5月

31

神道と仏教

原始仏典と大乗仏典では、言葉は違うかもしれないが、概念としてはほぼ同じことを言っているのではないかということが、否定されたり肯定されたりしている。
それが不思議だったのだが、なぜそのようなことが起きたのか、やっと理解できた。
昔、仏教が成立した時代は、インドにたくさんの聖者がいて、それぞれの法(ダルマ)を説いていた。
バラモン教という源流があり、そこから派生した宗教の一つが仏教だった。
仏教はその頃ライバルだった他の聖者を六師外道と呼んだ。
四師の教えは時代とともにほぼ消滅したようだ。
マッカリ・ゴーサーラのアージーヴィカ教は13世紀頃迄続いた。
マハーヴィーラーのジャイナ教と仏教だけが現在まで続いている。
ジャイナ教はインドに根付く民族宗教に、仏教は世界宗教になった。
バラモン教やジャイナ教の聖典を読み、世界宗教史などを紐解くと、仏典だけ読んでいてはわからないことを多く知ることになる。
それで謎が解けた。
わかってしまえば簡単なこと。
ブッダが生きていた頃には六師外道たちと戦うために、いろんな理屈を否定していた。
ところがブッダが入滅し、弟子たちが悟りを得てテラワーダから大乗仏教へと変化していく頃、かつて否定した理屈を取り込んで、さらに深甚なものにしていった。
その結果を僕たちは読んでいるのだ。
日本における神道と仏教の関係に似ている。
大化の改新前後に戦っていた神道と仏教の派閥は、長い年月の間に境目を薄くしていき、いつしか一体となる。
それを明治になって政府が政治利用するために分離した。
何百年もかけて出来上がってきた教えは数年の研究で解体され、政治が利用できる形態になった。
宗教と言うものは、何百年という単位で見ない限り、いいものかどうかはわからない。
即席で作ったものの価値がわかるのは数百年後。

5月

30

猫を棄てる

文藝春秋に掲載されている村上春樹のエッセー「猫を棄てる–父親について語るときに僕の語ること」を読んだ。
いろんなことを思わされる文章で、「棄てる」の意味を考えてしまった。
「捨てる」ではなく「棄てる」。
「兵隊は日本に棄てられた」とか「棄てられても家に帰る」とか「一緒に棄てた思い出」とか。
最後に登場する猫の逸話。
木に登っていった猫を筆者は棄てたのだろうか? 棄てたと思っているのだろうか?
棄てたつもりはなくても結果として棄ててしまったようなことが、僕のまわりにもあるような気がする。
それは「気がする」だけで、それが事実だとは認めない。
現実を把握するのは難しいし、難しいと思い込みたい僕がいる。

5月

29

風の通り道

暑いね。
窓開けて、部屋の中に風を通す。
風の通り道に自分がいると、なんと心地いいことやら。
していることに夢中で、窓締め切っていると熱中症になりそうだ。
風よ吹け。

5月

28

アネーカーンタヴァーダ

ジャイナ教に「アネーカーンタヴァーダ」という考え方がある。
一言でいうと多元論と価値の多様性の原理。
三冊の本を読み比べて、どういうことかを探ってみた。
しかし、不明なことがまだ多い。
アネーカーンタヴァーダを比較的きちんと説明しているのはなんとウィキペディアだった。
インターネット万歳。
多次元リフレーミングの内容が濃くなった。

5月

27

釈迦に説法

会話の中で「それはあなたには釈迦に説法だろうけど」というところ、「それはあなたには馬の耳に念仏だと思うけど」と言ってしまった。
しまったとは思ったけど、なぜか「釈迦に説法」という簡単な言葉がすぐに思い浮かばなかった。
話は流れていってしまった。
お馬鹿な自分を笑う。

5月

27

菩薩行を生きる

2010年頃に『チベット仏教・菩薩行を生きる』という本を読んだ。
いい本だった。
『入菩薩行論』という仏典の翻訳だ。
2016年にダライ・ラマ法王が日本でその説教をした。
そのときの録画がこちらにある。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p4367/
ひさしぶりにその本を取り出し読み、なるほどなぁと思う。

5月

25

半ズボン

今年も半ズボンの季節が来た。
令和になってはじめての半ズボン。
だからといって特に何かが変わる訳ではない。
「令和の半ズボンは特に涼しい」とかだったら笑ってしまう。
うちで履くのは全然問題ないが、出かけるときに履くかどうかはまだ迷うな。
でも、いまのうちなら蚊に刺されないし、いいんだよな。
半ズボンで悩む僕の心を観察。

5月

24

彼が来た

朝起きると、きれいな鳥の声。
初夏にやってくる彼が来た。
バードコールで呼びかけてみる。

5月

24

社畜よりは野たれ死に

何年か前に「野たれ死にするよりは社畜がいい」という話を聞いた。
世の中にはいろんな人がいていいのだから、そういう人もいるだろうというつもりで聞いたが、なんとその話をした人は99%がそうなんだと主張する。
それはないだろうと思った。
しかし、ちょっと前の政治状況を見ると、そうかもと思ってしまった。
幸いなことに僕のまわりは「社畜になるくらいなら野たれ死にがいい」という人が多いような気がする。
少なくとも知り合いの1%以上はそういう人だ。
それが本当に「幸いなこと」かどうかは今は脇に置いておこう。
現在の社会状況で、ずっと社畜で居続けられる人はいったいどのくらいの割合になるのだろう?
社畜でいたいと思っても、難しいのではないか?
社畜でもなく、野たれ死にでもない道を探すべきだろう。
そのためには自分の思考の枠を壊していかなければならない。
それに気づく人が少しずつ増えている気がする。
野たれ死にというリスクを抱えて飛び立つ人が。

5月

22

わが世の旅をうるはしと思ふ

耆那教聖典のことを五月九日に書いたが、その本の最後に「故鈴木重信君を憶う」という文があり、それが16ページにもわたっているので読んでみた。
耆那教聖典には「瑜伽論(ヨーガ・シャストラ)」「入諦義経(タットヷ−ルター・ディガマ・スートラ)」「聖行経(カルパ・スートラ)」の三典が入り、付録として三典の注釈と「耆那経論」が入っているが、目次にはその文、つまり「故鈴木重信君を憶う」のことは書かれていない。
本の扉を開き、1ページ目に「耆那経聖典」と、きれいな枠囲いに書かれていて、次のページにただ一行「訳者 鈴木重信」とある。
凡例にこのようなことが書かれていた。

耆那教の所謂聖典は、前顕の三典のみならず、尚ほ別に多くを存す。訳者鈴木重信氏は、昨夏本会の嘱に応ずるや、同教の根本的信仰と行事とを伝ふるものとして、行支経(アーチヤーランガ・スートラ)、優婆塞十経(ウヷーサガ・ダサーオ)の二典、大優の伝記を語る聖行経(カルパ・スートラ)、同教倫理の要諦を説ける瑜伽論(ヨーガ・シャーストラ)、同教の哲学的作品たる入諦義経(タットヷ−ルター・アディガマ・スートラ)の三典、合して五典を翻訳するの胸案を抱けり。而かも訳者は、その時既に業に不治の難症に悩み、瑜伽論、入諦義経の二典を訳了し、漸く僅に聖行経の初三四葉に筆を染めたるのみにて、流星の虚を逸するが如くにして逝けり。訳者は文才煥発、学会稀に見るの秀才たるに加え、刻苦精励倦むを知らざるの士なりき。今や亡し、痛恨何ぞ勝えん。

鈴木重信氏は31歳で亡くなったそうだ。
16ページにわたる「故鈴木重信君を憶う」には、鈴木氏がいかなる人だったかが書かれ、最後に三典を訳出したノートに書かれていた和歌が紹介されていた。

月一つ古城の雨の夜半に晴れて
     わが世の旅をうるはしと思ふ

5月

21

大乗起信論

ひさしぶりに「大乗起信論」の現代語訳を読む。
以前はよくわからない部分があったが、いまではすっきり理解できる。
何度も読んだし、解釈するためにいろいろと考えた。
ヒーリング・ライティングにその考えが反映されている。
お世話になりました。

5月

21

バリ島の指輪

十数年前にバリ島で銀の指輪を買った。
ひさしぶりに見つけたら銀が黒ずんでいた。
このまま真っ黒にしてしまうのも忍びないと思い、指でこすってみたがなかなか黒ずみは取れない。
だけど少しだけ銀らしさを取り戻した。
しばらく指にしているとだんだんと輝いてきて、いまではすっかり黒ずみは取れた。
書斎にいるときだけでも指にしていると取れてくるものなのかと驚く。
持っているものはきちんと使ってあげなければなと思う。

5月

20

生きていること

この世に生まれて生きていること。
苦労であり、忍耐であり、努力であり、苦痛である。
しかし一方でそこは、楽園であり、大いなる夢であり、幻想であり、何かを達成する機会でもある。
ブッダが楽園を語ったように、どんな世界にいてもそこを楽園と感じることはできる。
どんなに辛い状態にいても、この世界を見られることはすごいことだと理解できる。
死んだら何も見ることはできない。
感じることもできない。
人間として生きているからこそ、問題が見え、苦労が見え、忍耐を体験できる。
この世界を楽園にするのが自分のミッションだとしたら、自分には何が出来るのか?
自分の非力を感じながら、多くの人と手をつないでいく。
失敗もあれば、成功もある。
難しいゲームほど、はまってしまう。

5月

19

リコーダーの音色

中学校のブラスバンドの先輩で、リコーダーをいい音で鳴らせる人がいた。
リコーダーの音というものは、ピーとかプーとかいう音だと思っていたが、その人が吹くと見事にバロック音楽のような音になる。
ああいう音はきっといい楽器で吹くからそうなるので、学校で使っているような安物ではああいう音は出ないと思い込んでいたけど、違った。
「なんでそんな音が出るんですか?」と聞くと「こういう音だと思って息を抑制して吹くと出るんだよ」と言うのでやってみた。
確かにそれっぽく鳴る。
音色のイメージって大切。

5月

17

質問

昨日、悟ったと書いたら、「どんな悟り?」と質問された。
確かにその質問には答えたい。
入口は「言葉」だ。
この入口を見つけたのは、いや、この入口に導かれたのは、ヒーリング・ライティングという宿題を授かったおかげだ。
それから22年間の質問と答えの日々が続く。
それらの集積のおかげ。
そして、何冊もの仏典や聖典を読んだ。
それらのおかげ。
実際に聖人と言われた方にも何人か会った。
そのおかげもある。
バリ島にニュピで通い続けたのもよかった。
幼い頃に比較的自由にいろんなことができたおかげもある。
本は好きなものを読めたし、音楽は作曲できるようになった。
そして就職して世の中を見る。
この就職先も良かった。
いろんな大手の会社と関わることができた。
そして、会社を辞めて自営になって、小さな会社ともやりとりするようになる。
このおかげもある。
毎日ささいなことで喧嘩したり和解したり言い合っている相方のおかげでもある。
経済的に苦労して、借金したりして、そういう苦労のおかげでもある。
もちろん、こうやってほぼ毎日気持ちいいものを書いていることとも関係している。
だから、これを読んでいるあなたのおかげでもある。
こういういろんな体験の積み重ねが、昨日の朝、パチッとパズルがハマったようにうまく組合わさった。
そのパズルは平面でも立体でもなく、多次元のパズル。
チチェン・イツァーで「この世界が多次元であることに深く気づけ」と言われたことにやっとたどり着いた。
その内容については、言葉では書ききれない。
でも伝えなければならないと思っている。
少しずつ書いていく。

5月

16

悟った

神通力が使える訳でもなく、世界のことがすべてわかる訳でもないけど、悟った。
悟りはとても繊細で、うっかりすると忘れてしまうようなものだが、その存在を認めることにした。
それは小さな命のようで、僕自身が食べ物や水を与えないとすぐにひからびてしまいそうだ。
だけど、それを育て続けることに決めた。
僕を包んでくれている一切の過去、環境、宇宙、人々に感謝します。

5月

15

ミクロコスモスとマクロコスモス

20年ほど前、バリ島のブサキ寺院で礼拝したとき、先祖に祈り、いまここに祈り、大宇宙に対して祈るということをした。
すると、自分のイメージしている世界がどんどん小さくなり、自分の視点が高くなっていくことを感じた。
そのあとで、今度は視点を低くしていく。
世界がどんどん大きくなる。
ミクロコスモスとマクロコスモスを行ったり来たり。

5月

15

サイトを作りなおす

ヒーリング・ライティングのサイトを作りなおした。
前に使っていたCMSが、ページ数が増えるごとに更新が難しくなり、困っていたのでwordpressで全部作りなおした。
これで気が向いたときに更新していける。
http://www.healingwriting.com/

5月

13

華麗満月

華麗満月というおせんべいをいただいた。
「ほっぺた落ちるカレーせんべい」と書かれている。
タイのお土産と聞いたのだが、まあいいや。
食べると確かにほっぺが落ちた。
僕が好きな歌舞伎揚をカレー味にして、さらにサクサクにした感じ。
このおせんべいを発売している播磨屋本店はユニークな広報活動をしていたのでどうなっているのかなとホームページを検索する。
そこに書かれていることにびっくりして笑った。

5月

13

パクチー大盛り

うちで作ったラーメンに、パクチーを大盛りにしてのっけた。
むしゃむしゃ、うまし。
あの香りがなんとも言えん。

5月

13

バリシャツで外出

暑い日に、バリで買ったシャツを着て外出する。
布が薄くて風にはためく。
風が服と肌の間をすり抜ける。
はたはたと肌を撫でる心地よさ。

5月

10

電動歯ブラシのブラシ部分を新しくする

電動歯ブラシを愛用しているが、そのブラシ部分が古くなったので交換した。
三ヶ月に一回は交換してくださいとパッケージには書かれているが、実際に交換するのはどのくらいぶりだろう?
よく覚えていない。
一年くらい前のことだったような気がするが、定かではない。
換えると歯を磨く感触が変わる。
前はムニューという感じだったが、いまはガーッという感じに変わった。
説明すると、前はブラシ部分が柔らかくて、歯や歯茎に当てるとムニューッとブラシ部分が歯にめり込むような感覚だったが、いまはブラシ部分が固くなって、電動歯ブラシの振動が歯や歯茎にダイレクトに伝わってくるのでガーッという感じになった、ということだ。
感触は前の方が好きだったけど、歯を磨くのに効果的なのはいまの方だろうなと思う。

5月

9

耆那教聖典

埴谷雄高が「死霊」を書いたきっかけとなったという「耆那教聖典」を手に入れた。
世界聖典全集の前輯第七巻。
大正九年に出版され、十四年に四版となったものだ。
ジャイナ教の本としては日本ではじめてのもの。
折口信夫もこの全集の刊行に関わっていた。
94年も前の本だから、どんなに古いものが届くかと心配だったが、案外きれいな本だった。
きっと凄く高いだろうと思ったが、普通の書籍とかわらない値段で安心した。
表紙も裏表紙も凝っていて素敵。
読むのが楽しみ。

5月

8

鼓動

赤ちゃんは母親の鼓動を聞くと落ち着いて眠るという。
だけど僕自身は鼓動を聞いても落ち着くとか気持ちいいとか思ったことがない。
今朝、目が覚めると、枕に耳をつけて、自分の鼓動を聞いていた。
トクトクと耳から鼓動が聞こえてくる。
夢心地のときに「鼓動を気持ちよく聞いているのか?」と思ったが、特に気持ちいい訳ではない。
そして思う。
「なんで自分の鼓動を聞いているんだ?」
それで目が覚めた。
夢の中では気持ちよかったのを、目が覚めてそうは感じなくなったのか。
ただたまたま鼓動を聞く状態になっていたのか。
感触としては自分の鼓動を確かめていたような感じがする。
なんにせよ、ボケた頭でつらつらと思った。
曖昧模糊とした言葉にならないようなことを考えるのが好き。
鼓動はその入口か。

5月

7

心の散逸構造を確立する

今朝起き掛けに「心の散逸構造とは何か」と夢から問いかけられた。
散逸構造とはベルギー人のイリア・プリゴジンが1970年代に確立した考えで、液体など、流動的な物質に現れる現象だ。
たとえば生命は散逸構造である。
物質を取り込み、そこからエネルギーなどを抽出して、別の形でいろんなものを発散させることで、生命という非平衡的な状態を維持する。
つまり「心を散逸構造と見ると何が現れてくるのか」という課題を夢から与えられたのだ。
朝起きてイリア・プリゴジンを検索すると、エリッヒ・ヤンツの「自己組織化する宇宙」に序文を寄せていることを見つける。
もう30年近く前に読んだ本なので「おや、そうだっけ」と思って書棚から引っ張りだして読んだ。
その序文を読み終わり、ページをパラパラとめくると、その本の終わりにあった文章に赤線が引かれていた。僕がかつて引いた赤線だ。

生命を、とりわけ人間の人生を、自己実現のプロセスと見ることもできる。外的には、ダーウィン的な側面が解放に拮抗する体験を形成し、内的には、協調的な側面がより豊かな交響楽を奏でる意識のクレシェンドとなって、自己を実現させていく。自己組織化の新たなレベル–心の新たなレベル–が切り開かれる自己超越において、意識の和音はより豊穣なものとなるのだ。無限にきわまって、聖なるものと一致する。だが、聖性は人格とかのかたちをとることはなく、むしろ、多レベルのリアリティの総体的な進化ダイナミクスとして現れる。神秘に代わって〈意味〉が、われわれの主題に加わるのである。オルダス・ハクスレー流に言えば、われわれは〈全体意識〉となり、すべてを包括するこの心の進化に、そして〈意味〉という聖なる原理に、ひとりひとりが参与することになる。

はじめてこの本を読んだとき、「外的には、ダーウィン的な側面が解放に拮抗する体験を形成し、内的には、協調的な側面がより豊かな交響楽を奏でる意識のクレシェンドとなって、自己を実現させていく。自己組織化の新たなレベル–心の新たなレベル–が切り開かれる自己超越において、意識の和音はより豊穣なものとなるのだ。無限にきわまって、聖なるものと一致する。だが、聖性は人格とかのかたちをとることはなく、むしろ、多レベルのリアリティの総体的な進化ダイナミクスとして現れる。神秘に代わって〈意味〉が、われわれの主題に加わるのである。」の部分が、よくわからなかった。

二度目に読んだとき、ここがとても大切だなと思って赤線を引いた。

三度目にこの箇所を読んで、この部分を誰もが理解できる物語にしたいと思う。