10月

5

正直化

世界の正直化が進んでいると思う。
かつては「このくらいいいだろう」で済んでいたことが、済まなくなってきている。
それはいいことであり、一面では悪いことでもある。
たとえば、遺伝子の染色体が一度にたくさん変化すると、そこは癌化されてしまうという。
そういう現象をクロモスリプシスというそうだ。
染色体が変位するのはよく起きることで、それを修復したりそのままにしたりして細胞はわずかずつの変化を受け入れていくが、一度に大きな変位が起きるとそのことによって癌が生まれる。
それと似ていて、社会もかつて「このくらいでいいだろう」と思われていたところを一度に正直化すると、いろんなところにがたが来るのではないかと思う。
それが一面の悪いことだ。
全体の調和を崩さずに正直化を進めるためにはある程度の許容が必要だと思うが、その許容の度合いをどうやって決めるのかが難しい。
癌を観察するのに、染色体レベル、細胞レベル、肉体レベルと視点の階層が必要なように、正直化を進めるのにも、言語レベル、個人レベル、家族レベル、組織レベル、社会レベルと、階層を設けて観察しないと、きっとうまくいかないだろう。

10月

1

繊細さを忘れながらそれに直面する

幼い頃、日本語の歌が嫌いだった。
テレビからはいろんな歌謡曲が流れていた。
それがことごとく恥ずかしかった。
多くは恋愛の歌で、とても僕には歌えないと思った。
ところが、大学生の頃には慣れてしまった。
理系だったので文章はほとんど書かなかった。
書くとなんだか恥ずかしかった。
だから日記は二日と続いたことがない。
会社に入った。
会社にいると文章を書かざるを得ない。
だけど、自分のことを書くのではなく、企画書とか、何かの趣意書だとか、他人事ばかり書いていた。
そうやって自分の内側にある繊細さを忘れていった。
自分のことを書くと途端にその繊細さに直面する。
「僕がいいたいことと違う」
いつもそう思っていた。
言葉にすると、大切なニュアンスがごそっと抜け落ちるような気がした。
だけど、それに慣れていった。
「日刊 気持ちいいもの」を書くことは、そういう繊細さを忘れていくことだ。
まるっと感覚を捉えて表現する。
一方で、うまくは書けないニュアンスに直面し続けることでもある。
あなたは「いったいどっちだ」と思うかもしれない。
うまく説明はできないが、どっちでもあるんです。

9月

16

気持ちの多様性に気づく

身体にはいろんな細胞がある。
皮膚になっている物もあれば、臓器になっている物もあるし、骨になっている物もある。
そのようにいろんな細胞が存在して複雑な連携を作っている。
それと同様に、気持ちにもいろんな気持ちがある。
具体的なある選択をするときに、気持ちの多様性に気づくことができる。
ある選択をしようとするとき、立場の違いを考えることによって導かれる選択が異なる。
親として、子として、師として、弟子として、自分の職業的立場などから選択をするとき、それぞれの選択が異なる場合があることに気づく。
さらに、いつも同じ立場からの選択しかしないと、その立場からの選択がしやすくなるように感情が変化していく。
いつもひとつの立場からの選択しかしないと、ほかの立場からの選択の際の感情はどんどん感じられなくなっていく。
もしそれを避けたいなら、ほかの立場からの選択もきちんと考え、その感情を味わうことが必要だろう。
そうしないと利己的で冷淡な人に、他人からは思えるような人になっていく。
多元的な感情を味わう人ほど、他人から見ると愛情豊かな人になる。

9月

15

多様性を取り込む

多様性が大切な時代になってきた。
自分の考えに多様性を取り込むためには何をすればいいのか?
一番最初の入口は「他人の気持ちになってみる」。
それは小説や脚本を書くといい。
主人公の気持ちになり、脇役の気持ちになり、ほんの一瞬しか登場しないキャラクターの気持ちになってみる。
いろんな発見がある。

9月

11

還暦

還暦を迎えてしまった。
気持ちいいかというと、微妙だ。
よくこの歳まで生きられたという点ではありがたいことだが、これからの時代、安心して生きて行かれるのかということを考えると、かなり不安だ。
不安を抱えても、それはそれとして、楽しく生きていこう。
生きていくというのは、常にエッジに立つことだから。

9月

8

つまらない話を聞く

いろんな人にいろんな貴重な体験がある。
インタビューをするとき、そういう話を聞く。
ときどき「こんなつまらない話でいいの」とか言われることがある。
その人にとってはきっと「つまらない話」なんだろう。
でも、そういう話は丁寧に聞けばたいてい面白い。
人は、本当につまらない話なら忘れてしまう。

9月

1

言語学のやり直し

野間秀樹著『言語存在論』を読んでいる。
ずっと昔にソシュールの本を読んでいたので、内容にびっくり。
丁寧に説明されると確かにそうだなと思うが、いままで積み上げてきた言語学はどうなってしまうのだろう?
ニュートン力学とは別にアインシュタインの相対性理論が成り立ったように、並行して考えられるようになるのか、それとも言語学はこれからすべて作り直されるのか?

8月

24

ワクワクするエネルギー

何かにワクワクすることはいいことだ。
ワクワクしているといろんなアイデアが浮かびやすくなる。
だからワクワクするために何かを準備しておくことは大切なこと。
たとえばこの「日刊 気持ちいいもの」は、僕にとってワクワクのための準備であり考察であり、体験の反芻場所だ。
ワクワクのエネルギーが枯渇すると、かつて書いた文章を読む。
するとワクワクの種が復活してくる。
だけど、そうは行かないこともある。
まさにそのとき、大切な内的探求が始まる。

8月

23

気持ちいいもののレベル その3

気持ちいいもののレベル その2 の続き

「そういう気持ちよさは単なる思い込みではないか」という人もいるだろう。
もちろんそういう表現はできるし、その言い分に反対するつもりはない。
しかし、そもそも気持ちいいものは、自分の感情であり、そのなかに一抹の思い込みも含まれる。
「思い込みはすべて否定する」という考えのもとでは、「気持ちいいもの」の存在は危うい。
「気持ちいいもの」の存在は、自分がそれを許すかどうかに大きく依存している。
この話はいつかきちんと本となるような分量の文章にまとめたい。

8月

22

気持ちいいもののレベル その2

気持ちいいもののレベル その1 の続き

さらに、自分の内側に生まれるレベルのほかにも、外側に作り出す気持ちよさもある。
たとえば映画を見ているとき。
映画の主人公が気持ちよさを感じるのに共感して、気持ちいいと感じることがある。
その気持ちよさは明らかに自分の外側に生まれた気持ちよさを自分の内側に取り込んでいる。
そういう気持ちよさが僕たちにはある。
それが理解でき、また感じることができるのであれば、自分の内側から生まれる気持ちよさだけではなく、外側にできたある状況に共感して感じる気持ちよさがあることを理解することができる。
それは何も外側にいる人物に対してだけ向けられるものではなく、動物や植物、あるいは物に対しても向けられることがある。
人形を撫でながら気持ちよさそうにしている女の子はその状態にいると言える。
人形を撫でることで人形という物に生まれるであろう気持ちよさを自分が取り込んでいる。
このような外部にある物に生まれるであろう気持ちよさの取り込みは、どんな物にもそこに付与する物語によって生み出すことができる。
だから極言すれば「地球の気持ちよさ」も「宇宙の気持ちよさ」も、「原子や分子の気持ちよさ」も、作ろうと思えば作ることができる。

8月

22

気持ちいいもののレベル その1

気持ちいいものにはレベルがある。
どんなレベルかというと、感じる主体をどこに置くかだ。
「気持ちいいものの主体は『自分』に決まっているではないか」と多くの人は思うだろう。
ところが『自分』にはいろんなレベルがある。
たとえば『親としての自分』『子供としての自分』『職業上表現している自分』『友人といるときに表現している自分』など。
こういう区分けは人にもよるが、きっとたくさんあることだろう。
そして、それぞれの立場によって、気持ちいいものが変化することがある。
ある立場ではとても気持ちいいものが、別の立場では気持ちよくなかったりする。
自分というものは特定のもので、ひとつの立場しかないと思い込んでいる人はその変化に気づかないかも知れない。
だけどたとえば、自分の親に対して話すときと、自分の子供に対して話すとき、同じ話でも微妙なニュアンスの違いに気づく人は「ひとつの立場しかない」という思い込みから脱することができるだろう。
だから、気持ちいいものは、自分がどのレベルにいるかで変わってくる。

8月

20

朝の瞑想

いろんなことが去来する。
言わなくてもいい、言ってもいい、いろんなこと。
世の中の複雑さに巻き込まれている僕は、複雑な存在。

8月

18

気持ちいい状態にいる

これがなかなか難しい。
あーしてこーしてといろいろと考えてしまう。
泳いでいるときには水の動きを想像するといい。
それで思いついた。
なるほど。
瞑想のとき、なぜ光の回転を思うのか。

8月

15

レッテル思考からの脱却

人間は言葉を持ったが故に、何かの答えとしてレッテルを貼るようなことをして安心することがある。
幼い頃からそれが身に付いていると、レッテルを貼って答えたつもりになる以外どうしたらいいのかわからなくなる。
言葉で答える限り、レッテル貼りと何が違うのかきちんと答えるのは難しい。
でも、人間にはそれができるんだよ。

8月

2

心が疼くこと

ちっとも気持ちよくないが、放っておくと心が歪みそうなので書いておく。
身体によくないとわかっているのに打たなければならないとされている、あれ。
オリンピックの会場に人がいないため声援が選手に届かないこと。
外出するとみんなマスクをしていること。
お店に入る度にアルコール消毒すること。
どんなに嬉しくてもハグできないこと。
知っておいてね、あなたが大切だからだよ。

7月

11

執着はいいものであり、悪いもの

「気持ちいいもの」は執着でもある。
ここに書けば書くほど、その執着は明確になる。
「執着はいいものであり、悪いもの」と知っているから「わざわざそれを書くなんて無駄なことだ」と考えることは簡単だ。
でも実際にやってみると、簡単なことだけではないことが理解できるし、体験できる。
それを「体験してない頃の僕」に説明するのは難しい。

7月

10

執着を見つめる

人間、生きている限り、執着を手放せないのだと思う。
なにしろ生きていることが執着の一つだ。
それすら手放すって、死んでしまうよ。w
あるときからそういう自分を観察することにした。
正しくは「執着する自分を見つめる」ということかな。

7月

8

山から星へ

昔、宇宙の中心は山の頂上にあった。
だから神様の多くは山にいた。
長い歴史のなかで、いろんな宗教が神様をいろんなところに連れて行った。
いろんなところに神様が現れるようになり、宇宙の中心は曖昧になったが、それでも人間のイメージとしては、山の頂上が宇宙の中心になることが多かった。
ところがある時から、星が宇宙の中心になった気がする。
その星の中心が宇宙の中心でもある。
それはもちろん象徴的なもの。
各個人が宇宙の中心にいて、いろんな存在につながっている。
星と星が重力や電磁波で結ばれているように。
山を象徴とするピラミッド構造を維持したい人は、星を象徴とする多次元的な人とのつながりに困惑し、一生懸命ピラミッドに戻そうとしているかのように思える。

6月

4

どこにあるのか

気持ちいいものは、いったいどこにあるのか?
ときどき、考える、感じてみる。
「いまここ」なんて簡単なものではない。
他人に伝えるのにそれしかいいようがないから「いまここ」という。
「いまここ」であり、「永遠の彼方」であり、「宇宙大の広がり」であり、「妄想」であり、「意味のないもの」でもある。
それを知るとはどういうことか。
語り尽くせぬ言葉が溢れる一方で、沈黙が訪れる。

6月

2

適切な質問

ユングが錬金術を研究していたことを友人に話したら、質問された。
「なぜユングは錬金術を研究したの?」
その質問で、曖昧だったことがはっきりとした。
こういうのを適切な質問というのだろう。

6月

2

曖昧になることはっきりすること

「わかることとわからないこと」に書いたように、曖昧になることがある一方で、曖昧ではあるけど譲れないことが現れてくる。
それがなぜ譲れないのか、説明してもあまり説明にならない。
なぜなら、その説明は僕の心にあることで、他人とそれを共有してないから。
共有するためには、きっとその人との濃密な関係が必要になる。

5月

23

5000回記念

もうすぐ4500回を迎える。
5000回には何か、個展のようなことをしたいと思っているが、5000回分の文章をただ掲示しただけでは面白くない。
何かいいアイデアはないかとうつらうつら考える。

5月

11

集合無意識

今の日本はいろんなところで抑圧されていて、その結果何が生み出されるのか心配でもあり、楽しみでもある。
集合無意識が、いろんなところで形になる。
アートや哲学、エンターテイメントへの影響が楽しみ。

4月

22

賢者の石

賢者の石について、理系出身の僕は「馬鹿なことを考えていたな」くらいにしか思っていなかったが、ユングの『心理学と錬金術』を読んで唸ってしまった。
心の目で見ると現実は変わる。

4月

5

創作的に読む

はじめて現代語訳された大乗起信論を偶然読むことになった。
それを古本屋で見つけたのだ。
その本は筑摩書房から昭和40年に出版された世界古典文学全集の第七巻『仏典Ⅱ』、そのなかに大乗起信論が含まれていた。
仏典の現代語訳を自分で買ったのはこれがはじめてだった。
翻訳が良かったのだろう、そこにある意味をぼんやりとつかむことができた。
しかし、一見すると矛盾しているようなことが多く出てきて、「なんのことやら?」と思う部分もたくさんあった。
だけどひとつ、これはこういうことだなと理解できることがあった。
それは「熏習」という言葉。
これはまさに「リフレーミング」のことを言っているのだろうと勝手に解釈した。
そのおかげで、その大乗起信論を何度も読むことになった。
その一点を理解したことで、この文書には読み取れていない何事かが書かれていることを信じることができた。
信じなければこの本は、とても読めなかっただろう。
信じて読むことで、あとから新たな区別が僕の心に生まれてくる。
その区別がまた別のことを理解させてくれる。
「創作的に読む」ということがどのようなことか、読んでいる最中には気づかなかったが、あとで考えるとこういうことなのだなと理解できた。