7月

31

アイスコーヒーの氷

かなり以前に、アイスコーヒーの氷をアイスコーヒーで作ったことがある。
それだと溶けてもアイスコーヒーは薄くならない。
だけど、実際にやってみると、あまりおいしいとは思えなかった。
それで気がつく。
アイスコーヒーは濃くないと嫌だが、薄くならないのも嫌なのだ。
最初の一口は濃い方がいい。
だけど飲んでいるうちに、濃いのがくどくなる。
終わりの頃にはちょっと薄いくらいのがいい。

7月

31

黙浴

スポーツジムのお風呂の入口にこう書いてあった。
「黙浴」
要するに黙ってお風呂に入れということ。
思わず笑ってしまった。

7月

29

相方のワクチン接種

相方がワクチンを打った。
あれほどやめろと言ったのに。
母親が施設に入居していて、会うためには打たないとならないからという。
帰ってきて「スパイク蛋白が移るよ」と冗談めかして言うので、「あなたの選択を引き受けるのが僕の仕事だ」と言ったら笑った。

7月

28

20km自転車で走る

若い頃には20kmくらい自転車で走ってもたいしたことはなかったが、最近は楽ではなくなった。
一ヶ月ほど前にひさしぶりに走ったとき、帰ってすぐにソファで寝てしまった。
二度目に走ったときも疲れていた。
三度目はあまりたいしたことはなくなっている。
運動は大切だ。

7月

28

スイカ

シャクッと夏に食べるスイカ。
食べやすく切ってムシャムシャ食べる。
口のまわりにジュースがついてもあまり気にしない。
縁側で食べるときには、種吹き飛ばす。

7月

28

ボッサ・アレグレ

南佳孝のアルバム。
いろんな有名な曲がボサノヴァで歌われる。
力が抜けた演奏でとても心地よい。
海辺で聞くのもいいだろうな、きっと。

7月

25

写真集『水俣』

W.ユージン・スミスとアイリーン・M・スミスの写真集『水俣』を読んだ。
写真集だから普通は「見る」とか「鑑賞する」とかだろうが、この写真集は明らかに読む写真集だ。
記述が深い。
日本では入手困難だが、読む価値がある。
これを読んでから映画「MINAMATA」を見ると、最初の数分で心をつかまれる。

7月

24

共感社会

共感社会ができるのだという。
それに大切なのは「真実」「愛」「コミュニケーション」。
みんな「コミュニケーション」に力を入れるが、「真実」と「愛」が置き去りにされている。
嘘だらけの社会や会社に「真実」と「愛」のレッテルを貼っても、すぐにはがれる。
「膿」がいま、出てきている。

7月

24

東京オリンピック開会式に対する共感

昼にブルーインパルスが飛んだ。
残念ながら五輪のマークを完全な形でカメラに捉えた人はいなかったようだ。
雲があったし、風が強かったのかもしれない。
残念であったが、まだパラリンピックがある。
開会式の式典は、ピクトグラムのプレゼンテーションは面白かったものの、それ以外はいまひとつ僕にはピンとこなかった。
あれだけ人が入れ替わるのだから、トップに立つ人にビジョンも信念も欠けていたのだろうと思う。
下で働いた人は大変だっただろう。
会場の外では、オリンピックに反対する人たちと、警官たちとの間で小競り合いが起きていたとか。
デモをしたい気持ちもわかるが、あれだけ大金を投入したのだから成功させたいという気持ちもわかる。
ピラミッド社会が崩れはじめ、球体社会に移行しつつある。
インターネットが生まれたときからそれは始まっていた。
なのに、IT会社がピラミッドを維持しようとしているのはちぐはぐに思う。
トヨタはさすがだなと思う。
時代の嗅覚がほかの企業と比べて桁違いだ。
いま経験しているのと同じような難局が、これから数年、あらゆる分野で起きるのだと思う。
社会のメタモルフォーゼのためには必要なステップなのだろう。

7月

22

東京オリンピックに対する先見の明

東京オリンピック2020オリンピックスタジアムは、観客が入らなくても目立たないように観客席が彩色されている。
先見の明があったな。
誰がオリンピックに人が入らないって考えたんだろう?

7月

21

ボサノヴァ

暑い日にはのんびりしたボサノヴァがいい。
外ではコロナだオリンピックだと騒いでいるが、落ちついた雰囲気に浸る。

7月

20

全体性に触れる

書くのは簡単だが、実行は難しい。
そもそも全体性とは何か?
人間にとっての全体性とは、宇宙のことであり、地球のことであり、国家のことであり、地方社会のことであり、家族のことであり、個人のことであり、それらの総合でもある。
それぞれに支配している理屈は異なり、自分がどの観点からモノを見るかによって現れてくる思いや感想は異なり、その違いに惑わされていると即断即決はできなくなるため、多くの人はそれらの違いについてあまり深くは考えないのだろう。
しかし、長い人生について考えるとき、これらについてじっくりと考える必要がある。
いま僕たちが混乱の中にいるとしたら、この全体性に触れる機会なのではないか?
この答えも簡単に出すべきものではないだろう。

7月

19

シルヴィ・ギエムのボレロ

踊りを見て感動するというのはなかなかないが、これは別格。
たまたまYouTubeに出てきたので見た。
やられた。
2015から2016年のカウントダウンにテレビ東京で放送されたそうだが、オンタイムで見ていたらもっと感動したろうな。
いったい何にこんなに心が震えるのか分析した。
まず、「愛と悲しみのボレロ」の踊りの部分を見ていたというのがひとつ。
「同じものか」と思って見たが、その油断が心を揺さぶった。
男の役を女性がしているというのもひとつあるかもしれない。
バックダンサーたちの衣装の統一にグッときたのかもしれない。
もちろんボレロという音楽にも震えた。
何度聞いてもラヴェルの音の使い方は素晴らしい。
編曲の妙とはこのことだ。
でも、それだけではないと思う。
モーリス・ベジャールが振り付けたからかもしれない。
シルヴィ・ギエムの最後のボレロだったからかもしれない。
1961年に完成したと言われるこの舞踏の、時の重みかもしれない。
シルヴィ・ギエムが東日本大震災のとき来日して踊ってくれたという人々に対する思いだったかもしれない。
最後の舞台に日本を選んでくれた意気込みかもしれない。
とにかく、うまく言語化できない何かがあった。

7月

18

ビールと枝豆

暑い日が続きます。
こういうときにはやはりキンキンに冷えたビールと枝豆ですね。
ビールはきちんと三度つぎしてクリーミーな泡にして、味をまろやかにした上でゴキュゴキュと飲みながら、塩を振ったゆでたての枝豆を食べる。
夏はこれだね。

7月

17

東大寺戒壇院の広目天像

幼い頃、居間に東大寺戒壇院の広目天像の写真が飾られていた。
どうしてこんな怖い顔した仏像の写真を飾っておくんだろうと思っていた。
一方で、パパに似ているとも思っていた。
親父が死んでエッセイを読んでいたら、誰かに広目天に似ていると言われたという話が出てきた。
知っていて飾っていたのかと思う。
自分に似ているという仏像の写真を飾るっていうのは、どういうつもりなんだろう?
広目天の写真をどこかで見る度にその疑問が浮かぶ。
まあ、単純に嬉しかったのかな?

7月

16

サクラクレパス ムーンライト蛍光ピンク

僕は本を読みながら、大切な部分に線を引く。
あとで何かで引用したいとき、正確な文言が知りたいとき「あの本に書いてあった」まではすぐに思い出すが、どこに書いてあったかまではなかなか覚えていない。
線が引いてあると簡単に見つかる。
かつてはマーカーを使っていたけど、ピンクのマーカーだとくどいし、黄色のマーカーだと、時間が経つと見にくくなる。
何かいいペンはないかと探した結果、サクラクレパスのムーンライトというボールペンの蛍光ピンクに落ちついた。
蛍光ピンクで目立つし、線の太さが丁度良い。
ところが、そのボールペンがどうやら製造中止になったようだ。
もうどこに行っても買えない。
ありがとうムーンライト蛍光ピンク。

7月

15

KOMEDA is

東銀座の KOMEDA is という喫茶店に入った。
正しくは is のあとに横長の四角が入るのだが、そんなのどうやって表現していいのかわからないので省く。
その喫茶店で「アボ照り」というハンバーガーを食べた。
アボカドの照り焼きハンバーガー。
肉の部分が大豆でできているが、知らないと気づかずに普通に食べてしまう。
全部植物由来のものしか出さないというのがコンセプト。
KOMEDA is も「コメダイズ」と読み「米大豆」にかけてある。
だからコーヒーのミルクも豆乳を投入。
店員さんの対応が細やかで気持ちよかった。

7月

14

映画「MINAMATA」

試写を見た。
とても面白い。
観客としては満足。
だけど、事実とは違う点がたくさんあって、歴史重視の観点からいえば、これはないだろうと言わざるを得ない。
物語を作る人の観点からすれば、事実をうまくニ時間ほどにまとめ、あっぱれだと言うことになる。
でも、宗教学者のエリアーデがこれを知ったら、とんでもないことをしていると言うだろう。
水俣市が後援をやめたのもわかる気がする。
立場によってこれほど意見が割れる映画は珍しいだろう。
すばらしくバズると思う。

7月

14

ジョージ・ウィンストンの「ディセンバー」

はじめて聞いたのは確か高ニか、高三の時。
通学していた高校のそばに「友&愛」というレンタルレコード屋があり、週に一度はかよっていた。
そこで見つけた。
当時は輸入盤しかなく、輸入してきた「ディセンバー」を貸し出ししていた。
雪面に白樺の表紙が印象的で、しかもわざわざ輸入盤を貸し出していたので、よほどいいアルバムかもと思い、聞いたことのないジョージ・ウィンストンというピアニストの演奏をはじめて聞いた。
最初の曲で大好きになった。
のちに日本版も発売され、レコードを手に入れて何度も聞いた。
それぞれの曲にいろんな思い出がある。
楽譜を入手して、自分でも弾いた。

7月

12

虹を見る

昨日の土砂降りの時、外出先の建物の中で気がつかなかったが、停電して知った。
外に出ると雨は止んでいた。
うちに帰って空を見上げるとひさしぶりに虹を見た。
If you want the rainbow, you gotta put up with the rain.

7月

11

執着はいいものであり、悪いもの

「気持ちいいもの」は執着でもある。
ここに書けば書くほど、その執着は明確になる。
「執着はいいものであり、悪いもの」と知っているから「わざわざそれを書くなんて無駄なことだ」と考えることは簡単だ。
でも実際にやってみると、簡単なことだけではないことが理解できるし、体験できる。
それを「体験してない頃の僕」に説明するのは難しい。

7月

10

執着を見つめる

人間、生きている限り、執着を手放せないのだと思う。
なにしろ生きていることが執着の一つだ。
それすら手放すって、死んでしまうよ。w
あるときからそういう自分を観察することにした。
正しくは「執着する自分を見つめる」ということかな。

7月

9

ゆっくり

歴史をふりかえると、パラダイムの変更には時間がかかることがわかる。
数百年から、少なくても数十年。
そのくらい人間の考え方や行動は簡単には変わらない。
今回のパラダイムの変更も、どんなに早くてもあと十年はかかるでしょうね。
その綱引きが現状なのでしょう。
一時期的にはどちらかが勝つのでしょうけど、結局変わるべき状態に変更されていきます。
多くの人が幸せになるように。

7月

8

山から星へ

昔、宇宙の中心は山の頂上にあった。
だから神様の多くは山にいた。
長い歴史のなかで、いろんな宗教が神様をいろんなところに連れて行った。
いろんなところに神様が現れるようになり、宇宙の中心は曖昧になったが、それでも人間のイメージとしては、山の頂上が宇宙の中心になることが多かった。
ところがある時から、星が宇宙の中心になった気がする。
その星の中心が宇宙の中心でもある。
それはもちろん象徴的なもの。
各個人が宇宙の中心にいて、いろんな存在につながっている。
星と星が重力や電磁波で結ばれているように。
山を象徴とするピラミッド構造を維持したい人は、星を象徴とする多次元的な人とのつながりに困惑し、一生懸命ピラミッドに戻そうとしているかのように思える。

7月

7

農耕神

バリ島の水田には、ほぼ必ずデウィ・スリの祠があるようだ。
僕が見たものは手のひらに載るくらいの小さな家のような形で、背丈より少し低いくらいの柱の上に置かれていた。
日本でいえばお稲荷様のようなもの。
昔は農耕がとても大切にされていた。
だから神様としても祀られる。
世界中に似た神様がいた。
宗教が低く見られるようになって、農耕の価値も落ちてしまった。
食べるものがなくなると困るのに。
農耕神がきちんと祀られているとウフッと思う。