言うこと。確かに太地町の漁師は悪者のように見えるかもしれませんが、冷静な目を持った人には煽るような映像はすぐにわかるので心配することはありません。まずはこの映画を撮った人たちが何を言いたかったのかをじっくり感じてみればいいのです。そのうえで反論なり・賛意なりを示せばいいでしょう。

煽るような言葉や映像に惑わされて、自分が感じるべきことを見失わないようにするのが大切ですね。

一神教と多神教

この書き込みは以下の三つのエントリーの続きです。内容について詳細に知りたい場合は、これら三つのエントリーを読んだ上でこのエントリーを読んでください。

「柳田國男全集13」

「変性意識と祭」

「ニュピの変性意識」

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テレビ放送が始まり、世の中は大きく変わった。そこに映し出される映像は、それを見る人間に大きな影響を与えたからだ。かつて地球の裏側は話で聞くしかない、文字で読むしかない、写真で見るしかない世界だった。それが、音と動画で感じられるようになる。カラー放送が始まるといよいよ映像による模擬体験と実体験の差が小さくなる。

世界中の映像を、それぞれの国の主張にしたがって輸入する国は、他の国の人たちと心の連携を作っていく。一方で、他国の主張には耳を傾けず、自国の主張のみを国内で放送する国は、他国との関係が作れなくなり、戦争を起こしやすくなる。テレビ放送はうまく使えば、他国との国民感情の溝を埋めるのに素晴らしいメディアだ。アメリカは日本の敗戦後、積極的にアメリカのテレビドラマを日本で流したという。そうすることで日本人はアメリカ人に対する、それまで培ってきた偏見を手放すようになった。幸せそうに暮らしている他国の人たちのイメージを持てば、日本人はその幸せをあえて壊そうとはしない。だから日本ではこの時代にどこかに行って戦争を仕掛けようと考える人はほとんどいない。様々な国の人たちの生活を見る機会を持ち、その人たちに共感する映像に触れるからだ。同様に他国の人たちも、その映像が正しい主義主張の元で流されれば、やはり戦争を仕掛けようとはしなくなるだろう。しかし、「こんな幸せな人たちが私たちの幸せを踏みにじっている」とか、「こんな幸せそうな人たちが実は戦争をけしかけている」とか、意図的に煽動する情報を加えられると、同じ映像が戦争への起爆剤になる。つまり、私たちは自分たちの意図を拡張する方法を手にしたのだ。「みんなで楽しく暮らしていこう」という意図を持って映像を作るか、「自国の人間だけ幸せになればいい」という意図の元で映像を作るか。この違いがとても大きな違いを生み出してしまう。

自分だけとか、自分の属しているグループだけが幸せになればいいという思いはかつて当たり前にあった。それが端的に表れていたのが帝国主義だ。列強と呼ばれた国々は自国の利益を拡大するために、他国を収奪していく。いま考えれば飛んでもない考え方だったが、かつて帝国主義の時代は、大きな国はみんなそのように考えていたので、そこで生き残るためには同じように帝国主義の国となり、戦わない限り国土や人民を奪われることになった。しかし、その時代の最後に核兵器が使われ、列強の国々は互いに戦わずに牽制し合う冷戦時代となる。このときにテレビが登場したことが私たちの歴史にとってとても良かったことだと思う。

映画は同じように音と映像を伝えるが、その映像は編集の関与する部分が多い。しかも、テレビよりはタイムラグが生まれる。テレビはもちろん編集することもできるが、ほぼ同時に世界中に配信できるようになっていったので、編集者の意図よりも、その即時性が大切にされるようになった。その結果、テレビで流される内容は次第に編集者の意図によるものから少しずつ、事実に近い内容を伝える媒体として変化していく。そんなテレビを媒介にして何が起こったのかというと、国を越えたたくさんの視点があることに多くの人が気づき始めたのだ。その気づきはほとんど言葉にはなされなかったかもしれないが、無意識のうちに、雰囲気として、人々はそのことを受け入れていった。

様々な国が流しているニュースをそのまま見ることで、自国の視点との違いを多くの人が理解するようになった。さらに、様々な人の視点で流されるドキュメンタリーを見ることで、よりたくさんの視点があることを感じるようになった。視点がたくさんあることは昔の人も理解はしていただろう。しかし、それは言葉や理屈で理解することが先で、共感したり、同情したり、感覚的に受け入れられる人は少なかったと考えられる。テレビは多くの視聴者を共感に導く。即時性、映像、その場の音が、視聴者を大きな仲間に育てていくのだ。だから善意の解釈に支えられたテレビ番組に登場する人々に、視聴者は共感し、ドキュメンタリーの取材先が他国であれば、その他国の人たちに興味を持ち、共感していく。それが戦争を私たちから遠ざける装置の一つになっている。

かつて、テレビがなかった時代に、現代のテレビのように人と人を結びつける装置のひとつは神話や伝説、またはそれらを含む宗教だった。

伝播する宗教が一神教の場合、そこに生まれる関係は主従関係だ。伝播していく宗教を先に信じていた国の人たちが、あとから信じる人たちを従えていく。それはたったひとつの教えを知っている人から知らない人への布教という形でなされていく。「真実はひとつ」という教えが、教えの流れの方向を決め、関係性もその流れと同じものにしてしまう。だから、一神教はある国が他国を文化的に征服するためにいい道具なのだ。すべては教える者と教えられる者に還元されていく。この仕組みをカトリックは利用した。もちろん、素晴らしい世界を作るために。

一方で、多神教の場合、文化的征服をする道具にはなりにくい。他の神様でもOKなのだから、もともとその土地にいた神様の教えでもいいものは受け入れてしまう。一方的な知識の流れにはなりにくい。仏教がインドから中国に渡っても、チベットに渡っても、日本に渡っても、それが理由で征服したりされたりの関係にならなかったのは、仏教が多神教的であることがその理由だと思う。

多神教的な教えが、征服の道具とならなかったさらにもうひとつの理由は、多神教的な教えが他人への共感の能力を高めるためだと考えられる。

一神教の場合、信徒はたったひとつの教えにいかにして近づくかが課題となる。善悪の判断はある基準に従うことへと還元されていく。一方で多神教は、ただひとつの正しい教えがあるかどうかは曖昧になる。ある神から見れば正しいことが、別の神からすれば正しくないことになる。だから、そこで生まれる真実は互いの関係次第、または互いの立場次第で異なることを知らされていく。善悪の基準も明確ではなく、よりその場にふさわしい考え方は何かを追求することになる。絶対的な善が存在するわけではない。ある立場から見れば明らかに悪い神も、別の立場から見るととても愛らしい神様に思えたりする。その多面的現実を学ぶことになる。

多面的現実を知った人は、目の前にいる人をたったひとつの解釈や考え方で判断することを手放すようになる。他人を深く理解するためにはこのことが大切だ。しかし、一方でそのことは明確な判断や、スピーディーな物事の処理を阻むことになる。このエントリーに先だって書いたエントリー「ニュピの変性意識」の最後に、日本が多神教的文化から離れる必要があったと書いたが、それはこのことに関係している。

日本が帝国主義に走るとき、多神教的ではうまく行かなかったのだ。天皇という唯一神を担ぎ出すことによって、一般の人たちからは明確な判断やスピーディーな判断がなされているように思わせる必要があり、また、日本人自体もその効率を身につけなければ、あの帝国主義の時代を乗り越えられなかった。なにしろゆっくりしていては他国に侵略されてしまうからだ。だから、必ずしも一神教的な文化が悪いとは思わない。状況によって一神教的文化がフィットすることもあれば、多神教的文化がフィットすることもあるだろう。つまり多神教的多面性と、一神教的一面性を同時に持ち合わせる文化が求められるべき文化だと考えられる。

多面性と一面性を同時に持つとはどんなことなのか、またいつか続きを書きたい。理論的には矛盾するこの考え方が、変性意識とセットになったとき、うまく働き出す。あたかもテレビで音と映像を見ることで影響されているように。

七田眞先生と母親

幼い頃、外で遊んでよく怪我をした。いつもどこかすりむいたり、ひっかき傷を作ったりしていた。そんなとき、僕の母親は「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」と、傷に手を当てて言ってくれた。そんなことなど効き目はないと、大人の頭では理解するが、子どもの頭ではそれが事実になった。痛くないかのような感覚になる。または、本当の痛みだけを感じて、思い込みの部分が消えてなくなる。母に「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」と言われるのが好きだった。

子どもにとって「信じられる」というのは大切なことだ。ところが最近の若い子供たちは、そういう迷信を知らない子が多い。きっと科学的に考えるよう教えられているのだろう。理詰めで考えた合理的なことが正しいこととなる。だけど人間は合理的なことだけでは生きていけない。たとえば「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」は、子どもだからそれでいいと思っているような親から言われても効かないのではないかと思う。母が本当に子どもの苦痛を取り除くために、心から信じて言うから効くのであって、信じてない人から言われても効果はないと思う。七田先生が伝えようとしていたのは、人間の心のそんな部分だったと思う。

七田先生の業績についてネット上で「ニセ科学だ」とか書かれていると悲しくなる。確かに「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」のようなことが科学的であるはずがない。しかし、そういうことが信じられる人たちにはある効果があったのだと思う。

最近、梨木香歩の小説『西の魔女が死んだ』を買った。まだ読んでないのだが裏表紙に簡単な説明書きがある。

中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、季節が初夏へと移り変わるひと月あまりを、西の魔女のもとで過ごした。西の魔女ことママのママ、つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。喜びも希望も、もちろん幸せも……。

「なんでも自分で決める」というのが大切なのだろう。こんなことを言うと不思議に思われるかもしれないが、高校で講師をしていて気づいたのだが、何が面白いのか言えない若者がいる。「面白いと言えば面白いが、面白くないひともいる」だからそれがどんなに自分は面白いと思っても、面白いとは言えない。「他人にとって面白くないかもしれないこと」が重大なことだからだ。そうすると自分の感情にも自信が持てなくなる。僕は学校で小説の書き方を教えているが、実はまったく別のことを教えている気が時々する。それは「自分の感情や感覚を信じてやり抜け」ということだ。

物語を書いていると大切なのは自分の感覚を信じて書ききることだ。書いている途中で自信を失うと、そこから急激に言葉が希薄になる。だから、僕の仕事の多くは学生たちにエールを送ることだ。そうやって何人かが書ききってくれる。

「自分を信じる」というのは科学的なことではない。信じている最中にその根拠はないからだ。「自分ならできる」となぜ言えるのか。それを明らかにするのは無理だ。やりきったひとだけが「できた」と言える。やりきるまではできるかどうか確証はない。なんパーセントのひとができて、なんパーセントのひとができないと、科学的データを持っていたら、自分がどちらに入るのかなんとも言えないのが科学だ。

七田先生は右脳の話や速読の話を通じて「いかに自分を信じるか」を伝えていたのだと思う。生まれたばかりの子どもに「この子はスクスクと育つ」と明言することは科学的なことではない。しかし、多くの母親はそういう信念を必要としている。自分の子どもが健やかに育つように、自分が無事にお産を済ませられるように、子どもが五体満足で生まれてくるように。子供を産むその刹那、科学的ではいられないのである。