2月

28

全体観を持つ

インターネットというメディアのおかげかもしれませんが、立場が違うと見えるものやことが違うということに多くの人が気づいてきています。
父は「敗者の文学」というのを追求していました。
負けた者から見た世界は、勝った者から見た世界とは違うということを小説の中に織り込んでいきました。
多くの人がそれに気づくことで、正しいとか間違っているとか、そういうことの基準が揺らいでいるように感じます。
その基準が動くことで、さらに多くの人たちが心地よく生きていけるようになればいいと思います。
でも実際にはそのゆらぎがいいことにも悪いことにも作用しているようです。
きちんと区別して行動していきたいものです。
たとえば、個人が感じる歴史と、国が解釈するであろう歴史とは異なり、どちらが正しいかというのは一概には決められません。
だからときどき、自分という枠を離れて、国や地球という視点からものを見ることもいいですし、逆に微細な生物がもし外界を見たらどんなことを思うのかということを空想するのも意味のないことではないでしょう。
そういう解釈を積み上げていったとき、いったい何が現れてくるのか。
それが僕たちの未来を思わぬ方向に導くような気がします。

2月

27

神様はいてもいいし、いなくてもいい

あるとき、神様はいるのかいないのかという話になって、みんないるとかいないとか意見を言い合ったのですが、僕はなぜか「いてもいいし、いなくてもいい」のではないかと思ったのです。
でも、なぜそう思うのかがうまく説明できなかった。
「神様はいるという人がいるし、そうは思わない人もいるから」とは考えたけど、まだあまりうまい説明ではないなと感じていた。
それが、2月24日に秩父でおこなわれた「武甲山未来フォーラム」に参加して、哲学者の内山節さんの話を聞いて、思わず膝を叩いてしまった。「なるほど」と。
そこで内山さんはこんな説明をしたんです。
「ヨーロッパの考え方は霊というものが存在してそれが人や社会を守っていると考えた。ところが日本ではそのようには考えなかった。どう考えたかというと、かつて生きていた死者がいる。その人とどのような関係を取り結ぶのかが重視された。神様を大切にする人には神様との関係ができて神様がいるし、神様なんかいないという人には神様はいない。世の中に男と女はたくさんいるが、夫や妻は一人だけ。それはその人と関係を結んだから。それと同じ」
ひとつの謎が解けてすっきりしました。
この講演の概要はこちら。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/190225-01/

2月

26

憂国

三島由紀夫の小説はいままでに何冊か読んで来たが、『憂国』は心に刺さる作品だ。
高校生から大学生の頃に『仮面の告白』『愛の渇き』『美徳のよろめき』『午後の曳航』『音楽』などを読んだが、学生の僕にはあまりピンと来なかった。
数年前に『美しい星』を読んで、三島の作品としてははじめて面白いと思った。
若い頃、『憂国』だけは読みたくなかった。
危険な小説に思えた。
いまが読むべきときだと思い読んだ。
面白いというよりは、凄いという感じだ。
生々しい。
いたるところで匂いを感じた。
同じ本に『英霊の聲』と『十日の菊』が入っているが、『英霊の聲』も凄かった。
『十日の菊』は少し休んでから読もうと思う。
現代ではあまり使われない言葉が文章の密度を高くしていた。
特に『憂国』では軍隊にいるというのは、こういう人とのつながりかたになるんだろうなと思う。
戦って仲間を殺すくらいなら、切腹して果てるという連帯感。
僕にはとてもできない。
というか、そのように追いつめられた状況をいまの世の中に生み出すべきではないと思う。
三島が切腹した一週間ほどあとで、市ヶ谷駐屯地前を家族みんなが乗った車で通った。
父がそのとき何か言ったが、あまりにも強烈だったので「強烈であった」ということ以外忘れてしまった。
それから何年もあと、フォーカスの創刊号に三島の頭が掲載されていた。
この話のどこが気持ちいいのかと聞かれそうだが、『憂国』が見事だった。

2月

25

聞く耳

話が通じるか通じないかはお互いに聞く耳を持っているかどうかだ。
どちらか一方が聞く耳を持ってないと、互いに話が通じなくなる。
相手が話を聞かないと思うと、聞けとばかりに大声を出したり感情的になったり、またはどうせ聞いてないからと話がぞんざいになったりする。
その結果、話が通じにくくなる。
しかし、実は自分が相手の話に聞く耳をもってないのかもしれない。
もしそうだとすると、相手がそれを察知して聞く耳を持たなくなる。
互いに膠着状態を育てることになる。
「聞く耳を持ってもらう」ことは「愛してもらうこと」に似ている。
こちらが「聞く耳を持つ」ことでしか、相手に聞く耳を持ってもらえない。
無理矢理にでも聞く耳を持たせるには、上下関係を作ったり、聞かなければならないと言う決まりごとを作ったりすることになる。
だけどそれでは、本当の聞く耳は育たない。
互いになんでも聞きあえる関係は気持ちよい。

2月

21

皮膚の回復力

今朝、指を切った。
左手の人差し指、第一関節のところを紙かなにかでスパッと切ったらしい。
水を使って違和感を感じたのでよく見ると切れていた。
「おや」と思い、よく舐めて放っておいた。
いま見るともうほとんど治っている。
こんなに早く治るとは思わなかった。

2月

21

ホセ・マリア・アルゲダス

笹久保伸さんが研究したというペルーの国民的作家。
読んでいくとときどき意味のわからないところがある。
きっとペルーの文化がわからないと理解できないのだろう。
こういうことかなと想像で埋めて先を読む。
音楽を演奏するシーンがよくでてくる。
ペルーの人たちの体臭が香る。

2月

19

アンクルトリス

最近のトリスハイボールのCFにアンクルトリスが登場する。
しかもイラストのままのアンクルトリスではなく、円筒形が基本のズンドウなアンクルトリス。
僕が子供の頃、うちにあの形の楊枝入れがあった。
きっとオマケでもらったのだろう。
そっくりな人形が出てきて懐かしい。
思い出の遠近法だな。

2月

18

3768個の気持ちいいもの

僕がなぜ「気持ちいいもの」を書き続けているのか、その理由はここに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/feelgoodblog/what_is_daily_feel_good/
そして、自分の心の中で様々なリフレーミングが現れるのだろうと期待していた。
3768個も書き続けてきて、そのリフレーミングが複雑に積み重なり、なんともいえない状態になりつつあることを感じる。
これはきっとある種の悟りなんだろうなと僕は思う。
ただし、ブッダの悟りとは明らかに違う。
いろんなお経にあるように、別世界へと僕の心は旅立つことはない。
かつてバリ島でニュピの瞑想をしていたとき、朝日とともに弥勒菩薩が飛んで来て、一体化した経験がある。
もちろん夢だと思うのだが、夢にしては生々しいし、それで一気に目が覚めた。
それ以来、ときどきそのときのことを思い出す。
もちろん、この「気持ちいいもの」を書いているときにもしばしば思い出した。
言葉にすることでできた森。
多次元な感覚を再生するための鍵。

2月

13

イルカのジャンプ

オアフ島の西、マカハの沖では、スピナードルフィンがよくジャンプしていた。
最近は行ってないが、彼らは元気かなぁと思い出す。
水面からジャンプした途端、クルクルクルとからだをねじって回る。
犬がずぶぬれになったときからだを震わせて水を飛ばすように、イルカが水面から飛び上がってクルクル回ると一緒に水しぶきが飛ぶ。
そういうイルカが何頭もいて楽しい。
命の躍動を見るのはいい。

2月

11

A3

紙の大きさではない。
森達也さんのオウム真理教に関するノンフィクションだ。
「A」と「A2」というオウムに関するドキュメンタリー映画を撮影した森さんだが、「A3」を途中まで撮影してやめ、ノンフィクションを月刊プレイボーイに連載した。
それが出版され、講談社ノンフィクション賞を受賞し、その作品を出版から十年以上過ぎてここで無料公開し始めた。
https://note.mu/morit2y/n/nde972b9f0eac
よっぽど伝えたいことがあるようなので、文庫の上下巻を買って読んでみた。
面白かった。
断片的に知っていることがまとめられているから読んでいて興奮する。
なぜ裁判を「どうしてサリンを撒いたのか」など、わからないことをたくさん残しながら、松本智津夫(麻原彰晃)の精神状態が明らかに裁判を続行できる状態ではないのに、無理矢理続行して終わらせてしまったのか。
なぜそのことについてマスメディアはほぼ沈黙してしまったのか。
謎に対する答えがある訳ではない。
ただ、はっきりとした視点を得ることになる。
オウム真理教の教団内では松本に対する忖度が行なわれていたようだが、その状況を丁寧に読んでいくと、現在の日本の状況に似ているのではないかとぞっとする。
オウムの残した歪みがフラクタルのように社会に広がっているのではないか?
窮屈な現在の状況から目を覚ましたい人は読むべき。

2月

8

世の中はあふれている

いい情報も悪い情報もゴッチャになって流れている。
その整理をつけるのがきっと人間の仕事だろう。
にもかかわらず本の読めない人が増えていると言う。
長い文章があると理解ができない人。
そういう人は短い文章から理解していけばいい。
文章はそもそも面倒なものだ。
一瞬で理解できることも、文章にするとどうしても時間がかかる。
でも、時間をかけたおかげで理解できることもある。
「一瞬で理解できる」というのは魔物だ。
「一瞬で理解できる」ことの深さを問わなければならないが、その深さは往々にして長い時間をかけて言語化をしてはじめて表に現れてくる。
その深さは人によって全く違うものだから、その深さについて論議することはとても時間のかかる仕事になる。
わかった気になって放置しておくと、些細な差があとで大きな差になってくる。
だから、繊細な人ほど文章が理解できないと思い込むのではないか?
同じ文章の解釈は丁寧に考えていくと百人百様。
表面上は同じ意味だが、その行間に分け入っていくと、読む人によって見ているものが異なってくる。
だから、わかるわからないなんかあまり気にせず、とにかく読んでみること。
僕が小学生の頃、親父が「ようじは江戸川乱歩が好きか?」というから、「好きだ」と答えた。
怪人二十面相などの子供向けの推理小説を読んでいた。
ところが、それから数日後に、大人向けの江戸川乱歩の全集が届いた。
小学生にはどうかじりついても読めない。
人間椅子になって女性に座られる喜びなんて、小学生には理解不能だ。
笑うしかない。
だけど少しずつ読んでいった。
小学生にこんな教育してもいいのかと思いながら、「こんなの読ませるなんて、変な親父」と思いながら読んでいった。
でも、そのおかげで、理解できないものを読んでも、いつか理解できる時が来ることへの信頼が僕のなかに生まれた。
いまだによく理解できない文章に出会う。
でもそれは、いつか理解されることを待っているのだ。
さあ、世の中にあふれている意味の渦に飛び込もう。

2月

7

新しいFAX

新しいFAX機を買った。
ひとまわり小さくて、軽くて、使いやすい。
でも、この時代にFAXなんて必要なのだろうか?
と思いつつ、仕事では案外便利。
最近のFAXは画面で見てから印刷するかどうか決められるし、スマホから画像を送ることもできるし、スマホで受け取ることもできる。
でも、その機種はちょっと値が張るから買わなかった。
僕はダイレクトにやりとりするのが好き。

2月

5

乱気流

このところ世の中は乱気流できりもみ状態。
いいなと思った次の瞬間に、どうしようもない流れがやってくる。
そのなかで飛行体制を整えていくのは骨が折れる。
でも、難しいことをしているという喜びが生まれる。