12月

31

平成30年最後の太陽

平成30年最後の太陽がさきほど沈みました。
明日になれば平成31年であり、平成最後の年となります。
5月になれば三つの元号をまたいだ男になります。
昔、明治大正昭和を生きた男というと、なにやら凄い威厳があったように感じるのですが、昭和平成??と生きる男はどうでしょう?
何はともあれ、よい年をお迎えください。
本年もお読みいただき、ありがとうございました。

12月

30

アーモンドフィッシュ

小袋に入っていたアーモンドフィッシュを手に取って口に放り込む。
バリバリと噛むときに尖った小魚の尻尾などが口のなかに刺さる。
ちょっと痛いなと思いつつも、アーモンドのカリカリとした歯触りと、小魚の表面の甘さと、小魚のパリパリと噛み砕かれていく食感に陶然としながら、よく噛んで飲み込む。
ウィスキーが合う。

12月

29

朝日が昇る前の空

朝日が昇る前に目が覚めた。
空を見ると快晴。
東の空がほのぼのと明るくなる。
太陽が昇るあたりが強く輝く。
ニョキニョキと建っているビルの影が濃くなる。

12月

27

人新世の投げかける問題

2000年2月、メキシコでおこなわれた地球圏・生物圏国際共同研究計画(IGBP)の席上、オゾン層研究でノーベル賞を受賞したパウル・クルッツェンが叫んだ。
「我々は完新世ではなく、すでに人新世の中にいるんだ」
その二年後、クルッツェンは科学雑誌『ネイチャー』に論文を投稿する。
その論文で彼は1784年から人新世という地質時代を加えるべきだと主張した。
地質時代はそもそも数百万年から数億年の単位で変化してきた。
それに比して人新世はたった200年程度のものでしかない。
本当に地質時代に見合うものなのか?
クリストフ・ボヌイユとジャン=バティスト・フレソズはそれを擁護する共著書『人新世とは何か』を発表する。
読むと確かに納得させられる。
僕たち人類は地層も大気圏も水圏も、1784年以降どれほど変化させてしまったのか読むことができる。
地球に対する知性の影響は斯くも大きなものであった。
当時の知性は社会と自然の関係に目隠しをする「欲望の裏返し」だった。
それにやっと気づくときが来た。

12月

26

水滴の音

水道から水が滴り、コップに落ちる。
その音に聞き入りながら水琴窟を思いだす。
一粒の水滴が空洞に豊かに響く。
水琴窟の水滴にはたくさんの生命が宿っている。
生命の歌が響く。
地球に満ちあふれた人類。
人類の歌も水滴に宿る命に伝えよう。
名のない命もともに繁栄するように。
形が違うだけの、遺伝子という名の複製子に支えられた仲間達。

12月

25

怒る

中国で医者を相手に暴力を振るう患者のことをニュースショーで見た。
なぜあれほど怒るのか子細はわからぬが、確かに医者相手に怒りたいことがときどきある。
そういうときも僕は怒らずに「はい」ということを聞く。
怒ると余計な時間を使うことになるだろうし面倒だからだ。
簡単に怒れたら気持ちいいだろうなとは思う。
最近の社会では怒ることは厳に慎むものであるということになっている。
ときには怒ったっていいよと僕は思う。
実際には怒らないけど。
怒ることを空想して別の道を歩む。

12月

24

バストロンボーン

普通のテナートロンボーンより少し管径が太いので、響きが豊かで低い音を出しやすいトロンボーンのこと。
中学から高校までブラスバンドでバストロンボーンを吹いていたので、いまでもどこかでその音がすると耳がピピッと反応する。
ジョン・バリーが担当していた頃の007の音楽にはよくバストロンボーンの音がしてしびれた。
最近どんな音楽でもシンセサイザーでホーンの音が代用されていることが多くて悲しく思っている。
なので、実際のバストロの音がどこかから聞こえてくるとにやける。

12月

23

クリスマスソング

この季節になるとあちこちからクリスマスソングが聞こえてくる。
「ジングルベル」とか「リトル・ドラマー・ボーイ」など懐かしいスタンダード曲もあるが、ジャパニーズポップの定番もたくさんある。
どれが一番印象的かというと僕にとっては「ホワイトクリスマス」か山下達郎の「クリスマス・イブ」だな。
どの曲にせよ、キュンとする。

12月

22

味噌汁

鰹節と昆布でとった出汁で豆腐とワカメを煮る。
それに三年醸造の味噌を溶かしてできあがり。
発酵食品の不思議なことはよく噂されるが、熟成した味噌は放射能の影響を弱めることが科学的エビデンスとなっていることはあまり流布されていない。
ヨーロッパでは有名らしく、チェルノブイリ原発事故の際には味噌が飛ぶように売れたそうだ。
味噌汁を飲む人は胃癌の率が低くなり、動物実験では肺癌、胃癌、乳癌、肝臓癌、大腸癌に抑制効果があるそうだ。
不思議なことに、味噌の熟成度が高いほど効果があるのだとか。
そういう効能は実はどうでもよく、おいしいおそ汁があれば幸せ。
朝、目が覚めると味噌汁ができているととてもうれしい。

12月

21

祭の湯

秩父に行き、帰りの電車を待つ間に西武秩父駅に繋がってできた祭の湯に入った。
何種類ものお風呂があってどれに入るか選ぶのが楽しい。
大きなお風呂に入るのもいいが、小さなつぼ湯に丸く収まるのも気持ちいい。
ホカホカになってレッドアローでビールを飲んで寝ながら帰る。

12月

16

たいやき

ときどき買うたいやき。
一時期中身にいろんなものが入っていた頃があった。
クリームやチョコはもちろん、お好み焼きなんてのもあったな。
一番インパクトのあったのが麻布十番のたいやき屋浪花総本店。
普通たいやきは一度に三匹とか五匹とか焼けるような鋳型で作るが、浪花屋総本店では一匹ずつ長いトングの先に鋳型がついたようなもので焼いていた。
そのせいか、皮の部分はカリカリ、柔らかいところはほとんどなく、すぐに餡子なっていた。
ひさしぶりに食べたくなったぞ。

12月

15

太く書く

太いペンで、太い鉛筆で、太い筆で、太く書く。
普段は小さな手帳にチマチマ字を書いているので大きな紙に太い字を大きく書くのがうれしい。
ムハハ。

12月

14

洗濯物を干す

朝起きて洗濯をして物干に干す。
今日のように晴れ渡っていると洗濯物がきれいに乾いていい。
キラキラの朝日が洗濯物を輝かす。
充電量の落ちたソーラー時計も一緒に日にさらしておこう。
ミーアキャットが朝日に向かって立つ気持ちがわかる気がする。
干したシーツで母さんとかくれんぼしたな。
子象がミルク飲むのに物干に干した大きな毛布の影からしか飲まなかったことを思い出す。
大きな毛布を母親象と思うそうだ。

12月

13

ジョギング

ジョギングは習慣になるとせずにはいられなくなる。
はじめのうちはダイエットとか、健康のためにとかいって始めるが、次第にからだが慣れてくると、走りたいから走るようになってくる。
もしダイエットが理由なら、体重が減少して目標値に達すればしなくてもいいことになる。
だけど、目標に達しても、僕の場合はジョギングを続けた。
なぜかと問われれば、走ることが気持ちがよかったからだ。
ここまで書いて思考は飛躍する。
仕事も気持ちいいからするようになれるといい。
仕事は義務だから嫌々するものと思い込んでいる人がいる。
それは「嫌々でもさせたいことがある人」が考えることで、自発的にそう考える必要はまったくない。
「嫌々でもさせたいことがある人」の洗脳によって、多くの人がそういうものだと考えるようになってしまったようだ。
したい人がジョギングするのと同じで、したい人がしたい仕事をすればいいと思う。
その人が自分の技術を高めようと考えれば、他の人がしたいとも思わないこともするようになっていく。
たとえば僕の場合は、ジョギングを続けることでマラソンを走りたいと思うようになった。
それで42.195kmを走れるようにいろんな工夫をする。
嫌々そんなことをさせられたら、僕にはマラソンは無理だっただろう。
働くことも、もし気持ちよければ自発的な工夫がたくさんできる。
それが自然なことだと思う。

12月

12

新しい音楽と馴染み深い音楽

聞いたことのないような新しい音楽と、いつも聞いている馴染み深い音楽、どちらが好きか?
曲によるだろうから一般化はあまり意味がないかもしれない。
それでも考えてみる。
まず、最近の音楽にまったく新しい音楽というものがあるのだろうか?
たいていテンポが曲の頭から最後までほぼ同じである。
リズムもほぼ統一され、Aメロ、Bメロ、盛り上がりの部分程度の変化しかない。
つまり聞いている側が簡単に音楽に同調できるようにできている。
ストラヴィンスキーの『春の祭典』のようなはじめて聞いた人にショックを与えるような音楽は滅多に流行らない。
その点、馴染み深い音楽は記憶が助けてくれるから、少し複雑な音楽でも同調できる。
つまり、音楽に同調できるかどうかがとても大切な気がする。
はじめて聴いた曲でも好きになれるのは、なんとなくパターンが追えるからであり、ときどきパターンを追えなくなって裏切られるところに喜べるかどうか。
だから音楽を沢山聴いて、豊富なパターンを保持している人は、はじめて聴いた曲も簡単に好きかどうか判断できるのではないかと思う。

12月

11

朝の足音

寒い空気の中、駅へと急ぐ足音。
車の走る音。
クラクション。
エンジンを吹かす音。
地下鉄の入口から階段を降りていく。
毎朝繰り返される重い足音。
気分を明るくするために聞く音楽が耳の中で鳴っている。
朝の足音をかき消すために。
何度も繰り返される朝の足音を
重く感じるようになったのはいつの頃からだろう。
入試を通過して始めて学校に行く朝、
足音は軽かったはず。
まわりの重い足音が可笑しかったはず。
いま僕は重い足音の群れのひとつ。
軽やかな足音を夢見ながら。
通った学校での心ときめく出会い。
知らないことを知る喜び。
一緒にバカをする仲間。
朝の足音を変えよう。
ピカソのように。

12月

10

神の詩 バガヴァッド・ギーター

何年か前に読んだが
そのときはあまり意味が
わからなかった。
戦争の最中に悩む者と
至上者との対話。
悩む者は
「一家一族を全滅させたり
 親しい友人同志が殺しあうほどの
 過誤があったとは思えません」
と嘆くが、至上者は
「すべての生物は永遠不滅であり
 その実相は人智では測り難い
 破壊されうるのは物質体(肉体)
 だけである
 だから戦え」
という。
何度も問答を繰り返し、
ついに導かれるのは
宇宙普遍相の偉大な形相(姿)。
果たしてそこに何を見るのか。

真実も科学も高度になればなるほど
少しの歪みが大きな影響を与える。
神の詩も、少し間違えると
とんでもない考えに導かれるだろう。
仏教でいう「真如」とともに
これを読むことが求められる。

12月

9

異形化する身体

臼田夜半さんが目取真俊さんの作品について講演をしてくださった。
そのなかで「異形化する身体」という話が出てきた。
精神がからだを変形させるというのだ。
救われてない、赦されてないという思いがからだを変形させる。
これはまったく科学的な話ではない。
なぜなら定量化できないから。
これだけ思うとどれだけからだが変化すると決める訳には
いかないから。
だけど、精神がからだを変形させるということがあっても
不思議ではないような気がする。
もし生物の精神が
からだを変形させることができるとしたら、
現代の僕たちはどうからだを
変形させていくのか?
その結果がサイボーグ化なのかもしれない。
ただし、目取真俊の話は
無意識によって異形化するからだ、
サイボーグは意識的な構築、
という違いはあるが。
臼田夜半さんの講演内容はこちら。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=697

12月

8

読書

いったい何冊の本を僕は読んできたのだろう?
それらの蓄積で部屋は一杯。
もう一度読みたいと思う本しか残してないが、
それでももう部屋はパンパン。
若い頃、本は一度しか読まないものだった。
大人になってから再読の楽しみを知る。
書斎の本を一度に全部読みたいが、
時間をかけて読むのが楽しみ。
思い出しては一瞬で味わうのもいいけどね。

12月

7

空想の翼を広げる

小説を書いているととときどき
筆が止まることがある。
なぜかその先が書けなくなる。
精神的障壁が立ち上がる時。
その障壁は姿が見えない。
そんなとき、空想の翼を広げる。
普通にはあり得ないことを考えてみる。
この世界は謎に満ちている。
この小さな頭で考える程度の空想では
とても収まり切らない。
だから安心して大風呂敷を広げる。
いや大風呂敷じゃ収まらない、
無限平面を広げよう。

12月

6

おもろさうし

昔懐かしい歌詞の一部が
はじめて読む文章に
埋め込まれていると
それを読んだ途端に
感覚が懐かしい頃を思い出す。
そのことを思いながら
「おもろそさうし」を読むと、
沖縄のきらびやかな時代が
どのように編まれていたのかが
わかるような気がする。

12月

5

鳥の声

思いがけなく鳥の声を聞く。
この季節に?
ありがたいと思う。
自分の心もときどきふと
何かが動き出す。
鳥の声と同じ。
ふふっと思う。

12月

4

ちちぶ餅

秩父夜祭でちちぶ餅を買った。
No.03706に書いた「なが餅」と同じで、
餡が餅に包まれている。
それはまったく同じだが、
「なが餅」は「なが餅」だし、
「ちちぶ餅」は「ちちぶ餅」だ。
形とか、噛み心地とか、
餡と餅の割合が違うことで、
しっかりと個性的だ。
大福餅とも似ているが、
やっぱり違っている。
ちちぶ餅はとてもやわらかく、
ちょっと食べにくいほどの柔らかさに頬が緩む。

12月

3

秩父夜祭

いま秩父夜祭がおこなわれている。
今日が大祭で今晩が大きな盛り上がりとなる。
普段の秩父は閑散としていて静かな田舎町だが、
今日だけは人が沢山でてきて、
いったい普段この人たちはどこにいるんだろう?
という状態になる。
意匠を凝らした山車や
夜に打ち上げられる花火などを見てうっとりとする。
山車の周りに張り巡らされた
彫刻作品を見るだけで
秩父の人々の熱意が伝わってくる。
もちろん山車を引き回すために
かけ声をかける男たちの熱さが見物だ。

12月

2

議論すること

デスカフェというワークショップに参加した。
「死」について語り合う場。
活発に論議したあとふく気づく。
正解がない。
でも、それでいいのだと思う。
議論することが大切なのだ。
現実は正解で括れるような
簡単なものではない。
ある人にとっては「○」でも
別の人にとっては「△」であり、
もっと別の人にとっては
「×」かもしれない。
それぞれに理由があって、
他人に知ってもらいたい主張がある。
たったひとつの正解にたどり着かなくても
互いの思いや考えが理解できれば、
現実でするべきことが
相手との関係で見えてきたりする。
それはたったひとつの正解とは異なるもの。