フランシスコ教皇の言葉

ローマ教皇フランシスコは、2019年11月23日に東京に到着し、24日に長崎、広島、25日に東京ドームで集会をおこないました。本日26日に上智大学を訪れ、帰途に着く予定です。

以下はその際に残された言葉です。

ローマ教皇 東京ドームでミサ
文字起こし つなぶちようじ
https://www.youtube.com/watch?v=myc2pzQM1m0

45:30
日本人司教による福音書の朗読。

主はみなさんとともに マタイによる福音

そのときイエスは弟子たちに言われた。
「誰もふたりの主人に仕えることはできない。一方を憎んで、他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。だから言っておく。自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと、また自分のからだのことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、からだは衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、蔵に収めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。あなた方は鳥よりも価値あるものではないか。あなた方のうち、誰が思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか。なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえこの花のひとつほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださる。ましてあなた方にはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ、だから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみな、あなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である」
キリストに賛美。

ローマ教皇の言葉 同時通訳 菱川宏美
51:10
いま聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。山上の説教と呼ばれているもので、私たちは、歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。神はモーセに「私のもとへ登りなさい」と仰せになりました。その山頂には首位主義によっても、出世主義によっても、到達できません。分かれ道において主なる方に注意深く、忍耐をもって、丁寧に聞くことによってのみ到達できるのです。山頂は平原となり、私たちを囲むすべてのものへの常に新しい眺望「御父の慈しみを中心とした眺望」を与えてくれます。イエスにおいて、人間とは何かを明らかにする山頂と、どんな人間的な計算をも凌駕する完成に至る道を見出します。イエスにおいて、神に愛されている子供の自由を味わう新しい命を見出すのです。

しかし私たちはこの道において子としての自由が窒息し、弱まるときがあることを知っています。それは不安と競争心という悪循環に陥るとき、あるいは私たちの選択を図り認めるため、また、自分は何者か、どんな価値があるのかを決めるための唯一の基準として、自分の関心や最大限の力を、生産性と消費への行き詰まる熱狂的な追求に注ぐときです。

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チェット・ベイカー没後30年

ジム・ホールと共演した『アランフェス協奏曲』をときどき聞いたが、チェット・ベイカーのことはほとんど知らなかった。ファンになったのはヒロ川島と出会ってから。川島さんはチェットと1986年の初来日の際に知り合いとなり、不思議な縁を結ぶ。

昨日、5月13日はチェットの命日。
毎年この日にはヒロ川島が「CHET BAKER MEMORIAL NIGHT」をおこなう。没後30年という節目にその音を聞きに行った。川島さんはただチェットのファンだからとMEMORIAL NIGHTをおこなっている訳ではない。

彼はチェットの楽器を譲り受けたのだ。

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農産物を商品にするな

岡田米雄の論文を読んだ。
タイトルは「農産物を商品にするな」。
商品にすることで農産物は効率化される。
その結果、本物の農産物が作られなくなり、偽物の農産物ばかりが流通するようになる。
こんな話を岡田米雄は1970年4月の「思想の科学」に書いている。
それから47年もたっているけど、いまだに解決されていない。
その論文にはこんなことが書かれている。

 化学肥料によって土壌中のバクテリアや菌類、あるいは昆虫類など生物が生きていけなくなる。これらの生物は、土壌中の動植物の遺体を食べて生きている。その代わりにそれらを分解し、無機質化して植物が吸収しやすいようにしているのである。ところが人間が、バクテリアなどそれら生物に代わって、直接無機物である化学肥料を植物に供給するものだから、それら微生物は必要がなくなるし、生きてもいかれなくなったのである。ここに自然のバランスが崩れて、いままでおさえられていた植物に有害な生物が繁殖するし、何億年も昔から植物をここまで成長させた実績を持つバクテリアや菌類の働きに、人間の科学の力がかなうはずがなく、植物体の栄養に欠陥がでて病虫害の攻撃にまけ、病気になる。そこで人間は農薬を登場させ、更に生物を殺して自然のバランスを崩し、悪循環を重ねつつ、土壌中のいっさいの生物を殺し、土壌は死に、植物も死ぬのである。
(中略)
農林省食糧研究所の西丸震哉氏が、雑誌「自然」(昭和四四年十月号)において、化学肥料や農薬を使わずに、昔ながらのやり方で堆肥をすきこんでつくった米の味が、この世のものとも思えぬくらい感激的にうまかった話をしておられるが、全くその通り。米ばかりでなく、牛乳でも野菜でも果物でも何でも、豚肉や卵にいたるまで、化学肥料や農薬が発見されるまでの、昔ながらのやり方で生産した農作物の方が、すべて感激的にうまいのである。
(中略)
農民はなぜ、化学肥料や農薬を使ったのであろうか。農民が、自家用の米や野菜には化学肥料や農薬を使わないが、販売用のそれらには十二分に使うのはなぜか。或いは、もし農民が化学肥料や農薬を使わずに、堆厩肥や牛尿を畑や田圃に運んですきこみ、農作物を生産したらどうなるか。この労働力不足の時代におそろしく手間がかかり、しかも生産量が激減することはうけあいだ。反対に、化学肥料や農薬を使えば、人手が省けるし、生産量も急増する。前者は収入減の支出増であり、後者は収入増の支出減。前者はコスト高であり後者はコスト安というわけ。つまりは前者なら経営がなりたたず、後者ならもうかることもありうるというのである。利潤追求とまではいかなくとも、農民が農業で生きていくためには、化学肥料や農薬を使わなければやっていけないように仕組まれてしまっているのだ。この仕組みに挑戦しないかぎり、農民は、私のいう本物の農業を行なうことができないのである。化学肥料や農薬を使わず、昔ながらの本物の農産物を生産し人間に供給するということは、い
ったい現体制下で可能なことなのだろうか。不可能なら、それは、人類の滅亡につながる。人間として可能にしなければならないのではないか。
(中略)
資本主義体勢にまきこまれて、農産物を商品として売買するようになってから、農民は、ニセモノをつくり出し、農業を否定する結果になったと私は思う。農産物は、他の工業製品とはちがって、これは、人間のいのちそのものだ。従って、人間が他の何よりも尊重されるなら、食べ物も人間同様、他の何よりも尊重されるべきだ。
(中略)
農民は現在、本物の農産物を生産することはできる。しかし、それによって生活することはできない。つまり、自給自足の生活は、できなくなっている。一方、消費者は、本物の農産物を待望し、目前にそれを見ながら入手することができないでいる。それは、共に現体制に押し流され、農村青年たちとどうよう、あきらめ切っているからではないか。といって、おとなしく死ぬわけにもいくまい。この現体制に抵抗して、まず、自らが生きるために抵抗の根をどこかにおろさねばならない。その方法は、ないものだろうか。少なくとも、食べものに関して、農産物に関して一つでもいい。自給自足ができないものだろうか。

それはできる。私は、生産者農民と消費者とが直結し、消費者と農民の農場をもち、ムラをその農場にし、消費者と農民との自給農場を創り出すことも、一つの方法と考える。もちろん、農民が生産担当者になるわけで、都市と農村の一体化を図ればいいのである。いってみれば、農民と消費者が、農産物に関して自給体制を創り出すことだ。もともと農産物は、商品として売買されてはいけないものだし、従って自給するしか手がないことをもう一度思い出してもらいたい。

ここまではっきり書かれた論文を読むのは爽快だね。

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