ホロンとは何か

  ケストラーの思想から「全ホロン尊重」へ

「ホロン(holon)」という言葉は、思想家アーサー・ケストラーが1967年の著書『機械の中の幽霊』で提唱したものだ。ギリシャ語で「全体」を意味する「holos」と、粒子や部分を表す「-on」を組み合わせて作られた言葉で、「全体であると同時に部分でもあるもの」を意味する。

例えば、人間の身体を考えてみよう。人間の身体は、心臓や肺、胃や腸など、さまざまな臓器によって成り立っている。それぞれの臓器は一つのまとまった働きを持っているが、同時に身体全体の一部でもある。臓器を構成する細胞も同じだ。細胞はそれ自体が複雑な働きを持つ一つの全体でありながら、臓器の一部でもある。このように、全体と部分の両方の性質を持つものがホロンである。

  ケストラー自身も考え続けていた

ケストラーは『機械の中の幽霊』で、人間の精神や行動、生物の仕組みなどを理解するために、ホロンという考え方を導入した。それまでの科学では、複雑なものを小さな部分に分解し、その部分の働きを調べることで全体を理解しようとする方法が重視されてきた。しかし、部分をいくら詳しく調べても、それらが組み合わさったときに生まれる全体の働きを、十分に説明できるとは限らない。ケストラーは、部分と全体の関係を同時に考える必要があると考えた。そして、ホロンには二つの性質があるとした。

一つは、それ自体が一つの全体として、自律性や独自性を保とうとする性質。もう一つは、より大きな全体の一部として、その全体に組み込まれ、働こうとする性質である。この二つの性質が、同じ存在の中に共存している。ケストラーは、その後もこの考え方を発展させた。

1978年に発表した『ホロン革命』(原題 Janus: A Summing Up)では、ホロンが多層的なシステムを形成する仕組みや、部分としての自己規制と全体としての自律性の関係を、より体系的に論じている。さらに、ホロンの考え方を、人間の創造性や進化、社会の問題などにも結びつけて考察した。つまり、ホロンという概念は、最初から完成された理論として提示されたというより、ケストラー自身の思索の中でも発展していったものだと考えられる。ただし、のちの著作で最初の考え方が否定されたわけではない。基本となる「全体であると同時に部分でもある」という性質は、一貫している。

ケストラーの大きな功績は、世界を単なる部分の寄せ集めとしても、分割できない一つの全体としても捉えず、その両方の性質を持つ存在の関係として考える道を開いたことだろう。

  「全ホロン尊重」では、どう考えるのか

ここからは、ケストラーの考え方を出発点として、「全ホロン尊重」で用いるホロンの捉え方を説明したい。基本となる「全体であると同時に部分でもある」という考え方は変わらない。しかし、ホロンを上下の階層関係だけで捉えるのではなく、複数の全体との関係や、関係そのものの変化にも目を向ける。

例えば、一人の人間は、家族の一員であり、会社や地域社会の一員でもある。さらに、地球の生態系の一部でもある。これらの関係は、必ずしも単純な上下関係にはなっていない。一人の人間は、同時に複数の全体に属している。しかも、それぞれの全体も、ほかの全体と関係し合っている。このように考えると、世界は、ホロンが一方向に積み重なった階層構造としてだけでなく、無数のホロンが重なり合い、関係し合うものとして見えてくる。

  ホロンの境界は固定されていない

もう一つ重要なのは、ホロンの境界を絶対的なものと考えないことだ。例えば、森林を一つのホロンとして考えてみよう。森林は、樹木や草花、動物、微生物などによって構成されている。しかし、森林はその外側にある河川や大気、周辺の土地とも関係している。森林の境界をどこに引けばよいのだろう。地図の上では線を引くことができる。しかし、生態系の働きを考えれば、その線の内側だけで森林を理解することはできない。また、何を考えようとしているかによっても、注目すべき範囲は変わる。樹木の成長を考えるときと、動物の移動を考えるときでは、必要となる境界が違うかもしれない。

つまり、ホロンの境界は、考察の目的や関係の捉え方によって、一時的に設定されるものでもある。境界がないということではない。境界は必要だが、それを絶対的なものとして固定しないということである。

  ホロンは物質や生命だけではない

「全ホロン尊重」では、ホロンを物質や生命だけに限定しない。会社や国家などの社会的なまとまりはもちろん、言語や情報、思想や概念なども、ホロンとして捉えることができると考える。例えば、一つの言葉を考えてみよう。

言葉には意味があり、ほかの言葉との関係がある。そして、言葉が集まって文章になり、文章が集まって一つの思想や物語を形成する。一つの概念も、それ自体が一定のまとまりを持ちながら、より大きな思想体系の一部として働くことがある。しかも、概念は時代や社会によって意味が変化する。同じ言葉でも、ほかの概念との関係が変われば、意味や役割が変わっていく。

物質、生命、社会、情報、概念などは、それぞれ異なる存在の仕方をしている。しかし、それらをすべて、関係によって一定のまとまりを形成するものとして捉えてみる。そうすることで、これまで別々に考えていたものの間にも、新しい関係が見えてくるかもしれない。

  「全ホロン尊重」でのホロンの定義

以上を踏まえて、「全ホロン尊重」ではホロンを次のように定義する。

ホロンとは、関係によって一定のまとまりを形成し、それ自体を一つの全体として捉えることができると同時に、一つまたは複数のより大きな全体の一部としても捉えることのできるもの。その存在様式は物質・生命・社会・情報・概念などを問わず、その境界は絶対的ではなく、一時的に設定される。

この定義は、ケストラーの考え方を否定するものではない。むしろ、ケストラーが提唱した「全体であると同時に部分でもある」という基本的な発想を受け継ぎながら、複数の関係や変化する境界を、より積極的に捉えようとするものだ。

一枚の葉にも、一人の人間にも、一つの社会にも、それぞれ独自の仕組みや関係がある。そして、それらは互いに切り離されているわけではない。私たちが一つの存在だと思っているものも、見る角度を変えれば、別の全体の一部として現れる。また、これまで一つだと思っていたものの中に、さらに多くのまとまりを発見することもある。世界は、独立したものがただ集まっているのではなく、無数のまとまりが、互いに関係しながら存在している。ホロンという考え方は、その複雑な世界を理解するための、一つの手がかりになる。

全ホロン尊重と食物連鎖は矛盾する?

全ホロン尊重とは、人間だけでなく、生命、社会、国家、自然、さらにそれらを構成するさまざまな部分を、それぞれ一つの「ホロン」として尊重しようという考えだ。しかし自然界では、ある生命が生きるために、別の生命を食べなければならない。鹿の生命を尊重すれば、狼は鹿を食べられない。しかし狼が生きるためには鹿を食べなければならない。これは単なる人間社会の利害対立とは違う。生命そのものの仕組みに組み込まれている。だとすれば、食物連鎖は「全ホロン尊重」という考えそのものを揺るがす反例になるのではないか。

ところが、ここで別の疑問が出てくる。そもそも、植物→草食動物→肉食動物という関係を「犠牲」と呼ぶこと自体、人間の倫理観を自然界に投影しているのではないか。狼が鹿を食べることを「悪いこと」と考えるのは、人間が作った道徳を自然界へ持ち込んでいるだけなのかもしれない。自然界では、ホロン同士が互いを生かし、利用し、変形し、ときには破壊しながら存在している。その関係全体を、人間に都合のよい善悪だけで切り分けてしまってよいのだろうか。そう考えると、「全ホロン尊重」は、人間が現在持っている道徳を、そのまますべてのホロンへ適用する思想であってはいけないことになる。

ここから問題は、「人間は世界をどのように認識しているのか」というところまで広がっていく。人類は言語という道具を手に入れることで発達してきた。言語は人から人へ伝わり、複製され、その過程で変化する。その意味では、言語も一種の複製子として考えることができる。生命について考えてみても、複製子は単独では存在できない。遺伝情報を担う核酸だけが孤立して存在し、それだけで生命になるわけではない。それを守り、物質やエネルギーをやり取りし、複製を可能にする環境との関係が必要になる。複製子は、それを包む環境の中で存在し、環境との相互作用の中で変化していく。そして生命は、長い時間をかけて複製と変化を繰り返し、それまで存在しなかったものを次々に生み出してきた。

かつて「目」という器官は存在しなかった。しかし生命の進化の過程で、光を感じる単純な仕組みから、やがて複雑な眼が生まれた。それ以前の生命にとって、「眼」というものを想像することさえできなかっただろう。同じことが、人間の文化や概念についても起きているのではないか。

言語が生まれ、言葉が人から人へ伝わり、文化という環境の中で複製され、変化する。その過程で、それまで存在しなかった概念が生まれる。例えば「愛」である。

愛着や結びつきにつながる行動そのものは、言語以前の生命にも存在しただろう。しかし、それを「愛」と名づけ、その意味について考え、語り、さらに新しい意味を与えていくためには、言語と文化が必要だった。現在の私たちには「愛」という概念が当たり前に存在する。しかし人類の歴史のどこかで、それを認識し、言葉として共有し、発達させてきたのである。だとすれば、現在私たちが持っている概念が、人間に可能な概念の最終形である理由はない。これからも、現在の私たちには想像できない新しい概念が生まれる可能性がある。

「全ホロン尊重」も、そのような概念の一つとして、いま提出されようとしているのかもしれない。ただし、ここには注意が必要である。複製と変化を繰り返せば、必ず「良いもの」が生まれるわけではない。言語は「愛」を生み出した一方で、「敵」「異端」「劣った者」といった、他者を分類し排除するための概念も生み出してきた。したがって、言語や文化が発達すれば、自動的に全ホロン尊重へ向かうとは言えない。それでも、概念がこれからも新しく生まれ得るということは重要である。

しかも、新しい概念は、何もないところから突然生まれるわけではない。生命の複製子が、それを包む環境なしには存在できないように、一つの概念も、それを取り囲む別の概念なしには発達できないのではないか。一つの思想の周囲には、別の思想がある。

科学がある。
哲学がある。
宗教がある。
倫理がある。
経験がある。
反論がある。
矛盾がある。

それら一つひとつがホロンであり、互いにとっての「環境」になる。異なる概念が出会い、衝突し、否定し、補い、変形させ合う。その集積と関係の中から、それまで存在しなかった新しい概念、新しいホロンが生まれてくる。そう考えるなら、「全ホロン尊重」も決して最終的な思想ではない。それ自身、一つのホロンにすぎない。

全ホロン尊重というホロンの周囲に、さまざまな思想や経験や反論が存在する。それらに包まれ、それらとの関係によって、この思想自身も変化していく。やがて、それらをさらに大きな関係の中で捉える新しいホロンが見えてくるかもしれない。

ここで、もう一度食物連鎖へ戻ってみる。鹿の視点から見れば、狼に食べられることは生の終わりである。狼の視点から見れば、鹿を食べることは自分が生きるために必要なことである。そして生態系という視点から見れば、捕食することも捕食されることも、その生態系を構成している関係の一部である。

ここで大切なのは、

鹿の視点も消さない。
狼の視点も消さない。
生態系の視点も消さない。

ということである。

「生態系全体のためなのだから、鹿が食べられることには意味がある」と言ってしまえば、鹿というホロンから見た死を消してしまう。反対に「鹿の生命を尊重するために、狼は鹿を食べてはいけない」と考えれば、狼というホロンを消してしまう。どちらかを選び、もう一方を間違いとして消去するのではない。

両方を残す。

さらに、それらの関係全体を見る生態系という視点も残す。
そして、これらを同時に見たときに生じる矛盾も消さない。

現在の私たちには、このすべてを矛盾なく包み込んで理解するための概念が、まだ存在していないだけなのかもしれない。ならば、現時点で無理に食物連鎖の問題に答えを出す必要はない。しかし、それは単なる問題の先送りではない。

将来、新しい概念、新しいホロンが生まれることによって、現在「食物連鎖の矛盾」と呼んでいるものの意味そのものが、まったく違って見えてくる可能性がある。

現在の私たちは、「食べるもの」と「食べられるもの」という対立としてしか捉えられない。しかし将来、それらを同時に包み込みながら、どちらも消去しない新しい認識の仕方が生まれるかもしれない。そのとき初めて、なぜ生命が「食べる/食べられる」という関係を持って存在しているのか、その意味の一端が見えてくる可能性もある。

もちろん、それがどのような概念なのか、現在の私たちには分からない。分かるのであれば、それはすでに存在している概念だからである。だから今できることは、答えを想像して決めてしまうことではない。新しい概念が生まれるための環境を作ることである。

鹿の視点を残しておく。
狼の視点を残しておく。
生態系の視点を残しておく。
それらの間にある矛盾も残しておく。
そして、それとは異なる思想や反論も残しておく。

それらが互いに環境となり、関係し続けることによって、現在は存在しない新しいホロンが生まれる可能性を残しておく。

「全ホロン尊重」という考えも、その環境の中に置かれた一つのホロンである。だから、この思想自身も絶対化してはいけない。

反論を消さない。
矛盾を消さない。
説明できないものを消さない。
別の思想を消さない。

そして、いつか全ホロン尊重という考えそのものを包み込み、さらに先へ進む新しいホロンが生まれたなら、それを受け入れる。

そう考えると、「全ホロン尊重」は、すべてを説明するための最終的な答えではない。むしろ、まだ存在していない答えが生まれる可能性を消さないための思想なのかもしれない。

私たちは、食物連鎖の意味をまだ知らない。だからこそ、分かったことにしてはいけない。分からないものを分からないまま残し、それを取り囲むさまざまな概念も残し、それらが互いの環境として存在し続けるようにする。その中から、いつか現在の私たちには想像もできない新しい概念が生まれるかもしれない。

その新しいホロンによって、現在は矛盾としか見えないものの中に、これまで見えなかった意味が見えてくるかもしれない。その可能性を残すこと。そして、そのための環境を作り続けること。それが、現在の「全ホロン尊重」にできることの一つなのだと思う。

YouTubeに出演してきました

らうす・こんぶさんに誘われて、YouTubeに出演してきました。

らうす・こんぶさんは20年ほどニューヨークに住み、ライターと日本語教師として働いてきました。コロナの件で帰国しようと思い立ち、一年程前に帰国なさいました。ニューヨークはご存知のように人種のるつぼ。いろんな体験をなさったようです。その悲喜こもごもや「言葉」「農業」「これからの生き方」などをテーマにしてYouTubeで音声のみの番組をやっています。

タイトルは「昼間でも聴ける深夜放送こんぶラジオ」。

「詩やことばのお話をしましょう」と誘われて、たいした打ち合わせもなくお話ししてきました。

「人生の最初に出会った本は?」と聞かれて、小学生の頃に読んでうるうるした本の話をしたら、いまだにうるうるしてしまいました。僕の心は発達しとらんのか。w

今回は一回目で、続きがあるはずです。次回は詩についての話になる予定です。

※2023年1月29日加筆

こんぶラジオ第二回の出演は以下の通りです。他の番組も面白いので聞いてください。