ピエール・テイヤール・ド・シャルダン年譜

ヌースフィアの概念を生み出したピエール・テイヤール・ド・シャルダンの年譜です。少しずつ内容を加えていく予定です。→(書名)p.・・ とある場合は、そこに関係した内容が書かれています。
年号のあとに月日を書きますが、月日が書かれてない場合は、その年のいつであったかは不明です。

1841年
祖父ピエール=シリス・テイヤール、ヴィクトワール・バロン・ド・シャルダンと結婚。

1844年
父アレキサンドル=ヴィクトル=エマニュエル生まれる。

1853年
母ベルト・ド・ドンピエール・ドルノワ生まれる。

1881年
5月1日 テイヤール家の第四子として、フランス中南部マシフサントラル山岳地帯にあるオルシノ村字サルスナにてマリ=ジョゼフ=ピエール・テイヤール・ド・シャルダン生誕。

1890年
5月10日 ルシール・スワン、アイオワ州スーシティにて生まれる。

1892年
4月 ヴィルフランシュ=シュール=サオーン(ローヌ県)にあるイエズス会経営のノートル・ダーム・モングレ高等中学校入学
5月26日 母の参列のもと、モングレで初聖体を受ける。

1895年
12月8日 聖母への献身の誓願を立てる。

1897年
8月2日 最終学年哲学級賞品授与式にて、七つの賞、一つの褒状、同窓生から名誉賞として五冊揃いのフランス人名大百科辞典が授与された。

1899年
3月20日 エックス=アン=プロヴァンスのイエズス会修練院に入る。

1900年
10月 ラバル市の修練院に移り、修練期の後期を終えると同時に哲学課程に進むに先立ち古典語、一般教養に専念する文学修士期(ユニオラート)に入る。

10人の兄弟姉妹がそろう。

1901年
3月25日 初誓願を立てる。
10月〜1902年10月 ベルギー国境近くのボンセクールにてユニオラート(文学修士期)二年目。
『テイヤール・ド・シャルダン』竹田誠二著によれば、ユニオラートの二年目はイギリス領ジャージ島でとなっている。

1902年
10月〜1905年10月 サン=ルイ学院哲学研究過程

1905年
9月〜1908年末 エジプト・カイロのサント・ファミーユ高等中学校にて化学と物理学の講師。
海産化石の研究に専念。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p49

1908年〜1912年 イギリス、オール・プレイス(サセックス州ヘスチングス)で神学研究課程。ピエール・シャルル神父(1883-1954)に会う。

1911年
6月7日 姉フランソワーズ、上海にて天然痘で帰天。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p54
8月24日 両親列席のもと司祭に叙品。翌日、両親は息子から聖体を拝領。
この頃にチャールズ・ドーソンと知り合う。

1912年
7月半ば パリ博物館古生物学教授マルスラン・ブール(1861-1842)に対面。
8月27日-9月4日 ベルギーのルーヴァン大学にておこなわれた宗教民族学会に出席 一ヶ月滞在を延ばしてベルギー各地をまわり古生代地層の研究調査

《エオアントロプス(曙人)事件》チャールズ・ドーソンがロンドン自然史博物館にピルトダウン人の化石を提出(1950年代に偽物とわかる)。
ルシール・スワン、ジェロール・ブルームと結婚

1913年
6月末 スペイン北西部一周。アルタミラ洞窟、サン・フェリス・デ・ブエルナ「苦悩のかまど」洞窟、オビエド市近郊のピミアンゴ、(おそらく)ピンダル洞窟を訪ねる。

1914年
7月 第一次世界大戦勃発
12月 徴兵検査ののち招集。第13看護小隊に配属。

この頃に『創造的進化』と、独自の思想との違いを意識する。→(テイヤールの生涯Ⅰ p.90)

1915年
1月20日 第8モロッコ狙撃兵連隊(6月22日、第4アルジェリア歩兵狙撃兵混成連隊と改名)に配属
5月15日 伍長に進級

1916年
11月25日 大尉昇進

『宇宙的生命』執筆。→『テイヤールの生涯Ⅰ p92』

1917年
8月13日 『神秘の場』執筆。
9月 『前線への郷愁』執筆。→『テイヤールの生涯Ⅰ p95』

1919年
3月10日 除隊
7月   復員者のための特別国家試験 地質学研究証書試験《良》で合格
10月  植物学研究証書試験《可》で合格

『物質のうちなる精神の力』執筆。

1920年
2月28日 手紙「最後の学士試験の準備に夢中になり、時おりへとへとになっているのに気がつきます…」→『テイヤールの生涯Ⅰ p79』
3月19日 動物学研究証書試験《可》で合格
6月16日 レジョン・ドヌール五等勲章を授与される
8月 渡英。ピルトダウンで「発見」された頭蓋骨に感銘を受ける。

地質学者グレンジャー(米国自然史博物館)と知り合う。
「ジャージ島の構造に関する覚書」出版。

1921年
7月5日 始新世前期の哺乳類と地層に関する学位論文を提出

最初の四半期間にスイス・バーゼルの科学者シュテーリンと親交を結ぶ。

1922年
3月22日 始新世前期の哺乳類と地層に関する学位論文公開審査。審査委員会を完全に満足させた。
3月25日 オーギュスト・ヴァランサンに「原罪を歴史的見地からどのように考えるか」と題するエッセイを送る。→1924年11月13日の手紙の理由
8月7日、または8日 バーゼルのシュテーリンを訪ねる。
8月 ブリュッセルで開かれた学会で中国地質調査所所長代理の科学者ウォンウェンハオに会う。

「フランスの始新世後期の哺乳動物と当時の地層」という論文で博士号を授与され、パリのパトリック学院の地質学助教授となる。→『テイヤール・ド・シャルダン』竹田誠著p65 3/22とかぶっているのか? 前期と後期の違いがある。

1922年から23年にかけてソ連のヴェルナツキイがパリのソルボンヌの講義で「生物地球化学的な現象を生物圏の基盤として捉えた講演」をしている。それを受けてル・ロアが1927年のコレージュ・ド・フランスの講演をおこない、そこではじめてヌースフィアの概念について発表する。

1923年
2月 フランスからリサンへ電報を打つ。「一年の予定で行く..」→生涯Ⅰ p.109
北彊博物館マルスラン・ブール館長が中国に招く。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p66
4月6日 マルセイユを出航。
5月17日 上海着。
5月23日 天津着。
6月7日 北京へ。地質学会出席。リサンの研究成果を発表。ブリュッセル大学の学生だったウォンウェンハオに再会。
6月11日 天津出発。
6月12日 天津からオルドスに向かう。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p68
7月6日 オルドス砂漠に着く。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p69
7月6日〜13日 吾拉臭河拉(ウラシュホーラ)の化石遺跡にテント生活。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p.69
7月16日 シャラ・オソ・ゴル(紅柳江)からブルイユ神父に手紙を書く。→神父と頭蓋骨p.113
8月15日 クリストフ・ゴードフロワ神父に手紙→神父と頭蓋骨p.112
8月25日頃 W.W.デービス教授、ジョージ・バーバと張家口に行く。第四期前期の層の重要性を指摘。後日バーバとリサンは多数の化石を発見。

オルドス砂漠で『世界に捧げるミサ』執筆。

1924年
1月 第一回中国旅行、開平へ。天津から瀋陽行きの喜捨で三時間のところ。
2月 第二回、天津南方200km、直隷(河北)平原の献県にあるイエズス会司教本部へ儀礼上の訪問。
2月 第三回中国旅行。河南省と山西省の境界、北京=漢口線で北京から400kmのところへ地質調査。
9月6日 上海着。
9月10日 上海にある姉フランソワーズ(修道名は聖心のマリ=アルベリック)の墓参り。
9月13日 中国出発。
10月15日 マルセイユ着。
11月から1926年4月まで、よくわからない。
11月13日 オーギュスト・ヴァランサンへの手紙。→生涯Ⅰ p.144

「ベルギーにおける暁新世哺乳類の地層」ルイ・ドロとの共同研究に関する覚書を発表。
ルシール・スワン離婚。

1925年
4月3日 イスプウイッチ(サフォーク州)博物館ならびにレイド・モワが有名な原石器を発見した介砂層を訪ねる。
4月6-9日 クローマーの断崖(イングランド東部、ノーフォーク州)を実地調査。
7月末 サンテ・チエンヌにて黙想会
8月16日 サルレ滞在。(ドルドーニュ州)
8月16日 エドワード・ロワへの手紙→生涯Ⅰ p.145
8月22日 ヴァランサンへの手紙→生涯Ⅰ p.146
9月 地質調査旅行のついでにヴォージュ地方モン=サン=オディル修道院を訪ねる。

1922年に送ったエッセイ「原罪を歴史的見地からどのように考えるか」が原因でイエズス会やローマの教会当局を巻き込んで議論がおこなわれる。この結果、二度目の中国派遣が決まる。
ヌースフィアの概念をこの頃に作る。

1926年
4月26日 《アンコール号》にて(恐らくフランス)を天津に向けて出発。
5月15日 作家アンリ・ド・モンフレとの出会いがこの日の手紙に書かれている。→生涯Ⅰ p.147
6月10日 天津着。
7月 潼関(トンクワン)を出発。西安府から5kmのところまで行くが交戦地区だったため引き返す。
8月25日 天津に帰り着く。
9月21日 リサンと天津を発つ。
10月11日 天津に戻る。
10月12日 パリ博物館に向け、化石を詰めた七つの木箱を発送する。
10月20日 北京でスウェーデン皇太子臨席のもと開かれた学会で研究報告をおこなう。
12月5日 学術会議に参加してその感想を手紙に書く。「地球的人間が確立していくのを感じた」と書いている。→生涯Ⅰ p.178 旅の手紙p.117
12月31日 この日の手紙にヌースフィアの概念の萌芽が見られる。→生涯Ⅰ p.161

周口店をはじめて訪れる。
この頃に『神の場』執筆。
1926年末、カトリック大学との関係が決定的に断ち切られる。

1927年
2月 地質学会に出席。
2月27日 手紙の中に探検家スウェン・ヘディンと知り合いになったことが書かれている。→生涯Ⅰ p.166
5月12日 天津を出発。ゴビ砂漠の南東地区、特に囲場(ウェイチャン)地区の低地へ。
7月7日 この地区の様相が手紙に書かれている。→生涯Ⅰ p.157
7月7日 アルフレッド・ラクロワに標本100kgを送付。パリ博物館からの助成金が断たれたためと考えられる。
8月7日 天津帰着。
8月27日 フランスに向けて出発。1939年までフランスと中国の往復を続ける。

10月1日〜1928年11月7日まで、フランスでの消息はよくわからない。→生涯Ⅰ p.188

この年、フランスの数学者でベルクソン派の哲学者でもあるル・ロアが、パリのコレージュ・ド・フランスでの講義で、生物圏が地質学的に経験している現段階を現わすために精神圏という概念を用いた。そのときル・ロアはテイヤール・ド・シャルダンと共同で作り上げた概念だと発表したことをヴェルナッキィが『ロシアの宇宙精神』の中に記している。『ロシアの宇宙精神』の著者はヴェルナッキィではないが、その本のヴェルナッキィの説明とともに「精神圏についての緒言」という論文が収録されていてそこに書かれている。

1928年
2月 エコール・ノルマルの学生グループのためジャンティの小神学校を借りておこなった黙想会で説教。
11月7日 マルセイユを出航。
11月20日頃から二ヶ月ほどアンリ・ド・モンフレに招かれてピエール・ラマルとソマリ海岸で過ごし、イエメンに向かう。
11月26日 オボクからマルスラン・ブールへの手紙→神父と頭蓋骨p.156
12月8日 ピエール・ラマルとフランス・エチオピア鉄道に乗車。
デヴィッドソン・ブラック北京協和医学院に新世代研究所を設立。

1929年
2月上旬 ジプチを出航。この航海についてはよくわかっていない。→生涯Ⅰ p.210
3月15日 天津にいることが手紙からわかる。
4月 中国地質調査所科学顧問として招聘される。→トレモンタン「ティヤール・ド・シャルダン」p.195
5月7日 リサンと一緒に天津を離れ満州へ。
6月10日 この日までには天津に帰っている。
6月18日 天津を出発、山西省に向かう。
6月29日〜9月10日 山西省西部と陜西省北部に滞在。
10月 地質調査所に事務所を構える。
12月6日 「中国国立地質研究所」と刷られた便せんに「周口店発掘作業の地質学と古生物学部門の監督を次第に引き受けるようになってきた」と書いている。
12月6日 「神の場」が出版されないことについて手紙で言及。→生涯Ⅰ p.252
12月11日 マルスラン・ブールに手紙→神父と頭蓋骨p.170
12月28日 テイヤールとブラックでマルスラン・ブール宛てに打電「謹賀新年。周口店で顔面を除き全形を保った成人のシナントロプス頭蓋を発見」

山西省と陜西省に滞在。
周口店での写真→神父と頭蓋骨p.173
この頃にルシール・スワンとパーティーで出会う。
リサンとの意見の食い違いが目立つようになる。
楊鍾健(ヤンチョンチュン)と共著で『周口店の化石包含堆積物に関する中間報告』発表。

1930年
3月前半の2週間 山西省南部に地質探査。
6月と7月 アンドルーズによって組織された米国の中央アジア探検に参加。7月30日に天津に帰る。
7月 科学問題評論に北京原人に関する(火を使う)論文を執筆。
9月10日 パリに向かってシベリア横断鉄道に乗る。9/25頃着予定。
10月25日 エコール・ノルマルノ学生達と再会。「人間化、ヒューマニズム、神化」というテーマで講演。
11月から12月にシャドフォー、およびオーベルニュでマルセマル・レゴーの研究会のために四回の連続講演。テーマは「宇宙の中に人間を統合する試み」。

1931年
1月 はじめてアメリカを旅行する。
2月8日にはニューヨーク着。
2月末 サンフランシスコを出航。途中ハワイで地質学者ウィリアム・キング・グレゴリーと知り合いになる。神戸に寄港した際に京都を訪ねる。
3月9日 「地球の精神」と題するエッセイを書く。
3月16日または17日 中国着。
5月12日 シトロエンでの遠征旅行開始。
6月11日〜6月21日 甘粛省西部の粛州(現在の酒泉。衛星発射センターが郊外にある)に滞在。
6月20日 中央アジア自動車横断の合意議定書に署名。
6月28日〜7月1日 新疆省東部の哈密(はみ)のオアシスに滞在。
7月5日〜7月17日 吐魯番(トルファン)に滞在。
7月19日〜9月6日 新疆省省都の烏魯木斉(ウルムチ、当時の迪化)
8月27日 ウルムチからマルグリットあての手紙→神父と頭蓋骨p.192
10月2日 ソ連国境に近い阿克蘇(アクス)着。→生涯Ⅰ p.265
10月8日 天山山脈山麓の町アクスに分遣隊と合流。→神父と頭蓋骨p.194

1932年
1月28日 八字古林(パチエクリン)で匪賊に襲われる。
1月30日 包頭の鉄道終着駅にたどり着く。
2月11日 父の訃報に接する
2月12日 北京フランス公使館に到着
7月4日 山西省へ出発。
9月 フランスへ帰る

1933年
1月 レイユ通りフランシスコ会マリア礼拝堂でカトリック療養者同盟の会員に「苦痛の意義とその建設的な価値」と題した講演。
2月 フランスから北京に向かって出発。着は3月?
4月から6月 日本軍が周口店に侵入
6月はじめ 山西省に向けて出発。
6月22日 ディヴィットソン・ブラックとともに中国からアメリカに向かう。
7月 ワシントンでの第16回国際地質学会に出席。会議後に列車で米国横断。ヘルムート・デ・テラと出会う。
9月中旬 米国から中国へ出発。
12月15日頃 周口店に戻る
12月31日 パリのブルイユ神父宛に手紙。→神父と頭蓋骨p.202

テイヤールの助言に従い掘っていた坑道から大きな洞穴が発見され、多数の遺物が発見される。→生涯Ⅰ p.349

1934年
1月頃 ディヴィットソン・ブラックに心臓疾患の兆候。
1月28日 エドワード・ル・ロワあての最後の手紙。
2月15日 パリのマルスラン・ブールに手紙。→神父と頭蓋骨p.203
3月15日深夜 ブラック周口店の研究室にて死亡。
3月16日 ルシール・スワンに手紙。→神父と頭蓋骨p.204
4月11日 揚子江中流に向けて出発。→生涯Ⅰ p.406
6月25日 7月1日から西安府方面にバーバと一緒に出発すると、天津からの手紙に書く。
7月16日 西安に向けて出発。
7月19日 洛陽で汽車を降り、秦嶺山脈の東部を横切る。この前後の話をジョージ・バーバが書き留めている。→生涯Ⅰ p.370

弟(末っ子で七男)ビクトルの死。

1935年
1月はじめ 翁と裴とともに広西省と広東省への新しい調査旅行が組織される。上海→広東→広西→南寧→桂林→広東→上海→塘沽
1月18日 南寧からの手紙→生涯Ⅰ p.374
1月28日 ルシール・スワンへの手紙→神父と頭蓋骨p.211
3月29日 ルシール・スワンへの手紙→神父と頭蓋骨p.212
4月7日  ブルイユとともに北京北部の明朝の墓を訪れる。写真→神父と頭蓋骨p.215
秋 ヒマラヤ、ソルト・レーンジ山脈ふもとの丘陵地帯を旅行。
その後、インド北部、パンジャブ州ソハン渓谷の遺跡調査
5月初旬 ブルイユとともにシベリア横断鉄道でフランスに帰る。
9月6日 フランスからボンベイ向けて出発。
9月20日 ボンベイ着
10月 ワルピンジでのテイヤールの様子をヘルムート・ド・テラは書いている。→生涯Ⅰ p.381
12月22日 カルカッタ出発。シンガポールに向かう。ラフルズ博物館館長コリンズのもとで三日間を過ごす。その後、オランダ船オフィール号でジャワのバタビア(現ジャカルタ)へ。この時の経緯は→生涯Ⅰ p.383

ワシントンの国際地質学会でヘルムート・ド・テラと知り合う。

1936年
1月4日 バタビア着。
1月15日 ティナガラ号でバタビア出航。
1月27日 上海着。南京の地質調査所を訪ね、2月11日には北京に。1/15からこの間に『人格的宇宙の素描』執筆。この頃の著作は『人間のエネルギー』に収められている。
2月7日 母がサルナスで死んだ(1853-1936)知らせ。ピエール・テイヤール・ド・シャルダン談「私の心の最高のものをくださった親愛な、聖なるお母さん」
2月11日 日本軍が周口店に来ることの影響に関して手紙を翁に書いている。→生涯Ⅰ p.337
7月末 山西省に向けて出発。→生涯Ⅰ p.407
8月15日 北京に滞在しているとの手紙。→生涯Ⅰ p.351
同日、同じ手紙であるかどうかは不明だが、母に関してこのように書いている。「結局《進化》のすべての作用が一つの愛〈神の愛〉を証明し発展させる働きに還元できるのを認めることは、私を大いに力づけてくれます。 これはかつて母が私に言ってくれたことです。しかしこの真理を事物の根本的なビジョンの中に統合するのに一生かかりました」→生涯Ⅰ p.13

11月28日 周口店から3つの頭蓋の発見を文通者に伝えている。

「山西省南東部より出土のポストシゾテリウムの新しい遺骸」をリサンと共同執筆。
母と妹(三女)マルグリット=マリの死。

1937年
1月6日 6本の歯がついた上顎骨の断片が掘り出される。
2月25日 中国を出発。シアトルに上陸し、列車で東海岸へ。北京原人についての講演。
3月 ヘルムート・ド・テラとフォン・ケーニヒスワルトにフィラデルフィアで会う。テラからはビルマ旅行への招待がある。
3月20日 ニューヨークタイムズに講演の様子を伝える記事。
4月19日 フランス帰国 6月あたりから病床に伏す。8/6までか?
4月26日 香港にてという手紙がある。上と下のことと矛盾。→生涯Ⅰ p.404
4月19日〜8月6日 フランス滞在。→生涯Ⅰ p.407
7月7日 盧溝橋事件。
8月6日〜9月8日 マルセイユ〜上海への帰路の船旅
12月6日 中国を発ってビルマへ。
12月31日 雲南省国境シャン高原のモゴクでド・テラと合流。

平野部は日本軍に占領され、周口店は無人状態。

1938年
1月 一行は平原に降りてくる。ハーバート大学の先史学者モヴィウスも合流しマンダレーから少し南のイラワジ川の段丘、あるいはアラカン山脈の斜面で仕事。
2月中旬 テイヤールとド・テラはモヴィウスをイラワジ川河畔に残して、サルウィン川の西、ラショー(シャン高原)に再び出かける。
3月24日 モヴィス夫妻・ド・テラ夫妻とともにラングーン(ビルマ)からバタビア(ジャワ)に向かう。
4月 ソロ川一周旅行。→生涯Ⅰ p.405
4月16日 ジャワを発ってシンガポール経由、中国に向かう。
5月 中国に戻る。
7月12日 リサンが中国をあとにする。
9月 シアトルからニューヨークへ。その後、フランスへ。
12月17日 レゴー研究倶楽部にて、中国、ビルマ、ジャワに関する講演をおこなう。「ル・モンセレ」誌1939年1/12第6号

周口店の恐らく一号洞からシナントロプスの歯、頭蓋や顎の断片を発見。
ネイチュア誌142巻、3951号、テイヤール、ド・テラ、モヴィウス共著『東南アジアの地質学的、考古学的様相』発表。
タイプ印刷にて『ビルマ高原地帯における新世代晩期の砂礫ならびに土壌』

1938年末までヴェルナツキイは「惑星現象としての科学的思考」を執筆。草稿のまま科学アカデミーに保存される。

1939年
フランスからニューヨークへ。米国自然史博物館で講演。
シカゴで講演。
カリフォルニア・バークレーデ開かれた米国地質学会でアジアの地質について講演。
バンクーバーでルシールと再会。
8月5日 ルシールと上海に向けて出発。
8月30日 中国に到着。
年末まで『現象としての人間』を執筆。
10月 ルシールがピエールに出さなかった手紙を書く。→神父と頭蓋骨p.226

パリの人類学博物館で発表。ジャンヌ・モルティエに会う。

1940年
11月から12月 燕京大学の女子大学同窓会(プロテスタントの神学者サークル)で3度の講演。

1941年
3月3日 フランス大使館にて『古生物学者の見た人間の未来』講演。
8月8日 日米関係悪化のためルシール帰国。その後6年会わず。
12月7日 日本がパールハーバー攻撃

弟(四男)ガブリエルの死。

1942年
上海 震旦大学で講演。非常な好評を得る。

1945年
8月末 ルシールへの手紙。→神父と頭蓋骨p.236
12月25日 フランス帰国の承認を得る。

1946年
6月18日 パリからルシールへの手紙。→神父と頭蓋骨p.239

1947年
1月5日-6日 トゥールーズ郊外でイエズス会士たちと『現象としての人間』の出版許可をもらうために会う。
6月1日夜 心臓発作。二週間危篤状態。
12月1日 退院。この頃からローダ・デ・テラに看護婦として世話になる。ローダはヘルムート・デ・テラの妻だったが、この頃には離婚していた。

1948年
2月半ば 渡米のために出発。2月末ニューヨーク着。ローダとルシールが迎えに来ている。
9月3日 レ・ムーランからルシールへの手紙。→神父と頭蓋骨p.247
10月 ローマへ。
10月7日 ローマからルシールへの手紙。→神父と頭蓋骨p.248
10月8日 ローマからジャンヌ・モルティエに手紙。→神父と頭蓋骨p.246

コレージュ・ド・フランスの教授立候補を教会当局から禁じられた。

1949年
2月 「自然の中での人間の意味と位置」ソルボンヌ大学で講演。
8月 イエズス会の施設で「人間と種の定義」について連続講義。

1950年
3月 「生きた惑星のさまざまな局面」講演。
同月 『レ・ヌーヴェル・リテレール』に寄稿。
5月22日 フランス科学アカデミー古生物学部門会員に選出される。

『物質の心』(『物質の核心-わが魂の遍歴』というタイトルでオリエンス宗教研究所から日本語訳)執筆。
フランスで匿名で『ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの贖罪的進化』が出版される。

1951年
7月12日 ローダとともにイギリスを出発し、南アフリカへ。7月末ケープタウン着。
10月18日 南アフリカから米国へ向け出発。
11月26日 ニューヨーク着。

1953年
7月初旬 米国から南アフリカへ。途中フランスの寄ろうとするがリヨンの管区長に拒否される。
8月半ば ジャンヌ・モルティエへの手紙。→神父と頭蓋骨p.258

『サイクロトロンを訪ねて』執筆

1954年
6月 フランスへ旅行。
7月31日 ローマのイエズス会本部から米国に戻るように手紙を受けとる。
12月1日 エドワード・ル・ロワの悲報に接する。→生涯Ⅰ p.139

1955年
3月30日 ルシール・スワンへの最後の手紙。→神父と頭蓋骨p.261
4月10日 復活祭の日曜日、冠状動脈破裂でニューヨークで死亡。
10月 『現象としての人間』出版。

1956年
『旅の手紙』出版

1957年
『神の場』出版

1959年
『人間の未来』出版

1971年
上智大学キリスト研究所内に日本テイヤール・ド・シャルダン協会が設置。のちに日本テイヤール・ド・シャルダン研究会に改称。

1991年ヴェルナツキイの著書「惑星現象としての科学的思考」を三度目の出版。このときはじめて全文が公開され、2017年に梶雅範のよって邦訳され出版される。邦題「ノースフェーラ〜惑星現象としての科学的思考」水声社刊。

1996年
教皇ヨハネ・パウロ二世、司祭就任50周年を祝う『賜物と神秘』という本に1923年オルドス砂漠でテイヤールが書いた「世界に捧げるミサ」を引用。

2001年
テイヤール・ド・シャルダン国際シンポジウムをフランス・リールにて開催。以後,2005年まで毎年パリ,北京,ローマ・ニューヨークで開催。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です