1999年から月〜金で、ほぼ毎日「日刊気持ちいいもの」というメールマガジンを書いていた。
何か僕にとって気持ちいいものをタイトルにして、それに関する短文を発信するのだ。これはモノの考え方にとても前向きな作用を及ぼす。

僕たちの直感は水のきらめき ゆらめくように浮かんでは消え
1999年から月〜金で、ほぼ毎日「日刊気持ちいいもの」というメールマガジンを書いていた。
何か僕にとって気持ちいいものをタイトルにして、それに関する短文を発信するのだ。これはモノの考え方にとても前向きな作用を及ぼす。
会社を辞めてフリーとなり、なんとか雑誌に書いたりして本も出版した。
しかし、ふと気がつくと38歳だった。体重は97kgになり、会社勤めしていた頃より12kg以上増えてしまった。さらに飛んでもないことに血糖値が高くて糖尿病だと言われた。とてもトライアスロンどころではない。数km走るのがきっとやっとだろう。医師からはジョギングも禁止された。薬を飲んで安静にしてなさいということだ。入院まで勧められた。しかし、それじゃあもう自分のからだがどうにもならなくなってしまうと思い、医師の話は無視してとにかくジョギングくらいはしてやろうと思った。
40歳にアイアンマンレースはどう考えても無理だ。そこで無理ではない程度に上方修正した。数年のうちにマラソン、50までにアイアンマン。
実現できるかどうかはわからない。とにかくやることにした。
これから僕なりの走ることについてのエッセイを書いていく。まずは僕が走るきっかけとなったことから。
幼稚園児の頃、僕は痩せていた。兄にいつも「ガリガリ」とか「ヤセ」とか言われてからかわれていた。その反動か、小学生の高学年の頃から太り始めた。中学に入って放送委員になると「ブタさん」とあだ名されたほどだ。写真を見ると確かに太っている。中一の体育の授業で長距離走をさせられた。クラスでビリから何番目かだった。幼稚園の頃から徒競走はいつも一番ビリだったので、足が遅いことをあまり気にはしていなかったが、そのときはじめて悔しいと思った。