全ホロン尊重とは、人間だけでなく、生命、社会、国家、自然、さらにそれらを構成するさまざまな部分を、それぞれ一つの「ホロン」として尊重しようという考えだ。しかし自然界では、ある生命が生きるために、別の生命を食べなければならない。鹿の生命を尊重すれば、狼は鹿を食べられない。しかし狼が生きるためには鹿を食べなければならない。これは単なる人間社会の利害対立とは違う。生命そのものの仕組みに組み込まれている。だとすれば、食物連鎖は「全ホロン尊重」という考えそのものを揺るがす反例になるのではないか。
ところが、ここで別の疑問が出てくる。そもそも、植物→草食動物→肉食動物という関係を「犠牲」と呼ぶこと自体、人間の倫理観を自然界に投影しているのではないか。狼が鹿を食べることを「悪いこと」と考えるのは、人間が作った道徳を自然界へ持ち込んでいるだけなのかもしれない。自然界では、ホロン同士が互いを生かし、利用し、変形し、ときには破壊しながら存在している。その関係全体を、人間に都合のよい善悪だけで切り分けてしまってよいのだろうか。そう考えると、「全ホロン尊重」は、人間が現在持っている道徳を、そのまますべてのホロンへ適用する思想であってはいけないことになる。
ここから問題は、「人間は世界をどのように認識しているのか」というところまで広がっていく。人類は言語という道具を手に入れることで発達してきた。言語は人から人へ伝わり、複製され、その過程で変化する。その意味では、言語も一種の複製子として考えることができる。生命について考えてみても、複製子は単独では存在できない。遺伝情報を担う核酸だけが孤立して存在し、それだけで生命になるわけではない。それを守り、物質やエネルギーをやり取りし、複製を可能にする環境との関係が必要になる。複製子は、それを包む環境の中で存在し、環境との相互作用の中で変化していく。そして生命は、長い時間をかけて複製と変化を繰り返し、それまで存在しなかったものを次々に生み出してきた。
かつて「目」という器官は存在しなかった。しかし生命の進化の過程で、光を感じる単純な仕組みから、やがて複雑な眼が生まれた。それ以前の生命にとって、「眼」というものを想像することさえできなかっただろう。同じことが、人間の文化や概念についても起きているのではないか。
言語が生まれ、言葉が人から人へ伝わり、文化という環境の中で複製され、変化する。その過程で、それまで存在しなかった概念が生まれる。例えば「愛」である。
愛着や結びつきにつながる行動そのものは、言語以前の生命にも存在しただろう。しかし、それを「愛」と名づけ、その意味について考え、語り、さらに新しい意味を与えていくためには、言語と文化が必要だった。現在の私たちには「愛」という概念が当たり前に存在する。しかし人類の歴史のどこかで、それを認識し、言葉として共有し、発達させてきたのである。だとすれば、現在私たちが持っている概念が、人間に可能な概念の最終形である理由はない。これからも、現在の私たちには想像できない新しい概念が生まれる可能性がある。
「全ホロン尊重」も、そのような概念の一つとして、いま提出されようとしているのかもしれない。ただし、ここには注意が必要である。複製と変化を繰り返せば、必ず「良いもの」が生まれるわけではない。言語は「愛」を生み出した一方で、「敵」「異端」「劣った者」といった、他者を分類し排除するための概念も生み出してきた。したがって、言語や文化が発達すれば、自動的に全ホロン尊重へ向かうとは言えない。それでも、概念がこれからも新しく生まれ得るということは重要である。
しかも、新しい概念は、何もないところから突然生まれるわけではない。生命の複製子が、それを包む環境なしには存在できないように、一つの概念も、それを取り囲む別の概念なしには発達できないのではないか。一つの思想の周囲には、別の思想がある。
科学がある。
哲学がある。
宗教がある。
倫理がある。
経験がある。
反論がある。
矛盾がある。
それら一つひとつがホロンであり、互いにとっての「環境」になる。異なる概念が出会い、衝突し、否定し、補い、変形させ合う。その集積と関係の中から、それまで存在しなかった新しい概念、新しいホロンが生まれてくる。そう考えるなら、「全ホロン尊重」も決して最終的な思想ではない。それ自身、一つのホロンにすぎない。
全ホロン尊重というホロンの周囲に、さまざまな思想や経験や反論が存在する。それらに包まれ、それらとの関係によって、この思想自身も変化していく。やがて、それらをさらに大きな関係の中で捉える新しいホロンが見えてくるかもしれない。
ここで、もう一度食物連鎖へ戻ってみる。鹿の視点から見れば、狼に食べられることは生の終わりである。狼の視点から見れば、鹿を食べることは自分が生きるために必要なことである。そして生態系という視点から見れば、捕食することも捕食されることも、その生態系を構成している関係の一部である。
ここで大切なのは、
鹿の視点も消さない。
狼の視点も消さない。
生態系の視点も消さない。
ということである。
「生態系全体のためなのだから、鹿が食べられることには意味がある」と言ってしまえば、鹿というホロンから見た死を消してしまう。反対に「鹿の生命を尊重するために、狼は鹿を食べてはいけない」と考えれば、狼というホロンを消してしまう。どちらかを選び、もう一方を間違いとして消去するのではない。
両方を残す。
さらに、それらの関係全体を見る生態系という視点も残す。
そして、これらを同時に見たときに生じる矛盾も消さない。
現在の私たちには、このすべてを矛盾なく包み込んで理解するための概念が、まだ存在していないだけなのかもしれない。ならば、現時点で無理に食物連鎖の問題に答えを出す必要はない。しかし、それは単なる問題の先送りではない。
将来、新しい概念、新しいホロンが生まれることによって、現在「食物連鎖の矛盾」と呼んでいるものの意味そのものが、まったく違って見えてくる可能性がある。
現在の私たちは、「食べるもの」と「食べられるもの」という対立としてしか捉えられない。しかし将来、それらを同時に包み込みながら、どちらも消去しない新しい認識の仕方が生まれるかもしれない。そのとき初めて、なぜ生命が「食べる/食べられる」という関係を持って存在しているのか、その意味の一端が見えてくる可能性もある。
もちろん、それがどのような概念なのか、現在の私たちには分からない。分かるのであれば、それはすでに存在している概念だからである。だから今できることは、答えを想像して決めてしまうことではない。新しい概念が生まれるための環境を作ることである。
鹿の視点を残しておく。
狼の視点を残しておく。
生態系の視点を残しておく。
それらの間にある矛盾も残しておく。
そして、それとは異なる思想や反論も残しておく。
それらが互いに環境となり、関係し続けることによって、現在は存在しない新しいホロンが生まれる可能性を残しておく。
「全ホロン尊重」という考えも、その環境の中に置かれた一つのホロンである。だから、この思想自身も絶対化してはいけない。
反論を消さない。
矛盾を消さない。
説明できないものを消さない。
別の思想を消さない。
そして、いつか全ホロン尊重という考えそのものを包み込み、さらに先へ進む新しいホロンが生まれたなら、それを受け入れる。
そう考えると、「全ホロン尊重」は、すべてを説明するための最終的な答えではない。むしろ、まだ存在していない答えが生まれる可能性を消さないための思想なのかもしれない。
私たちは、食物連鎖の意味をまだ知らない。だからこそ、分かったことにしてはいけない。分からないものを分からないまま残し、それを取り囲むさまざまな概念も残し、それらが互いの環境として存在し続けるようにする。その中から、いつか現在の私たちには想像もできない新しい概念が生まれるかもしれない。
その新しいホロンによって、現在は矛盾としか見えないものの中に、これまで見えなかった意味が見えてくるかもしれない。その可能性を残すこと。そして、そのための環境を作り続けること。それが、現在の「全ホロン尊重」にできることの一つなのだと思う。

