12月

30

時間をかけた説明

何かを一瞬にして悟ることがある。
「なるほど、こういうことか」
一瞬でそれを了解するが、何をどう了解したのか、説明に時間がかかることがある。
悟ったことが複雑で説明しにくいものであれば、時間がかかるだけではなく、説明をどうしたらいいのかを考えなければならない。
こういうとき、知覚の不思議さを思う。

12月

30

新たな認識

あることに対する新たな認識を得ると、かつての認識とは違うものに見えてくることがある。
よくあるのは「老婆の絵です」といわれてそれを見ると確かに老婆が見えるが、「少女の絵です」といわれてそれを見ると、確かに若い娘の絵に見えるという絵。
ネット上でも「少女と老婆の絵」でググると出てくる。
同様なことが実は僕たちのまわりにもよくある。
幼い頃に聞かされた怖い幽霊の話は、大人になって聞くと怖い話と言うよりは、悲しい話に聞こえたりする。
このような認識の変化は新しいメディアが生まれるたびに現れてくる。
1996年頃から活発になってきたインターネットによって作り出されてきた新たな認識が定着することによって、世界中でものの見方がひっくり返りそうだ。

12月

28

ホログラフィック・ユニバース

マイケル・タルボットの著作。
タルボットはこれを書いたあと、38歳で亡くなった。
とても不思議な本。
この世界を別の見方で見る話。
華厳経に出てくる、この世界はすべて水晶のように互いに影響を受けているという話に通じるもの。
そして、さらに深くそれについて考えられている。
それが事実かどうかはさて置き、そういう考え方で世の中を見てみると何が見えてくるのか、それが大切。
25年前に読んだが、ひさしぶりに読み返そうと思う。

12月

27

部分的知覚に目覚める

No.03936でケーヴァラ・ジュニャーナについて書いたが、その完全智というものを人間は決して得られない。
そのことに気づくことで自分が部分的な知覚しか持ち得ないことに導かれる。
そうすると、どうがんばっても完全智は得られないが、できることはただ、そこに少しだけ近づくことだけだと理解できる。
ここに大きな意味と価値があるようだ。

12月

27

いとしのテラ

No.03998で「テラ」について書いたが、それで思い出した杉真理の「いとしのテラ」。
ネットで探すと聞くことができた。
竹宮惠子の「地球(テラ)へ…」のヒットのあとだったため、タイトルだけでSF的なイメージが広がった。
歌詞の内容は失恋を思わせるが、SF的なイメージがうまくかぶっているので、生命と宇宙の壮大な交響詩のようにも聞こえる。

12月

27

オニオングラタンスープ

ひさしぶりにオニオングラタンスープを作った。
タマネギをただただ丁寧に炒める。
鍋肌にタマネギの甘味成分がこびりつく。
それでもじっくりと炒めていくと、次第にタマネギが飴色になる。
飴色から茶色に変わるくらいで炒めるのをやめて水を加えて煮る。
このときに鍋肌の甘味成分をヘラでこそげ落としていく。
塩と胡椒で味を調える。
オーブンで焼くことのできる器にスープを入れて、バゲットの薄切りを載せ、上にチーズをまぶす。
オーブンで焼いてできあがり。
うまかった。

12月

24

多次元に生きる

臼田夜半さんとお話しをしたとき、地湧社の社長だった増田圭一郎さんが同席していた。
何かの話がきっかけで、増田さんが片桐ユズルさんの話をした。
オルダス・ハクスリーの翻訳をしたかただという。
調べると何冊かのハクスリーの著作とアレクサンダー・テクニークに関する本の翻訳をなさっている。
そのなかから『多次元に生きる』を読んだ。
とてもいい本だ。
特に「両生類の教育」という章に興味を持った。
僕たちは言語の世界と非言語の世界の両方に生きている。
その二つの世界に同時に生きているから両生類。
そこにこんなことが書かれていた。

ほんとうの『道』に好悪はない。愛憎から離れてはじめて道の本来の姿が見えて来る。好きなものを嫌いなものに対立させること、それこそ心の病いである。

神を何か特別なものと思ったり、神を何かよりも貴いと思ったりしているうちは、そのひとは未開の地に住む野蛮人であり、子供であるのだ。その人にとって神がすべてと同じになってはじめて一人前になったといえるのだ。

気持ちいいものばかりを抽出していると、どうしてもときどき気持ちよくないものに直面する。
気持ちいいものと一緒にいるとき、実は気持ちよくないものとも一緒であることがよくわかる。
気持ちいいものを感じるとき、気持ちよくないものも一緒に居させてあげる。
今日はクリスマスイブ。
クリスマスキャロルを思い出すと悲しい感じがする。
もちろん楽しいものだという側面もあるのです。
でも悲しくも感じる。
言語の世界ではどちらか片方だけを取り上げますが、非言語の世界には両方存在するのです。
愛する家族ほど、実は憎たらしかったりするのです。
それを表現してもいいし、表現しなくてもいい。
僕たちは両生類だから。

12月

23

知覚の扉

臼田夜半さんのお宅で「命に帰る〜生と死についての対話」をした。
対話と言うよりは僕が質問をして、臼田さんの話を聞いた。
そのなかでトマス・アクィナスの話が出てきた。
アクィナスは生涯の終わりに三昧の体験をした。
その結果、それまでに読了したことのすべて、論じたことのすべて、書き記したことすべてが、もみがらか藁くずに過ぎないものになったという。
うちに帰ってたまたま開いた本の最後にその話が出てきた。
オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』に。

12月

20

4000回

この号で『日刊 気持ちいいもの』は4000号になりました。
ご購読ありがとうございます。
5000号にはささやかな個展でもできたらいいなと思っています。

12月

19

パナマ ラ・エスメラルダ農園 ダイヤモンドマウンテン 中浅煎り

江古田珈琲焙煎所で販売していたコーヒー豆の名称。
昔はモカとかコロンビアとか、簡単な名前でしかコーヒーを認識していなかったけど、江古田珈琲焙煎所に通うようになって、僕の中のコーヒーの概念がかなり変わった。
同じコーヒー豆でも、作っている国や農園が違えば味は違う。
こんな当たり前のことに気づいていなかった。
そして、もし気づいていたとしても、微妙な違いのあるコーヒー豆を手に入れることは無理だった。
だから、江古田珈琲焙煎所に通うのは楽しい。
「へー、こんな豆があるんだ」と思って一杯飲み、好きと思えばその豆を買い、好みではないと思えば普段の江古田ブレンドを買う。
タイトルの豆はとても穏やかな味がする。
僕にとっては夜、寝る前に飲んでもいいような落ち着きを感じる。

12月

18

テラ

大学生の頃、記録用のディスクはキロバイトだった。
就職した頃にメガバイトになり、すごいなぁと思っていた。
それがいつの間にかギガバイトになり、いまではテラバイトないと不安になる。
ペタバイトになるのは時間の問題か?

12月

17

規則を作る

規則を作ることが楽しいと感じる人はどのくらいいるのだろうか?
大人になるとたいてい規則を作ると文句を言われる。
「それは公平じゃない」
「それはあなたの勝手だ」
「そんな規則面倒なだけだ」
などなど。
だけど子供の頃、規則を作るのは楽しいことだった。
どんな遊びにも約束事がある。
たとえば鬼ごっこ。
鬼が触ると触られた人が鬼になる。
みんなが楽しく遊ぶためには「おみそ」というのを作った。
遊んでいるグループのメンバーより、幼い子どもに「おみそ」という特別な権利を与えるのだ。
そのことで遊びに新たなバランスが生まれ、遊び自体が楽しくなる。
たとえば「おみそ」は鬼にはならないとか、三度触れられないと鬼にならないとか、鬼になったら味方をもう一人指定できるとか。
そうやって遊んでいる人全員の利益を生み出すのが「規則を作る」ということだった。
大人になると「全員の利益を生み出す」という前提はあるかのように振る舞うが、その実みんな自分の利益だけを高めようとして争う。
そしてそのことに関して誰も触れようとはしない。
だから規則を作るのは面倒になる。
そういう可能性は知った上で、参加者全員が楽しくなれるような規則を作るのは、本当は楽しいはずだ。

12月

16

尊重すること

昨日、MITにいるネリ・オックスマンのドキュメンタリーについて書いた。
そこには書かなかった大事なことがある。
それは、彼女がチームを作るとき、そこに参加している人や結果を尊重することだ。
ネリは医学を学び、建築を学ぶ。
なぜそんなことをしたのか。
医学を学んでいたとき、祖母を助けたかったら。
祖母が亡くなり、彼女にとって医学を学ぶ必要がなくなってしまった。
そこで専攻を建築にする。
医学で学んだ知識を、建築に応用することで、他の誰にも作ることのできない何かを生み出し始める。
それはひとつやふたつではない。
それを始めると、一般には受け入れられなかったような変人が集まり始める。
一般社会からはこぼれ落ちてしまうような、オタクのような人材。
そういう人を集めて、その人でなければできないようなミッションを一緒に作る。
そのようなミッションは思った通りにうまくいく訳ではない。
失敗としか思えないような結果も出てくる。
彼女はその結果を上手に生かす。
だから、思いもよらない創作物ができていく。
強力な接着剤を作ろうとして、失敗した接着剤をポストイットにしてしまうように。
失敗を失敗と見るのではなく、自然の営みとして見る。
そう見ることではじめて、そこに宿る美しさが見えてくる。

12月

15

ネリ・オックスマン

MITにいるネリ・オックスマンのドキュメンタリーを見た。
ネットを検索するとブラッド・ピットと噂があるとか、美人であるとか、離婚しているとか、どうでもいいことばかりが出てくるが、そのやっていることを紹介している「アート・オブ・デザイン」というドキュメンタリーの第二回目、「ネリ・オックスマン:バイオ建築家」を見て、感激してしまった。
ネットフリックスで見られるので、見られる人は見るべきだと思う。
アート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングを行き来し、ある領域の入力が他の領域の出力となるような仕事をしている。
蚕に巨大な構造物を作らせたり、生体デザインを建築に取り入れようとしたり、ガラスで描かれるプリンターを作ろうとしたり、凡人ではやろうとも思わないことに挑戦している。
ネリの父からの教え。
「創造のときは少し居心地が悪い。居心地が悪いとその方向性は正しい」
最初はたくさんの批判を受け、自分たちの居場所を死守したという。
はたから見ると作品はきれいで優雅だが、現場は汚くてゴチャゴチャできついという。
しかも、世の中の風向きに逆らうためにはかなりの根性がいるとも。
台風の目の中にいると静かだが、孤独で安らぎがあるという。
大きなゴールは、仲間を守り、台風の目の内側に置くこと。
そうやって他の人には成し遂げられない独特の創作物をチームで実現して行く。
彼女が大切にしているアインシュタインの言葉。
二通りの生き方がある。
ひとつは奇跡を否定する生き方。
もうひとつはすべて奇跡だと思う生き方。
彼女はすべてが奇跡だと思って生きている。

12月

13

混沌

大きな愛に目覚める人たちがいる。
一方で、嘘いつわりで世の中を乗り切ろうとする人たちもいる。
世の中混沌としてきた。
目の覚めるような新しいものが生まれることを期待する。

12月

12

アポロ

レゾナンスCafeのためにクララが作ってくれたケーキにアポロが添えてあった。
懐かしい。
何十年かぶりに食べたよ、アポロ。
1969年に発売されたお菓子だから、僕が八歳の頃。
お友達のお誕生日会なんかに行くと、お皿に盛ってあったアポロ。

12月

11

緑茶にミカン

この季節になれば、こたつを出して、そこに入り、お湯のポットを用意して、緑茶を飲みながらミカンを食べたものでした。
いまはうちにこたつはないけど、緑茶にミカンの季節到来。
ミカンにもっとも合う飲み物は緑茶ではないでしょうか?
紅茶と言う意見もあると思いますが、僕は幼い頃の思い出があるので、揺るぎなくミカンには緑茶ですね。
シャンパンや白ワインも合うかもしれないけど、毎日とか、たくさんは飲めません。

12月

10

写真の合成

初夢について語り合うイベントのビジュアルを作るのに、6枚の写真を渡された。
フォトショップでコラージュを合成する。
見たことのない異世界が生まれた。

12月

9

あふれる言葉

中村哲医師が殺され、SNSでは中村医師を賛美し悼む声が鳴り響いている。
二ヶ月ほど前、中村医師がアフガニスタンから名誉国民として市民証を授与されたニュースが入った。
そのニュースはあまり話題にはならなかった。
なぜだろう?
陰謀論の好きな人はきっとこういうだろう。
「喜びや賞讃されるような話はマスメディアは流さないんだよ」
確かにそういう部分はあるかもしれない。
でも「いいものはいい」と伝えてくれる人もいる。
「搾取するためには人民を困った状態に置かなければならないのに、ヒーローが助けるような話が一般化したら搾取できなくなるから、権力者は人民が困っているという情報だけしか流したくないんだ」
そうなのかな? そうかもしれないがそれを肯定する材料がないからなんともいえない。
こういう人もいる。
「一般の人が嫉妬したりうらやむような話はあまり流れないんだよ」
視聴率が上がらないとマスメディアには流しにくいからね。
それはあるかもしれない。
だとしたら、一般の人が嫉妬したり、うらやんだりしないようにならない限り、いまの状況は続くことになる。
でも、そのことだけに話を収束すると、それは正しくないような気がする。
現代の僕たちにとって、単純な言葉は罠だ。
社会は複雑に絡み合い、個人の感情もネットワーク社会によって生まれてきた算出しようもない果てしない関係で形作られる。
誰か一人が何かを乗り越えたところで何も変わらない。
その絶望感が世界を覆う。
でも、考え方をちょっと変えると希望も見える。
みんなで考え方を改めると、それはもの凄いパワーを生み出すということ。
そのきっかけとなる言葉が、ネットにあふれている。
新たな複製子が生まれるとき、そこには必ず解き明かせない混沌がある。

12月

8

目覚めよ、愛に生きるために

11月末に『目覚めよ、愛に生きるために』というタイトルの本が出版された。
著者は本郷綜海。
スチャダラパーを世に出し、有名ラッパーに育て上げると手を引き、今度は自分がヒーラーや歌手になると言ってアメリカに渡ってしまった。
その直前に知り合い、何度か会ったのち、本郷さんはバーバラ・アン ブレナンのもとで学ぶようになる。
何年かのちに帰国して、最初のライブに行った。
ライブが始まると、本郷さんはとても長く唸る。
一分以上ただ「うー」と唸っていた。
ところが、その唸りが凄い声だった。
ピュアとか透明とか、そんなもんではない、魂の奥に隠していた何かを揺さぶり起こすようなそんな声。
聞いているうちに鳥肌がたった。
心の鎧が解けていくような感覚と、それに逆らおうとする、自分の土台を突き崩されてはならないという恐怖の感覚。
その長い唸りのあと、その歌声は「月の砂漠」を歌いだす。
長い緊張のあとでポッと懐かしい歌が始まったので心の壁が決壊した。
涙が出た。
そのあと、「月の砂漠」のはずが、どんどんとアドリブで違うものになっていく。
大笑いしてしまった。
それがどういう体験だったのか、丁寧に説明してもあまり伝わらないだろう。
彼女の「素」に触れたという体験だった。
アメリカで大変なことを学んだなということがよくわかった。
今ではヒーラーとして有名になり、歌手としても地歩を固めている。
前回のライブにはスチャダラパーが参加したと聞いた。
その本郷さんが二冊目の本を出したのだ。
タイトルがとても直球で、ちょっと読むのは気恥ずかしい。(笑)
でも、ズイズイと読んでいった。
大きな愛の話をしている。
本郷さん自身が愛だと思っていた幻想をどのように手放し、どのように大きな愛へと転換していったのかが書かれている。
とても素敵でわかりやすく。
読んでいるとときどき「イラッ」とする。
とてもわかりやすいから、「大きな愛は簡単ではない」という僕の思い込みが発動する。
本郷さんが「素」だから、こっちも負けじと自分の「素」が反応してしまう。
鏡に映った自分自身にムカムカしたくない人は、読まないほうがいいな。
自分の幼さや邪悪さが見えてしまうよ。
大きな愛に身を投じる覚悟のある人だけ読むといい。

12月

7

歌垣の世界

折口信夫の本に歌垣という言葉が登場し、それがいったいどんなものか興味を持った。
長いあいだ忘れていた興味が、一冊の本によって解き明かされる。
工藤隆著『歌垣の世界』。
かつて日本にあった歌垣が、いまも中国雲南省の奥地に存在し、その研究と考察によって、日本についてのさまざまな示唆を与える。

令和の時代となり、天皇の儀式もかつてより報道されるようになり、憲法改正をするのならば日本人が考えなければならない天皇制というものについて、この本の最後に書かれていることはとても大事なことを伝えていると思うので、ここに転載する。

——
恋愛文化は『源氏物語』(1000年代初頭)に典型的であるように、王朝の物語世界でも、男女の恋愛をめぐるテーマを熟成させた。宮廷を舞台とする世界中の物語のほとんどは、政治的暴力の醜い権謀術数が展開される世界である。しかし『源氏物語』のテーマはあくまでも男女の恋愛である。

このような恋歌文化の強力な伝統は、長江以南諸民族の歌垣文化に発するものであり、しかもそれが日本においては、六〇〇、七〇〇年代の本格的国家建設の際にも継承されたということは、世界文化史上でも画期的なことであった。

もちろん恋愛と言うものは、合理的・現実的判断力(リアリズムの眼)が強すぎるときには生まれにくい。恋愛文化の伝統が強いということは、柔らかな価値観、だれかを恋い慕う思いなどに価値を認めようとする感性が強いということである。したがって、政治的な権力争い、国際政治における謀略的な闘いなどのリアリズムの眼が求められる場面では、しばしば判断ミスを誘う思考構造ともなる。

人間は、限られた生命を生きる存在であることを自覚しつつ、それでもなお生きることを選択して生きている以上、何らかの幻想や願望や憧憬を抱え込んで、いわばそれらを、生きることの栄養源にして生きていくのである。そのような幻想や願望や承継の最も甘美かつ魅力的な世界が恋愛であり、その表現形態の一つとして恋歌文化がある。したがって、長江以南少数民族の歌垣文化とその中心にある恋歌文化を、古代国家段階だけでなく二十一世紀の現代にまで伝えている日本文化は、それ自体で誇るべき世界文化遺産だとして良い。

しかし、他国と戦争するような場合にまで、幻想と願望と憧憬という、リアリズムから最も遠い意識に身をゆだねて行動をとれば、どれほど悲惨な結末を迎えるかは、一九四五年の敗戦までの日本軍部およびそれを心情的に支えた多くの日本国民が実際に体験したことであった。

12月

6

風立ちぬ 玄き峰より

友人の望月クララさんが写真のグループ展に出展した。
その作品群のタイトルが「風立ちぬ 玄き峰より」。
「風立ちぬ」といえば、僕の年代で言えば、松田聖子の歌か、宮崎駿のアニメを思い出す。
どちらかに関係があるのかな?と思うと、宮崎駿のアニメであることがすぐにわかる。
クララさんのお父様が「震電」という戦闘機の開発に携わっていたそうだ。
12年前に他界した父親のノートを見つけ、それを読み、生前交わされなかった父娘の会話を取り戻す。
故人との会話は一方通行であるはずが、クララさんは亡父からの会話を思い出の場所、残された写真、残されたカメラやコンパス、計算尺などを頼りにおこなっていく。
亡父からの言葉はいったいどんなものだったのか、グループ展に立ち合う僕たちは、それを探りながら作品と向き合う。
クララさんはお父様とあまりお話しをした覚えがないと言う。
それを12年たったいま、取り戻そうとする試み。
父とした遅々とした会話によって蘇った言葉。
「飛行機ほど緻密な機械はないから、いまでは何を作っても簡単すぎる」
震電は1945年8月3日に試験飛行し見事に成功するが、実戦に投入されることはなく終戦を迎えた。
戦争・飛行機・意図の破綻・命の終わり。
これらがアニメ「風立ちぬ」とリンクし、不思議な感慨を抱かせる。

PHaT PHOTO 17J Exhibition “M”⠀
【会期】⠀
2019/11/27(水)〜2019/12/8(日)⠀
12:00-19:00(最終日は17:00まで)⠀
12/2(月)、12/3(火)休館⠀
【会場】⠀
72Gallery内 WhiteCube⠀
東京都中央区京橋3-6-6 エクスアートビル1F⠀
03-5524-6994⠀
(開館時間12:00-19:00 月、火休館)⠀
・JR東京駅 八重洲南口より徒歩7分⠀
・都営浅草線 宝町駅A4番出口より徒歩1分⠀
・東京メトロ銀座線 京橋駅1番出口より徒歩1分⠀
・東京メトロ有楽町線 銀座1丁目駅7番出口より徒歩3分⠀
https://facebook.com/events/528279214649754⠀

望月クララさんの在廊スケジュール⠀
6日 12:00〜19:00⠀
7日 15:00〜19:00⠀
8日 12:00〜15:00⠀
最終日の展示は17:00まで。

12月

5

貝がらの森

箱の表表紙と裏表紙が草の絵だけの本を買った。
タイトルさえも書かれていない。
よく見ると、表表紙に一匹だけ、草に埋もれるようにして、ワンピースを着た狐が描かれている。
なかひらまいさんの「貝がらの森」という本。
普通に出版するためには、表紙にタイトルがなくてはならない。
それを廃した。
普通に出版するためには、版権を一部出版社に渡さなければならない。
それが嫌で自社で出版した。
普通に出版するためには、出版社のアドバイスを聞かなければならない。
自分の感性にこだわるために表紙、ページ、流通法まで全部デザインした。
内容は毎日新聞大阪本社版で2013年11月に連載したもの。
はじめて読むが、どこか懐かしい。
この本を昨日、2019『貝がらの森』原画展で入手した。
高円寺駅から歩いて三、四分のギャラリー「たまごの工房」でおこなわれている。
行くとなかひらさんが待っていた。
原画を見ながらお話した。
巻末に、なぜこの物語を懐かしく感じるのか、ユング心理学研究会の白田信重氏が説明していた。

2019『貝がらの森』原画展
日付:2019年12月4日(水)〜8日(日)
時間:12:00〜19:30(最終入場時間/最終日の8日は18:00まで)
会場:東京・高円寺たまごの工房(東京都杉並区高円寺南3-60-6)

12月

4

音声入力

この原稿を音声入力を使って作ってみた(。)
思っていたより使えるので驚く(。)
時々とんちんかんなことを書かないかなぁと実は期待している(。)
でもほとんど誤変換がない(。)
驚いた(。)
何か難しいことを言ったら誤変換してくれるんじゃないかと思っていろいろ期待するが(、)全くないので帰って(かえって)つまらない(。)
やった(、)帰ってる(かえってが)間違えている(。)
いちど(誤)変換したら次々に間違い始めた(。)
雄太(コンピューター)も自信を失うことがあるんだろうか(。)
実際の原稿を作るには手で修正しなければならないな(。)
その方がコンピューターとしては可愛げがある(。)
文の最後には。(マル)取り(と)入れれば良いのであろうか。
丸和(マルは)入った。
大家(こうや)れば、店(テン)も入るのかな。
店(点)を入れるのが(は)、(テン)と言えば良いのだろうけども、(テン)でわからないことがあるんじゃないのかな。
伝統(テンと)、の区別を求めるのは酷だよな。

( )内は手で修正しました。

12月

3

1枚の布

僕は鞄に大きめの布を一枚入れておく。
1999年からバリ島に通い、大きな布を腰に巻くことを覚えてから。
行くたびに一枚ずつ買っていたら、何枚か集まった。
しかもその布は、いろんなデザインが施されている。
年に一度だけではもったいないので、何かに使えないかと思うようになった。
そこで、いつからか一枚持ち歩くようになる。
するといろいろと便利であることがわかった。
あるとき友人宅でテーブルクロスとして敷いてみた。
なかなかいい。
雨がパラパラと降ってきたときに傘をもってなかったら、広げて頭にかけた。
これもいい。
ちょっと肌寒いとき肩にかける。
ありがたい。
芝生で寝転がるとき広げてみた。
とてもいい。
誰かと一緒にベンチに座るときに敷く。
相手はビックリ、感動してくれる。
誰かに急に何かをもらったとき、風呂敷代わりになる。
最高だ。
それで1枚の布の虜になった。
1枚の布はきれいにたためば荷物にならない。
鞄のポケットに平たくしていれれば普段はまったく気にならない。
気にならないどころか、鞄の外側のポケットに入れておくと、ポケットチーフのように鞄がちょっとおしゃれになる。
いざというときいろんな役に立つ。