日本文化の源流

縄文の思考photo
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昨日、アカデミーヒルズで、國學院大學名誉教授小林達雄先生の講演を聞いた。タイトルは「縄文の思考〜日本文化の源流を探る」。

一番のポイントと感じたのは、縄文時代に日本人が農耕を始めなかったことでどんな影響が生まれたか。

火を使って土器を作ったのは縄文人が他の地域より早いのに、農耕はしなかった。他の地域では土器が生まれるのは遅かったのに、農耕を早く始めた。この違いについて小林先生はこんなことをおっしゃっていた。

ヨーロッパや西アジアでは農耕が始まった。それは村から人が出て行き、村のまわりを「のら」とした。一度「のら」が生まれると食料の安定供給のため作物の種類を限り、同じものばかりを優先して育て、どんどん農耕地を増やすことで所有を中心とした文化の発端を作った。

一方縄文は村のまわりを「はら」とした。そこでは農耕をせずに、すでにあるものとの調和を考えた。だから外部の自然との関係を文化の中に形作っていくことになる。それが日本独特の共生の思想になっていく。あまり採りすぎると「はら」が荒れてしまうので採りすぎることはしない。同じものばかり食べるわけにはいかないのでたくさんの食べ物についての知識を蓄積していく。その結果、かなり高度な言語体系を持っていたことが推測される。

縄文土器も突起物や縄で編み込まれたデザインなど、繊細な言語能力がなければ作りようがないので、そこからも言語体系の高度さが推測される。

さらに縄文時代で面白いのは栃木県小山市の寺野東遺跡や秋田県の大湯環状列石などに残される、生活の役には立たないのではないかと思えるようなもの、それはつまり土偶や土でできた鏃(やじり)、などを残していることだという。小林先生は、これを第二の道具と呼んでいた。

第一の道具は食器や農耕具など、栄養を得るために必要な道具。第二の道具は心の働きと結びつく道具だとおっしゃった。

人は何かを目標として努力していくと、必ず壁にぶつかる。人間はその壁を乗り越えるために理屈をこねたり、科学を生み出したりしたが、そのような理屈もうまくいかないとき、どこの地域の人たちも祈ったという。祈ることで何かの壁を越えようとした。縄文人も同じことをしたのだろう。だから、何百年もの間、たくさんの人たちが、今の僕たちから見て理解できないような遺跡や環状列石を作ったのだろうという。

現在僕は「日本/権力構造の謎」という本を読んでいるのだが、そこで紹介されている日本人独特の心性と、小林先生がおっしゃっていた日本人の考え方の基礎となったであろうものとが似ていて興味深かった。縄文人の村の中心には広場があったという。その中心のなさと、政治での責任者不在で事をおこなっていくその在り方とが、どこかでつながっているのではないだろうか?と感じた。

アカデミーヒルズがまとめた小林達雄先生の講演内容はこちら。

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