7月

31

大山阿夫利神社

去年の秋、大山祇神社に行った。
その話を知り合いにしたら
こんなことを言われた。
「以前、
 大山祇神社に行こうとして
 バスに乗ったら、
 知らずに乗り過ごして
 阿奈波神社に行ってしまった」
阿奈波神社は大山祇神社の祭神
大山祇神の娘、
磐長姫が祀られている。
木花咲耶姫のお姉さんだ。
その話を聞いた夜、夢を見た。
僕はなぜか大山祇神に清められた。
そこで目が覚め、もう一度寝ると、
今度は大山阿夫利神社という
神社がでてくる。
そこの祭神も調べたら
大山祇神だった。
そのときは思い出せなかったが、
ずっと前、石神井川のほとりを
散歩していたとき、
不動尊を見つけた。
そこに大山講の名残だと
書かれていて、
大山講とは何かを調べたときに
大山阿夫利神社のことを知った。
しかし、それ以来ずっと忘れていた。
その夢を見ても、その神社の名前を
聞いたことがあるような気がしたが
はっきりとは思い出せなかった。
そこで大山阿夫利神社を調べて
そういう神社が実在することを知り、
もっとしばらくしてから
不動尊のことを思い出した。
だから、いつか行ってみようと
思っていた。
先週末、台風が接近するなか
大山阿夫利神社に行った。
まずは下社で参拝し、
奥社に向かう。
往復三時間だと書かれていたので、
それくらいなら平気だろうと
思ったが、甘かった。
以前の大雨で石段が
たくさん崩れていた。
それをよじ登っていく。
行きに二時間かかった。
帰りは下りだから
早いだろうと思ったが、
今度は足が疲れて
思うように進めない。
結局往復四時間かかった。
なぜ大山阿夫利神社が
夢にでてきたのか、
いまだにわからない。
でもお参りできてよかった。
やっと足の筋肉痛が
やわらぎつつある。

7月

30

なにもわかっていない自分

いろんなことを考えてはみるが、
自分のからだが
どのように動いているのか
まったくわからない。
なぜ心臓が動き続けるのか、
肺から入った酸素が
どうして血液に回って
からだを巡るのか。
食べたものがどのように消化され、
どのように筋肉や細胞が
発達したり修復されるのか、
まったくわからない。
わからないにも関わらず
きちんと作動している。
当たり前ではあるが、
ありがたいことだ。
すべての人の中に
神様が宿っているようなものだ。

7月

29

原子の不思議

生命が何かを食べて
体内に取り込むと、
それは生命の一部となる。
それはとても不思議なこと。
誰もその原理を説明できない。
原子や分子が集まって星を作ると
そこには重力が生まれる。
それもとっても不思議なこと。
それも誰も説明できない。
ただ「生命の一部になる」とか
「重力が発生する」とか
言葉のレッテルを貼るだけ。

7月

27

異なる階層の謎

原子は分子を作り、
分子は巨大分子を生みだし、
巨大分子はいつしか複製子となり、
複製子は遺伝子として細胞を形作り、
細胞は寄り集まって
多細胞生物となり、
多細胞生物は多彩に分化して
さまざまな生物へと進化する。
この不思議な作用を
原子が持っている。
寄り集まって
別の段階の存在になると
その段階の約束にしたがって
行動し始める。
そんなことがなぜ起こるのか
誰も説明できない。
こんな力を万物が持っている。

7月

26

階層を生み出す力

物質を分割して行くと
これ以上分けられない最小のものを
見つけた。
それを原子と呼んだ。
「最小のもの」という見方をすると
それだけのものであるが、
ものの見方を逆転すると
面白い見方もできる。
つまり、それは
「万物の構成要素」という見方だ。
原子は寄り集まって分子を作り、
原子や分子の寄り集まりで
いろんなものを作り出す。
鉱物や液体はもちろん、
ある特定の集まり方をすると
生命まで生み出す。
そう考えていくと
宇宙に存在する神秘の多くは
実は普段接している
物質を構成している
原子や分子にあると
考えてもいいのではないか?

7月

25

世界が熱を放っている

暑い日が続きますね。
それも世界中で
暑くなっているのだとか。
なぜこんなに熱があがるのでしょう。
地球が発熱しているようです。
からだが発熱すると
病原菌を取り除いてくれます。
同じように地球が発熱すると
何か悪いものを
排除してくれるのでしょうか。
排除されるべきはきっと
自然に対する人間の
傲慢な思いなのでしょう。
人間は地球の薄い膜の上でしか
生きてゆくことができません。
どうか僕たちが
安らかに生きていけるよう、
僕はもちろん、
多くの人が正しい智恵に
たどり着けるよう、
導いてください。

と書いて、これを誰に向かって
書いたのかが謎だ。
神様? Something Great?
地球? 宇宙?
この文脈を導いた僕が
明らかにするべきだな。

7月

24

洗濯する

暑い日が続くと、
洗濯がしやすくていい。
洗濯機を回して、外に干す。
湿度が高いので期待したほどには
早く乾かないけど、
一日干せば完璧。
洗濯カゴに残っているものがない。

7月

23

暑い日に歩く

暑い日に外を歩くと、
かなりつらいのではないかと思うが、
実際に歩くとなかなか心地よい。
汗をかいて水を飲んでスキッとする。
帰って水のシャワーを浴びる。

7月

22

夕立

夏の暑い日、
夕方になると夕立が来た。
ゴロゴロと遠くから雷が聞こえ、
一天にわかにかき曇り
ドシャーッと雨が降る。
一時間程度激しく降ると
さっぱりと晴れ、
きれいな夕焼けのあとに
涼しい夜がやってきた。

7月

21

保冷剤

午前中はエアコンをつけないように
がんばってる。
ただがんばるだけだと
熱中症になりそうなので
多少の工夫をする。
それが保冷剤を手ぬぐいに巻いて
首に巻き付けること。
ケーキやアイスクリームなどを
買ったときに付いてくる保冷剤を
冷凍庫に入れて凍らせておき、
それを使う。
午前中はそれと扇風機の併用で
がんばることができる。
しかし、最近は午後になると
我慢できない。
夕方までエアコンのお世話になる。

7月

20

きゅうりの丸かじり

暑くて汗がたくさん出るとき、
塩や味噌をつけて
きゅうりの丸かじり。
しやくしゃくしておいしい。
水分補給になるし、
ミネラルも摂れる。
冷えているとなおよし。

7月

19

フルート

高校生の頃、安いフルートを買って
よく吹いていた。
今朝、それが夢に出てきた。
ひさしぶりに
フルート吹きたいと思う。
僕の持っていたフルートは
高校の後輩が貸してくれと
持って行った以来行方不明。

7月

18

スイミングゴーグル

子どもの頃には
スイミングゴーグルなんてなかった。
プールに入ると上がったあとで
目が痛かった。
必ず水道水で目を洗った。
いつ頃からだろうか、
スイミングゴーグルを
するようになった。
水中がよく見えるし、
目は痛くならないのでとても助かる。
スイミングゴーグルが壊れると
新しいのが手に入らない限り
泳ぐのをやめてしまう。
それなしでは泳がない。

7月

17

具沢山の味噌汁

暑いと塩分が欲しくなる。
そこで飲みたくなるのが味噌汁。
しかも具が沢山入っているのがいい。
豚汁のようなものでもいい。
食べて飲んで元気になるような奴。

7月

16

エアコン

こう暑い日が続くと、
エアコンの入った部屋がいい。
涼しくてうっとり。
でも室外に熱を出している。
外は暑くなってしまうよなぁ。
せめて室温を下げすぎないよう
扇風機も使って涼もう。
まあ、気休めなんだけど。

7月

13

わからないこと

世の中にはわからないことがたくさんある。
まず、生命とは何かがわからない。
自分は生きているのに、
自分がどうやって生きているのか
わかっていない。
なぜ食べるのか?
なぜ歩くのか?
どう考えているのか?
わかったような気でいて
本当はわかってない。
でも、もしそんなことが
わかるのであれば、
わかるために知らなければならないことが
山のようにありすぎて、
きっと困ってしまうだろう。
それでもあえてそれを知りたいと
思うのであれば、
自分なりに考えたり調べたりしていくと
ある程度までは知ることができる。
でも、そこから先は本当に
不可知の世界だ。
たとえば命を、
ある体系で理解できても、
別の体系で考えることもできる。
そういう、ものの見方によって
変化する真理というのも興味深い。
だけど結局わからない。
わからないままに人生に漂う。

7月

12

写真と映像

2000年あたりから写真と映像記録が山のように残っている。
それらはデジタルデバイスのおかげ。
簡単に撮影でき、廉価で保存でき、いつでも取り出せる。
だけどその数が膨大なため整理が大変。
整理のために時間がかかる。
いいこともあれば悪いこともある。

7月

11

ベージュの糸

ツイードの鞄が壊れたので
チノパンの裾を切って継当てした。
最近少しやせたので
大きくなったチノパンを使う。
チノパンは膝下程度の
半ズボンにしようと思う。
そこでNo.03524に書いた
裁縫屋さん行って
ベージュの糸を買った。
店主のおばあちゃんが
「これがいいかねぇ」と
何種類かの糸を出してくれた。
350円の糸を買った。
いつかこれで裾を縫うつもり。

7月

10

カミキリムシ

首筋がもぞもそとしたので
何だろう?と思って手をやると
カミキリムシだった。
びっくり。
でもひさしぶりだなぁ。
カミキリムシは種類が多いので
会ったカミキリムシが何か
ネットで調べる。
ゴマダラカミキリだった。
この背中の模様が
ウルトラマンに出てきた
ゼットンという怪獣の背中の
モチーフになっているそうだ。
へぇ。

7月

9

大雨に被災したみなさまに
お見舞いを申し上げます。
一日も早い復旧と復興を
お祈り申し上げます。

祈る

人は天災の前では無力だ。
逃げることしか対処ができない。
実効的な効果が
あるかどうかは別にして
祈ることを通して
まずは心を落ち着ける。
八百万の神々よ
日本とそこに住まう人々を
守りたまえ。

7月

6

落ち着く

人は言葉を持つことで
知りようのないことを
知るようになった。
言葉がなければ
生まれようのない概念。
それを手にして地球上の
どんな生物より
有利に生きるようになった。
だけど余計な心配も
するようになってしまった。
概念だけに踊らされることなく、
概念を伴奏に現象とともに踊ろう。

7月

5

水に心のことを教わる

泳ぐようになってもうすぐ9年。
水に心のことを教わった。
どうやって教わったのかというと
その入口はこういう問いだった。
「何を考えたら楽に泳げるのか?」
はじめのうちはポジティブなことを
考えるようにした。
たとえば、
「いくら掻いても進まない」
と思ったら、
「掻いた分だけ進む」
と考える。
だけどこれはあまりうまくいかない。
実際には葛藤が生まれてつらくなる。
ではどうすればいいのか?
次にしたのは水を感じること。
手で掻くと掻いた水が渦になったり
圧力のある層になったりする。
それを感じてみるのだ。
はじめは半ば空想だった。
「こう掻けばここに層ができるはず」
という感じ。
ところがしばらくすると
実際に感じるようになってきた。
肌がわずかな圧力の変化を
実は感じていたのだ。
それを発見するとそれを利用する。
クロールをしていて
手で掻くと、
そこに圧力のある層ができ、
それが泳いでいる僕から見ると
後ろの方へ流れて行く。
その層が足から離れるときに
そこをキックすると、
その層を感じずに
ただキックしたときより
わずかに進みがよくなる。
そういう圧力の層を見つけては
その層が
うまく利用されているかどうかを
感じて行く。
圧力の層は
実際に存在するのかどうか
本当はわからない。
僕が幻影を
感じているだけかもしれない。
でも、実際に速く楽に
泳げるようになった。
きっとだからあるのだろう。
でもそれは、
「きっとある」と前提しない限り
見つけられなかった。
あると信じることで存在し始めた。

7月

4

夢についての夢

もう10年以上も前にこんなことを
どこかに書いた。

人は手を自由に使うことで
外界に変化を与えるようになった。

これは確か霊長類を研究している
誰かの本で読んだことだと思う。
それに僕はこんなことを書き加えた。

言葉も、外界を変化させるために
生み出されたものだと思う。

最近読んだユングの
「変容の象徴」に
ボールドウィンの引用があり、
こう書かれていた。

つまり言語は、精神的な意味を発達
させ保存するための具体的で事実に
即した歴史的な道具である。言語は
社会の判断と個人の判断が一致する
ということのすぐれた証言であり、
証明である。妥当であると判断され
た、共通の法則に従う意味は、言語
化されて、社会的に一般化されたも
のとしての「社会的」に意味になる。

これを読んで僕の空想が飛躍する。
夢についての夢を見た。
つまり、夢とは、
外界を変化させることの
できなかった生物が、
自身の心の中で納得するために
生まれた、
出来事を合理化させるための
手段だったのではないかと。

動物に心があるのかないのか
よく議論されたが、
人間の心と同じ「心」は
ないかもしれないが、
心の前駆段階のようなものは
あるだろう。
それは、その生命が置かれた
さまざまな状況を受け入れるために
生み出される思いであり、
人間にとっての夢のようなもの
なのではないかと感じた。

夢は理屈の通った状況を
生み出さない。
なんでこんなことを思うのか
理解不能なものが多い。
それは言語を持つ以前の思考
だったのではないかと思うのだ。
丁寧に説明すると長くなるので
これでやめるが、そう思って、
なんとなくうれしくなったので
ここに書いた。

7月

3

前世と今

16年前に
『あなた自身のストーリーを書く』
という本を書いた。
そこに僕の前世について
少し書いたのだが、
いまでも、もしその前世が
本当に僕の前世だとしたら
今の僕が学ぶべきことは何か?
と自問自答する。
すると不思議なもので、
いろんな答えが見えてくる。
前世が本当かどうかは
きっといつまでも
わからないことだろうけど、
その前提を受け入れることで
腑に落ちることがある。

7月

1

懐かしい歌詞の一部

もらったメールに
懐かしい歌詞の一部を見つけた。
メールにはこうあった。

薄く切ったオレンジを
アイスティーに浮かべて
リゾートのプールサイドで
このメールを書いています。

やられたって感じ。
明らかに大瀧詠一の
「カナリア諸島にて」を
引用している。
メールの送り主は大学の同級生。
一緒にドライブの最中に
「カナリア諸島にて」をよく聞いた。
あいつはあいつなりに、
僕は僕なりに、
「ぼくはぼくの岸辺で生きて行くだけ」