9月

22

波紋の写真

ヒーリング・ライティングのサイトでトップに使っている波紋の写真が好きだ。
バリ島のサヌールというビーチで撮った。
朝日に輝く引き潮の海面。
浅瀬にできる潮だまりに朝日が反射して金色に輝く。
底にいる生物たちが出すガスが浮いてきて幾重にも重なった波紋を作る。
http://www.healingwriting.com

9月

18

ヒーリング・ライティングBeer House

ヒーリング・ライティングBeer Houseを始めた。
会場はZOOMを利用してネット上でおこなっている。
今までに四回開催したので、三回目からは冒頭のプレゼンテーションをYouTubeにアップロードし始めた。
https://www.youtube.com/channel/UCcaXJJw7OvQ7R5qVukklnhw
なぜBeer Houseとしたかというと、緊張しているとヒーリング・ライティングはうまくいかない。
ビールを一杯飲んだくらいでやるのがいいかなと思ってそういう名前にした。
もちろんお酒に弱い人はお茶でもいい。
リラックスして参加してほしい。
遅刻されると他の参加者に影響があるので、開始時刻は厳格に守る。
遅刻した場合は参加できないということにした。
一緒にやる人たちのため。

9月

2

呼吸

吸ったら吐く。
吐いたら吸う。
当たり前のこと。
つらい思いを抱えたら手放す。
手放したら、新たなつらい思いを抱えることができるかもしれない。
吸ってばかりじゃ窒息する。
呼吸しましょう。

8月

24

概念を伝える

新しい概念がきざしたとき、それを他人に伝えるのは難しい。
きっと誰の頭にも新しい概念が宿り、それを伝えたいとは思うけど、どう説明したらいいのかがわからず伝えられていないことがたくさんあるだろう。
どうしても伝えなければならないことは、伝えるための努力をしなければならない。
人間として生まれ、言葉を与えられたからには、そのような努力が、実は一番の喜びになるのではないか。

8月

24

考えを反芻する

毎朝この『日刊 気持ちいいもの』を書くために、瞑想したり、考えを反芻したりする。
いろんな思いや考えが現れては消えていく。
反芻した考えを理解するためにはその前提となることも理解しないとならない。
毎日少しずつ考えることは、実は物凄い価値を生む。
その大きな価値は、毎日少しずつ考え続けた人が得る。

8月

22

誰かのせいにしておく

「なんでこうなってしまうんだ」と思ったとき、とりあえず誰かのせいにしておく。
実際にはその人の責任ではないかもしれないことを知っているので、怒るわけにはいかないし、その人に向かって文句などは言わない。
時間を稼ぐことで感情の炎が燃え上がるのを一時止めておく。
そののち、推理力を働かせて、正しい犯人を探っていく。
明らかな犯人がわかれば、その人に対して話をする。
自分のせいだとわかったら、同じ過ちをしないように対策を練る。
わからなかった場合は、時間の経過が怒りや悔しさをやわらげてくれる。
これに気づいたのは、相方が何かというと僕のせいにするから。
ベランダのハーブが枯れたとき「あなたのせいよ」というし、料理の味付けがうまくいかなかったとき、「あなたのせいよ」と言われる。
はじめのうちは明らかに僕のせいではないとそこから言い合いになったが、最近ではもう慣れたので「はいはい」と返事をする。
相方は僕のせいにすることで気が楽になるようだ。

8月

20

新月瞑想

久しぶりに新月に瞑想をした。
新月瞑想会をZOOM上で主催したが、平日の昼間だったせいか、一人も参加しなかった。
なので、僕一人でやった。
おかげさまで気持ちよかった。
これからも続けよう。

8月

20

なぜ文章を書くのか

文章を書く効用は色々とあるが、現時点でとても大切なことだろうと思うことを書く。
それは、自分の分裂した視点を全て抱えるためだ。
人間が考えることには限界がある。
一度にたくさんのことを吟味するのは難しい。
ところが、文章を書くことができると、並列してたくさんのことを考えることができる。
ある立場に立ったとき、自分はどう考えかるのか。
別の立場に立ったとき、どうなるのか。
そのようなことを積み重ねると、三つや四つくらいまでは頭の中で考えることができるかもしれないが、たくさんの立場について考えていくと、いつか区別が曖昧になる。
一つ一つの立場を書いておけば、いくつあってもあとでちゃんと思い出し、考えることができる。

8月

20

多次元な視点

多次元な視点について考え続けている。
日本のマスメディアは比較的一つの正解を追い求める。
しかし、これからの社会では、一つの正解よりも、多次元なそれぞれの正解を求めるようになるであろう。
僕の正解と、あなたの正解とでは違いがあっていい。
なぜなら、僕とあなたは立場が違うし、環境が違う。
あるイベントの案内にこんなことを書いた。

新型コロナウィルスへの対処___

いま僕たちは新型コロナウィルスの影響によって混乱の中にいます。
どの話が正しいのか、どの情報を基準にして考えなければならないのか、いろんな判断が可能だと思います。
波をモデルに考えると、いくつかの波長の違う波が同時に起きて、いろんな方向に揺らされているということでしょう。
それに適合するためには自分の立ち位置が明確でないとならないと思います。

年齢はどうか。
重症化しやすい疾患にかかっているかどうか。
同居している人たちとの関係はどうか。
仕事との関係はどうなっているか。
自らの社会的立場から、何を主張したいのか。
 
これらが複雑に絡み合い、新型コロナウィルスに対してはどう対処すべきなのか、一つの答えが生まれるような状況ではありません。
そこで当イベントは、もし社会的な状況が許すのであれば、(ロックダウンがなされてない、美術館やレストランが営業されているなど)このイベントを実行しようと思います。
その際の参加・不参加の判断は、ぜひみなさん個人で考えてください。
もし当イベントの主催者が一つの答えを責任を持って出すとしたら
「危険性があるからこのイベントはしない方がいい」となるでしょう。
しかし、もしこのまま自粛が続けば、社会全体に経済的ダメージが大きくなっていくのも明らかです。
「自粛さえしていればいい」という答えも出しにくい状況だと思います。
そこで、当イベントでは、マスクや手洗い、直接のコンタクトはしないなどの対応を考えた上で、実行する予定です。
もし何かイベントを中止せざるを得ない状況が生まれましたら、ご連絡いたします。
みなさんの判断も時期によって変わるかもしれません。
参加しようと思ったが、やはりしないという連絡も、いつもと同様受け入れます。
早く新型コロナウィルスを気にせず、いろんな活動ができる世の中になってほしいですね。
「もう以前のようには決してならない」というようなことを言う人もいますが、今までも何度も人類は新しいウィルスを乗り越えてきました。
それを思えば、なぜ今回だけ無理だと言うのか、不思議に思います。
難しい状況にも対応し、楽しく生き延びていきましょう。
お申し込みをお待ちしております。
___

そう、それぞれに違う判断をすることを肯定的にとらえた。
マスメディアでは一つの正解を追い求める。
それはメディアの性質上仕方ないのかもしれない。
それはそれとして、僕たちは他人の視点も理解した上で、自分の選択をしなければならない。
このとき、多次元な視点が必要となる。

8月

2

いま僕たちがしていること

いま僕たちは何をしているのだろう?
ただ漫然と生きているわけではない。
自分の視点からだけで見ると、生きていくのに必死なだけだ。
だけど、人類という視点からみると何が見えるのか。
人類はいろんなことをしているから、ひとことなんかでは括れない。
でもあえてざっくりと括ってみる。
人類は心地よい状態を探し求めているのだと思う。
これは個人が「心地よい状態を探し求めている」というのもある。
そして、地域や国も全体としてそれをしているだろう。
結果として人類全体も「心地よい状態を探し求めている」と言ってもいいのではないか。
人によっては「心地よい状態を探し求める」ために他人を踏みつけてもいいと考えている人もいるかもしれない。
でも、その人も「心地よい状態」を得るために「他人を踏みつけなくてもいい」となったら、踏みつけないだろう。
人類は全体として「心地よい状態」を作り上げるためにいろんなことをしている。
ある人は農作物を作り、ある人は魚を捕まえ、ある人はゴミを処理し、ある人は調理をし、ある人はものを考え、ある人は商売をし、ある人は発明をし、ある人は金融に携わり、ある人は国防に関わり、ある人は政治をし、ある人は・・・と、数えきれないような仕事をすることを通して、まずは自分を心地よくし、それを通して人類全体が心地よい状態に向かうように頑張っていると、僕は思う。
人によっては「絶対にそんなことしていない」という人もいるだろう。
それはそれでいい。
ざっくりと括ったのだから。
そして「そうでなければならない」というつもりはない。
「そうなんだろうな」と僕が思っていること。

8月

2

暗黙知の言語化

なんとなくわかってはいるけど、うまく言葉にできないことがある。
例えば、「家」という概念がなかった頃の人間がここにいたとしよう。
現在の家ほど立派なものではないが、動物の「巣」とは何かが違う場所に住んでいる。
「巣」にはたいてい屋根がない。
「屋根を付けた巣」だと表現してみる。
しかし、それもしっくりこない。
「巣」とは何が違うのか考えてみる。
そうだ、「巣」では何世代も同じところに住まないが、僕たちの住む場所は何世代も受け継ぐものだ。
だから「世代を超えた巣」とか言ってみる。
御先祖様がそこにいたし、きっと今もいるかもしれない。
そういう守るべき場所だ。
「屋根を付けた世代を超えた巣」という言葉は不便だ。
「寿限無寿限無」の落語のようになってしまう。
そこでは一緒に住んでいるものみんなが安寧に暮らせるように祈っている。
白川静先生の説によれば、その祈りのために犠牲を捧げ、それを表現したものが「家」という文字になった。
こんなふうにして、自然界に存在しなかった「家」という概念が生まれてきた。
似たようなことを人間は連綿と続け、いろんな概念と言葉を生み出してきた。
みんながなんとなくわかっていることをこうして言語化してきた。
これからも新しい言葉が生まれ続ける。

7月

22

理屈では割り切れないもの

全部が全部理屈で割り切れたら、きっと生きることはつまらないことになる。
理屈で割り切れないことに困ることもあるが、それでいいことで救われることもある。

7月

22

ものの見方

仕事を恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
家族を恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
友達を恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
社会を恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
生まれてきたことを恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
どちらにとっても罰せられることはない。
こんなに自由なのにそれでもいろんなことに文句をいう。
自由だから。

7月

1

不快の区別

気持ちいいものについて4184もの区別を付けてきた。
そうしていると不思議なことが起きてくる。
「不快」のなかに気持ちよさを見つけるようになる。
または、「不快」と思い込んでいた感覚に、別の解釈を許すようになる。
それはいったいどういうことなのか、説明しようとしてもうまく説明できない。
あえて説明するなら、子供の頃に嫌いだった食べ物を大人になって好きになってしまうような感覚とでも言おうか。
「気持ちいいもの」について区別を与えれば与えるほど、「不快なもの」にも区別を与えていたのかもしれない。
それは自分が意図せずにも、心のどこかでそういう自動的な作業が発動していたのかも。
たとえば、気持ちいいものを表現すればするほど、太極図のようにどこかに不快な感覚がついてきて、そこに意図せぬ区別をつけていたのかも。
気持ちいいものを書き続けると、ときどきその作業が嫌になることがある。
それが陰の極まったとき。
それを過ぎて陽が現れるのをじっと待つ。
「気持ちいいもの」を書くように「不快なもの」も書ける気がする。
「不快なもの」を書き続けると、きっと「気持ちいいもの」にたどり着くのだろう。

6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

6月

26

幸せになるということ

「幸せになる」というのはどういうことか考えてみた。
とても個人的で、一般の人には当てはまらない答えだったが、それこそが大切なのだと思うようになった。
それは、幼い頃からの体験に大きな根元がある。
うちには古本屋を開くことができるほど本があった。
木造家屋にただ本棚を置くと、その本棚があまりにも重くなってしまって、ついには床が抜けたりするので、本棚を新しく作るときには土台から作らなければならなかった。
そんな特殊な家に住んでいた。
幼い頃から家中にある本の背表紙を見ながら暮らした。
変な本がたくさんあった。
拷問の仕方とか、即身仏になる方法とか、売笑についてとか、普通の家庭にはこんな本ないよなと思う本であふれていた。
ある日そういう本の中から一冊を手に取る。
幼い頃にはまったく理解できなかった本が、理解できるようになっていく。
それが僕にとっての幸せだった。
そういう幸せに触れ続けるために本を読み、本を書く。

6月

10

ティンシャ

ヒーリング・ライティングのワークショップを始めた頃、いい音のティンシャが欲しくて、お店で見つけると鳴らしていた。
なかなか気に入った音のが見つからず、あるとき安曇野のシャンティクティで見つけて、それを使った。
10年ほど使って、バリ島で見つけたティンシャに変えた。
以前のものはひとに譲った。
ふたつの鐘の音程が微妙に違うのがいい。
ワウワウワウと、音のモアレが生まれる。
今使っているものも、かつて使っていたものも、すぐにその音を思い出すことができる。

5月

22

幸せな感覚

静かに座って、心を遊ばせる。
思い出の場所、うきうきした感覚、一緒にいた人、空気の感触、過去の出来事。
未来について思い描く。
見たことのない景色、見たことのない現象、はじめての感覚、聞こえてくる音楽。
いま、ここにいて幸せ。

5月

17

非二元意識

一時期スピリチュアルな人たちの間でも「ノンデュアル」として話題になっていた。
僕がその存在を知ったのは二十年以上前、ケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』にその言葉が出て来たから。
その本の中で何度も「非二元的な知の様式」などという言葉で登場する。
はじめて読んだときはフロムの「生きるということ」に出てくる「あるということ」のように、意味がわかったようなわからないような状態だった。
書いてあることは理解できるが、言っている本当のところが、僕の想像しているものと同一のものかどうか自信が持てなかった。
ところが、「非二元的」なことが、いろんな本のあちこちに登場していることが、これ以降少しずつ理解できるようになった。
あれから二十数年、いまではすっかり「非二元」の追っかけフリークのようになってしまった。
ヒーリング・ライティングを通して、それをかいま見るにはどうしたらいいのか、伝えられるようになりたい。
でも、そのまま伝えられるものではなく、だからこそ秘教と言われている分野に登場するので、本にしたところで正しく伝えられるものではないことは知っている。
それでも、それを求める冒険の入口に立てるような本にしたい。

4月

22

一緒に料理をする

相方と一緒に料理をすると、かならず言い合いになる。
「その野菜、切ったから焼いて」とか言われる。
僕、「何を作るの?」。
「とにかく焼けばいいの」
「何作るのかわからなければ火加減とか、油は何を引くのかとか、途中で調味料入れるのかとか、わからないだろう」
「面倒なこと言わなくていいの」
「じゃあ網で焼いてもいいの?」
「焼きたかったらどうぞ」
でもこれは、僕を美化して相方をおとしめているかもしれない。
相方の視点で書くとこんな感じかも。
「その野菜、切ったから焼いて」
「何を作るの?」
「(さっき野菜炒め作るって言ったでしょう)とにかく焼けばいいの」
「何作るのかわからなければ火加減とか、油は何を引くのかとか、途中で調味料入れるのかとか、わからないだろう」
[(あなたにまかせられるのは野菜炒めだけだから)面倒なこと言わなくていいの」
「じゃあ網で焼いてもいいの?」
「焼きたかったらどうぞ」
僕が子供の頃に見ていたトムとジェリーが懐かしい。

4月

6

ワクワクを追いかける

ヒーリング・ライティングのサイトをずつと更新してこなかった。
理由は簡単で、僕が何かにモヤモヤとしていたこと。
何にモヤモヤしていたかというと、他人に教えることばかりに気が行って、自分が楽しめなかったこと。
ヒーリング・ライティングを自分が楽しむためにはどうしたらいいかを考えていくことにした。
教えるのは二の次。
自分にとっての謎を追いかけていこう。

3月

25

美しさの奥行き

昨日の記事に「美しさの奥行き」と書いた。
それがいったい何か。
『ヒーリング・ライティング』に書いたように、区別はつければつけるほど新しい区別が生まれる。
美しさも同じ。
ある美しさを見つけたら、その美しさを認識することではじめて見える別の美しさがある。
言葉はそのような区別を見つけて定着させるための素晴らしい道具。

3月

18

気持ちいいを引き寄せる

ひさしぶりにこの『日刊 気持ちいいもの』を再開した日、東日本大震災が起きました。
朝に創刊号を発信し、昼過ぎに大地震が起きたのです。
それから数ヶ月は苦痛や困難を感じながら「気持ちいいもの」を発信しました。
とてもいい修行でした。
いまもまた似た状態になってきました。
何か大きな発見があるのかも。

3月

17

気持ちいいものを言語化する

花を見てきれいだなと思う。
よくあることだ。
だけど、悲しみに沈み込んでいては、花の美しさは見えてこない。
あまりにも浮かれていても、きっとその美しさは訴えてこない。
花を見てきれいだと思える状態に自分がなっていないと、花の美しさはわからない。
同じように、この世界にあるありとあらゆるものの気持ちよさは、自分がそれを受け取れる状態にないと受け取れない。
4084回も気持ちいいものを書いてきて、それがどういうことなのかを少しずつ理解してきた。
ときどき気持ちいいものが書けないことがある。
そのときに一番深く学んでいる。
気持ちいいものが感じられないとき、不快かというとそうでもない。
何かショックなことがあると書けないことがある。
しかし、ショックもなく、不快でもなく、それでも書けないときがある。
書けるときは、心のどこかに「書ける」というビジョンがある。
ビジョンというか、思い込みというか、信念というか、そういうものだ。
それは心に火がついた状態ともいえるし、ワクワク感ともいえるけど、ときによって少しずつ違い、とても落ち着いた気分でも書けることがあるし、不快という気持ちを抱えて書くときもある。
それがいったいどういう状態なのか、そのときどきで味わいながら書いている。
いろんな気持ちのよさがあるのと同様、いろんな状態がある。

1.気持ちよい体験を思い出すことによって書く。
2.気になった感覚を気持ちよいという側面から書く。
3.気持ちいい感覚がここにありそうだと当たりを付けて、それを気持ちいいものとして書く。
4.それが気持ちいいかどうかまったく疑問ではあるが、表現することによって気持ちよさが表れてくる感触があるので書いてみる。

こうして僕は「気持ちいいもの」に対しての目の開き方を学んでいる。

3月

16

意味のプリズム

あらゆる意味を僕たちは手にしている。
そのこと自体を思い出せばいいだけ。
今日、このとき、今の自分の立場によって呼び出される、いま見ている景色、解釈、意味。
それはまるでプリズムを通した光のように、自動的にもたらされる意味の無限色。
いまここで感じることは「今これしかない」と教え込まれてきた僕たちには、無限色のうちのひとつしか見ることができない。
時空を超えて光を見るためには、ちょっと工夫があればいい。
それを得た人は執着を手放し、別の世界に旅立つ。
いままでと同じに生きたい人は、そうすればいい。
別の未知に往きたい人はそうすればいいし、また別の道に逝きたい人はそうすればいい。
この宇宙での正しさは、音楽のように意味が曖昧。
それぞれの正しさがあっていい。
それは「正さ」というより「美しさ」と言った方がいいのかもしれない。
魅せられた人には絶対的な美しさになり、波長の合わない人にはまったく理解できない。