心の内部被曝について

こちらに 「心の内部被曝」という概念について少し触れました。
http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p2620
書いてから一年以上経ったのですが、この「心の内部被曝」について少し丁寧に書きます。

普通内部被曝というと、放射性物質を体内に取り込み、それによって遺伝子損傷を受けてしまうことを言います。結果として癌となるわけですが、これと似たようなことが心にも起きるなと考えたのです。

現在の産業界(経済三団体、つまり日本経団連、経済同友会、日本商工会議所)は原発ゼロには反対だと明言しています。この影響がどう現れるかというと、まずその経済三団体に属している会社の社員は「原発ゼロを支持」できない雰囲気が作られます。しかし、実際にはそこで働いている人やその家族にも明確に反対だと考えている人がいるでしょう。そのような人たちはまわりの人(その会社に勤めている人たち)が「原発維持が必要」というので、心のどこかで「反対なんだけどなぁ」と思いつつも、そのことが言えなくなります。この些細な思いが心の内部被曝を生むのです。

本当は反対なのに反対できない。なぜなら「会社でのけ者にされたくないから」「出世に差し障るから」「臆病者と思われたくないから」などの理由があるでしょう。「原発ゼロにしたい」と思っているのにそのことが言えず、そういうひとは一生懸命自分を納得させるためにまわりに「原発はあるべきだよね」と言い回ります。その様ははっきり言ってかわいそうです。産業界のトップはたくさんのお金を授受する仕組みとして原発が必要なのです。もちろんたくさんのお金を回さないと、経営している会社の社員を養えないと思っているのですから、必死になるのは当然でしょう。しかし、短期間で考えればそれは大切な考えかもしれませんが、長期で考えるとまったくいいことではありません。いつ起こるかわからない原発事故の恐怖を無視し続けなければならないのです。その結果、意欲や自発的創造性というものが削がれていくでしょう。もっと言えば、エーリッヒ・フロムが唱えた「心の能動性」が失われるでしょう。このことを僕は「心の内部被曝」と言いました。
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この危機に際してどうすべきなのか

少し大袈裟なことを書きます。恐怖を煽るつもりはありません。冷静な判断をする材料にして下さい。

311以来、日本は戦後最大の危機に瀕している。にもかかわらず政府からは明確な指針が示されていない。なぜ指針が示されないかと言えば、あまりにもこの危機が深刻だからだ。下手をしたら日本自体が失われかねない。

ネット上では政治家や一部資産家の欲得で政治が動かされているというが、いまとなってはそれも正しくはないだろう。状況がはっきりすればはっきりするほど、逃げ場がないことがわかってくる。

放射能の影響はたいしたことではないと言う人がいるが、それは信じられない。海外の情報を直接入手すればそれはすぐにわかる。では、なぜたいした影響ではないと政府は言い続けるのか。かなりの影響が出ると宣言し、対処するには、準備が整わないからだ。どんな準備か、それは日本という国が失われないための準備だ。

福島から首都圏にかけて、もしごっそりと人がいなくなったら日本はその機能を失いかねない。それは政治家としてはなんとしても避けなければならないことだ。政治家は個人を活かして全体も活かしたいと思っているに違いない。しかし、それが難しい状況になってきている。全体を活かすためには個人の犠牲はある程度やむを得ない。しかし、それを明言することはできない。僕がこんなことを発言してもたいして重要視されない。立場的に弱い者だから。だからこうして正直に書いてもたいした問題にはならない。しかし、政治家が同じ発言をしたらどうなってしまうのか、少し想像すればわかる。

たとえば、原発をすべて停止すると言ったとしよう。するとそこで働いていた人たちは職を失う。原発が存在するためにまわっていたお金がまわらなくなる。それが止まると別のところに影響が出るだろう。原発を受け入れている自治体は、かなりの補助金をもらい、働かなくてもお金がもらえる。そのお金で様々なことが設計されているので、おいそれとそれを手放すことができない。だから原発を守ろうとする。しかし、そのような人たちも代替案を考えなければならない時が来た。地球全体がうっすらと放射性物質にまみれ、健康な状態で生きるのは難しい場所になってしまう。リーダーがそれを宣言しない限り、どこにも行けないだろう。

日本がひとつの人格で、そこに住む人間が細胞だとすると、311まではそれぞれの部位で細胞は適切に働いていた。しかし、311によって細胞のひとつひとつが存在の危機に瀕している。細胞が生き延びるためには原発事故が起きた場所から遠く離れなければならない。しかし、すべての細胞が離れていくと、細胞が形作っていた臓器が失われてしまう。臓器を失うと人は生きていけない。だから政府は細胞が逃げることを避けるような情報を流す。このようなことをするのは日本以外の国であれば適切なことだろう。しかし、日本は少し違うような気がする。政府は国民をもっと信頼すべきだ。

いまの状況で誰が考えても適切であると思えるのは、まず子供と将来子供を産む女性を政府のお金で疎開させることだ。これが一番大切であるとなぜ判断できないのか、それがよくわからない。その上で、いまわかっている原発関係の情報をすべて開示する。それから、それに連動するであろう経済・防衛関係の情報も。とても厖大な情報があるだろう。それを開示して、多くの人に理解させる時間を取る。その上で、日本の国民にそれぞれの判断を委ねる。もちろん命が惜しくて逃げていく人もいるだろう。その人にはそのようにしてもらえばいい。しかし、日本を守りたいと思う多くの大人は、日本に残ることを選択すると思う。これは自由意志に委ねなければならない。逃げていきたい人は逃げて行かせて上げよう。そして残った人だけで日本を再建する。

もし逃げる人があまりにもたくさんいたら、日本は失われる。そうなると他の国がこの土地を乗っ取るためにやってくるかもしれない。もしそうなったら、日本はそのような国でしかなかったということだ。しかし、日本人の大人の多くは、この国に残って復興するために尽力するだろう。きちんとその選択の機会を与えるべきではないだろうか。その代わり、その人たちはうっすらと内部被曝を起こす。

いま僕たちはすでにうっすら内部被曝の状態だ。それに黙って耐えている。その抑圧状況は何年か後に別の問題として噴出するだろう。その前にきちんと宣言し、選択し、自らの意志で対処していく機会がないと、多くの人が心の内部被曝被害に遭うことになる。

この7ヶ月でほとんどの人の準備は整ったと思う。政府が指針を示せば、一挙に状況は変化するだろう。もちろん多少の混乱は起きる。その混乱を覚悟する必要があるのはもちろんのことだ。しかし、そのあとの被害を考えれば、その混乱はたいしたことではないだろう。

もし原発の処理がうまく行かず、このまま曖昧な状態が続けば、心とからだの内部被曝が続いていく。もし政治家が賢いなら、311から一年後くらいにはなんらかの手が打たれるのではないかと勝手に想像している。しかし、一年経つとかなりの内部被曝が進行するだろう。その前に手を打った方がいいと思う。一番愚かなのは、このまま何もせず時を待つこと。放置しておけばのちのち様々な問題が浮上してくるだろう。なにも起きなければいいのだが。

日本人にジャズは理解できているんだろうか

村上春樹の『雑文集』を読み終えた。それぞれに面白い文で楽しく読めました。そのなかでひとつ『日本人にジャズは理解できているんだろうか』という文が心に引っかかったので、そのことについて書きます。

ことの起こりはブランフォード・マルサリスが日本にライブに来て、聴衆のあり方を見て、『日本人はジャズがわかってない』という発言をし、それについて村上春樹が論じたもの。村上春樹は表面的に起きた出来事からさらに一段高い視線を持ち込んできて、人種差別がどのように生まれるのかを感じさせてくれた。ジャズの話から人種差別の話に移行して行くつながりは、村上春樹の丁寧な説明を読まない限り正しくは理解できないと思うので、その部分をここで解説するのはやめておく。知りたい人は直接原文にあたってください。それを読んで僕の思い出したこと、感じたことを書きます。

  

これを読んで思い出したのは2006年のピース・キッズ・ワールドサッカー・フェスティバルのこと。八ヵ国十地域の子供たちが広島に集まり、サッカー大会をしたのです。イスラエル、バレスチナ、イギリス、アメリカ(ハワイ)、ボスニアヘルツェゴビナ、韓国、中国、沖縄、広島、川崎の子供たちが集まりました。そのときに練習のための最初の合宿所で男子トイレが異常に汚されたことがありました。大便がトイレのまわりにまき散らされていたのです。そのときは誰がやったのかわからず、ひどいことをする子がいるものだと問題になったのですが、大会のための二番目の合宿所に移ったとき、再び同じことが起こりました。一回目の状況は報告を受けただけでしたが、二回目の状況は直接自分の目で確かめました。大便用の個室の中で、便器の中はきれいなのにそのまわり、足の置き場などに大便がまき散らされていたのです。そのときにパレスチナに詳しい人が、もしかしたらとこんな話をしてくれました。「パレスチナでは水は非常に大切で、親から水は汚してはいけないと教え込まれた子がこれをしたのでは」と。

  

生きている場所が違えば常識が違うことは理解しているつもりでした。しかし、理解していてもそれがどのように現れてくるのか、具体的には知らなかった。本当にパレスチナの子が、水を大切にするためにそうしたのかどうかは結局はわかりませんでした。だけど日本にいただけではわかりようのないことが、いろんな出来事に影響を与えているだろうことがちょっとだけ理解できた。もしその話が本当だとしたら、そのパレスチナの子はどんな気持ちで用を足したのだろう?

  

『日本人にジャズは理解できているんだろうか』の最後にこう書かれています。
あるいは大げさなものの言い方になるかもしれないけれど、こういう小さななんでもなさそうな文化的摩擦を腰を据えて、感情的にではなく、ひとつひとつ細かく検証していくところから、先の方にあるもっと大きな摩擦の正体がわりに明確に見えてくるのではないか。そしてそれと同時に、日本という国家の中にあるアメリカとはまた違った差別構造の実態のようなものもひょっとして浮かび上がってくるのではないか。

  

ピース・キッズ・サッカーは現在ピース・フィールド・ジャパンと名称を変更し、イスラエルとパレスチナの青年たちを毎年夏に招待して合宿をしています。そこで起きることはとても些細なことばかりです。だけど、イスラエルとパレスチナの青年たちが、互いに理解するためにはきっと役に立っているのだと思う。その様を見て、日本の学生は、文化の違う人たちが互いに理解し合うこととはどんなことかに触れるのです。それに触れることで、日本という国の固有性を意識する学生もいるでしょう。

  

アフリカの難民キャンプで、集まってきた様々な部族が互いに理解し合うためにやったことのひとつとして、結婚式ではどんなことをするのかを話し合ったことがあるそうです。すると部族ごとにすることがあまりにも違うので、そのあと互いのコミュニケーションが楽になったそうです。違いすぎるので、とにかく話さないと何もわからないということがわかったから。

  

日本とアメリカなんて、互いによく理解していると思い込んでいるかもしれないけど、アメリカの地域によっての違いや、人種によっての違いなど、理解できてない些細なことがたくさんあるのだと思う。そして同じような食い違いが、本当は日本人同士にもある。

   

(実は、ここまでの文章は今年の二月に書いたものだった。それをPCに保存してBlogにアップするのを忘れていた。それをたまたま見つけた。アップしようとして、以下を付け加える)

  

僕は生まれてこのかたずっと東京で暮らしているから、田舎の生活がまったくわからない。村々でおこなわれるお祭りが素敵だなと思うけど、実際にそこにいる人がどんな思いでそれを継続しているのか、じっくりと聞かない限り理解できないんだろうなと思っている。

  

大震災ののち、原発はそれでも必要だと言う人がなぜそのように言うのか、僕にはちっともわからない。電力が不足したら困るだろうというのはわからないでもないが、そのために放射能汚染にさらされる可能性を抱えるのはもうごめんだ。その危険性を地方に押し付けるのもやめてほしいし、その危険性をお金で交換するというのもきわめて不快な行動だ。なぜそれほどに電力にこだわらなければならないのか、それを推進派の人たちに直接聞いてみたい。きっと十数年後、日本のがんの罹患率は上がるのだろう。でも、原発事故と罹患率上昇の関連性を示す証拠がないということで、うやむやにされるのではないかと心配だし、もしうやむやにされなかったとしても、害された健康はもう戻らない。

  

問題が生まれることで、それまで理解できていなかったことが理解できる可能性が生まれる。それが限りなく続く。