共に生きる〜ルールの変更

今朝、茂木健一郎さんがこんなことをつぶやいた。

るる(1)そろそろ、この国をどう変えるか、本気で議論するべき時がきた。一番のポイントの一つは「ルール」だと思う。ルールを守るではなく、ルールをつくる。人と人が出会い、競う時のルール作りのセンスを、私たちは育まなければならない。

るる(2)コンピュータ・ゲームは別に脳に悪くない。ただ、ルールが決まっていて、それに従う点が創造的ではない。もっとも、自分でコンピュータ・ゲームを作るようになると、一気に創造的になる。ゲーム好きには、そこまで行ってほしい。

るる(3)子どもたちは、楽しく遊べるためのルールを作る素晴らしい能力を持っていている。たとえば、「みそっかす」。弱い子、幼い子は、特別扱いして少し有利にしてあげる。そうすることで、誰が勝つかわからなくなり、ゲームの楽しさが増すのだ。

るる(4)草野球をやっていて、弱い子が来ると下手投げにしてあげる。三振なしにする。送球も、ちょっと手加減する。子どもがそうするのは、弱者保護の麗しい理想からではなくて、そうやることでゲームとして楽しくなるのだ。

るる(5)ババ抜きで、幼い子がババを引くと泣き出すから、わざとそのカードを少し上に出したりする。幼い子も意味がわかるから、それを避けてセーフになる。こういう「みそっかす」も、楽しく遊ぶための智恵だ。

るる(6)ルールをつくる上では、多様なバックラウンドを持った人が、みな勝ったり負けたり、いろいろあるようにした方が楽しい。いつも誰が勝つか決まっていたり、負け続ける人が出るようなルールは、ゲームをつまらなくする。

るる(7)「新卒一括採用」は、ゲームのルールとして全くつまらない。マジメに黙々と従った人だけが有利となり、途中でふらふらしたり、飛び出して戻ってきた人は負けると決まっている。そんなゲームは、誰の胸もわくわくさせない。盛り上がらない。

るる(8)ペーパーテスト一辺倒の大学入試も、全くつまらない。ハーバード大学だったら、市川海老蔵や卓球の愛ちゃんもそのまま受かるかもしれない。東京大学は小難しい試験を解けないとダメだ。どちらが「ルール」として面白いか、歴然としている。

るる(9)日本人は従順だから、誰かが決めたルールに黙々と従って、その中で上位に来た人を「エリート」と呼ぶ。つまらない。本当のエリートは、みんなが楽しく遊べるように、ルールを工夫する人のことを言う。子どもの時、夢中になって遊んだ頃のことを思い出してごらん。

これを読んでいいこと書くなと思った。そして思い出したのは、9年前に中学校でした講演だ。ここにまとめがある。

ポイントは「誰でも誰かの役に立ち、誰かの世話になっている」ということ。講演会で僕は肉食獣の話から比喩を作った。

肉食獣は我が物顔で草食獣を食べるが、視点を変えると、彼らは草食獣がいてくれるおかげで生きていられると言えるし、もっと言えば、広い草原があるから生きていられるとも言える。僕は今朝、目覚まし時計で起きた。朝食を食べ、電車に乗って目白駅まで来て、千登世橋中学校に到着した。僕は目覚まし時計を使うし、朝食は僕の意思で食べた。電車もお金を払って乗った。我が物顔でそれらを使ったり食べたりしているが、視点を変えると、それらを作ったり、運行してくれる人たちがいなければ時間通りにここに来られなかっただろう。

社会は僕たちにとっての生態系だ。多くの人が活き活きと生きてないと、その生態系はうまく機能しなくなる。僕たちは、古いマーケティング的な考え方に侵されたため、大切な考え方を見失ってしまったのではないか? 

僕たちは社会のパラダイムを変える、その変節点にいる。いま変えずにいつ変えるのだろう。市場は消費者の搾取から生まれるのではない。かつて消費者と名付けられた人は、生産者であり、役人であり、政治家であり、農業従事者であり、漁業従事者であり、工業労働者であり、弁護士であり、ありとあらゆる職業の人の総体なのだ。消費者を豊かにすることこそが市場を作る人の仕事だ。その観点を忘れ、従事者から搾取し、消費者から搾取し、ありとあらゆる人を出し抜くことで市場を作ろうとするのは正しくないこと。一方で、消費者からの観点も変化しなければならない。物を買うとき「安い方がいい」という価値観だけで物を買う限り、市場から搾取していることにほかならない。適正な価格とは何かを消費者が考えない限り、市場は育たない。飲食業では安い食べ物を提供しようと、安全性には目をつぶることがよくあるようだ。それは、消費者がそのようなものを求めるからそうなってしまう。物を買うとき、正しい価格で買う知恵を持つことが、すべての人に求められるようになっていく。その知恵を持たない人は「衆愚」と言われても仕方ないだろう。かつて江戸に住んでいた人たちは「宵越しの銭は持たない」ことを信条にしていたという。なぜか。江戸は火事がよく起きた。もし銭を抱える生き方をしていたら江戸はまったく潤わず、町には活気が生まれなかっただろう。自分が持っている銭は誰かに与えることではじめて生きる。その考え方がきちんと生きていたのだ。

僕たちは権利ばかり言いつのり、自らが学ぶことを忘れているのかもしれない。便利な物ばかり求めるが故に、じっくりと考えることを忘れているのかも。

創出版による「The Cove上映会とシンポジウム」

2010年6月9日におこなわれた、創出版による「The Cove上映会とシンポジウム」に行ってきました。このシンポジウムの直前に「ザ・コーヴ」を上映予定していた映画館二館が上映中止を発表したため噂を呼び、大変な盛況になりました。

まずは日本版の「ザ・コーヴ」が上映されました。ところどころ「?」と思ったところがありました。しかし、それは映画のなかの一瞬のことなので明確にココとなかなか指摘できないのですが、字幕が違うのか、画像を抜いたのか、いままで観てきた「The Cove」とはいくつか少し印象の違うところがありました。それらは僕の思い違いかもしれませんが、明確に指摘できるところはふたつありました。ひとつは、映画がほぼ終わるときに観客に向けて「行動を起こそう」的なことが伝えられていたのですが、それが抜けていました。それから、エンドタイトルが終わって映画が終わる直前に、クスッと笑えるようなシーンが挿入されていたのですが、それがカットされていました。太地町の警察官とおぼしき年配の人にスタッフがクジラの形をした風船を見せるシーンなのですが、多分その警官の顔をアップにして笑顔がそこに出て来ないとこの笑いの理由がわからないのでカットしたのでしょう。とにかく、日本人の表情はことごとくモザイクがかけられていました。かえってモザイクの方が不気味に感じます。すりガラスのようなモザイクだったので、うっすらと表情というか雰囲気が伝わってくるのです。

“創出版による「The Cove上映会とシンポジウム」” の続きを読む

無縁社会

三、四日前に近所の本屋で週刊ダイヤモンドを買った。第一特集が「無縁社会 おひとりさまの行く末」だ。これを読んでいて思いだしたことがある。それは親父が死ぬときの看護婦さんの言葉だ。親父が死んだのは1996年。もう14年も前のことだ。そのとき、親父が危篤になり病院に呼ばれて行ったが小康を得た。そこで兄がその日一晩は親父についていると言ってくれたので、僕と母はうちに帰った。確か家に着いたのはすでに深夜だったと思う。メールの返事などして午前三時まで起きていた。すると病院から電話が来て「血圧が急激に落ちているので来てください」と言われ、母さんを起こして車で病院に向かった。

病院に着くと看護婦さんがこんなことを言った。

「いい家族ですね。全員が臨終に立ち合うなんて」

「は?」と思った。「それが普通でしょう」と。

父はまた小康を得たが、その日の朝日が昇る頃に帰らぬ人となった。

あとで思ったのだが、もしあの頃僕がサラリーマンだったら、確かに父の死に目に会えなかったかもしれない。父が死ぬより、自分の会社の仕事を優先させたかもしれない。そう思った。

そんなことを記事を読んで思いだした。

無縁社会になるのはいろんな要素が絡み合っていると思う。しかし、あまり誰も言わないので、ここであえて書くが、そのひとつの理由としてマーケティング的発想が無縁社会を作っているような気がする。マーケティング的発想とは何か。

「人は面倒なことはしない。だから何かを売るためには消費者の煩わしさを排除する」

マーケティング的発想にあまりにも慣れてしまった人は社会生活の中で「煩わしさは避けて当然」と考える。だから「煩わしいことはしない」し、「他人に煩わしい思いもさせない」と思うのではないだろうか。

人間関係を作るというのは面倒なことだ。もちつもたれつと言うが、ビジネスの場面での恩の売り買いまではできても、売り買いが成立するかどうかわからないことについて、面倒をかけたり、面倒を見たりすることはしなくなっているのではないだろうか。僕はそうだし、ほかの人たちもかなりそうなっている気がする。唯一の例外は女房とほんの一握りの友人との関係だ。ここだけは大変な面倒の掛け合いをしている。ところが同じような面倒の掛け合いは、もう兄ともしないし、まして甥や姪にはまったくかけない。それはいいおじさんであることのためであるが、一方で本当に困ったときどうにかしてもらえるような人間関係は作っていないと言うことだ。

いま社会はどんどん便利になっていると思う。その一方で、かつて自然とできていた人間関係を作るための面倒なやりとりもなくしてしまったのではないだろうか。便利になるのが当たり前に思う僕を含む一群の人たちは、便利になるが故に無縁社会の種を知らず知らずに育てているのではないだろうか。

他人に上手に甘えて、迷惑をかけ、迷惑をかけられるような関係を築くのが大切かもしれない。それは自分が駄目な人間であることを受け入れることに近いかも。そのあとで、誰かの駄目さも笑って許してあげられるようになることかも。

ここでもうひとつ思い出したことがある。バリ島の男を買う女性だ。

バリ島のクタ海岸には日本人女性がお金で相手してもらえる男性がたくさんいる。そこで日本人女性が何をするかというと、そんな男たちにお金を払って、彼らを愛人として好きに使うのだ。そういうカップルはクタにいるとすぐにわかる。なぜなら女性がとても不機嫌だからだ。自分が好きに使える男がいたら嬉しくてたまらないのではないかと思うのが普通だろうけど、実際には違う。彼女らは心のどこかで後ろめたいので、常に何かにあたったり怒ったりしている。

便利に使える男は価値がない男と、心のどこかで思っているのだろう。そして、相手の煩わしさをどこかでキャッチして、それがまた自分の機嫌を悪くしているのではないかと思う。面倒をかけられるのは「お金を払っているから」という理由があるからなのだ。そして、そのことにいらついている。

人間は相手のことが好きだったら、お金なんか払わなくても多少のことは許してあげられるものだ。この多少のことの許容範囲が、無縁社会を作りつつある日本ではかなり狭くなってきているのだと思う。

以上、みんな僕の勝手な推測だ。もしかしたら違うかもしれない。でも、僕はそう感じている。