4月

29

クローン犬のこぼれ話

「追憶」で有名な
バーブラ・ストライサンドが
クローン犬を飼っているそうだ。
昨年なくなったペット犬の
クローン二匹を作って
育てているという。
その話はとても微妙だ。
飼い主としては前に飼っていた犬の
生まれ変わりのように
可愛いのかもしれない。
その気持ちはよくわかる。
だけど、一歩引いてその話を聞くと、
「さてどうなんだろう?」と
疑問を持つ。
スティーブン・キングの名作
『ペット・セメタリー』を思い出す。
あんな話はないにせよ、
そのうち
「可愛かった娘をクローンに」
なんて話が出てこないだろうか
というと、相方が、
「うん、かわいい娘とか
 息子とかのために
 クローンを作ろうという親は
 出てこないとは限らないわね。
 でも、夫はクローンに
 しないだろうな」

4月

29

十数万件のスパム

サーバーにあるメールフォルダーの
容量を大きくしていたのだが
それでもあふれるようなスパムが来た。
一昨年末くらいから急に増え、
放っておいたらサーバーの反応が
鈍くなってしまったので
いま消去している。
大切なメールは消したくないので
ひとつひとつ確かめながら
スパムを消して行く。
一度に最大100件しか消せないので、
同じ操作を少なくとも千数百回
繰り返さなければならない。
密教の修行に虚空蔵求聞持法というものがある。
虚空蔵菩薩のご真言を1日一万回、
それを100日間続け、
百万回唱えるというもの。
そうすると虚空蔵菩薩の能力、
つまり虚空からどんな智恵でも
読み出すことが
できるようになるという。
それから考えれば、千数百回などは
簡単なものである。
と思い込んで、今日もポチポチ。
半分ほどが終わってガッツポーズ。

4月

27

平成30年4月27日の夢

今朝、夢を見た。
映画「メッセージ」に登場する
「ばかうけ」のような形のUFOが
出てくるのだが、
それはUFOではなく、
何かの機械だった。
フワフワと浮いて立っていた。
それを大きなレバーで
ヘルメットをかぶった兵士が
操作していた。
その兵士に対して僕が何か言う。
いつもの夢と同様、
意味がよくわからない。
今日の南北対話と関係があるのか?

4月

27

サンダルフォーのブルーベリージャム

昔、サンダルフォーの
ブルーベリージャムを食べた。
まだいまのように海外のジャムが
入ってくる前のこと。
たいていは明治屋やソントンの
厚紙容器入りジャムだった。
ガラスの瓶にブルーベリーの粒が
ゴロゴロ入っていて
なんかそれだけでも嬉しかったし、
そのうえ当時食べていたジャムより
格段おいしかった。
いまではおいしいジャムが
たくさんあり、
サンダルフォーの
ブルーベリージャムも
まあ普通のジャムになってしまった。
つまり、僕たちのスタンダードが
かつてより格段に
上がったということ。
まあおいしいサンダルフォーの
ブルーベリージャム食べながら
ムフフと思う。

4月

25

康煕字典

康煕字典(こうきじてん)を
ご存知だろうか?
日本語を扱う仕事をしている方は
もちろんご存知だと思うが、
理系出身の僕は知らなかった。
「こうき」という
読み方すらわからなかった。
たまたま入手することになり、
いまではときどき開いて
ニマニマしている。
1700年代、清の康煕帝勅撰の字典だ。
なのですべて漢文で書かれている。
漢字の由来を調べるのに重宝。
現代ではUnicodeの配列順にも
使われている。
しかも、1700年代の清の漢字が
掲載されているので、
見たこともないような漢字が
たくさん載っている。
入手した講談社の
「標註訂正康煕字典」には
返り点がついている。
中学高校で習った漢文の知識が
珍しく役に立った。
白川静の「字統」や
ほかの漢和辞典と読み比べることで
さらに「へぇ」なことを知っていく。

4月

24

チョコベビーの空容器

3月18日にチョコベビーについて書いたが、
あれから少しずつ食べて、
一昨日食べ尽くした。
ちびりちびりと一ヶ月も食べ続けた。
それで容器が空になったので
捨てようとしたら、
ふと思い出したことがあった。
小学生の頃、
空になったチョコベビーの容器に、
蟻を捕まえて入れた。
何匹か捕まえて容器に密閉し、
その容器を思いっきり振った。
容器から出すと蟻はみんな
フラフラだった。
子供ってどうしようもないことをするなと思う。
自分でしたことだというのは棚に上げて。

4月

23

リニューアルしました

tsunabuchi.com全体を
リニューアルしました。
新しいっていいですね。
その代わり、
中身がまだほとんどありません。
これから少しずつ作っていきます。
今日から
「日刊 気持ちいいもの」を
再開します。
「日刊 気持ちいいもの」のサイトは
見た目がほとんど以前と同じですが、
サイトの内側が
バージョンアップされました。
あと、twitterのタイムラインが
サービスの終了によって
表示できなくなり、
#feel_good_というタグを
表示することで代用することに
しました。
まずはリニューアルした
気持ちよさを。
感じてみてください。
https://www.tsunabuchi.com

4月

18

リニューアル

tsunabuchi.com全体を
リニューアルすることにした。
2008年から同じサーバーを
使っているので、
ちょっと前にデータベースが
バージョンアップされたが、
まだそれに合わせてソフトの
バージョンをあげていなかった。
10年に一度はブラシュアップと
いうことだ。
なので「日刊 気持ちいいもの」は
しばらくお休みします。
できるかぎり早く復旧する
つもりですが、
やってみないとわからないことが
いくつかあるので、
もしかしたら
しばらく発行できなくなるかも
しれません。
ひとつひとつ
一人で勉強していくので
ご容赦を賜りたくお願い致します。
新しくするのは楽しみです。
リスクを抱えて、
冒険に出かける気分。

4月

17

オリジン

ダン・ブラウンの新作を読んだ。
あの「ダ・ヴィンチ・コード」の
ラングドン教授が登場する新作だ。
とても面白かった。
けど、おやと思うところもある。
でも、そうやって噂にされるのが
いいところだろう。
パンスペルミア説にも
触れているけど、
そこまでいいきってもいいの?と
思うところが何カ所かある。
ネタバレになるので書かないけど。
でも、確かに面白かった。

4月

16

電話の変遷

電話する。
家族が取る。
本人につながる。

電話する。
留守番電話につながる。
折り返し電話がかかって来る。

ポケットベルに電話する。
折り返し電話がかかってくる。

ポケットベルに電話する。
返事がポケットベルに
暗号で返って来る。

携帯電話に電話する。
「あとで折り返す」といわれ
折り返しかかって来る。

電話する前にSNSで
何時に話ができるか
アポイントを取る。
その時間に話をする。

SNSにつながっているか確認し、
つながっていたらSNSの電話で
話をする。

いろんな方式があって
どれで話すかSNS上で
やりとりしてから話す。

便利になったのか不便になったのか
よくわからない。

4月

15

狭井神社の薬井戸

大神神社の摂社に狭井神社がある。
正式名称を
狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらみたまじんじゃ)
という。
大神神社の主祭神の荒魂を
祀っているという。
神社の裏手に井戸があり、
薬井戸と呼ばれている。
いまは岩にスイッチがあり、
それを押すと
ご神水が出てくるようになっている。
三輪山の登山口になっていて
ここで水をいただいて
荒魂を受けて山に登る。
さっぱりとしたいい水でした。

4月

14

タケノコの木の芽和え

ベランダにあるプランターから
山椒の芽が出てきた。
去年もお世話になったが、
今年もまた元気だ。
春になって売られ始めた
タケノコを買ってきてアクを抜き、
木の芽和えにしてもらう。
山椒の芽を味噌や醤油みりんなどと
あえてすり鉢でする。
手間はかかるが
そこはかとなくうまい。
春に食べられて幸せ。

4月

13

曖昧模糊としたもの

本を一冊書くとき、
たいてい企画書を書いて、
これから書く内容を
明確にしてから書く。
そうすればあとは書くだけ。
だけど、これから何を書くのか
よくわからないけど、
何かこの先に
書くべき内容があるはずと、
まるで未知の航海へと
旅立つようにして書く本が
楽しいし面白い。
曖昧模糊としているものを
見つけて行く過程が
いいんだよ。
幸せは、達成感や
クリエイティブな努力の
興奮の中にある。

4月

12

もうすぐ半袖、もうすぐ半ズボン

もうすぐ半袖の季節が来る。
薄い生地の半袖の服を素肌に着ると、
サワサワと吹いてくる風が
服を波打たせ、それが肌に心地よい。
またしばらくすると半ズボンが
心地よくなる。
そうなるとサンダルも履きたくなる。
リゾートに行って
のんびりしたくなる。

4月

11

玄関のジャスミン

玄関先にジャスミンの鉢植えを置いた。
ドアを開けるとフワッと香る。
幸せな感覚と切なさと。

4月

10

花崗岩片の話

中学生の頃、
僕が片思いしていた女の子がいた。
その子の名前をここでは
Kさんとしておこう。
僕にとってKさんは美人だったが、
友だちは「美人ではない」という。
確かに理知的に考えると
美人ではなかったかもしれない。
スタイルがいいとはいえなかった。
はっきり言うと、足が短いのだ。
それから指が短かった。
彼女はピアノがうまかった。
Kさんは
「ピアノを弾いたから指が短くなった」
というけど、それは違うだろうと
僕は思った。
鼻が鷲っ鼻だった。
昔話の魔女のような形の鼻だった。
こういうふうに言語化すると
美人ではないことが
強調されてしまうけど、
それでも美人は
いるのではないかと僕は思う。
実際Kさんはそうだったし。
そんなKさんを
なぜ僕が好きになったのか。
長らく謎だった。
好きか嫌いかの理由って、
いくらでもあとづけできると思うので、
本当の理由というのが
わからないでいた。
というか、そんなことは忘れていて、
最近では考えもしていなかった。
それがなぜか、この年になって、
ついさっき、
はっきりとわかったのだ。
なぜそんなことになるのか、
僕には理解が及ばない。
何が起きたのかというと、
山尾三省の文章を読んだからだ。
その文章はここにある。
「花崗岩片の話」という文章だ。
http://www.chiwakinomori.com/jiyu/198406.006jiyu.pdf
頭から読んで行って、
次の文章にさしかかったとき
ふと思い出したのだ。
ひらめいたといってもいいだろう。
僕がなぜ彼女を好きになったのか。
________

 またある初夏の早朝に、漁から戻
ってきた部落の男が、海そのものの
ように透きとおった青い鯖を投げて
くれる時、彼がそこに投げてくれる
ものはただの青い鯖ではない。そこ
に投げられたものが海という真理で
あり、海という愛であることを、見
ないわけにはいかないのである。
 日常生活の中にすべてがある。日
常生活の中に、すべての真理がある。
だからまた、日常生活の中に深い悲
哀も貌(かお)を現わすのである。
花崗岩片の話より 山尾三省
________

ここを読んでいたとき、
なぜか思いついた。
「彼女が大きな菊を栽培したからだ」
なぜそう思ったのか、
まったく脈絡がないので
僕にも理解しがたいことであるが、
そうだったからしかたがない。
「ひとはみんなそういうもの」と
一般化していいのかどうか
わからないが、
僕が特別な例だとは思わないから
きっと多くの人も
そうなのではないかと思う。
よくわからないときに、
よくわからないことを
不意に思い出す。
そしてそれが何か
特別な真理かのように思えてしまう。
中学生の頃、科学か家庭科か、
菊を栽培するという授業があった。
家に持ち帰り菊を栽培する。
僕が育てた菊は
小さな花しかつけなかった。
一方で、Kさんの育てた菊は、
とても大きな菊の花をつけた。
「すごい」と僕は思った。
それが僕の恋の入口だったのだ。
なぜそんなことを思いついたのか、
くどいようだが
僕にはよくわからない。
きっと山尾三省の文章に
そういうことを思い出させる力が
あったのだろう。

4月

9

龍神木

秩父今宮神社に
樹齢千年以上といわれる
龍神木がある。
幹に大きな洞があり、
そこに龍神様が祀られている。
冬には葉を落とし、
春から夏にかけて葉をつけなおす。
幹の周りにベンチが置かれ、
そこに座って木漏れ日を感じる。
龍神様を祀っている洞に、
もうすぐフクロウがやってくるはず。
http://www.imamiyajinja.jp/ryujinboku.html

4月

8

自分にとっての日本史

日本史とは
ひとつの決まったものだった。
あの年にこういう事件が起こり、
その結果、こういうことになったと。
そういう話をずっと
学校で習ってきた。
そして、なぜ明治以降の歴史を
学校では習わないのか不思議だった。
縄文時代から日本史は始まり、
なぜか江戸時代の終わりで
歴史の授業は終わる。
時間が足りないという理由だったけど
実は別の理由があったのではないか?
明治時代あたりになると
当時まだ生きている人がいたりして、
一元的に語ることが
難しかったのではないか?
西南戦争なんか、どの立場で
参加したかで印象が全く違う。
そんなことに国家が
解釈を付けてしまっては
きっと大騒ぎになっただろう。
そう考えて、ふと思ったこと。
江戸の末期で、日本人は誰でも
ものの考え方が
一括りにされたんだなということ。
世界史を学ぶことが
なぜか僕には難しかった。
その理由がいまならわかる。
いろんなものの考え方をするのが
面倒だったのだ。
ある国から考えるといいことが、
別の国から考えると悪いことになる。
そういう関係性を感じるのが
面倒だったんだ。
日本史は一つの解釈を知っていれば
事足りる。
だから理解しやすかった。
幕府がどう考えるかを知っていれば
外様大名がどう感じていたかなんて
知らなくても済んだ。
ましてその地域で生きていた人たちが
何を考え感じていたかなんて
まったく学んだ覚えがない。
裏返せば、自分と歴史との関係を
考えなくて済んだということ。
歴史は歴史、自分は自分。
歴史と自分の関係を考えることで
さまざまなことが
理解できるようになる。
だけどそれは、
一般化できることではない。

4月

7

ふきの煮物

春になって蕗が売られていたので
買って煮物にしてもらう。
少し苦味があってうまい。
しゃくっていう歯ごたえもいい。
子どもの頃、
母の作ったふきの煮物に
「おいしくない」と
文句をいっていた。
母は
「大人になるとおいしくなるの」
と言い続けていた。
「まさか」と思っていたけど、
本当だった。
文句を言い続けていた僕に、
「大人になるとおいしくなるの」
と言い続けてくれた母へ
いまさらながら感謝。

4月

6

パリパリ海苔のおにぎり

高校生くらいの時だったかな?
はじめてパリパリ海苔の
おにぎりを食べた。
薄いフィルムで包装されていて、
指示通りにむいていくと
それまで分離されていた
海苔とおにぎりが合体して
いま海苔を巻いたばかりの
おにぎりが食べられる。
それまではおにぎりの海苔は
水分を含んでしっとりとするのが
当たり前で、
食べる直前に巻かない限り、
パリパリな海苔のおにぎりは
食べられなかった。
あの発明のおかげで、
まるでおにぎりのスタンダードは
パリパリ海苔かのようになった。
パリパリ海苔に慣れてくると
なかには
「かつてのしっとり海苔がいい」
という人も現れ、
いまでは海苔は「パリパリ」か
「しっとり」かを
選べるようになってきている。
かつての感動は
「当たり前化」することで
新たな商品が生まれてくる。
でも、最近はこの「当たり前化」の
速度が速すぎる気がする。
やっぱりおにぎりは、目の前で
アツアツご飯を握ってもらうのが
一番おいしい。
そういうの食べる機会が減ったな。
しまった、
「パリパリ海苔のおにぎり」が
気持ちいいものになっていない。(笑)

4月

5

梟サブレ

今年も秩父今宮神社の龍神祭と
水分神事に参拝した。
秩父今宮神社はかつて
今宮坊と呼ばれ、
神仏習合の一大霊場だった。
明治維新の神仏分離令で
各神社仏閣は独立する。
このとき大宝年間に役小角によって
勧請されたという八大龍王神のお祭、
龍神祭は幕を閉じる。
しかし、平成七年、
そのお祭りは復活した。
龍神祭は午前中におこなれ、
午後に水分神事がおこなわれる。
水分神事は、秩父神社から神官らが
今宮神社の境内にある
龍神池のご神徳を
いただきに来る神事で、
水幣を渡すことで象徴されている。
秩父神社の神官らは水幣を持ち帰り、
秩父神社の鳥居の前に藁で作った
龍の水口にそれを刺し、
龍のご神霊が行き渡った境内で
田植えを模した所作をおこなう。
無事に実際の田植えが終わり、
秋に実りが得られると、
そのお礼にと秩父夜祭をおこなう。
日本三大曳山祭のひとつである
秩父夜祭は、平成28年
ユネスコ無形文化遺産に登録され、
さらに人が集まるようになったが、
その祭は、
ご神体である武甲山に、
恵みをもたらしてくれた
龍神様をお返しするのが目的だ。
行進する曳山の先頭を行く神輿に
龍の水口が乗る。
この一年の営みの最初となる神事が
水分神事である。
この神事に秩父神社から
御神幸行列して来た人たちの背中に、
フクロウの絵が描かれていた。
「なぜフクロウ?」と思い、
秩父神社に行き、
御田植神事を見たあとで
境内の裏にまわると、
そこに「北辰の梟」がいた。
社殿裏にある木彫の梟。
なるほど、これを担いで来たのか
と思い、境内から出ると、
目の前のお菓子屋さん八幡屋本店に
「梟サブレ」という
ポスターが出ていたので
思わず買ってしまった。
鎌倉・豊島屋の鳩サブレーを
思い出す。

4月

4

トランスジェンダーの日

4月4日といってすぐに思い出すのは
小学校の同級生だったT君の誕生日。
いまだに数年に一度会うけど、
彼が小学生の頃、
「僕の誕生日はおかまの日だ」と
いうので、「なぜ?」と聞くと
「だって、桃の節句と端午の節句の
 丁度中間だから」というので
笑った。
それが現実になったからかどうかは
知らないけど、
今日はトランスジェンダーの日だという。
当事者の人たちには
「おかま=トランスジェンダー」
という、誤った認識が広がることを
恐れて、別の日にしようと
しているらしい。
僕はその誤った認識を
小学生以来していたということだ。
では、どう認識したらいいのか?
ひとりひとり別のことのようなので、
そういう知り合いができたら、
その本人に聞くしかなさそうだ。
そもそも
「この人はトランスジェンダーです」
と区別するべきかどうかも
僕にはよくわからない。
「私はトランスジェンダーよ」と
胸を張っていう人もいれば、
「そんなレッテル貼らないでよ」と
思う人もいるだろう。
そういう未知なる考えと
遭遇する日?

4月

3

スパッと切れるトマト

包丁が鈍ってくると
トマトが切れない。
無理に切ろうとすると
中のジュースがジュワジュワと
出てきてしまう。
下手をすると種まで出てきて、
サラダに使うと見た目がよくない。
こういうときは押し切りせず、
スッと包丁を引くと少し改善するが、
切れのいい包丁にはかなわない。
スッと切るとスッパリ切れて
ジュースも種も元の位置にある。
サラダで食べるのは
こういうトマトがいい。
ときどき、うちの近所に
「包丁研ぎ隊」が来る。
橋のたもとに年配の方々が
2、3人道具を足元に置いて
携帯用の椅子に座って並んでいる。
お願いすると刃物を研いでくれる。
うちには研ぎ器があるので、
それでガーッとやれはいいのだが、
一度「包丁研ぎ隊」に頼んでみたい。

4月

2

忘れてしまうもの

『日刊 気持ちいいもの』に
書こうとするものをよく忘れてしまう。
前の晩「よし明日はこれを書こう」
と決めても、
翌朝には忘れてしまうことが
よくある。
「そりゃ歳だろう」と
誰でも思うだろうが、
それだけでもない。
ここに書こうとしているのは、
レッテルの再現ではないのだ。
たとえばこの文章は
「忘れてしまうもの」という
タイトルだが、
タイトルだけでこれから僕が
どんなことを書こうとしているのかは
多くの人にはよくわからないと思う。
だいたい「忘れてしまうもの」を
気持ちいいだなんて思う人は
少ないだろう。
でもそれを
気持ちいいものとして感じ、
その気持ちよさを書くためには
多くの人に言語化されていない、
わかりにくいことを
わかるように書かなければならない。
そうすると、僕自身にもまだ
言語化されてないことなので、
それは簡単に失われてしまう。
「これ気持ちいいな」と
思ったものが、
すでに言語化されていて
「この感覚」と明示できれば
その「気持ちいいもの」は
簡単に書ける。
ところが「気持ちいいもの」が
明示しにくい、
一般には言語化されてないことに
気持ちよさを感じてしまうと、
それを覚えておくのが難しい。
それを文章に書くのは、
まるで手に掬った水を運ぶようだ。
今回の気持ちいいものは、
たまたま書く直前に思いついたので
掬った水を
無事に文章へと運び終えそうだが、
前日にこんなことが思い浮かんで
「気持ちいいな」と思っても、
なかなか文章にはできずに
忘れてしまう。
今日は「きっと忘れてしまうな」と
思うことが文章化できて、
とても気持ちいい。
いままで忘れてしまった物事に
しみじみと哀悼を思う。

4月

1

エイプリルフールズ

エイプリルフールになると思い出すのは、
「The April Fools」という曲。
「幸せはパリで」という映画の
テーマ曲。
パーシー・フェイスによる演奏が
とても好き。
一度聞くと何度も聞きたくなる。
女性のコーラスとストリング、
ホーンの伴奏、
そして、ちょっと拍子が狂うような
メロディーが絶品。
はじめて聞いた小学生の頃、
二声のコーラスが
突如一声になったり、
拍子が狂ったかな?と思う瞬間が
あるのがどうも気になったけど、
いまとなってはそここそが
いいところなんだな。