YouTubeに出演してきました

らうす・こんぶさんに誘われて、YouTubeに出演してきました。

らうす・こんぶさんは20年ほどニューヨークに住み、ライターと日本語教師として働いてきました。コロナの件で帰国しようと思い立ち、一年程前に帰国なさいました。ニューヨークはご存知のように人種のるつぼ。いろんな体験をなさったようです。その悲喜こもごもや「言葉」「農業」「これからの生き方」などをテーマにしてYouTubeで音声のみの番組をやっています。

タイトルは「昼間でも聴ける深夜放送こんぶラジオ」。

「詩やことばのお話をしましょう」と誘われて、たいした打ち合わせもなくお話ししてきました。

「人生の最初に出会った本は?」と聞かれて、小学生の頃に読んでうるうるした本の話をしたら、いまだにうるうるしてしまいました。僕の心は発達しとらんのか。w

今回は一回目で、続きがあるはずです。次回は詩についての話になる予定です。

※2023年1月29日加筆

こんぶラジオ第二回の出演は以下の通りです。他の番組も面白いので聞いてください。

ぐるり。

尾山直子さんの「ぐるり。」を、世田谷ものづくり学校に見に行った。

尾山さんは訪問看護師をしている。
そのかたわら、京都造形芸術大学美術科を卒業し、写真制作もしている。

訪問看護で同僚が担当した「えいすけさん」とその家族の写真を撮影していた。それを「ぐるり。」で披露している。

「ぐるり。」は去年の12月、世田谷美術館分館の清川泰次記念ギャラリーで展示されていた。そこに見に行きたかったのだが、体調を崩して入院し、見に行けなかった。
世田谷ものづくり学校での展示は、二度目の展示となる。2022年2月27日から3月6日まで開催されていた。
「ぐるり。」のホームページには数点の写真作品が掲載されているが、それを見ただけで僕は心を掴まれた。
https://gururi-2021.studio.site

ひとつ思い出した風景がある。僕が小学生の頃、近所の友達の家が農家で、大きな畑と庭を持っていた。よくそこで遊ばせてもらった。夏にはアリジゴクがアリを捕らえるのを見るのが好きだった。その庭を見渡す縁側の奥に大きな部屋があった。そこにある日から、おばあちゃんが寝るようになった。友達からは「もうすぐ死ぬのだ」と聞いた。以来、静かにしなければと、その庭では遊ばなくなった。友達を呼びに行くのもひっそりと静かに呼ぶようになった。一年くらいしておばあちゃんは亡くなった。もうその庭では、以前のようには遊ばなくなった。

「ぐるり。」は写真展で、写真の展示だけだと思っていたが、モデルとなった「えいすけさん」の言葉が、会場のまんなかに置かれていた。いまはもういない「えいすけさん」の言葉をひとつひとつ読んでいくと、いないはずの「えいすけさん」が、心の中に灯る。そのかすかな灯りが、僕の人生を彩ってくれたいろんな人たちと反射し合う。

「えいすけさん」の合掌が沁みた。

「えいすけさんとその家族」と、作家である尾山直子さんとの関係が、作品から匂い立つ。

フランシスコ教皇の言葉

ローマ教皇フランシスコは、2019年11月23日に東京に到着し、24日に長崎、広島、25日に東京ドームで集会をおこないました。本日26日に上智大学を訪れ、帰途に着く予定です。

以下はその際に残された言葉です。

ローマ教皇 東京ドームでミサ
文字起こし つなぶちようじ
https://www.youtube.com/watch?v=myc2pzQM1m0

45:30
日本人司教による福音書の朗読。

主はみなさんとともに マタイによる福音

そのときイエスは弟子たちに言われた。
「誰もふたりの主人に仕えることはできない。一方を憎んで、他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。だから言っておく。自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと、また自分のからだのことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、からだは衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、蔵に収めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。あなた方は鳥よりも価値あるものではないか。あなた方のうち、誰が思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか。なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえこの花のひとつほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださる。ましてあなた方にはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ、だから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみな、あなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である」
キリストに賛美。

ローマ教皇の言葉 同時通訳 菱川宏美
51:10
いま聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。山上の説教と呼ばれているもので、私たちは、歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。神はモーセに「私のもとへ登りなさい」と仰せになりました。その山頂には首位主義によっても、出世主義によっても、到達できません。分かれ道において主なる方に注意深く、忍耐をもって、丁寧に聞くことによってのみ到達できるのです。山頂は平原となり、私たちを囲むすべてのものへの常に新しい眺望「御父の慈しみを中心とした眺望」を与えてくれます。イエスにおいて、人間とは何かを明らかにする山頂と、どんな人間的な計算をも凌駕する完成に至る道を見出します。イエスにおいて、神に愛されている子供の自由を味わう新しい命を見出すのです。

しかし私たちはこの道において子としての自由が窒息し、弱まるときがあることを知っています。それは不安と競争心という悪循環に陥るとき、あるいは私たちの選択を図り認めるため、また、自分は何者か、どんな価値があるのかを決めるための唯一の基準として、自分の関心や最大限の力を、生産性と消費への行き詰まる熱狂的な追求に注ぐときです。

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