門松の話 その2

前に門松の話を書いてからもう五年にもなる。早いものだ。門松に関して知ることで、いろんなことについて考えが深まった。

まずは柳田國男の説を読んでみよう。

門松は年神様の依代と言われるが、そもそも年神様がどのような神様かを柳田國男は『新たなる太陽』で説いている。その本で年神様の正体がいったい何であるか、いくつか説を提出しているのでそれを簡単に書いてみる。

1.田の神と同じものである。
2.年の初めに祭る神である。
3.2.が発展して歳徳(としとく)という神様になった。これはおそらく先祖霊であろう。

なぜ田の神と年神様が同じものなのか? そうだと言われればそうかもしれないが、現代の人間にはピンと来ない。昔はどこでも田んぼがあり、田の神もいてそれと混同されたのだろうと勝手に推測はできるが、果たしてそれが正しいかどうかの確証はない。柳田國男は「正月の行事の中には、稲作田植に伴なう信仰に拠らないと、説明しがたいものが幾つかある」という。そして、それが田の神と年神様との混同を招いたかのように書いてある。ただし明言はしていない。こんな表現になっていて、はっきり書いてよという気持ちになる。

つまりは昔の年神信仰のどの部分までが、現実の田植開始の季節から、新たに普及した暦の正月の方へ引き移されたかということが、ちょうど近世の太陽暦採用の際のように、今一つ以前の陰暦施行の場合にも問題になるので、日本のような南北に伸びた国では、いつもこういう風に中央の制度が民間暦の混乱を起こさせずにはおかなかったのである。
『新たなる太陽』 柳田國男全集16巻 ちくま文庫版

こうやってぼかされている。しかし、いろんな地方でいろんな解釈があったのだから、断言できないのは仕方ないだろう。そして、お盆の精霊棚と正月の年神棚の飾り方が似ていることを指摘した上でこうも言っている。

 もちろん現在は一方を福の神の御座のごとく、他をご先祖の陰気な霊を迎えるものに解してはいるが、これは秋の祭だけを僧侶に指導させた結果であって、盆という語が採用せられてから変わったのである。盆は仏教に説くところでは寺に供物を送ることだ。ゆえにもし盆の儀式がこの名前とともに始まったとすれば、手本があるわけだが実は日本の自己流である。
何か必ず隠れたる理由があることと思うのは、盆でも正月でもその臨時の棚の一隅に、ミタマサマへの供物として別に三角に結んだ十二の飯を上げることである。
ミタマは精霊のことでなければならぬのだが盆の方ではすでに主賓を家の仏様としているから、これを餓鬼だの三界万霊(さんがいばんれい)だのと名づけて、招かざる御相伴の食客のごとくいう地方が多い。それでは年神棚のミタマの方が一段と説明が付かなくなる。そこで全体一年に二度ずつ、昔から家々を訪ねてきた神様は、たれかという問題が起こって来る。福の神かと思うと夷(えびす)・大黒の祭は別にする。歳徳神と名づけて弁天様のごとき、美しい女神を想像する者もあるが、古風な東北の田舎などで、正月様と称して迎えたのは、高砂の能に出るような老男と老女で、左義長の煙に乗って還って行く姿が見えるなどともいった。暮の寒い風がぼうぼうと吹くころに、
    正月様どこまで
    何とか山の下まで
などと待ちかねて子供たちが歌っていたのは、やはり家々の元祖の神霊であって、それが無数のミタマサマを引率して、著しい季節のかわり目には我々の家庭に新たなる精力を運び込むものと、昔の人たちは考えていたらしいのである。」
『新たなる太陽』 柳田國男全集16巻 ちくま文庫版

このようにして年神様は先祖の霊であろうと示唆している。

年男という言葉は最近では滅多に聞かれないが、僕の幼い頃にはよく年男が話題になった。なぜそんなことを気にするのかよくわからなかったのだが、昔は年男には仕事がたくさんあったと母から聞いたことを覚えている。そのときのニュアンスでは、年男は一年間、町や近所の仕事をいろいろとさせられたのだと言う。『新たなる太陽』には、前の文(昔の人たちは考えていたらしいのである。)に続き年男の話が登場する。

 だから春を迎えるという家々の準備には、一通りならぬ謹慎があった。衣服も食物もともに皆晴れのものを用い、言語挙動までも清浄をもっぱらとしたのは、決して縁喜という類の幼稚なる論理からではない。祭主は当然に家長の役であったが、家にも一国と同じく祭政分離の必要があって、優良なる若者の中から年男が選定せられることになった。年男の権限は土地によって広狭がある。それを比較して見ると新年の事務の何であったかがわかる。東京などでは豆をまくのが年男のように思っており、堅い家風の家でも、新しい手桶に若水を汲むまでを年男の役にしているだけだが、信州・越後その他の村では、なかなか容易ではない骨折である。注連(しめ)の内を通じて、または少なくとも改まった食事だけは、女にさせぬところがある。七草や十五日の小豆粥だけは、男がこしらえると定(き)まっている家もある。それを神々と松飾りに供えるのは、いうまでもなく年男の任務で、そのためにたびたび水を使ってこの寒いのに身を潔(きよ)めなければならぬ。それから十五日を中心としたいろいろの儀式、たとえば胡桃焼の年占(としうら)でも、蛭(ひる)の口焼、蚊の口焼、鳥追い・ムグラ打ち、なるかならぬかなろうと申しますに至るまで、何人が行うも随意というものは一つもなかった。
『新たなる太陽』 柳田國男全集16巻 ちくま文庫版

これを読んでなるほどと思った。母は新潟出身だ。「信州・越後その他の村では、なかなか容易ではない骨折である」と書かれている。それが母の印象に残っていたのだろう。

さて、こうしていろいろと年男の仕事が列挙され、ついに御松迎えに話が及ぶ。年男の任務で重大なものが、山に入って松の木を切ってくることなのだ。それが門松となる。切った松はすぐに立てるのではなく、一昼夜清浄な場所に安置してお神酒を供える。門松を門前に飾るのは、昔からのしきたりの変化だそうだ。地方では納屋、馬屋の入口や台所、そして特に年神の棚に結びつけるのが大切だったそうだ。

 略式でないものは必ず心木の三階松で、これにも節の食物は必ず供えるのを見ると御松様を迎えるといったのには意味があった。すなわち本来は正月の神様が木によって代表せられ、これを目に見えぬ霊の宿りと考えたらしいのである。そうすると盆の魂棚(たまだな)に必ずキキョウ、女郎花(おみなえし)等を立てること、これを盆花と称して定まった日に野に出て採って来る習わしがあるのも、同じくまたこの日の神を迎え申す方式だったと見られる。
『新たなる太陽』 柳田國男全集16巻 ちくま文庫版

ここにやっと門松が依代であったことが登場した。だけど柳田國雄でさえ「霊の宿りと考えたらしいのである」と、断言を避けている。なぜなら、地方によって考え方が微妙に異なるからだ。しかし、このような記述もある。

 正月に松を山から迎えて立てるというだけでは、全国大部分の一致した風俗だけれども、その感覚はかなりちがっている。第一に松をお松様といって敬語を付けて呼ぶことは、東京などの人にはおかしかろう。これを迎えに行くのは家の主、そうでなければ年男の役で、新しい荷縄を持ち、餅や洗米(あらいよね)を携えて行って、伐る前に木を祭る処も多い。場所は必ず家よりも上手の山、そうして吉方明(えほうあ)きの方から迎えて来るものときまっていた。一夜松といって前日に迎えることを嫌い、たいていは二十八日以前の好い日を選んで行く。松を立てる所は神棚・仏壇の前、総ての入口から井戸・便所、土蔵や厩舎の前にも立てる。その中でいちばん大きな五階・三階の松を立てる所も、必ずしも門口とは定まっていない。
家の中の大黒柱、もしくは内庭の臼柱に添えて立てて、白紙削り花で飾る村もあり、これを年神松ともまた正月様ともいっている。すなわち春の神がこの木に依って、家々に降りたまうと信じていたのである。だから最も大きな松を表入口の正面に立てた場合にも、三十日・六日・十四日等の宵と翌朝には、やはり年男の役として、神棚に上げたと同様の正式の食物をこれに供える。
そのために伊豆の島々ではオダイゴキ、静岡・三重等の諸県ではツボケサマ、四国のある土地ではワンゴ、信州・飛騨等ではヤスノゴキまたはイヤシッポなどという藁製の椀形のものを、その松の木の中ほどに結び付け、これへ供物を上げてまわることを、御養(おやしな)いといっている地方が多いのである。東京の附近でも、南多摩郡などにはまだ門松に皿結びを付ける村もあった。ただしこれにはもう名前がなく、また食物を供えるということもせぬようである。関西の方へ行くと、この藁の養い壺は付けぬ変わりに、紙に洗米を包んで結んでおく風は処々にあり、これをオヒネリともまたオトビとも呼んでいる。
正月には家の主要な道具・農具・炉の鉤(かぎ)にも水汲む桶にも、または牛馬の小屋にもこのトビを付け、同時に神詣でにも年礼の訪問にも、すべて同じものを持って行く処はまだそちこちに残っている。そうしてこれがことごとく一つの手桶の中から分け取った米である。米を大切にしてこれを正月の欠くべからざる食物としていることは、いかなる畠作がちの山村でも、米を作らぬ漁村でも一様であった。門松はつまり正月に降りたまう神々と、この貴い穀物を相饗(あいあえ)する式作法だったのである。松が青々として目に快い植物だというのも、考えてみれば最初からの感覚ではなかった。
つまりはこういうめでたい日に、神を迎えた思い出が楽しかったのが元で、そのもう一つ以前に遡(さかのぼ)ると、特に暖かな火と明るいあかりとを、冬の生活にもたらす木だったということが、松を年神の依りたまう木と考え出した元かと思う。古い日本語ではマツというのは火のことでもあった。『新たなる太陽』 柳田國男全集16巻 ちくま文庫版 下線はつなぶち

なぜこのように何度も似た話が登場するのかというと、『新たなる太陽』は様々な新聞雑誌に掲載したエッセイを一冊にまとめたもので、ニュアンスの異なった似た話が何度も出てくる。読んでいる側としては、「はっきり書いてよ」と思うが、実は門松がどういうものか、未だに説がいろいろとあり、はっきりとしてないというのが実状のようだ。先日読んだ吉野裕子の全集にはこう書かれていた。

門松は日本全国に共通する年頭行事であるが、その起源については明らかにされていない。
吉野裕子全集第8巻 これは1986年に書かれたもの

それでも知りたいと思うから、まだまだこの話を続ける。

さて、門松が正月に降りて来る年神様の依り代だとすると、そこに神様が降りてくるための何か儀式のようなものがあったのではないかと思うが、それは現代ではほととんど失われてしまった。そのことについて柳田國男は『新たなる太陽』のなかに「年籠りの話」を書いている。そこから一部抜粋する。

 西洋の年の境は夜中の零時かも知れず、支那では朝日の登りを一日の始めと考えていたかも知らぬが、我々の一年は日の暮とともに暮れたのである。それゆえに夕日のくだちに神の祭を始め、その御前に打ち揃った一家眷属が、年取りの節の食事をしたのである。日本人の祭典には必ずオコモリということがある。神の来格(らいかく)を迎えて、謹慎して一夜を起き明かすことである。今日でも神社仏閣に籠りに行き、または夜行の汽車で参宮する風は残っているが、家屋の中ではもうこの習わしを廃して、床をとって一度はぐうぐうと寝てしまうのである。
わずかな昔の名残としては、大晦日の晩に早く寝ると皺がよる。または白髪になるといって起きていることを奨励する。あるいはこの夜長く起きていれば長生きするといい、また主婦だけは水の恩を送るために、夜明かしをするものだなどと佐渡でもいう。一方では元旦の宮参りに、一の庭を踏むと称して隣人と早きを競い、鶏も鳴かぬうちから家を出で、若水も通例暗い中に汲みに行くから、働く人たちは寝るひまはないのである。しかし正月が信仰の外になると、用のない者には起きていることが骨折りで、あるいは大火を焚くとか昔話をするとか、何かこの晩にふさわしいつつましやかな遊びをする。村によっては子供を外に出して、早く寝た家を起こしまわって騒がせる風もある。大阪附近の例は多くは小正月、すなわち十五日の前夜になっているようだが、これをヨネンコウというのは夜不寝事であったのを、今は誤って幼年講とも解している。
主婦は少なくとも帯を解いて、休息することはいけないと考えられていた。東北は一般に家の大田植の日に、雨が降ることを主婦の恥としている。それは年取りの晩に打ち解けて寝た罰といわれ、遠慮のない人は、おらも大晦日に寝るような楽なくらしになりたいなどと、あてこすりをいって若い女房を赤面させる。『新たなる太陽』 柳田國男全集16巻 ちくま文庫版

年籠りとは、年が明ける晩、家主が神社に集まり、一晩寝ずに過ごしたことをいう。柳田國男は籠りが、祭で一番重要なことだと考えていた。『日本の祭』という本に書かれているのだが、宵宮のことを「オコモリ」「コモリ」「オヨゴモリ」「ゴヤゴモリ」などと呼んでいるところがあったそうだ。つまり正月は単なる季節や月日の一区切りというだけではなく、祭の一つだったのだ。だから神様が降りて来る。時季の一区切りというだけであったら、年神様は降りて来ない。降りてきた神様と侍座するのが年籠もりだったのだろう。『日本の祭』にこのように書かれている。

 九州の方へ行くと、宵宮をゴヤゴモリなどという語があって、大祭には夜分社殿に集まっているが、別に一方に日ゴモリ・昼ゴモリを行う回数は多く、これには女や年寄の比較的閑な人たちが、重詰めの弁当におみき徳利を携えて、御宮に集まって来て食事を共にする。これをまた宮籠りという名も存するが、一般にはただ一種の懇親会のように思っている人が多い。その期日もちょうど春秋の最も好い時候の、用のない日を択(えら)んで集まるので、土地によっては会場に御宮の拝殿を借用するくらいに、思っている人もなしとせぬ。下ノ関その他の山口県各地はことにそういう風がある。しかしこうなってしまっていても、なお参集の人々は、まず始めに神様を拝むだけではなく、持参の酒や食物をめいめいに椿の葉などに載せて、御初(おはつ)を神に供えて、さてその後で分配しまた互いに交換して食べるのである。以前はこれが夜分の行事であって、年とった人たちが神社で夜あかしをしている処へ、家から娘や孫が肴(さかな)を届けて来るのが、しおらしい彼等の務めであったと、長門(ながと)の見島(みしま)などでは言っている。あるいは特にその座中へ神職を聘(め)して、祭典祓いをしてもらってから、共同の飲食を始めるという例も、豊前(ぶぜん)の京都(みやこ)郡などにはあったので、単なる楽しみの寄合でなかったことはこれで明らかである。のみならずこの春秋の定例日以外にも、臨時に祈願なり御礼申しなりがあると、やはり同一の方式をもって宮籠りをしている。それを風ごもり植付ごもりなどと、それぞれの目的によって呼び、また病人のあるときは平癒の御願いに、七人ごもりなどと称(とな)えて、多くの人の祈念を集めようとするにも、やはりまた同一の形を採用していたのである。
つまりは「籠る」ということが祭の本体だったのである。すなわち本来は酒食をもって神を御もてなし申す間、一同が御前に侍坐(じざ)することがマツリであった。そうしてその神にさし上げたのと同じ食物を、末座においてともどもにたまわるのが、直会(なおらい)であったろうとわたしは思っている。ただしこのナオライの語原が、今日まだ明らかでないのだから断定し得ないが、単に供物のおろしを後に頂戴することを、直会だと思っている御社が半分ほどあるのは、どうも心得ちがいらしく思われる。果たして直会が私の想像のように、神と人との相饗(あいあえ)のことであるならば、この飲食物が極度に清潔でなければならぬと同様に、これに参列して共食の光栄に与(あず)かる人もまた十分に物忌をして、少しの穢れもない者でなければならぬのは当然の考え方で、この慎みが足りないと、神は祭りを享(う)けたまわぬのみでなく、しばしば御憤りさえあるものと考えられていた。
『日本の祭』 柳田國男全集13巻 ちくま文庫版

これが祭における「籠り」です。年籠りもきっとこれに近いものだったのではないかと僕は思います。だからこそ、年神様の依代が必要だったし、正月におこなわれる種々の儀式、飾り、典礼が必要だったのだと思うのです。いまとなっては、門松、注連飾り、鏡餅程度になってしまいましたけど。そして、この風習は昔も少しずつ変化していたのだと思います。これらの風習はいってみれば呪術です。呪術はその内容をあまり明らかにはしないものです。そのため、一般の人たちは、はじめは呪術的意味があった何ものかに、さらに別の意味が加わったり、流行の工夫が加わったりして変化して行くのをただ見ているしかなかったのだと思います。だから門松というものがどのようなものか、なかなかはっきりしない。

このあたりで一度区切りますね。続きはまたいつか。続きでは折口信夫の説を紹介し、そのあとで門松がどのように呪術と関係しているのかを書ければと思います。

その1では、ニュピで見たペンジョールから始まりましたが、いつか門松との関係が論じられるようになればと思います。

門松の話 その1

“門松の話 その2” への2件の返信

  1. 門松の最古の文献は、11世紀の『本朝無題詩』という漢詩集です。ネットで検索すると、肥前松平文庫蔵『本朝無題詩』の157コマ目の末尾に載っています。ですから近現代の民俗学的資料をいくら調べても、門松の起原にはたどり着けません。伝承の決定的問題点は、いつまで遡れるのか、検証のしようがないからです。門松といえども立派に歴史の一部なのですから、門松が年神の依代であったという平安時代の文献史料を提示できるのですか。私は年中行事を長年研究していますが、そんな物は見たことがありません。

  2. milk3様
    コメントをありがとうございます。
    門松の最古の文献は、11世紀の『本朝無題詩』という漢詩集なのですね。知りませんでした。ご教示ありがとうございます。
    門松という名前で平安の頃から飾られていたかどうかは知りませんが、松にどのような呪術やお祭との関係があるのかについては、吉野裕子が書いています。
    吉野裕子全集第8巻の『神々の誕生』第二章に「松霊の誕生」という章があります。そちらに詳しく書かれています。
    平安時代の文献資料という訳ではありませんが、その頃の松の意味を読み解いています。
    僕は年中行事の専門家という訳ではないので、間違いもあるかもしれません。また何かあったらご教示ください。
    よろしくお願いいたします。

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