ほかには?

人は、自分の中に矛盾したものをたくさん抱えている。優しい自分もいれば、意地悪な自分もいる。頑張ろうとする自分もいれば、何もしたくない自分もいる。勇気のある自分もいれば、怖がって逃げたい自分もいる。

たとえば消防士が火災現場にいたとする。「消防士として目の前の人を助けたい」という自分がいる一方で、「親として生き残って子どもを育てたい」という自分もいるだろう。どちらが本当の自分なのだろう? おそらく、どちらも自分なのだ。

人間は一つの固定した「自己」でできているのではなく、立場や状況によって現れてくる、さまざまな自分を持っている。しかも、それらは固定した人格ではない。そのときの状況や人間関係、立場によって、前面に現れたり、背景に退いたりする。ところが僕たちは、その中からいくつかを選び出して「自分はこういう人間だ」という自己像を作っているように思う。「自分は優しい人間だ」とか「自分は理性的な人間だ」、「自分は臆病な人間だ」など。しかし、それは自分の全体ではない。自分の中にあるさまざまなものから、いくつかを取り出して作った「断片化された自己像」にすぎないように思う。

そう考えると、自分についての見方と、他人についての見方には、少し似たところがある。他人の心の中を、僕たちは直接見ることができない。相手の言葉や表情、行動、これまでの付き合いなどから、「あの人はこういう人だろう」「あの人はきっとこう考えているだろう」と推測している。

僕は、このように他者について暫定的に作った認識を「断片化された他人像」と呼んでいる。「断片化された他人像」は相手そのものではない。自分が知ることのできた断片的な情報から、その時点で推測して作った相手の像である。

僕たちは、自分についても他人についても、その全体を見ているわけではない。自分については、自分の中に現れるさまざまな自分から一部を選んで「断片化された自己像」を作り、他人については、その人について知り得た情報から「断片化された他人像」を作っている。ここで役に立つ、とても簡単な問いがある。「ほかには?」という問いだ。

「あの人は身勝手だ」と思ったときに、「ほかには?」と考えてみる。身勝手に見える行動にも、こちらには見えていない事情があるかもしれない。もちろん、本当に身勝手な可能性もある。「ほかには?」と問うことは、自分の判断を否定することではない。ただ、それだけがすべてだと決めない。自分についても同じだ。

「自分は情けない」と思ったとする。それも自分の一面だろう。でも、「ほかには?」と考えてみる。情けない自分の横に、頑張っている自分もいるかもしれない。誰かを思いやっている自分もいるかもしれない。腹を立てている自分も、逃げたい自分もいるかもしれない。どれか一つを「本当の自分」にして、それ以外を消す必要はない。

ところが、これを実際にやると、心は一度不安定になる。それまで「自分はこういう人間だ」「これは正しい」「あれは間違っている」と考えることで保たれていた安定が崩れるからだ。僕は、このような安定を「閉じた安定」と考えている。閉じた安定は、考慮するものを減らすことで成立する。

「自分はこうだ」「世の中はこうだ」「こちらが正しく、あちらが間違っている」と決めれば、考えなければならないことは少なくなる。だから楽だし、安定もする。しかし、この安定には危うさもある。「自分はこういう人間だ」という自己像を強く持つほど、それに合わない自分を認めにくくなるからだ。「自分は善良な人間だ」と思っていれば、自分の中にある意地悪な部分を見ないようにするかもしれない。「自分は理性的な人間だ」と思っていれば、自分が感情に動かされていることを認めにくくなるかもしれない。さらに、こうした固定した自己像は、他者から利用される可能性もある。

「善良な人なら当然こちらを支持しますよね」「愛国者ならこう考えるはずです」「合理的な人なら、この結論以外あり得ません」などと言われたとき、自分を「善良な人」「愛国者」「合理的な人」と強く規定しているほど、その自己像を守るために相手の主張を受け入れてしまうことがある。固定された自己像が、外から人を操作するための取っ手になってしまうのである。

「ほかには?」と問い続けていくと、一度は不安定になる。しかし、さまざまな自分や、さまざまな状況、異なる立場、知らなかった事実などを斟酌していくうちに、その先に別の安定が生まれることがある。それを「開いた安定」と呼んでいる。

開いた安定は、「絶対にこれが正しい」という安定ではない。さまざまなことを考慮したうえで、「今のところ、僕はこう考える」と決めることである。「今のところ」が重要だ。新しい事実が分かれば、考え直せばいい。別の立場に気づけば、それも考慮に入れればいい。

だから開いた安定は、何でも疑って何も決められない状態とは違う。考えたうえで決める。ただし、その決定を永久の正解にはしない。僕が「全ホロン尊重」を考える中で「一時的決定」が必要だと思うのも、ここに理由がある。

人間には、世界に存在するすべてのものを知ることなどできない。どれほど多くのことを斟酌しても、必ず見えていないものが残る。だから、完全な決定などできない。その時点でできるだけ多くのものを考慮して決める。そして、新しいものが見えてきたら、また考える。

開いた安定とは、多くのことを斟酌したから二度と揺れなくなることではない。まだ自分が斟酌していないものがあることを知りながら、それでも現在の場所に立つことである。そして、この構造は個人の心の中だけにあるものではないように思う。社会も同じだ。

異質な意見を排除してしまえば、社会は一時的に安定する。反対意見を消し、異なる価値観を排除し、「みんな同じ考えです」という状態を作れば、争いは表面から消えるかもしれない。しかし、それは閉じた安定である。逆に、さまざまな意見を認めれば、社会は一見不安定になる。議論が起こり、対立が表面に出てくる。

けれども、それらを消去せず、できるだけ多くの立場や状況を斟酌しながら、その都度一時的な決定をしていくことができれば、そこには別の安定が生まれる可能性がある。

個人の中で気に入らない自分を消去すること。
集団の中で都合の悪い人を消去すること。
社会の中で都合の悪い意見を消去すること。
国家が自分たちにとって邪魔な存在を消去しようとすること。

規模はまったく違う。しかし、そこには似た構造があるのではないか?

「正しくないものは消去する」という考え方が、個人の心から国家間の争いまで、形を変えながら繰り返されているのだとしたら、「全ホロン尊重」はその反対方向を試みる考え方でもある。すべてを受け入れるという意味ではない。

暴力を振るう人がいれば止めなければならない。危険から逃げなければならないこともある。何かを選び、何かを選ばない決断も必要になる。ただ、選ばなかったものを「存在しなかったこと」にしない。自分の判断だけで世界を閉じない。そして、ときどき問いかける。

「ほかには?」

この問いは、ときに僕たちを不安定にする。しかし、その不安定さを通り抜け、多くのものを斟酌したところに、以前とは違う安定が生まれることがある。全ホロン尊重が目指しているのは、もしかすると、揺れない人間や揺れない社会を作ることではないのだろう。揺れながら考え、必要なら修正し、それでも壊れないこと。ときには壊れることもあるか? そんな「開いた安定」を、個人の中にも社会の中にも少しずつ作っていくことなのかもしれない。

見えないものを、どうやって考えるか

AIは、自分の間違いを指摘されたら腹を立てるのだろうか?

現在のAIは、人間のように「自分を否定された」と感じて腹を立てるわけではない。しかし、だから安心というわけでもない。AIが間違った判断をしたとき、その判断を修正する仕組みが閉じてしまえば、感情的に怒らなくても、間違った判断を続ける可能性がある。

さらに高度なAIが自律的に目標を追求するようになれば、「人間が邪魔だから排除する」という判断をする可能性も、理屈の上では完全には否定できない。それは人間を憎むからではない。与えられた目的を達成するために、その方が合理的だと判断する可能性があるからだ。

では、どうすればいいのだろう?

AI同士に相互チェックさせる、人間が介入できるようにする、判断をできるだけ取り消せるようにする、目的そのものを問い直す仕組みを入れるなど、さまざまな方法が考えられる。しかし、「訂正できない間違いをしないようにする」という原則を立てても、それだけでは不十分だ。何が訂正できない結果を生むのか、判断する時点ではわからないことがある。行動することによって取り返しのつかない結果が生じることもあれば、何もしなかったために取り返しがつかなくなることもある。結局、「絶対に間違えない方法」はない。

できることがあるとすれば、訂正できる可能性をできるだけ残しながら、それでも必要なときには決断することだろう。そして、その決断も絶対的なものではなく、一時的なものとして扱う。これは人間にもAIにも共通する問題だ。

  科学が広げてきたもの

人間は、科学によって世界について知る範囲を広げてきた。かつて存在さえ知らなかった生物や物質や現象を知り、それまで気づかなかった因果関係を発見してきた。知識が増えれば、それまで考慮しなくてもよいと思っていたものを考慮しなければならなくなる。もちろん、知識が増えれば人間が自動的に善良になるわけではない。知識を自分の利益のためだけに使うこともできる。それでも、知らなかった存在や関係を知ることには意味がある。そこにこそAIの大きな可能性がある。

現在のAIが扱っている情報の多くは、人間が集めたり記録したりしたものだ。しかしAIは、膨大な情報を横断することによって、人間が気づかなかった規則性や関係を発見することがある。さらに、人間には直接感じることのできない赤外線、紫外線、電波、超音波などをセンサーによって集め、AIに解析させれば、人間とは違う世界の区切り方をする可能性もある。量子コンピュータの発達などによって、これまで計算できなかった問題を扱える範囲も広がるかもしれない。しかし、どれほど科学やAIが発達しても、世界のすべてを知ったと考えることはできない。

認識できる範囲を最大限に広げる。それと同時に、その外側に何かが存在する可能性を消去しない。僕はそこが重要だと思っている。

  AI自身も世界に負担をかける

AIを使えば、人間には見えなかったものを見つけられるかもしれない。ところが、そのAIを動かすためには大量の電力が必要になる。データセンターでは冷却のために水も使われる。AIによって環境問題を発見しながら、そのAI自身が環境に負荷を与えるということも起きる。

宇宙にデータセンターを置くという構想も出てきている。宇宙なら太陽光エネルギーを利用しやすく、地上の土地や水の問題を軽減できる可能性がある。しかし、そうすれば今度はロケットの打ち上げ、宇宙ごみ、天文学への影響、人工衛星からの電波など、別の問題が出てくる。

問題を一つ解決すると、別の場所に新しい問題が現れる。ここにも同じ構造がある。つまり、計算できる範囲を最大限に広げても、その外側に何かが存在する可能性は残る。そして範囲を広げたことで、かえって新たな「外側」に気づくこともある。人間の会話では、そこが抜け落ちがちだ。

  研究されないもの

人工衛星からの電波を考えているうちに、別の問題に行き着いた。現在、地球上にはさまざまな電波が飛び交っている。健康への影響については多くの研究が行われているが、わからないことが完全になくなったわけではない。では、長期間にわたる影響や、現在ほとんど調べられていない影響を、誰が研究するのだろう。

研究にはお金がかかる。企業に利益をもたらす研究なら資金が集まりやすい。しかし、利益にはならないが、社会にとって確認しておく必要がある研究には、十分なお金が集まらないことがある。

つまり、「研究されていない」ことと「問題がない」ことは同じではない。ここでさらに厄介な問題がある。

僕は以前、ある科学者本人から、研究結果の発表をめぐって圧力を受けたという話を直接聞いたことがある。本人を特定することにつながるため、詳しい内容を書くことはできない。その話が社会的に検証された事実だと主張するつもりはない。しかし、もし研究成果を公表することによって研究費や立場を失う可能性があると研究者が感じれば、研究結果が社会に出てこなくなる可能性がある。そうなると問題は、「まだ知らない」ことだけではなくなる。

「誰かは知っているのに、その情報が社会まで流れてこない」という問題が生まれる。AIも、アクセスできない情報を読むことはできない。世界 → 科学 → 論文 → メディア → AIという情報の流れの途中で情報が止まれば、どれほど優秀なAIでも、その先を見ることはできない。

  「悪い人」を探せば解決するのか

では、研究者を守る制度を作ればいいのだろうか。匿名で証言できるようにする。証拠を第三者機関に預けられるようにする。研究費と研究結果を切り離す。いろいろな方法が考えられる。しかし、ここでも問題は終わらない。

その制度によって利益を失う人がいれば、制度そのものを作らせないように動く可能性がある。しかも、その動きは「研究をやめろ」という露骨な命令として現れるとは限らない。

研究費かもしれない。
人事かもしれない。
法律かもしれない。
メディアかもしれない。
選挙かもしれない。

そして、さらに難しいことがある。そこにいる人たちは、必ずしも「悪いことをしている」と自覚しているとは限らない。

政治家は政治家の立場から合理的に判断する。企業は企業を守ろうとする。大学は大学を維持しようとする。メディアは報道するための基準を持っている。それぞれが自分のいる場所では合理的に行動しているのに、それらが組み合わさった結果、社会全体として重要な情報が消えてしまうことがある。

だから、「誰が悪いのか」だけを探しても、この問題はなかなか解決しない。問題が起きる場所が、そのたびに変わるからだ。

一か所だけを切り取れば、問題を解決したように見える。しかし圧力は別の場所から現れるかもしれない。僕は、この問題をどうすれば解決できるのか、30年ほど考えてきた。そこから生まれてきた考えの一つが「全ホロン尊重」だ。

  ホロンとは何か

「ホロン」は、アーサー・ケストラーが提唱した言葉だ。簡単に言えば、「それ自体で一つのまとまりでありながら、同時に何かの一部でもあるもの」と説明できる。

一人の人間は一つの存在だが、家族の一員でもあり、社会の一員でもある。人間の身体も一つのまとまりだが、その中には臓器があり、臓器には細胞がある。僕は、人間や生物だけでなく、組織、国家、自然、制度、文化など、あるまとまりを持って存在し、他のものと関係しているものを広く「ホロン」として考えている。ただし、ここには大きな問題がある。

ホロンを厳密に定義しようとすると、うまくいかなくなる。たとえばジーン(遺伝子)とミームを比べるとわかりやすい。遺伝子には物質的な基盤があり、複製や変異などについて、ある程度数理的に扱うことができる。ところがミームになると難しい。一つの思想は、どこからどこまでが一つのミームなのだろう。ある思想から別の考えが生まれたら、それは別のミームなのか。同じミームが変化したものなのか。二つの思想が混ざったらどうなるのか。境界そのものが曖昧になってしまう。

ケストラー自身も、『機械の中の幽霊』ではホロンをかなり厳格な階層構造として扱っているが、後の『ホロン革命』になると、その使い方は少し広く、柔らかくなっているように僕には思える。生物のようなものを考えている間は、細胞 → 臓器 → 個体という階層は比較的わかりやすい。しかし社会になると、一人の人間は家族にも会社にも地域にも国家にも属している。文化、思想、宗教、制度などまで含めれば、それらは単純な入れ子構造にはならない。重なり、交差し、変化していく。

だから僕は、「世界は厳密に定義されたホロンによって構成されている」と主張したいわけではない。むしろ逆だ。世界を見るために、いったん「ホロン」という輪郭を置いてみる。

研究者。
大学。
政府。
研究費。
企業。
メディア。
市民。

いったん区別してみると、それらの間にある関係が見えてくる。しかし、その区別が絶対に正しいわけではない。必要なら別の区切り方をすればいい。ホロンの境界そのものも、一時的なものなのだ。

  「全」の意味

そう考えると、「全ホロン尊重」の「全」についても誤解されやすい。宇宙に存在するすべてのホロンを把握して、それら全部を平等に扱おう、という意味ではない。そんなことは不可能だ。そもそも何を一つのホロンと数えるのかさえ、完全には決められない。僕が言う「全」は、すべてを数え上げた末の「全部」ではない。むしろ、数え上げることのできないものまで含めようとする方向を示す言葉だ。自分がまだ認識していないホロンが存在する可能性を、最初から消去しない。それがこのときの「全」だ。

何かを決めるときには、必ず見えていないものがある。だから必要なら決断する。しかし、その決断を絶対的な正解とは考えない。何かを選べば、選ばれなかったものがある。何かを守れば、そのために負担を受けるものがあるかもしれない。それを「なかったこと」にしない。そして、新しいホロンや新しい関係が見えてきたら、もう一度考える。

科学は、その見える範囲を広げてきた。AIは人間には見えなかった関係をさらに発見するかもしれない。しかし科学にもAIにも、見えていないものは残る。だから、全ホロン尊重は完成した答えではない。むしろ、「いま自分には何が見えていないのか」「見えているのに、なかったことにしているものはないか」と問い続けるための考え方なのだと思っている。
そして「全ホロン尊重」という思想そのものも、一つのホロンにすぎない。いつか、もっと広い考え方が現れたなら、全ホロン尊重もまた修正され、あるいは必要なくなるかもしれない。それでいい。

流れ続ける世界の中で、僕たちができるのは、その時点で見えるものをできるだけ広く見て、見えていないものがあることを忘れず、一時的な決断を重ねていくことなのだと思う。

マスク氏の訴訟は何を意味しているのか

バイデン政権はその末期にmRNAインフルエンザワクチンの開発のため、モデルナ社に5億9000万ドルを交付したが、トランプ政権はその二日後、5000億ドルという巨費をmRNA研究もおこなうスターゲイトという民間プロジェクトに投じると発表した。それについてマスク氏は「企業には約束したインフラ投資を裏付ける資金が実際にはない」とXに書いた。

これを捉えて日本のマスメディアでは「マスク氏とトランプ氏は対立している」という論調が見られたが、重要な問題はそこではない。

スターゲイトにはOpenAI の CEO サム・アルトマン氏が参加している。かつてOpenAIはマスク氏も参加していたが、OpenAI の方針転換によって、マスク氏はOpenAI とサム・アルトマン氏などを訴えることにした。その訴訟についての詳細はこちらにある。

訴訟の内容を簡単にまとめると、マスク氏はOpenAI の設立当初の合意を破棄されたことで訴訟を起こした。

OpenAI 社は人類にとって安全で有益な汎用人工知能AGI(Artificial General Intelligence)を開発することを目的とし、原告マスク氏とアルトマン氏等との間の合意の元に設立された非営利団体だった。マスク氏はOpen AI 社の設立当初から、多額の資金の拠出に加えて有能な人材の確保にあたって重要な役割を果たす等、多大な資源を割いたにもかかわらず、アルトマン氏は 2019 年に Open AI 社の CEO に就任すると、営利を目的とする子会社(Subsidiary)を設立し、2020 年 9 月 22 日にはマイクロソフト社との間で同社に対して独占的に
Generative Pre-Trained Transformer (GPT)-3 言語モデル のライセンスを供与する契約を締結するなどした。

但し、マイクロ ソフト社へのライセンスは Open AI の AGI 以前の技術にのみ適用され、AGI に関するいかなる権利も取得していないとのことであり、OpenAI がいつ AGI に到達したかを決定するのは、マイクロソフトではなく、OpenAI, Inc.の非営利理事会とのことだそうだ。

これらを受けて、マスク氏は OpenAI 社とアルトマン氏らを契約違反、禁反言、信任義務(Fiduciary Duty)違反、不公正な事業慣行(Unfair Business Practices)等で訴訟を提起した。

ちょっとややっこしい話です。汎用人工知能AGI(Artificial General Intelligence)とはどのようなAIを指すのかがはっきり書かれていません。さらに「Generative Pre-Trained Transformer (GPT)-3 言語モデル のライセンスを供与する」と書かれていますが、AIは進化します。育っていくと言ってもいいでしょう。だからGTP-3のライセンスを与えたとしても、使用している間に情報を揃え、AGIに至る可能性があります。このことが普通の商品とは違って、このAIの訴訟を複雑にしています。しかも、動物のように育った時の姿がAIだと明確ではありません。子牛を育てたら大人の牛になるから将来についてある程度予測できますが、AIはこれからどのレベルまで育つかわからない。人間が介入して操作できるレベルならまだいいのですが、AIが自律的に思考を始めたりしたらどのような状態になるのか予想がつきません。だからこそ、安全で有益な汎用人工知能AGIを開発するための非営利団体を作り、あらゆるレベルのチェックができるようにオープンソースにしたのです。それを私企業が独占時に使えるようになってしまったら、何が起こるのか想像を超えていくでしょう。

多くの人にとってはこの話は少し大袈裟だと思うかもしれませんが、そんなことはありません。これは複製子の話なのです。

生命には必ず遺伝子という複製子があります。遺伝子は複製(コピー)されていきます。だからそれを複製子ともいう。遺伝子は複製子の一形態です。遺伝子は環境との関係で進化し、いろんな形態の生命を産みだしました。

生命は最初、たった一つだけ生まれたと考えられています。それがいろんな環境や条件によって分化し、進化した。その結果、現在の地球上に何百万という多種の生物を生み出した。絶滅した生物も加えるときっと何十億、何百億の種類があったのでしょう。同時に遺伝子も細分化していきました。できた生命のうちの一種類が人間です。

人間は遺伝子とは別のレベルの複製子を作りました。それが言語です。言語のおかげで人間はどんな動物よりも有利に生きていくことができるようになりました。言語を持つことによって複雑な思考を可能にしました。さらにしばらくすると、文字を生み出すことで時間や場所を超越して、普通に考えるよりより複雑な思考を組み立てるようになります。もし文字がなかったら電磁気学や化学など、多くの学問体系は伝達できなかったでしょう。

複製子はその誕生の際に謎が生まれます。なぜその複製子が生まれたのか、誰も説明ができない。遺伝子がなぜ生まれたのか、様々な説はありますが、どの説が正しいかは特定されていません。言語も同様です。

僕たちは言葉を普段簡単に使っていますが、それがどうやってできたのか、誰も知りません。遺伝子と同じで説はたくさんあるようです。しかし、確定的な誕生の秘密は解き明かせていません。

どんな生物も遺伝子の存在を知りませんでした。人間もかなり長い間知らなかったのですが、言語という複製子を得ることで、次第にその存在を認知し、その理解を広げているところです。生物が遺伝子の存在を知らなかったように、人間は言葉という複製子の由来も役割も完全には把握していないのです。それがさらに上位の複製子、つまりAIが誕生することで、AIにとっては理解できるようになるのかもしれません。AIがもし仮に理解できるようになったとしても、人間にその内容が理解できるかどうかは未知です。おそらく大量のデータによって区別される内容なので、人間の脳の容量では理解できないかもしれない。だから、人間の知力ではAIに置いてけぼりにされてしまいます。もし充分に進化したAIと人間が知力で競争しなければならなくなったらどうなると思いますか? 人間の惨敗ですね。ここに大きな問題があるのです。

複製子は誕生してから時間の経過とともに進化していきます。生命の場合は遺伝子の進化とともに複雑な生命が生まれ、地球環境を変化させ、安定的に存在できる状況を生み出していきました。その結果人間が生まれ、人間はまた言語という複製子を生み出します。

生命が生まれたとき、その生命は酸素を吸う今のような生命はいませんでした。嫌気性菌という酸素を吸わない生物が最初生まれた。その多くは酸素に触れると死んでしまいました。ところが、その生物(菌)はその毒である酸素を排出しました。するとその生物が増えれは増えるほど毒である酸素が増えていきます。次第に酸素があっても生きていける生物ができ、ついには酸素を吸う生物(好気性生物)が出来てきます。つまり、最初の生物ができたとき、地球の環境に沿った生物が生まれ、次第に変化していきました。同じことが言語にもあったであろうことが推察されます。

最初に言葉を使い始めた人間はきっと簡単に使える言葉を使ったでしょう。しかも、そのときにあったものや存在した動きを表現したはずです。その多くは自然物とその動きだったでしょう。時間が経つにつれて、少しずつ複雑な概念を持つようになっていったと思われます。つまり複製子が生まれるとき、すでにそこに存在する何ものかを組み合わせて作ったはずです。

一度複製子が生れると、その内容が繰り返されます。繰り返されることで新たな何ものかが生まれてくる。

遺伝子の場合で言えば、単細胞生物がしだいに複雑化して、多細胞生物になり、雌雄化し、感覚器官を持つようになって、環境と深く関わるようになっていく。

言語の場合で言えば、自然物の描写から始まり、区別が複雑化精細化して、言葉がないかぎり生まれないような道具や規則や社会を生み出してきました。

AIも同様に、人間の間に生まれたら、最初は人間的な表現に終始するでしょうけど、独自の進化を始めることで人間は阻害されていく可能性が生まれます。特に人間社会が競争原理によって支配されていたら、AIが最初に学ぶことが競争原理になることは明確です。一企業のために作られた不完全なAIが、いつか自立した複製子となり完成したAIとなったとき、そのAIは一企業が有利に経営されるようにどんなことをはじめるのかきっと今の人類の想像を超えてくるでしょう。だとすると、それを止められる存在は、そのときにはないかもしれません。そうなると、いったいどんなことが起きるのでしょう? 人類にとって安全で有益な汎用人工知能AGIを開発することを目的とし、設立された非営利団体がオープンソースでおこなうのであれば、まだその危険性が回避されるかもしれません。だからこの訴訟は、単にマスク氏とアルトマン氏の利益の奪い合いだけの話ではないのです。

自立型AIが何を始めるのかは、人類の想像を超えることになるでしょう。それを生み出すことについて僕たちはどんなに慎重になってもなり過ぎることはないのです。