農産物を商品にするな

岡田米雄の論文を読んだ。
タイトルは「農産物を商品にするな」。
商品にすることで農産物は効率化される。
その結果、本物の農産物が作られなくなり、偽物の農産物ばかりが流通するようになる。
こんな話を岡田米雄は1970年4月の「思想の科学」に書いている。
それから47年もたっているけど、いまだに解決されていない。
その論文にはこんなことが書かれている。

 化学肥料によって土壌中のバクテリアや菌類、あるいは昆虫類など生物が生きていけなくなる。これらの生物は、土壌中の動植物の遺体を食べて生きている。その代わりにそれらを分解し、無機質化して植物が吸収しやすいようにしているのである。ところが人間が、バクテリアなどそれら生物に代わって、直接無機物である化学肥料を植物に供給するものだから、それら微生物は必要がなくなるし、生きてもいかれなくなったのである。ここに自然のバランスが崩れて、いままでおさえられていた植物に有害な生物が繁殖するし、何億年も昔から植物をここまで成長させた実績を持つバクテリアや菌類の働きに、人間の科学の力がかなうはずがなく、植物体の栄養に欠陥がでて病虫害の攻撃にまけ、病気になる。そこで人間は農薬を登場させ、更に生物を殺して自然のバランスを崩し、悪循環を重ねつつ、土壌中のいっさいの生物を殺し、土壌は死に、植物も死ぬのである。
(中略)
農林省食糧研究所の西丸震哉氏が、雑誌「自然」(昭和四四年十月号)において、化学肥料や農薬を使わずに、昔ながらのやり方で堆肥をすきこんでつくった米の味が、この世のものとも思えぬくらい感激的にうまかった話をしておられるが、全くその通り。米ばかりでなく、牛乳でも野菜でも果物でも何でも、豚肉や卵にいたるまで、化学肥料や農薬が発見されるまでの、昔ながらのやり方で生産した農作物の方が、すべて感激的にうまいのである。
(中略)
農民はなぜ、化学肥料や農薬を使ったのであろうか。農民が、自家用の米や野菜には化学肥料や農薬を使わないが、販売用のそれらには十二分に使うのはなぜか。或いは、もし農民が化学肥料や農薬を使わずに、堆厩肥や牛尿を畑や田圃に運んですきこみ、農作物を生産したらどうなるか。この労働力不足の時代におそろしく手間がかかり、しかも生産量が激減することはうけあいだ。反対に、化学肥料や農薬を使えば、人手が省けるし、生産量も急増する。前者は収入減の支出増であり、後者は収入増の支出減。前者はコスト高であり後者はコスト安というわけ。つまりは前者なら経営がなりたたず、後者ならもうかることもありうるというのである。利潤追求とまではいかなくとも、農民が農業で生きていくためには、化学肥料や農薬を使わなければやっていけないように仕組まれてしまっているのだ。この仕組みに挑戦しないかぎり、農民は、私のいう本物の農業を行なうことができないのである。化学肥料や農薬を使わず、昔ながらの本物の農産物を生産し人間に供給するということは、い
ったい現体制下で可能なことなのだろうか。不可能なら、それは、人類の滅亡につながる。人間として可能にしなければならないのではないか。
(中略)
資本主義体勢にまきこまれて、農産物を商品として売買するようになってから、農民は、ニセモノをつくり出し、農業を否定する結果になったと私は思う。農産物は、他の工業製品とはちがって、これは、人間のいのちそのものだ。従って、人間が他の何よりも尊重されるなら、食べ物も人間同様、他の何よりも尊重されるべきだ。
(中略)
農民は現在、本物の農産物を生産することはできる。しかし、それによって生活することはできない。つまり、自給自足の生活は、できなくなっている。一方、消費者は、本物の農産物を待望し、目前にそれを見ながら入手することができないでいる。それは、共に現体制に押し流され、農村青年たちとどうよう、あきらめ切っているからではないか。といって、おとなしく死ぬわけにもいくまい。この現体制に抵抗して、まず、自らが生きるために抵抗の根をどこかにおろさねばならない。その方法は、ないものだろうか。少なくとも、食べものに関して、農産物に関して一つでもいい。自給自足ができないものだろうか。

それはできる。私は、生産者農民と消費者とが直結し、消費者と農民の農場をもち、ムラをその農場にし、消費者と農民との自給農場を創り出すことも、一つの方法と考える。もちろん、農民が生産担当者になるわけで、都市と農村の一体化を図ればいいのである。いってみれば、農民と消費者が、農産物に関して自給体制を創り出すことだ。もともと農産物は、商品として売買されてはいけないものだし、従って自給するしか手がないことをもう一度思い出してもらいたい。

ここまではっきり書かれた論文を読むのは爽快だね。

“農産物を商品にするな” の続きを読む

初詣は鉄道省が作った?

今朝、たまたまSYNODOSを覗いたら、以下の記事が目に止まった。
初詣は新しい参詣スタイル!?――鉄道が生んだ伝統行事 平山昇 / 歴史学

上の記事の概要は、「初詣は鉄道の発達とともに生まれた比較的新しい参詣」であるとのこと。

これで思い出したのが、父の書斎から持ってきた古本に『神まうで』という古本があったこと。奥付を見ると印刷が昭和四年十二月二十日、発行が昭和五年一月一日となっている。発行したのは鉄道省。この本には全国の大きな神社が紹介されている。初詣が鉄道の発達とともに生まれたというよりは、鉄道の利用者が増えるようにと神社参拝自体が工夫されていたことがわかる。つまり明治となり国家神道が生まれ、廃仏毀釈がおこなわれ、鉄道省は神社参拝を推し進める。

“初詣は鉄道省が作った?” の続きを読む

『未来市場創造会×kyobashi TORSO第3回 ~世界不況の中、地域を活性づけるエコノミック・ガーデニングとは?』報告

こちらからの転載です。

9月8日におこなわれた、『未来市場創造会×kyobashi TORSO第3回 ~世界不況の中、地域を活性づけるエコノミックガーデニングとは?』の報告です。

山本尚史先生による講演の概要は以下の通りです。

プロローグ

2050年には日本のほとんどの地域で人口減少が起きます。これは国土交通省国土計画局が発表した「国土の長期展望に向けた検討の方向性について」(平成22年12月)に書かれていることです。その結果、現在提供している都市的なサービスが提供困難になる恐れがあります。たとえば道路の整備不良や上下水道のメンテナンスが滞るというようなことです。このような状況は地方で特に激しく表面化し、地域企業と地域経済の悪循環が始まります。

この悪循環は「高齢化の進展」「福祉関連支出の拡大」「財政赤字拡大」「公的サービス劣化、地域の魅力減退」「事業継続や事業継承の減少」「地元での労働需要の減少」「若年層の流出」「税収減」「資金が地域外へ流出」「輸入品との競争」「全国ブランドやチェーン店への需要増加」「減益」「投資減少」などが複雑に絡み、その根源にある要素は「地元企業の生産品の需要減少」となります。もし「地元企業の生産品の需要減少」を抑えることができ、仮に需要を増加することができたら、これらの悪循環は好循環に変化する可能性があります。しかし、各地域でそのような未来が来るべきビジョンが描けてない。そのようなビジョンが描けるとしたら、それはどのようなものになるか。地域活性化が到達すべき要素は以下の通りです。

・仕事でも、生活全般でも、人々が共に生きていると実感できる。

・個々人多様な希望や要求が再短時間で実現できる。

・環境負荷を軽減する。

・開かれた、自立性のある、小さな共同体を作る。

これが実現するためには「先端技術を活用する里山共同体」を作るべきだと考えています。

そもそも地域の富の源泉とは何でしょうか? 地域の人々が「多様で」「つながっていて(内部も外部も)」「価値ある情報のやり取り」をしている状態といえるでしょう。そのためにはいままでの考え方とは違うものの考え方をしなければなりません。

たとえば、いままではいかに「供給拡大」をするかが課題でしたが、これからはいかに上手に「需要減少」させ、付加価値が残せるか。または、いままで地方行政は産業について考えてきましたけど、大括りの産業を考えるのではなく、ひとつひとつの企業に目を向ける必要が生まれるでしょう。いままでは「公平・平等・中立」でやってきましたけど、企業も人口も密度が下がるのですから、そのなかでどのように「選択と集中」をおこなうかが問われるようになるでしょう。さらに、いままでは景気の動向によって「緊急対策」を掲げてきましたけど、これからはじっくりと育てることのできる「長期的取り組み」が大切になるでしょう。いままでは地方行政にとって「企業誘致」が大切でしたけど、これからは大企業の誘致より、地元企業の長生や繁栄に重きを置くべきでしょう。

このような変化を受け入れて、地元に高い付加価値を残すことが地方行政に求められるようになってきます。これがうまくできないと、国土交通省が言っていたような状況があちこちで生まれます。その結果、東京や大阪のような都市にも影響が表れるようになるでしょう。

このような状況が生まれないよう、新たなビジョンを生み出すために、エコノミックガーデニングが必要となってきます。

エコノミックガーデニングを短い言葉で表現すると、以下のようなものになります。

企業家精神あふれる

地元の中小企業が

長生きして繁栄するような

ビジネス環境を創出する

“『未来市場創造会×kyobashi TORSO第3回 ~世界不況の中、地域を活性づけるエコノミック・ガーデニングとは?』報告” の続きを読む