走る - 1 - 体育の授業で

これから僕なりの走ることについてのエッセイを書いていく。まずは僕が走るきっかけとなったことから。

幼稚園児の頃、僕は痩せていた。兄にいつも「ガリガリ」とか「ヤセ」とか言われてからかわれていた。その反動か、小学生の高学年の頃から太り始めた。中学に入って放送委員になると「ブタさん」とあだ名されたほどだ。写真を見ると確かに太っている。中一の体育の授業で長距離走をさせられた。クラスでビリから何番目かだった。幼稚園の頃から徒競走はいつも一番ビリだったので、足が遅いことをあまり気にはしていなかったが、そのときはじめて悔しいと思った。

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創出版による「The Cove上映会とシンポジウム」

2010年6月9日におこなわれた、創出版による「The Cove上映会とシンポジウム」に行ってきました。このシンポジウムの直前に「ザ・コーヴ」を上映予定していた映画館二館が上映中止を発表したため噂を呼び、大変な盛況になりました。

まずは日本版の「ザ・コーヴ」が上映されました。ところどころ「?」と思ったところがありました。しかし、それは映画のなかの一瞬のことなので明確にココとなかなか指摘できないのですが、字幕が違うのか、画像を抜いたのか、いままで観てきた「The Cove」とはいくつか少し印象の違うところがありました。それらは僕の思い違いかもしれませんが、明確に指摘できるところはふたつありました。ひとつは、映画がほぼ終わるときに観客に向けて「行動を起こそう」的なことが伝えられていたのですが、それが抜けていました。それから、エンドタイトルが終わって映画が終わる直前に、クスッと笑えるようなシーンが挿入されていたのですが、それがカットされていました。太地町の警察官とおぼしき年配の人にスタッフがクジラの形をした風船を見せるシーンなのですが、多分その警官の顔をアップにして笑顔がそこに出て来ないとこの笑いの理由がわからないのでカットしたのでしょう。とにかく、日本人の表情はことごとくモザイクがかけられていました。かえってモザイクの方が不気味に感じます。すりガラスのようなモザイクだったので、うっすらと表情というか雰囲気が伝わってくるのです。

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twitterで気づいたこと

新しいメディアが登場するたびに、僕たちが使っている言葉は変化していく。その変化はゆっくりとなされるので、なかなかそれに気づきにくい。

たとえばラジオが登場したとき、フランスの哲学者ピカールは、かつて言葉が発せられれば誰かが聞こうとしたものだが、ラジオが言葉を垂れ流すようになって、必ずしも聞こうとはしなくなったというようなことを本に書いている。

同様にtwitterも、それを使うことに慣れることで、言葉に変化が現れている気がする。

僕がはじめて雑誌に原稿を書いたとき、とても不安だった。誰が読んでいるのかわからなかったから。それまで僕が書く文章は、必ず誰が読むかがわかっていた。ところが、雑誌に書くようになってから、まったく誰が読むのかわからなくなった。ネットに書くとなおさらだ。メディアは人の機能の拡張だ。僕が書いたことがたくさんの人に届くことがメディアにとっての善とされるが、伝えた言葉が返ってくることこそが大切なことだと考えると、一方的に伝える言葉はとても空しく感じてくる。twitterでフォローしてくれる人を増やそうとするとき、伝えた言葉が返ってくる感覚が鈍磨する気がする。僕の声が届く範囲はそれほど広くない。だけど、メディアを使うことでその感覚が麻痺させられる。フォローする人を増やそうとしている人は、増えたフォローしてくれている人の声を聞こうとしているのだろうか? もし拡声器を使って、多くの人に一方的に伝えることだけを考えている人がいたら、それはとても醜悪に感じる。twitterでフォローしている人を増やすことだけを考えるというのは、それに似ている気がする。

そんなことに気づく僕が、そのような欲望を持ったことに他ならないのだが。。。