ザ・ムーン 〜 記憶に照らされた心の震え

「ザ・ムーン(原題 IN THE SHADOW OF THE MOON)」を観た。アポロ計画の宇宙飛行士のインタビューとNASAの映像で構成されたドキュメンタリーだ。とてもいい作品だった。この作品を見て、僕が特に感動したことは二点ある。

アポロ8号は当初地球を周回する予定だった。しかし、ソ連が新型のロケットを開発していることをCIAが察知し、急遽月周回へと予定が変更される。これによってアポロ8号がはじめて月の裏側や、月の地平線から登る地球の写真などを撮影した。アポロ8号が月の周回中にクリスマスになり、世界に向けて中継された映像に、宇宙飛行士が聖書の創世記を読む。このときの音声を聞いて鳥肌が立った。その音声は僕が好きで何度も聞いていた音楽にサンプリングされて使われていたのだ。使われていたのはマイク・オールドフィールドの「The Songs of Distant Earth」。

アーサー・C・クラークの「遙かなる地球の歌」にインスパイアされて作られたこの曲は、出だしの部分で音楽にかぶせて無線で伝えられた「創世記」が聞こえてくる。この部分がとても好きで、かつて友達とCOSMOS+というパーティーをしたときにはテーマ曲にしていた。それがアポロ8号から世界中に流れたものだとは知らなかった。遠距離を飛んだ電波のノイズと、あまりいいスピーカーを通したのではないようなシャリシャリした音質で、すぐに「The Songs of Distant Earth」と同じものだとわかった。もちろん読む間合いも、声も同じ。マイク・オールドフィールドはその曲の出だしにふさわしいと考え、そこにサンプリングしたのだろう。10年ほど前のその曲の思い出と、遙か昔、僕がまだ七歳の頃の出来事がつながり、あの無線の声が僕の人生に共鳴し心が震えた。

もうひとつ感動したのは本編には出て来ないDVDの特典映像だ。

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「1Q84」を読んで

「1Q84」を読み終えた。簡単に書けば「面白かった」。しかし、何がどう面白かったかについては書くのに少々苦労しそうだ。こちらに書いたように村上春樹の面白さはうまく言葉にできない。様々な要素がからみついている。すべてを解きほぐすわけにはいかないが、僕にとって特に気になったことを書いてみよう。

村上春樹の小説は喪失の小説だと言われるが、作品の作り方は細胞の再生を思わせる。細胞は常に分裂し、死滅する細胞とのバランスを取る。何度も何度も繰り返しほぼ同じものを作りながら、現れる位置によって形を変える。村上春樹の作品はいつも同じようなことを書きながら、その位置によってすこしずつ語るべきことを変えているような気がする。環境や時代や、村上春樹の立場が変わることで自然と語るべきことが生まれているということだ。だから彼の作品は常に似た雰囲気を維持し続ける。村上春樹ほど書いている内容が変わらない作家は少ないのではないだろうか。どの物語も表面上は別のものだが、骨の部分はあまり大きく変わってないような気がする。

こう書くと、僕が村上春樹はいつも同じことばかり書いていて「ダメ」だと言いたいのではないかと思う人がいるかもしれないが、逆である。だからこそいいのだ。

画家というものは、自分の筆致を求めて求道する。作家は文体を求めるのかもしれないが、村上の場合は言葉にできないある雰囲気を何度も繰り返し作り込んでいる気がする。これはもちろん僕の思うことで、本人がそう考えているかは知らない。その言葉にできない雰囲気がどの作品にも生まれることが村上春樹のすごいところだと思う。さらにもちろん推測だが、村上春樹はそれを意図的に何度も繰り返そうとしているのではないかと思う。

村上春樹はマラソンやトライアスロンをするという。走り続けることで繰り返しの強さをからだに刻み込んでいる。その感覚が作品に出てくるのだろう。「走ることについて語るとき僕の語ること」にこんなことが書かれている。

 新潟から車で東京に帰る途中、車の屋根に自転車を積んだレース帰りの人びとを何人か見かけた。よく日焼けした、いかにも丈夫そうな体つきの人々だ。トライアスロン体型。僕らは初秋の日曜日のささやかなレースを終え、それぞれの家に、それぞれの日常に帰っていく。そして次のレースに向けて、それぞれの場所で(たぶん)これまでどおり黙々と練習を続けていく。そんな人生がはたから見て—-あるいはずっと高いところから見下ろして—-たいして意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。

この考え方が恐らく小説にも反映しているのだろう。

僕が好きなミュージシャンにマイク・オールドフィールドがいる。映画「エクソシスト」のテーマ曲となった「チューブラーベルズ」を作曲した人だ。映画のイメージだと怖い感じがするが、オールドフィールドは「チューブラーベルズ」を「愛を表現するために作った」と何かのインタビューに答えていた。そのチューブラーベルズを彼は五回も作り直している。

「チューブラー・ベルズ」

「オーケストラル・チューブラー・ベルズ」

「チューブラー・ベルズⅡ」

「チューブラー・ベルズⅢ」

「チューブラー・ベルズ2003」

「チューブラー・ベルズⅡ」を作るために、彼はレコード会社を移籍までしている。「オーケストラル・・・」は交響楽団を使って録音した。「Ⅱ」と「Ⅲ」は非常に似ているがメロディーや伴奏が少しずつ異なる。「2003」にいたっては、最初のバージョンとほとんど同じだ。しかし、よーく聞いていると時々違う部分が耳につく。最新作の「Music of the spheres(天空の音楽)」でもそっくりのメロディーが顔を出す。サイトを見てみたら、もうすぐまた別の「チューブラー・ベルズ」がリリースされるらしい。

オールドフィールドが「チューブラー・ベルズ」を繰り返し作るのは「売れる」という理由からではない。もしそうであるならレコード会社を移籍することはなかっただろう。これほどまでに同じ作品に執着するのはきっと彼の中に何か理由があるのだろう。それが何かはわからないが、作り直すたびに、きっと何かが満たされるのだろう。そして、バージョンごとに現れる微妙な違いに、大きな意味があるのではないだうか。

村上春樹の作品は「チューブラー・ベルズ」よりずっと変化がある。同じ物語を何度も書き続けているわけではない。しかし、同じ骨を何度もなぞっている感じがする。たとえば「1Q84」の形式は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と同じだ。二つの平行する物語が次第に歩み寄る。「1Q84」の主人公が最初にデートし続けている女性とは会えなくなる。これは村上春樹の小説によく出てくるパターンだ。村上春樹は似たことを繰り返しながら、何かを探っているのだろう。走ることのように単調な繰り返しをすることで、どこか別のところに崇高なものが築き上げられる。その別なところとは、読者の心の中だ。村上春樹の作品をたくさん読めば読むほど、その繰り返しが読み手の記憶にすり込まれた何事かを喚起して、面白いと思わざるを得なくなる。ジャズのスタンダードが聞き手の記憶を揺り起こすように。

「1Q84」は春樹ファンの心をかき乱す装置にあふれていた。

そのうちに「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」あたりの、明らかなオマージュかリフレインが書かれるのではないだろうか。僕はそれらを作品の発表とほぼ同時期に読んだが、その体験は感情を司るたくさんの忘れられた記憶のひとつとなっているため、そのオマージュかリフレインによってきっと心の底が震わされるのだろう。そのとき、僕は何を感じるのか、楽しみだ。