ピエール・テイヤール・ド・シャルダンについて

「しちだ」グループの右脳開発友の会が発行している『右脳開発』に三回にわたり原稿を掲載しました。こちらにその文章を転載いたします。

第一回 地球の進化について語った神父  2013年7月号掲載

『胎内記憶』を故七田眞先生の共著者として98年7月にダイヤモンド社から出版させていただきました。その際に七田先生に何度かお目にかかりお話しをうかがいました。

そのときの印象は一言ではとても言い表せないものですが、あえて言うなら聖人のようなかただなと思いました。たいていのことは「そうですね」と受け止めて下さいますが、少しでも意見が違うと「僕はこう思うんです」と言って、そのあと丁寧に話をして下さいました。その話は理解を促し、共感をも生み出すような話し方でした。そして最後に「違いますか?」と確認を求められる。自分の内側で固まっている常識やパラダイムを少しずつ解かしてもらうのは、このような話し方なのだろうと思いました。七田先生は、それまで強固にあった教育に関しての常識や思い込みを、年月をかけて新たなものにしようとし、実践してきたかたなのですから、当然と言えば当然なのかもしれませんが、話をうかがいながら何度も頭の下がる思いがしたものでした。

世界には七田先生と同様に、常識をくつがえした偉人が何人もいますが、この10年ほど僕が研究しているのはピエール・テイヤール・ド・シャルダン(1881〜1955)という人です。『現象としての人間』という本を書いたことで有名ですが、神父でありながら地層学者であり、古生物学者でもありました。テイヤールはカトリック神父のため、大きな矛盾にさいなまれます。自身は進化論を信じているが、神父という立場がそのことについての発言を邪魔します。凡庸な人物であればここであきらめ、神父をやめるか、科学者をやめるかしたでしょう。しかし、テイヤールは相いれないふたつの立場を保持しながら、それぞれの思想を深めていきます。そして、身の回りに生じる逆境を、次々と好機へと転換していくのです。

たとえば、ヨーロッパで彼の発言が問題になったとき、カトリックは根回しをしてテイヤールを北京に送ったようです。北京に行けば人の噂も静まるだろうと考えたのでしょう。ところがそこでテイヤールは次々と古生物学や地層学についての発見をし、ついには北京原人の頭骨の発見にまで関わります。その結果シトロエンがスポンサーとなり、車での中国大陸横断を果たし、それが映像にもなり、広い層の人たちに知られるようになってしまいます。このような状態になるとカトリックの神父といえども、進化について公で何度も話をする機会に恵まれます。当然その内容を出版することを望まれるのですが、カトリックが許してくれません。

シャルダンの著作は生前出版されることがなかったのですが、死後、彼の思想を大切に思った有志が集まり、テイヤール遺稿刊行委員会を結成し、そこが次々と出版し、欧米諸国ではベルクソンやアインシュタインと並び称されるほどの驚きをもってこの著作集は受け入れられました。

テイヤールがどのように当時の人々の常識をくつがえしていったのか、そして、そのことがどう右脳開発と関係があるのか、あと二回の原稿に簡単ではありますが書かせていただきます。

第二回 進化の頂点はキリスト  2013年8月号掲載

テイヤールはあらゆる生命が進化しているので、当然人間も進化し続けているものと考えました。生命が様々な生命の連なり(バイオスフィア=生命圏)のなかで進化するように、人間もまた人間の連なり(ヌースフィア=精神圏)のなかで進化し、ヌースフィアの進化が極まったとき、キリストのような人たちが現れると明言、その進化の到達点をオメガポイントと呼んだのです。

カトリックはその思想を危険視しました。何しろその考えを受け入れると、猿が人間になり、人間がキリストのようになるというのです。当時の感覚ではとても受け入れがたいことでした。そのため、テイヤールの著作は出版を許されず、コレージュ・ド・フランスの教授になるよう依頼されたことも認めてもらえませんでした。普通であればカトリックを恨んでも当然でしょう。テイヤールは苦しみました。ことあるごとに出版許可の申請を出しましたが却下され、その度にカトリックの決断を受け入れ、逆らうことはありませんでした。

テイヤールの思想は友人知人に手紙で伝えられ、講演をあちこちで依頼され、静かに広がっていきます。多くの人にその思想は驚かれ、流布された結果、彼の死後、その著作は爆発的に受け入れられます。生前、テイヤールは苦難の淵に立たされる度に、どのような試練も神の思し召しであると考え、受け入れました。博物学者のテオドール・モノーはテイヤールのことをこういいました。
『キリスト教が真に実践されたきわめてまれな信者の一人である』

テイヤールの死後、カトリックで論争になったのは当然のことです。現在でもその思想を認めるか否かで考えが分かれるようです。しかし、カトリックのなかでも認める人たちはいました。まだテイヤールが存命中の1950年、「極東の精神的寄与」という論文が、まずは《ユダヤ思想》誌にT・Cという頭文字でこっそりと発表され、それをイエズス会経営の上智大学「モヌメンタ・ニッポニカ」誌がグロータース神父の紹介文を付けて再掲載したのです。その縁があったためか、現在では上智大学理工学部および大学院理工学研究科に『テイヤール・ド・シャルダン奨学金』が存在します。注1

科学と神学はそもそも相容れないものでした。ところがその可能性をテイヤールは開いたのです。その論争はいまでも続いています。しかし、進化論が常識となった人々にとっては、テイヤールの考えはとても自然なことに思えるのではないでしょうか? すべての人間がキリストになれるとは思えませんが、少なくとも多くの人が飢餓状態から解放され、自由に学び、国境を越えて人間関係を持つようになると、キリストの伝えていたことで大切なこと、つまり「隣人愛」「慈悲」や「信じる心」などが常識となり、世界的につながった文明が現れてくることを期待しても不思議ではありません。ダライ・ラマ法王はすべての宗教にはコンパッション(共感・同情)があり、この思いが世界的に広がることで人間は進化すると述べました。テイヤールが指摘したことではありませんが、宗教の枠をも超えてそのつながりが広がればと僕は思いますし、そう期待する人は多いのではないでしょうか。

宇宙に存在する原子がつながり分子となり、それらが複製子となったときに遺伝子が生まれ、それによってもたらされた生命は魚類から爬虫類を経て哺乳類へと進化し、ついには人間が生まれます。人間もまた進化すると考え、進化の極まった人たちがキリストのような愛を携えていたとしたら、どんなに素晴らしいことでしょう。

テイヤールは、誰でも自分自身の中に神や宇宙の作用があり、完成された何者かへと進化していく存在であることを明言したのです。

第三回 オメガポイントと右脳教育  2013年9月号掲載

チベット密教では曼陀羅の観想をおこないます。曼陀羅に描かれている如来や菩薩を見ながら、または心の中で思い描きながら、曼陀羅に対応するお経を読み、曼陀羅の意味するところを深く体験します。お経に書かれている如来や菩薩の物語に自分を重ね合わせ、あらゆる如来や菩薩も、立場や境涯が異なれば見える景色も感じる感覚も違うものになることを体験していきます。そのような修行をすることはとても難しく、ほんの一握りの選ばれしひとしかできないものでした。しかし、現代のようにメディアが発展すると、様々なドラマが作られ、見ようと思えば見きれないほどの物語に触れることができるようになりました。人々は様々な物語に触れることで、立場を変えれば見えることも感じることも違うものであることを、理屈ではなく肌で感じるようになって来ています。それによって昔よりは「隣人への愛」を容易に実行できる環境を整えていると言えるでしょう。つまり、メディアの発達が共感し合うことを容易にし、テイヤール・ド・シャルダンが言っていた「キリスト者が地球にあふれる状態」、つまりはオメガポイントに少しずつ近づいているのです。

七田先生はかつて右脳教育は「共育感覚」を磨くことだと言いました。つまり感性を豊かにすることで、多くの人と共感し合い、育て合い、困難な問題にも無理なく乗り越える解を見つけ合う能力を育てることこそが右脳教育だというのです。それは子供に限らず、大人もそのような感覚を、子供より広い視野のもとで身に付けることを意味します。

いっぽう、テイヤールの言っていた、キリスト者があふれるオメガポイントも、つまりは共感し合える人であふれる世界だと言えるでしょう。人は立場が違えば利益が違い、そこに摩擦が仕方なく生まれてしまうものですが、もしあらゆる人がお互いに共感し合える感性を持つことができれば、立場の違いによって生まれる摩擦もきっと低減することができ、さらには互いを力づけ合うような関係を生み出す基礎となるでしょう。

誰かが誰かの存在を搾取する社会ではなく、それぞれの利益を分かち合うことに喜びを見いだし、互いの力で支えあいながら個人では行き着きようのない社会を発展させる。それが常識となったとき、いまの僕たちには思いもつかない世界が動き出すはずです。

1968年、アポロ八号が撮影した地球の写真によって、人類は小さな星のひとつに共生していることをはっきりと認識しました。そこに住んでいる生命すべてを丁寧にイメージすることは難しいことです。しかし、チベット密教の僧侶たちが曼陀羅を観想するように、地球全体を観想することで、いままでにはない共生の可能性が生まれてくるでしょう。そのために右脳教育による共育感覚が大切なものになり、地球上の生命をひとつひとつ丁寧に感じるために、イメージ力が重要な意味を持つようになるでしょう。

目の前の人や国とどんなに対立していたとしても、右脳教育による一瞬の洞察から、その対立が地球全体に対して何を生み出すかという視点に立つことで、自分個人や自国の立場に固執するだけではない、新しい可能性を開くことができるはずです。テイヤール・ド・シャルダンはそのことを、彼の生きていた時代、彼の立場から表現できる言葉で伝えたのだと思います。

ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの本
『現象としての人間』 みすず書房刊
『神の場』 五月書房  ともに美田稔訳

注1 ウィレム・A・グロータース神父とテイヤールの縁は、1940年日中戦争中に外国人収容所で出会い,『神のくに』などの著作を入手し,勉強会に参加したと『テイヤール・ド・シャルダン』竹田誠二著のp166に書かれている。

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