日本が解体されること

内田樹翁がBlogに朝日新聞に掲載した原稿を掲載している。そのテーマは『「国民国家としての日本』が解体過程に入ったということ』。かなり衝撃的だ。こちらを読めばどういうことかがわかる

すでに南米はかなり解体されている。もちろん政府はきちんとある。しかし、それは建前の政府であり、自国民のためにある政府とは質が違う。それを徹底的に排除しようとしたのがチャベスだった。チャベスは自国民のための政府を作ろうとしたが、その結果、ある程度の成果はあったが、道半ばで倒れてしまった。チャベスの行動をきちんと知ると、そら恐ろしくなる。もし日本の首相が日本国民のためになるように働けば、ひどい目にあわされる状況なのではないかと。安倍首相が聞いたら「はっは」と笑って、「そんなことないですよ」と言うのが目に浮かぶが…。

南米がどのように解体されていったのか、それは『収奪された大地』に詳しく書かれている。もう古い本だが、きっといま売れるようになってきているだろう。日本の未来がどのようになるかが読み取れるからだ。どんなことが起こるのか、とても簡単に書くとこうだ。まずは議員や高所得者が優遇されるように制度が作られ、その利益追求の結果、国内の利益が海外に流出する仕組みを整備することになる。はじめのうちは議員や高所得者は潤うが、下支えがなくなればジリジリと追い込まれ、さらに多くの条件を呑まなければならなくなり、結果として国力はほとんど海外資本に持って行かれる。いまの日本はその地獄への入口に立たされているような気がする。

僕たちは敵はアメリカだと思わされているが、単なるアメリカではない。グローバリゼーションと効率化、そして「正しい利益追求」から生み出されるオバケだ。昔のように特定人物のせいにはなかなかできない。それぞれの立場で自己利益を追求していった結果がオバケのような状態になっている。

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水五訓? 水六訓?

東北Blogs.com(現在は廃止)のピックアップをアップするために、ほぼ毎日のように東北のBlogを100以上読んでいる。そのなかに「続・雨ニモマケズ風ニモマケズ」というBlogがある。現在東北で復興作業をしているボランティアのかたのBlogだ。そこに昨日「井戸のヘドロ出し」という記事がアップされた。その記事の中に水六訓というものが出てくる。

【水六訓】

・あらゆる生物に生命力を与えるは水なり。

・常に自己の進路を求めてやまざるは水なり。

・如何なる障害をも克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性とを兼ね備えるは水なり。

・自から清く他の汚れを洗い清濁併せ容るの糧あるは水なり。

・動力となり光となり、生産と生活に無限の奉仕を行い何等報いを求めざるは水なり。

・大洋を充し、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪と変じ、霰と化してもその性を失わざるは水なり。

哲学者 笹川良一翁のことば

しかし、この言葉、どこかで聞いたことがあるのだが、そのうろ覚えの記憶によると、歴史上の人物の言葉だったと思った。それでネットを調べる。まず最初にヒットしたのがここだった。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」。同じ人が以前に書いたBlogだった。そこにもまったく同じことが書かれている。「この人は2005年から間違っている」と思った。

二番目にヒットするのがここ。(現在2018年には存在しない)これを発見したときには気がつかなかったけど、実はこの記事も同じ人が書いている。

三番目にやっと正しいことを書いていると思われる記事が見つかった。(こちらも現在2018年には存在しない)

<水六訓>  伝、黒田藩主黒田如水

と書かれている。

「そうそう、黒田如水」と思い、さっそく間違いを直してもらおうと思った。グーグルでトップに出てくることが間違いでは、間違いが広がってしまう。ところが「続・雨ニモマケズ風ニモマケズ」にはコメント欄がない。そこでtwitterのIDが書かれていたのでtwitterからコメントした。

@mtzao いつも「続・雨にも負けず…」を読んでいます。「井戸のヘドロ出し」の記事に「水八訓」を「笹川良一翁のことば」としていますが、それは黒田藩主黒田如水の言葉です。ネット上に間違ったことは書かないでください。拡散してしまいます。お願いします。

ここまでわずか二分程度だろう。東北のBlogを読む速度でサクサクとやってしまった。しかし、twitterを発してから、何かが心に引っかかった。間違いを指摘したにしては、あまりにも簡単すぎやしないかと。だいたい黒田如水についてほとんど僕は何も知らない。かつてどこかのサイトで「水六訓」について読んだことがあるという程度だった。気になったので「黒田如水」を調べる。「黒田孝高」としてwikipediaにあった。そこには水六訓は出て来ない。しかも、その人の生涯を読むと黒田藩主になったということは書かれていない。「あれ?」と思い、Googleに戻り「黒田如水 水六訓」で調べると、上にヒットしたふたつは「水六訓」と書かれているが、それから下はほとんど「水五訓」と書かれている。「なんだこれは?」と思ってしまった。

水五訓はこう書かれている。

水五訓(水五則)

一つ、自ら活動して他を動かしむるは水なり

一つ、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり

一つ、常に己の進路を求めて止まざるは水なり

一つ、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり

一つ、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり
雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を
失わざるは水なり

似ているが、ちょっと違う。「あらら」と思った。そこで「笹川良一 水六訓」と調べた。すると東京・三田の笹川記念会館や志摩のB&G海洋センターに「水六訓」の看板があることがわかった。

もっと調べると、もともとの「水五訓」も、黒田如水の言葉かどうか定かではなく、頼山陽という説もあるそうです。

ネットのおかげで便利にはなったけど、間違いは流さないようにしないとね。twitterの続きはこう書きました。

@mtzao 僕の勘違いのようです。すみません。黒田如水の言葉は「水五訓」なのですね。それにひとつ足したのが「水六訓」のようです。知りませんでした。

もっと正確に書くならひとつ足しただけではありません。言葉は現代風に書き直してあります。でも、これだけ似た言葉があるとするなら、僕ならその言葉を自分の言葉として看板までにはできないなと思った。しかしそれ以前に、僕自身がよく調べてからBlogを書かなければ。

twitterで気づいたこと

新しいメディアが登場するたびに、僕たちが使っている言葉は変化していく。その変化はゆっくりとなされるので、なかなかそれに気づきにくい。

たとえばラジオが登場したとき、フランスの哲学者ピカールは、かつて言葉が発せられれば誰かが聞こうとしたものだが、ラジオが言葉を垂れ流すようになって、必ずしも聞こうとはしなくなったというようなことを本に書いている。

同様にtwitterも、それを使うことに慣れることで、言葉に変化が現れている気がする。

僕がはじめて雑誌に原稿を書いたとき、とても不安だった。誰が読んでいるのかわからなかったから。それまで僕が書く文章は、必ず誰が読むかがわかっていた。ところが、雑誌に書くようになってから、まったく誰が読むのかわからなくなった。ネットに書くとなおさらだ。メディアは人の機能の拡張だ。僕が書いたことがたくさんの人に届くことがメディアにとっての善とされるが、伝えた言葉が返ってくることこそが大切なことだと考えると、一方的に伝える言葉はとても空しく感じてくる。twitterでフォローしてくれる人を増やそうとするとき、伝えた言葉が返ってくる感覚が鈍磨する気がする。僕の声が届く範囲はそれほど広くない。だけど、メディアを使うことでその感覚が麻痺させられる。フォローする人を増やそうとしている人は、増えたフォローしてくれている人の声を聞こうとしているのだろうか? もし拡声器を使って、多くの人に一方的に伝えることだけを考えている人がいたら、それはとても醜悪に感じる。twitterでフォローしている人を増やすことだけを考えるというのは、それに似ている気がする。

そんなことに気づく僕が、そのような欲望を持ったことに他ならないのだが。。。