アイ・ウェイウェイ展最終日 いたたまれない展示物のいたたまれない事情

このエントリーに存在する写真についてのCCは、エントリー最後をご覧下さい。

昨日、アイ・ウェイウェイ展の最終日なので行ってきた。行きたいと思いつつなかなか時間が取れずに行ってなかった。アイ・ウェイウェイの反骨精神に触れてみたかったのだ。

しかし、最終日にもかかわらず会場にはあまり多くの人がいなかった。作品の写真撮影がクリエイティブコモンズの条件下で許されていたのだが、人がいないので楽に作品の撮影ができた。

作品はどれも「いまいち」という感じを受けた。会場に入り人がいないのを見、そして作品を見つつ歩いていくごとに「いまいち」が膨らんでいく。この「いまいち感」の膨張はいったいなにに由来しているのか、会場にいたときにははっきりとは見えなかった。この文章を書くために、昨日の感覚を反芻して、ここに再現し、なぜ僕のなかで「いまいち」が育っていったのか、それを探ってみたい。これを探ることで、ついに僕はなるほどという点に行き着いた。それは僕にとって、または中国と日本の関係にとって、大切なことだと思う。

まずアイ・ウェイウェイの作品のなにについて興味を持ったのか、そこを書いておこう。確かテレビでだったと思うが、オープン前のアイ・ウェイウェイ展のリポートでこの作品についてこんなコメントをしていた。

「2008年5月の四川大地震で、倒壊した学校の中で死亡した児童○○人のランドセルをつなげて龍にしました。これは中国政府が耐震性のある学校を作らなかったことへの静かな訴えです」

僕はこれを聞いてこの展覧会に行きたくなった。アイ・ウェイウェイという人は、中国人ながら中国に対しての批判を芸術を通してやっているのだと感じたからだ。中国で生きながら中国の批判をするというのは、日本で日本を批判するのとは訳が違う。そのハードルの高さを超えていく男の作品に興味を持った。

ところが、会場に入っていくと、中国に対しての批判と言うよりは、いかに中国を愛しているのかということが前面に出てくる。まず最初の作品はでっかいお茶の固まりだった。

そばに鼻を近づけてかぐとお茶の匂いがする。お茶を圧縮して巨大な固まりを作ったのだ。「いったいそれがどうした」と思ってしまう。

しかも、前に書いたとおり、会場はガラガラで、いかに人気がないかを印象づけてしまう。

「アイ・ウェイウェイが中国の批判をしているというのは僕の思い違いだったかな?」とか「作品はその多くを中国の伝統的職人に発注していると言うけど、ちょっと雑な感じがするな」とか、まわりの状況に合わせて勝手な想像を膨らませてしまう。中国の地図が何度もモチーフとして使われていた。

良い美術展はたいてい最終日は混雑する。最後にもう一度見てみたい人と、僕のようにまだ見ていないのであわてて見に来る人とであふれるのだ。ところがこの閑散さ、これは作品がよくないのに違いないと思ってしまう。

この自転車を組み合わせた作品も、なんのことだかよく意味がわからない。解説書を読んでちょっと分かった気がした。

42台のフォーエバー自転車を解体し、パーツをつなげて円筒状に組み立てた作品。フォーエバー(永久)社は1940年ら上海で起業され、以降中国を代表する国民的ブランドを築き上げました。中国の急速な近代化によって自転車の群れは車にかわり、「永久」の名もアイロニカルに響きますが、自転車の思い出は人々の記憶のなかで永遠にめぐりつづけます。デュシャンのレディメイド作品も想起させる車輪は、本作品において建築的なスケールへと拡張されています。

しかし、これも中国の批判とはほど遠い。見方によっては懐古趣味といえなくもない。

上の二つの作品は、古い壺を壊したり、彩色しなおすことで、古い価値を否定し、新しい価値を生み出そうという主張だそうだ。このあたりまで見てきて、僕の中には急激に疑問がわき起こってきた。アイ・ウェイウェイは中国を表面上では否定しながらも、実は中国のことを「新しい文化を許容している国」として伝えているのではないかと。アイ・ウェイウェイのような表現を実は中国はすでに了承しているのではないかと。このときはまだ曖昧だったが、確か中国オリンピックの「鳥の巣」も、彼の作品だったと聞いた。しかし、そのことに展示で触れていないことも疑問の一つだった。

ずっと見ながら「いまいち感」が心に広がる。なぜこんなにいまいちなものを並べているんだろう。そのときは明らかではなかったが、実は僕は心の中で腹を立てていたのだ。期待したものが得られなかったからと、もうひとつ理由があった。それはあとで理由がわかる。そこにある作品は大きいのだが、丁寧さが欠けていると僕には思えた。

帰るときはなんかムカムカしていた。こんなんだったら来なければ良かったと。

僕はこのBlogに、あまり他人の作品を悪く書くことはしない。だから、アイ・ウェイウェイのことは書かないでおこうかと思った。しかし、何かが心にひっかかる。最初に感じたことと、展覧会で見た感じが、どうしてこんなに違うのか。そこでその理由を探ることにした。

アイ・ウェイウェイをウィキペディアで調べるだけでその答えは簡単に得られた。

彼は幼い頃から強制収容所に送られていた。両親が詩人で、文化大革命の時に非難されたからだ。このときから彼の中国への心の訴えは始まったのだろう。「鳥の巣」については、途中で制作を放棄していた。いまだに彼のBlogは中国政府から閉鎖に追い込まれる。だから、あまりおおっぴらに中国批判はできないのだ。それがたとえ六本木での表現でも。

さらに、彼のテーマのひとつは、「懐かしい中国」なのだろう。中国で生まれ、たとえひどい境遇に置かれたとしてもそこで育った。その環境を心の底では肯定したいのだ。それは自分の歴史の一部であり、存在の一部でもあるから。この悲しみと怒りとが、どこかいたたまれない感覚を作品に生み出す。それが雑な感じにつながっていたのではないか。

こう考えたきっかけは、今朝、ダライ・ラマ法王の講演会のまとめを読んだからだ。そこにこう書いてあった。「怒りが認識をゆがめる」。

アイ・ウェイウェイはいまも戦っている。だからこそその怒りが作品に染みこむのだろう。怒りというものは存在を破壊していく。その雰囲気が作品から滲み出し、僕のような戦いになれていない、弱い存在からは疎まれるのだろう。

中国という場が生み出している、破壊的雰囲気をなくせたらいいのにと思う。中国がチベットやウイグルに対しても平和な政策を採用し、アイ・ウェイウェイが落ち着いた、平和な作品を作れる日が来ますように。

作家アイ・ウェイウェイ
こちらの写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスでライセンスされています。

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