「おとなのかがく」を見た

映画「おとなのかがく」を見た。感想を書こうと思っていたのだが、なぜか書けない。面白かったのである。しかし感心した点は永岡昌光の技術でもなく、技術流出の事実でもなく、いったい何なんだろう?と思っていた。もちろん永岡昌光の技術に驚いたし、技術流出に心を痛めた。だけど僕のツボはそこではなかった。でも、どこがツボなのかはっきりわからなかった。何かが心に響いたのだが、何が響いたのかわからない。はて?

監督の忠地裕子さんと出会ったのは、小さなバーだった。その片隅で忠地さんは酒を飲みながら不機嫌でいた。美大は出たが有名なアーティストになるわけでもなく、好き勝手に生きているようだったが、満たされてはいなかった。何か作品を作りたいと思っていたようだが、作ったとして何になろうか? 余程インパクトのある作品を作らない限り、それは消費されるだけだ。無名のライターである僕にとってその痛さは自分の痛さでもあった。その彼女がドキュメンタリー映画の監督としてデビューした。

切々と撮影された映像は、冒頭のテオ・ヤンセンのストランド・ビーストのシーン以外はとても地味なモノばかりだ。細かい作業をする手先。狭い部屋での作業。台湾や中国の工場。それを見ているときは侘びしいとか寂しいとか思わなかった。だけど心のどこかにその種が宿った。その種はホコリのように小さくて、心の表面をようく撫でないと見つけられなかった。ようく撫でて見つけたざらざらは、しばらくなんのざらざらなのかわからなかった。そして、そこにあるのはささやかだけど、豊かさだと知った。

この豊かさの説明は、あまり簡単ではないので、まったく逆の方向から説明を試みる。心の貧しさとはどんなことか。

大国が戦争を起こしてはその国を荒廃させ、中途半端に民主化してから逃げ帰る。このようなことを容認し続けることが心の貧しさだと思う。残念なことながらいまの日本の首相官邸は一致団結してこの貧しさを応援したいと言っている。貧しさからの脱却のためになにがしかの労力を与えてそこから抜け出るのならまだしも、一緒にその貧しい状態になろうとしているのだから呆れてしまう。他人の文化や財産を奪い、幸せを踏みにじって国民には正義だと言い張る。このような行為が心の貧しさでないとしたら、何が心の貧しさだろう? 他人の幸せを奪って、自分は利益を得る。これは泥棒と同じだ。かつては国のレベルでこれを行うことが是とされていた。これを帝国主義と呼んだ。ところが第二次世界大戦後は多くの人がこれをいさぎよしとはしないかのように思えた。ところが違った。いつまでたっても強国大国の論理は帝国主義だ。ただし、国民にはそのように思わせない手段を弄している。

「おとなのかがく」に登場する大人たちは、この真逆の世界を作っている。「おとなのかがく」の登場人物は、他人を喜ばせるためにいろいろな苦労をしている。そして、それがまるで自分の喜びであるかのように生きている。少なくともそれを誇りとしている。それはとてつもない豊かさの表現だ。そこに生きている人たちは、失礼ながらあまり物質的に豊かだとは映像を通しては思えない。しかし、精神的にはとても豊かだ。風で動く機械を縮小して、自分なりの工夫を加え、誰でもが驚くような付録にする。経済的にはまったくたいしたことではない。すべての行為に費やされる費用を足し上げても、戦争で使われる一発の砲弾の価格にもならないだろう。だけど、そこには豊かさがある。誰かその付録を手にした人の喜びを夢見て、自分の能力を向上させたり、ほんのわずかな狂いで動かなくなる付録の精度を上げようとしている。しかもその仕事を、台湾や中国の人々と共同してやっているのだ。その豊饒さを表現する言葉を僕はなかなか見つけられなかった。

経済的には戦争の方がずっと効率的なのだろう。しかし、それは精神の荒廃をもたらす。「おとなのかがく」は効率的なことばかり目にしていた人間には気づけない、豊かさの表現がある。それはお茶の文化に通じる。戦国の武将たちはそこに魅力を感じ、利休がもてはやされたのだろう。いまの政治家はそのことが理解できるのだろうか? 映画「おとなのかがく」を見て、この豊饒さをきちんと言葉にできる政治家がいるのだろうか?

この映画の登場人物のような生き方をしている人がいる限り、経済的に凋落しても、日本は豊かだ。この豊かさこそ、日本が発信すべきこと、守り抜くべきことだと思う。

以下は会場に展示されていた雑誌「大人の科学」附録の映像。

ドキュメンタリー映画「おとなのかがく」サイト

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