吃驚

びっくりすることを吃驚(きっきょう)というが、そんな言葉はほとんど聞いたことがなかった。ところが最近の高校生はPCを使って書く文章にやたらと「吃驚」を使う。なぜかというと「びっくり」と入力して変換させると「吃驚」が出てくるからだ。それこそ「吃驚」!

広辞苑の第五版には「びっくり」で引くと(当て字で「吃驚」「喫驚」と書く)とある。一部の作家が、文章にあるニュアンスを持たせたいときに「吃驚」と書いたのだろう。しかし、その際にはルビがふられたと思う。先日読んだ開高健の「最後の晩餐」にも「吃驚」に「びっくり」とルビがふられて登場していた。そのようなことを知らない高校生や、ひょっとしたら小中学校生が、パソコンを使うことで、たくさんの普通には使わない漢字を、これが正しいとばかりに使うのは如何なものだろう?

奇しくも昨日、漢字検定の前理事長親子が逮捕されたが、文藝春秋の二、三ヶ月前の号に、漢字検定がいかにばかばかしいことであるかが詳細に書かれていた。書いたのは中国文学者の高島俊男氏。出題者が漢字の意味と文脈を理解せずに作った問題がいくつかあるのだそうだ。

たとえば、「列車が”方に”出発するところだった」。この「方」をなんと読むかという問題。漢文では文脈によって「まさに」と読ませることがあるのだそうだ。しかし、口語文に「方」が登場して読める人がどれだけいるのか。ほかにも「諱」という字の読み方を問題にしていた。単独でなんと読むかというならまだしも、前後に添えられた文が間違っていた。「法師、”諱”は玄奘という」。玄奘は法名で諱(いみな)は現代風に言えば本名だから、玄奘が諱であるはずがないのに、そのように読ませていたという。

かつて当用漢字というものがあった。あの頃は漢字の数を減らすためにそれを決めた。ところが常用漢字の時代となり、漢字は使えるものはなんでも使って良いと言うことになった。そこで問題なのは、一度破棄した微妙なニュアンスや意味が再生できないことだ。そのニュアンスや意味を無視して漢字問題が作られる。そこに拍車をかけたのがワープロの存在。ひらがなを打ち込めば漢字がガンガンと吐き出されてくる。その吐き出されてくる漢字を無批判に使ってしまう。今日も学生の文の中に「調度いい」という言葉が出てきた。丁度いい例だ。

ウィキペディアによると、高島俊男氏はやまとことばに漢字を当てるのは適さないと書いているそうだ。やまとことばに漢字が入ってきてしまったために、日本語が正しい発達をしなかったというのが氏の主張だという。漢字について、日本語について、あまり詳しくはないのだが、少しは勉強してみたい。日本人が日本語について考えずに、誰が考えるのか、と思う。

「吃驚」は、使うべきかどうかを考えた上で、覚悟を持って使いたい。普段普通に使うのは「びっくり」がいい。でもきっと、若い人たちは不思議な漢字を使うだろう。それが面白く感じられるのであれば。「面白い」と「正しい」では、いまのところ「面白い」が優勢だ。

職業に貴賎なし

テイヤール・ド・シャルダンの全集がやっとそろった。7年かけて一冊ずつ集めてきた。これで念願の本が完成できる。やっと手にした第二巻を読んでいて、ふと思ったことがある。それを予備知識のない人にわかってもらうためには、かなりの文章を書かなければならないので、ここには書かないでおくが、それを考えていた際に「職業に貴賎なし」という感覚が必要になるなと思った。よく使われる言葉だが、その真の意味を理解している人は少なくなってきたようだ。「職業に貴賤なし」とネット上で検索すると、悲しい解釈がたくさん出てくる。いろんな解釈ができるだろうから、押しつけるつもりはないが、かつての日本ではこのような解釈だったと思う。

どんな職業でもかならずそれは誰かの役に立つから職業として成り立っている。そして、そのことの価値はそれによって得られる報酬とは関わりない。自分の仕事とのスタンスで価値は決まる。

現代の人は、貴賤の価値判断を収入に結びつける。そこが違うのだと思う。たとえば、どんなに収入の低い仕事でも、それがないと多くの人が困る仕事というものがある。それをしている人は、収入が少ないことを覚悟の上でそれをやっている。そのような人たちをもし収入が低いから劣った職業だというなら、その人たちはその仕事への意欲を失うだろう。低い収入にもかかわらず、その仕事をすることによって社会に貢献しているのだ。だから価値がある。現代はとても個人主義的な価値判断しかされなくなったが、「社会」という切り口から物事を見れば、どのような形にせよ社会に貢献している職業であれば価値があり、それは誰かがしなければならない。だから職業に貴賎はないのだ。

たとえば、現在漁業はガソリン価格の高騰で収入の少ない職業になってしまった。だからといって漁業をしている人たちの仕事が賤しくなったわけではない。たとえ収入が少なくなっても、魚を必要としている多くの人のために漁を続けるひとがいたとしたら、それは貴い仕事といえるだろう。農業も漁業も収入が少ないから賤しいという考えがあったとしたら、僕たちは食料を得ることができなくなる。同じように、どんな仕事でもそれがなくなると困る人が必ずいるはずだ。
人は仕事をすることで社会に貢献しているのだ。だから職業に貴賎はない。このような感覚は現代では「建前」としか理解されなくなってきているようだ。それは悲しいことだと僕は思う。