2月

18

3768個の気持ちいいもの

僕がなぜ「気持ちいいもの」を書き続けているのか、その理由はここに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/feelgoodblog/what_is_daily_feel_good/
そして、自分の心の中で様々なリフレーミングが現れるのだろうと期待していた。
3768個も書き続けてきて、そのリフレーミングが複雑に積み重なり、なんともいえない状態になりつつあることを感じる。
これはきっとある種の悟りなんだろうなと僕は思う。
ただし、ブッダの悟りとは明らかに違う。
いろんなお経にあるように、別世界へと僕の心は旅立つことはない。
かつてバリ島でニュピの瞑想をしていたとき、朝日とともに弥勒菩薩が飛んで来て、一体化した経験がある。
もちろん夢だと思うのだが、夢にしては生々しいし、それで一気に目が覚めた。
それ以来、ときどきそのときのことを思い出す。
もちろん、この「気持ちいいもの」を書いているときにもしばしば思い出した。
言葉にすることでできた森。
多次元な感覚を再生するための鍵。

2月

8

世の中はあふれている

いい情報も悪い情報もゴッチャになって流れている。
その整理をつけるのがきっと人間の仕事だろう。
にもかかわらず本の読めない人が増えていると言う。
長い文章があると理解ができない人。
そういう人は短い文章から理解していけばいい。
文章はそもそも面倒なものだ。
一瞬で理解できることも、文章にするとどうしても時間がかかる。
でも、時間をかけたおかげで理解できることもある。
「一瞬で理解できる」というのは魔物だ。
「一瞬で理解できる」ことの深さを問わなければならないが、その深さは往々にして長い時間をかけて言語化をしてはじめて表に現れてくる。
その深さは人によって全く違うものだから、その深さについて論議することはとても時間のかかる仕事になる。
わかった気になって放置しておくと、些細な差があとで大きな差になってくる。
だから、繊細な人ほど文章が理解できないと思い込むのではないか?
同じ文章の解釈は丁寧に考えていくと百人百様。
表面上は同じ意味だが、その行間に分け入っていくと、読む人によって見ているものが異なってくる。
だから、わかるわからないなんかあまり気にせず、とにかく読んでみること。
僕が小学生の頃、親父が「ようじは江戸川乱歩が好きか?」というから、「好きだ」と答えた。
怪人二十面相などの子供向けの推理小説を読んでいた。
ところが、それから数日後に、大人向けの江戸川乱歩の全集が届いた。
小学生にはどうかじりついても読めない。
人間椅子になって女性に座られる喜びなんて、小学生には理解不能だ。
笑うしかない。
だけど少しずつ読んでいった。
小学生にこんな教育してもいいのかと思いながら、「こんなの読ませるなんて、変な親父」と思いながら読んでいった。
でも、そのおかげで、理解できないものを読んでも、いつか理解できる時が来ることへの信頼が僕のなかに生まれた。
いまだによく理解できない文章に出会う。
でもそれは、いつか理解されることを待っているのだ。
さあ、世の中にあふれている意味の渦に飛び込もう。

11月

21

非二元

二十年以上前、ケン・ウィルバーの
『意識のスペクトル』を読んで以来、
非二元という言葉の意味が
いまひとつ理解できないでいた。
わかったような、わからないような
ムニュムニュ状態。
それがふとつながった。
仏典の多くも、
一部のスピリチュアリストも、
一部の哲学者も
このムニュムニュを説明したくて
がんばっていたのだ。
言葉自体が非二元的ではないので
文字にすると
ムニュムニュしてしまうのは
仕方ないのだ。
いまはどんな非二元に関する質問にも
答えられるような気がするが、
実際には
ムニュムニュしてみないと
わからない。

6月

7

繰り返すことを楽しむ

同じことを何度も繰り返すと
たいてい飽きる。
ところが何度やっても
飽きないことがある。
それが「商い」になると
商売をしている人はよくいう。
でも、商売以外でも飽きないことは
たくさんあって、
人はそれをしていけば
いいんだろうなと思う。
同じことを何度もしてているうちに
工夫が生まれ、
工夫がいくつか積み重なって
発明や発見になり、
その人にしかできない
何かが生まれる。

6月

5

力を抜く

何かがうまく行かないとき、
からだ全体の力を抜く。
肩に力が入っていたり、
腰に力が入っていたり、
ふくらはぎに力が入っていたり、
思わぬ所に力が入っていたりする。
椅子に座って楽にして、
からだのすみずみを感じてみる。
足や手、お腹、背中、首、肩、
あご、口、目、額、耳、頭皮などを
順番に感じてみる。
どこかに力が入っているのを感じたら、
その力を緩めましょう。
「がんばってくれてありがとう」
といいながら。

5月

31

区別する

何かの本で、
「愛することとは」という問いに
「あるがままを受け取ること」と
あった。
そこで考える。
「愛することの反対は?」
本に書かれているそのままを
反対にすると、
「あるがままを受け取らない」
となるであろうか。
「あるがままを受け取らない」
としたら、それはどういうことか。
「差別する」ということかなと思う。
つまり「こうならいい」
「これはだめ」とすることだ。
でも、常識とか作法というものは
「こうならいい」「これはだめ」
がなければ成り立たない。
では、こうしたらどうかな?
「こうしたらみんなが喜ぶ」
「こうしたらみんなが怒る」
でも「喜ぶ」と「怒る」ほどの
感情的な距離がない場合は
「こうしたら気持ちいい」
「こうしたら不快」
という区別になるかな。
もっと微妙な場合は
「こうしたらちょっと気持ちいい」
「こうしたらちょっと不快」
となるのかな。
「こうならいい」「これはだめ」

「こうしたらちょっと気持ちいい」
「こうしたらちょっと不快」
の微妙な区別は
もし本当のAIや
ベーシックインカムの時代が
来るのであれば、
大切なものになるのかも。
そもそも人間は
言葉でいろんなものを
区別することで繁栄してきた。
この「区別」と「差別」の違いを
自分にとってはっきりとさせないと
ならないのかも。
「区別」するといいながら
どうしても「差別」しているような
ことがないかな?
僕は使っているうちに
混同してしまうし、
状況によって「区別する」
といいながら
「差別する」ようなことが
生まれている気がする。
「区別する」という
シニフィアンに
「差別する」という
シニフィエがつく。
「区別」はきちんと
「区別」のままにしよう。

5月

21

平成30年5月21日の夢

三日ほど、気持ちいいものが書けなかった。
無理をすれば書けたのかもしれないが、
書くのにちっとも気持ちよくない。
気持ちよくないのに無理に書いて
嘘をつくのは嫌だなと感じる。
いったいどうすればいいんだ?
感情は、さまざまな些細なことの
積み重ねでできている。
自分にとってどうでもいいと思うようなことが
実は重大な影響を与えていたりする。
そのことを今朝の夢で思い出した。
だけど、この体験を意味が通るように
書くことができるのか不安だ。
なぜ僕がそのことを思い出せたのか
僕自身はっきりしていないからだ。
そして、それがなぜ解決できたのか、
きっといろんなことの
些細な積み重ねであるから、
それをひとつひとつ書いても、
その話のどこが効果的だったのか、
結局わからないだろうと思う。
でも、一応書いてみる。
夢はこんなものだった。
ある日、どこかの田舎に行く。
何かの手伝いをしに行った。
その手伝いが終わって帰ろうとすると
もうすでにかなり遅い。
その場所は駅からかなり離れている。
近くにはふたつの駅があり、
どちらの駅まで歩こうかと考える。
ひとつの駅には
雪道を歩かなければならない。
もうひとつの駅には
雪道を歩く必要はない。
僕は雪道を歩こうとして途中まで行ったが
やっぱりやめたと思い
もうひとつの駅に向かう道を選ぶ。
うちに帰るのに遅くなると思い
電話をかける。
そこで気づきがやってきた。
そして目覚める。
目が覚めるとラジオで飛行機の
話をしていた。
そういえば、と思い出す。
飛行機の航路は世界中を巡っている。
どの街とどの街が、
距離は隔たっていても
関係が深いのか、
便数でわかるなと思う。
それでさらに何かが解決した。
そしてなぜか
「日刊 気持ちいいもの」が
書けるような気がした。

3月

19

不満たらたらで気持ちいいもの

生きていれば
いつもいい状態で
いられるわけではない。
困ったこともあれば、
悲しいこともあり、
イライラすることもある。
そういう状態で
気持ちいいものを書くのは難しい。
でも、書く。
するといろんなことに気づかされる。
そんなこと認めたくないなと
思うようなことにも直面する。
その結果、認めるつもりはなくても、
そういう解釈ができる
ということに気づく。
この世界には
いろんな解釈が生まれてくるが、
持ちたくない解釈も見えてくる。
それが気持ちいいのか?
僕個人としては気持ちよくない。
でも、きっと全体から見ると
そういう解釈ができることを
僕が知っていると言うことは
いいことなのだと思う。