イスラエルとパレスチナ、それぞれの悲しみ

2003年、僕は友人の誘いである会議に参加した。それは、イスラエルとパレスチナから子供たちを日本に呼んで、日本の子供たちと一緒にサッカーをさせて仲良くさせようと言うプランを実現するための会議だった。その集まりは「イスラエル・パレスチナ・日本の子供たちによる親善サッカー大会」という長い名前がつけられた。そして略称は「jipco」となった。それから苦難の会議が続く。対立しているイスラエルとパレスチナの子供たちが一緒にいたら、何が起きるかわからないと、子供たちが宿泊する宿が取れない。警察も厳重に警備するという。それは素晴らしいという人と、そんなことは無理だという人がいた。

さらに大きな問題は、イスラエルとパレスチナの問題について適切なことが書けないし、言えないということだった。

たとえば、日本ではニュースで時々「自爆テロ」という言葉が使われる。このイベントに関わるまで、僕にとって「自爆テロ」は「自爆テロ」でしかなかった。ところが、jipcoに関わることで、「自爆テロ」は単なる「自爆テロ」ではなくなってしまった。「自爆テロ」という言葉は、もともとイスラエル側が主張した言葉だ。「テロ」なのだから。一方でパレスチナ側にとってそれはただの「テロ」ではない。命をかけてでも主張しなければならない決死の行動だから「テロ」などとは言われたくない。もとはと言えばイスラエルが勝手にやって来て俺たちを追い出したのだから聖戦だという。このようなやりとりをしていると、まったく考えるべきことが何なのかわからなくなってくる。しかもそこに第三者がいう「自爆テロ」の定義が現れてくる。「自爆テロ」とは「社会に何らかの訴えがあることを、自らの命を絶って訴えること」。第三者がそう定義することで、パレスチナがいくら聖戦だと言っても、国際社会では自爆テロと言われてしまう。さらに複雑なのは、国際社会にいるパレスチナ人は「自爆テロ」という言葉を受け入れていくのだ。しかし、言葉は受け入れても、その下にある思いは全く違う。

つまり、立場によって使う言葉が違い、たとえ同じ言葉を使っていてもその意味するところが違ってくるのだ。それはまさにバベルの塔の状態だ。そんなことを理解していくにつれて、イスラエルとパレスチナの人たちが仲良くなるということがいかに難しいことかがわかってくる。

半年後、イスラエルとパレスチナから子供たちがやって来た。はじめはなかなか会話もできなかったふたつのグループが、一緒にいることで、しかも日本人の子供をあいだにはさむことで、次第に仲良くなっていく。来日前にはイスラエルもパレスチナも人前では決して裸にならないから、温泉に入るのも別々で、ひとりずつでなければ入らないのではないかと言われていた。ところが、子供たちは日本人のすることを見て、みんな一緒に風呂に入ってしまったのだ。同行したスタッフはみんなびっくりだった。残念ながらその場に僕はいなかったので、そのときの状況を詳細には再現できないが、その晩のスタッフの打ち合わせは大変盛り上がった。

何日か一緒にサッカーの練習をした上で、最後に三つの国の子供たちが、それぞれチームを作りサッカーをした。それはイスラエルとパレスチナと日本の混成チームだ。国と国が戦うのではなく、三つの国の子供たちがほぼ均等にチームに分かれ、戦っていく。最後はイスラエルとパレスチナと日本の子供ではなく、地球にいる子どもたちになった。国境は関係ない。言葉は交わせないが表情と行動で仲良くなっていく。

別れの日、成田空港では子供たちが抱き合って泣いていた。「もしかしたら、もう会えないのかも」「国に帰ったらまた敵同士になってしまうのかも」

2010年4月、無印良品が翌年のイスラエル出店を決め、発表した。僕はすぐにある条件が整えば「いいことだな」と思った。しかし、世論は「イスラエルという暴力国家に加担するのか」と大騒ぎになった。かつての僕だったら大騒ぎに加担していたかもしれない。しかし、jipcoに関わることで、そういう活動はちょっとだけ違うなと感じるようになった。かつて僕は、イスラエルに生きている人と、イスラエルという国家が同じ物でしかなかった。ところが、イスラエルの子供たちとその親などに触れ合い、イベントをおこなった結果、違う見方が生まれてきた。イスラエル国家のすることと、そこに生きている人たちの思いは、必ずしも一致してない。国際的な視点から言えば、イスラエルは確かに加害者かもしれないが、個人の視点に降りてくると被害者でもあるなと。そして、それは同等にパレスチナが被害者でもあり、加害者であることも意味する。そのあいだに立ったとき、日本人の僕としては「切ない」としかいいようがない。どちらかが必ずしも悪いとは言い切れなくなってしまった。

普通に考えれば経済力がなく、いつも窮地に追い込まれているパレスチナのほうに応援したくなる気持ちはある。しかし、イスラエルの立場に立って考えれば、確かにパレスチナにどこかに行ってほしいという思いが生まれてしまうのも頷ける。

日本の報道はねじれている。心情的には日本人の多くはパレスチナに味方したいと思う人が多い。しかし、メディアはアメリカのことを考慮してか、イスラエル寄りの報道を言葉としてはおこなう。すると、それらを聞いている一般の日本人は、曖昧な表現で起きていることを聞かされるために、詳細にその紛争をイメージできない。そしてそれは、たぶん誰かの悪意に導かれてそうなっているわけではない。その状況下で無印良品のイスラエル出店が発表された。表面上はイスラエル寄りのメディアでくすぶっていた日本人の心情が、ここぞとばかりに爆発した。日本人は弱い者に味方しがちだ。そしてそのことは僕もそうだ。村上春樹の比喩に従えば「卵の側に立つ」。表面的にはイスラエルの味方をするかのような無印良品がターゲットになってしまった。そういうことではないかと僕は推測する。

さて、さきほど僕は「ある条件が整えば」と書いた。そのある条件とは「無印良品がイスラエルの人もパレスチナの人も、同等に接して商売するなら」ということだ。無印良品がイスラエルに出店し、イスラエルの人とパレスチナの人と、同等に扱って商売をしたら、現地の人たちはきっとはじめのうちは嫌がっただろう。しかし、一部の、本当に平和を願う人たちからは歓迎されたのではないかと思う。そのような架け橋になるという覚悟があってイスラエルへの出店を決めたのだとしたら、それを僕は拍手を持って迎えたかった。しかし、実際のところはわからない。たまたま知り合った無印良品の人にそのことを話したら「そう思っていただけたら嬉しいです」と言われた。ただしその人もイスラエル出店の担当ではなかったので、正しいことは知らなかった。

jipcoは発足の翌年、ピース・キッズ・サッカーとしてNPOになる。そして、現在はサッカーのイベントにこだわることなく、イスラエルとパレスチナから高校生くらいの若者を招待し、日本の若者と交流させるイベントをおこなうピース・フィールド・ジャパン(PFJ)に進化した。毎年のように感動的なエピソードがもたらされる。

このPFJに無印良品が寄付金を集める機会を提供してくれた。日本人は大きな企業がやることを悪く見がちだ。だから、これは「イスラエル出店の悪印象を拭うためにしている」という人もいるだろう。でも、僕は「いまでも無印良品はイスラエルとパレスチナの架け橋になりたいのではないか」と思うことにしている。そして、それが現実になればと願っている。

メディアのハイブリッド化

PCの技術が発展して以来、あらゆるメディアが溶解・統合して、まるで『ブラッド・ミュージック』に登場するナノマシンのようになってきている。普通のナノマシンはただ小さいだけだが、『ブラッド・ミュージック』に登場するナノマシンは知性を持って生物と融合し、ハイブリッドな生命としてバージョンアップしていく。

現在は『ブラッド・ミュージック』のように簡単にハイブリッドされる訳ではないが、PCの技術はいたるところに応用され、アナログだったレコードをCDとし、デジタル化された信号を取り込むことを覚え、ついにはiPodのような小さな機械に何千、何万という楽曲を詰め込むことができるようになった。

かつては音楽が聴けてビデオが見られる機械となると、ふたつの機能を持たせるために大きくなったものだが、いまでは両機能がiPod nanoの大きさに収まってしまう。20年前の人間が見たらどんなに驚いたことか。

と同時にどんな機械も、その大きさは自由になっていく。かつては大きさに制限があった。それをどんどん小さくすることができるようになり、今度はかつてとは反対に、使いやすくするために大きくすることを考え始めている。大きくすると、余ったスペースをどう利用するかで競争が始まる。このとき必然的に機能のハイブリッド化が始まる。

バーチャルな空間はいくらでも広げられる。その感覚を現実に持ち込む人がいつか現れるだろうが、その感覚がどのようなものか、かつてのパラダイムにいる僕には想像もつかない。たとえば、宇宙空間での無重力状態の映像を当たり前のように見る人たちは、きっと新しい空間認識を始めるだろう。それと同じように、機械に必要だった空間をいくらでも大きくしたり、小さくしたりできる感覚を持つと、僕のような古い人間には考えつかないような突飛な機械を作り、いままでは考えられなかった機械の使い方を始めるのだろう。機械をからだに埋め込むなんてのはまだ序の口で、もっと不思議なことが始まると思う。

たとえば、コードのないイヤホンだけの電話とか、家の壁がその日の気分によって好きな写真や絵画で埋め尽くされるとか。広大な土地にモニターを敷き詰め、Google Earthに毎日のように美術作品を見せるようにするとか。でも、それでもまだまだ古い人間が考えるようなことだ。そうだ、地球全体で電波望遠鏡も作れるだろう。携帯電話に特定方向から来る微細な電磁波を受けとる仕組みを入れて、位置情報、アンテナ方向と統合することで地球の大きさの電波望遠鏡ができあがる。

政治も次々と情報が開示され、多くの人がアイデアを提供して、たくさんの人にとっていいと思われる工夫が積み重ねられるようになるだろう。いままで特定の人が抱えていた権利はオープンにされ、使いたい人がいつでも使える状態になっていく。自転車や車がバイクシェア、カーシェアされるように、権利や義務も特定の人に属さず、シェアされるようになるのではないか? これはまだしばらく時間がかかるかもしれないけど。

これからの時代はいままでのどの時代にも増して、人間のイマジネーションをどこまで拡大できるかが問題になる。その加速度がさらに大きくなってきた。

無縁社会

三、四日前に近所の本屋で週刊ダイヤモンドを買った。第一特集が「無縁社会 おひとりさまの行く末」だ。これを読んでいて思いだしたことがある。それは親父が死ぬときの看護婦さんの言葉だ。親父が死んだのは1996年。もう14年も前のことだ。そのとき、親父が危篤になり病院に呼ばれて行ったが小康を得た。そこで兄がその日一晩は親父についていると言ってくれたので、僕と母はうちに帰った。確か家に着いたのはすでに深夜だったと思う。メールの返事などして午前三時まで起きていた。すると病院から電話が来て「血圧が急激に落ちているので来てください」と言われ、母さんを起こして車で病院に向かった。

病院に着くと看護婦さんがこんなことを言った。

「いい家族ですね。全員が臨終に立ち合うなんて」

「は?」と思った。「それが普通でしょう」と。

父はまた小康を得たが、その日の朝日が昇る頃に帰らぬ人となった。

あとで思ったのだが、もしあの頃僕がサラリーマンだったら、確かに父の死に目に会えなかったかもしれない。父が死ぬより、自分の会社の仕事を優先させたかもしれない。そう思った。

そんなことを記事を読んで思いだした。

無縁社会になるのはいろんな要素が絡み合っていると思う。しかし、あまり誰も言わないので、ここであえて書くが、そのひとつの理由としてマーケティング的発想が無縁社会を作っているような気がする。マーケティング的発想とは何か。

「人は面倒なことはしない。だから何かを売るためには消費者の煩わしさを排除する」

マーケティング的発想にあまりにも慣れてしまった人は社会生活の中で「煩わしさは避けて当然」と考える。だから「煩わしいことはしない」し、「他人に煩わしい思いもさせない」と思うのではないだろうか。

人間関係を作るというのは面倒なことだ。もちつもたれつと言うが、ビジネスの場面での恩の売り買いまではできても、売り買いが成立するかどうかわからないことについて、面倒をかけたり、面倒を見たりすることはしなくなっているのではないだろうか。僕はそうだし、ほかの人たちもかなりそうなっている気がする。唯一の例外は女房とほんの一握りの友人との関係だ。ここだけは大変な面倒の掛け合いをしている。ところが同じような面倒の掛け合いは、もう兄ともしないし、まして甥や姪にはまったくかけない。それはいいおじさんであることのためであるが、一方で本当に困ったときどうにかしてもらえるような人間関係は作っていないと言うことだ。

いま社会はどんどん便利になっていると思う。その一方で、かつて自然とできていた人間関係を作るための面倒なやりとりもなくしてしまったのではないだろうか。便利になるのが当たり前に思う僕を含む一群の人たちは、便利になるが故に無縁社会の種を知らず知らずに育てているのではないだろうか。

他人に上手に甘えて、迷惑をかけ、迷惑をかけられるような関係を築くのが大切かもしれない。それは自分が駄目な人間であることを受け入れることに近いかも。そのあとで、誰かの駄目さも笑って許してあげられるようになることかも。

ここでもうひとつ思い出したことがある。バリ島の男を買う女性だ。

バリ島のクタ海岸には日本人女性がお金で相手してもらえる男性がたくさんいる。そこで日本人女性が何をするかというと、そんな男たちにお金を払って、彼らを愛人として好きに使うのだ。そういうカップルはクタにいるとすぐにわかる。なぜなら女性がとても不機嫌だからだ。自分が好きに使える男がいたら嬉しくてたまらないのではないかと思うのが普通だろうけど、実際には違う。彼女らは心のどこかで後ろめたいので、常に何かにあたったり怒ったりしている。

便利に使える男は価値がない男と、心のどこかで思っているのだろう。そして、相手の煩わしさをどこかでキャッチして、それがまた自分の機嫌を悪くしているのではないかと思う。面倒をかけられるのは「お金を払っているから」という理由があるからなのだ。そして、そのことにいらついている。

人間は相手のことが好きだったら、お金なんか払わなくても多少のことは許してあげられるものだ。この多少のことの許容範囲が、無縁社会を作りつつある日本ではかなり狭くなってきているのだと思う。

以上、みんな僕の勝手な推測だ。もしかしたら違うかもしれない。でも、僕はそう感じている。