Blogは誰が読むのか

Blogは誰でも読めるように書きますから、なるべく多くの人に読んでもらいたいですよね。そのためにせっせとリンクを張ったり、読んでもらうための工夫を重ねるものですが、誰にも読んでもらわなくても結構と開き直るのもひとつの手です。

こうやってせっせと書いているBlogのデータは将来どうなるかを考えたことがありますか?

きっと100年以上経つとこれらのデータは歴史の検証に使われるようになるでしょう。

たとえば、江戸時代の庶民がどんなことを考えていたのか、それを知りたいと思っても、書物になっていないことについてはほとんど知りようがありません。ところが、これから200年後の人類は、200年前の庶民が何を考えていたかを知りたいと感じたら、ネット上に残されたBlogなどの記事を収集すればいいのです。

でも、200年前のデータがネット上に残っているとは考えにくいですよね。ところが、それらを蓄積している人たちがいるのです。かつてはここでやっていました。http://www.archive.org/web/web.php

しかし、最近ではデータがあまりにも大きくなって追いついてないようです。

いまではアーカイブをGoogleがやっているのだかとか。実際に僕はどのようにそれがおこなわれているのか知らないのですが、どなたか御存知でしたら教えてください。

さて、ネット上にすべてのアーカイブができているとして、僕たちがこうしてせっせとBlogに文章を書いていくと、未来の誰かがきっと読むのです。本というものは紙が劣化してなくなるともう読めませんが、ネット上に書いた文字は、どこかのコンピューターのなかで生き続けるのでしょう。僕たちの感覚から言えば、紙の文字の方がしっかりと存在しているように感じますが、実際にはBlogに書かれた文章は、果てしない数のコンピューターに分散され、どこかに残されるのです。

これからますますPCの数が増え、使用用途が増え、メモリーが増え、記憶媒体が増え続けることで、紙でするより確実に保存されていくでしょう。

ずっと昔の人たちは石に刻んだ文字を一番権威があると考えていました。現代でそのように考える人はほとんどいません。同じように、紙に書いた方が保存できるものと思っていたものが、いつの間にかネット上に置いた文字の方がよっぽど確実に残されるようになるでしょう。

きっとBlogは僕たちが想像している以外の読者に、将来的には読まれていくのでしょう。もしそうだとすると、いまの僕たちには当たり前すぎてわざわざ書かないようなことを丁寧に書いておくと、未来の読者は喜んでくれるかもしれません。

縦書きブログについての簡単な考察

ブログは現在すべて横書きですが、縦書きのブログがあったらそれをぜひ使いたいと思っています。そこで、もし縦書きのブログがあったら、それがメディアとして何を伝えるのか考えてみました。マクルーハンが「メディアはメッセージである」と書いてますが、縦書きブログがどんな「隠されたメッセージ」を発することになるのかについての、とても短い考察です。

縦書きブログについて考える前に、横書きのブログがどんな隠されたメッセージを発しているかについて考えましょう。

まず横書きのブログはその多くが最新の書き込みを一番上に置き、古いものほど下に行き、さらに古いものはトップページからは消されて、何かの方法で探さないと読めなくなっています。ブログによってそのアクセス方法はいろいろとありますが、一般的なブログは時系列で追えるようにセットされています。そして、古い記事ほどアクセスが難しくなっています。多くの場合、トップページの下に「前のページへ」というリンクがあり、それをクリックしていくことで次第に古い記事にたどり着けるようになっています。だから古い記事ほど何回もクリックをしなければなりません。そのことはつまり古いものの価値が、新しい内容の価値よりないことをそれとなく伝えているのです。最新の記事がもっとも価値があり、過去の記事ほど読みにくいのですから。しかも、古い記事が下に流れていくことで、あたかも地面に埋もれていくような感覚を、静かに読者へ伝えているのです。もし机の上で横書きのブログを読んでいたとしたら、過去の記事はすべて机の下に流れていき、それはやがて土の中に入り、土と一緒に腐敗して、いつしか大地の養分となるようなイメージです。

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twitterでいつの間にか水を飲んだ日本人

『スーフィーの物語』という本があります。この本にはスーフィーたちが精神的成長を得るために伝承されてきた話がたくさん紹介されているのですが、そのなかにこんな話が登場します。

昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時が来ると、特別に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、人々を狂わせてしまうだろう、と。

ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵し、水の性質が変わる日に備えた。

やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸は干上がり、警告を聞いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れはじめたのを見て、男は街に戻っていったのだった。

人々は以前とはまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったのである。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われていることに気づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともには聞こうとはしなかった。

男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとはしなかった。隠れ家に行って、貯蔵していた水を飲んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えたり、行動することに耐えられなくなり、ついにある日、新しい水を飲む決心をした。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄えていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気から奇跡的に回復した男と呼ばれたのであった。

『スーフィーの物語』 イドリース・シャー編著 美沢真之助訳 平河出版社刊 「水が変わったとき」

世の中には時々、これに似た状況が生まれることがあります。はじめにそれを体験したのは環境広告についてでした。かつて広告会社に勤務していた頃、日本にはまだ環境広告はありませんでした。そのことについて話をすると「日本ではそんな広告をやろうとする会社はない」と馬鹿にされました。ところが、それから一、二年後には環境広告がぽつりぽつりとおこなわれるようになり、いまでは当たり前になっています。

同様に僕が最近驚いていることは、「自分の気持ちをオープンにBlogに書いている人」が多くなったことです。かつてヒーリング・ライティングというワークショップをはじめた頃、自分の心の中のことを自由に書いて下さいと言っても、多くの人は「そんなことしたことがない」「人前で自分の気持ちをさらすなんてできない」と抵抗されたことがありました。ところがいまではみんなネット上で、偽名を使っているかもしれませんが、さらさらと書いています。世の中変わったなぁと感じます。以前は自分の思ったことを書くためのノートを持ち歩いているというだけで、変な人と思われました。いまでは落書き帳のようなものを持ち歩いている人はたくさんいます。

世の中は、意識の持ち方でやっぱり変わるのですね。

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