7月

1

不快の区別

気持ちいいものについて4184もの区別を付けてきた。
そうしていると不思議なことが起きてくる。
「不快」のなかに気持ちよさを見つけるようになる。
または、「不快」と思い込んでいた感覚に、別の解釈を許すようになる。
それはいったいどういうことなのか、説明しようとしてもうまく説明できない。
あえて説明するなら、子供の頃に嫌いだった食べ物を大人になって好きになってしまうような感覚とでも言おうか。
「気持ちいいもの」について区別を与えれば与えるほど、「不快なもの」にも区別を与えていたのかもしれない。
それは自分が意図せずにも、心のどこかでそういう自動的な作業が発動していたのかも。
たとえば、気持ちいいものを表現すればするほど、太極図のようにどこかに不快な感覚がついてきて、そこに意図せぬ区別をつけていたのかも。
気持ちいいものを書き続けると、ときどきその作業が嫌になることがある。
それが陰の極まったとき。
それを過ぎて陽が現れるのをじっと待つ。
「気持ちいいもの」を書くように「不快なもの」も書ける気がする。
「不快なもの」を書き続けると、きっと「気持ちいいもの」にたどり着くのだろう。

6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

6月

26

幸せになるということ

「幸せになる」というのはどういうことか考えてみた。
とても個人的で、一般の人には当てはまらない答えだったが、それこそが大切なのだと思うようになった。
それは、幼い頃からの体験に大きな根元がある。
うちには古本屋を開くことができるほど本があった。
木造家屋にただ本棚を置くと、その本棚があまりにも重くなってしまって、ついには床が抜けたりするので、本棚を新しく作るときには土台から作らなければならなかった。
そんな特殊な家に住んでいた。
幼い頃から家中にある本の背表紙を見ながら暮らした。
変な本がたくさんあった。
拷問の仕方とか、即身仏になる方法とか、売笑についてとか、普通の家庭にはこんな本ないよなと思う本であふれていた。
ある日そういう本の中から一冊を手に取る。
幼い頃にはまったく理解できなかった本が、理解できるようになっていく。
それが僕にとっての幸せだった。
そういう幸せに触れ続けるために本を読み、本を書く。

6月

10

ティンシャ

ヒーリング・ライティングのワークショップを始めた頃、いい音のティンシャが欲しくて、お店で見つけると鳴らしていた。
なかなか気に入った音のが見つからず、あるとき安曇野のシャンティクティで見つけて、それを使った。
10年ほど使って、バリ島で見つけたティンシャに変えた。
以前のものはひとに譲った。
ふたつの鐘の音程が微妙に違うのがいい。
ワウワウワウと、音のモアレが生まれる。
今使っているものも、かつて使っていたものも、すぐにその音を思い出すことができる。

5月

22

幸せな感覚

静かに座って、心を遊ばせる。
思い出の場所、うきうきした感覚、一緒にいた人、空気の感触、過去の出来事。
未来について思い描く。
見たことのない景色、見たことのない現象、はじめての感覚、聞こえてくる音楽。
いま、ここにいて幸せ。

5月

17

非二元意識

一時期スピリチュアルな人たちの間でも「ノンデュアル」として話題になっていた。
僕がその存在を知ったのは二十年以上前、ケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』にその言葉が出て来たから。
その本の中で何度も「非二元的な知の様式」などという言葉で登場する。
はじめて読んだときはフロムの「生きるということ」に出てくる「あるということ」のように、意味がわかったようなわからないような状態だった。
書いてあることは理解できるが、言っている本当のところが、僕の想像しているものと同一のものかどうか自信が持てなかった。
ところが、「非二元的」なことが、いろんな本のあちこちに登場していることが、これ以降少しずつ理解できるようになった。
あれから二十数年、いまではすっかり「非二元」の追っかけフリークのようになってしまった。
ヒーリング・ライティングを通して、それをかいま見るにはどうしたらいいのか、伝えられるようになりたい。
でも、そのまま伝えられるものではなく、だからこそ秘教と言われている分野に登場するので、本にしたところで正しく伝えられるものではないことは知っている。
それでも、それを求める冒険の入口に立てるような本にしたい。

4月

22

一緒に料理をする

相方と一緒に料理をすると、かならず言い合いになる。
「その野菜、切ったから焼いて」とか言われる。
僕、「何を作るの?」。
「とにかく焼けばいいの」
「何作るのかわからなければ火加減とか、油は何を引くのかとか、途中で調味料入れるのかとか、わからないだろう」
「面倒なこと言わなくていいの」
「じゃあ網で焼いてもいいの?」
「焼きたかったらどうぞ」
でもこれは、僕を美化して相方をおとしめているかもしれない。
相方の視点で書くとこんな感じかも。
「その野菜、切ったから焼いて」
「何を作るの?」
「(さっき野菜炒め作るって言ったでしょう)とにかく焼けばいいの」
「何作るのかわからなければ火加減とか、油は何を引くのかとか、途中で調味料入れるのかとか、わからないだろう」
[(あなたにまかせられるのは野菜炒めだけだから)面倒なこと言わなくていいの」
「じゃあ網で焼いてもいいの?」
「焼きたかったらどうぞ」
僕が子供の頃に見ていたトムとジェリーが懐かしい。

4月

6

ワクワクを追いかける

ヒーリング・ライティングのサイトをずつと更新してこなかった。
理由は簡単で、僕が何かにモヤモヤとしていたこと。
何にモヤモヤしていたかというと、他人に教えることばかりに気が行って、自分が楽しめなかったこと。
ヒーリング・ライティングを自分が楽しむためにはどうしたらいいかを考えていくことにした。
教えるのは二の次。
自分にとっての謎を追いかけていこう。

3月

25

美しさの奥行き

昨日の記事に「美しさの奥行き」と書いた。
それがいったい何か。
『ヒーリング・ライティング』に書いたように、区別はつければつけるほど新しい区別が生まれる。
美しさも同じ。
ある美しさを見つけたら、その美しさを認識することではじめて見える別の美しさがある。
言葉はそのような区別を見つけて定着させるための素晴らしい道具。

3月

18

気持ちいいを引き寄せる

ひさしぶりにこの『日刊 気持ちいいもの』を再開した日、東日本大震災が起きました。
朝に創刊号を発信し、昼過ぎに大地震が起きたのです。
それから数ヶ月は苦痛や困難を感じながら「気持ちいいもの」を発信しました。
とてもいい修行でした。
いまもまた似た状態になってきました。
何か大きな発見があるのかも。

3月

17

気持ちいいものを言語化する

花を見てきれいだなと思う。
よくあることだ。
だけど、悲しみに沈み込んでいては、花の美しさは見えてこない。
あまりにも浮かれていても、きっとその美しさは訴えてこない。
花を見てきれいだと思える状態に自分がなっていないと、花の美しさはわからない。
同じように、この世界にあるありとあらゆるものの気持ちよさは、自分がそれを受け取れる状態にないと受け取れない。
4084回も気持ちいいものを書いてきて、それがどういうことなのかを少しずつ理解してきた。
ときどき気持ちいいものが書けないことがある。
そのときに一番深く学んでいる。
気持ちいいものが感じられないとき、不快かというとそうでもない。
何かショックなことがあると書けないことがある。
しかし、ショックもなく、不快でもなく、それでも書けないときがある。
書けるときは、心のどこかに「書ける」というビジョンがある。
ビジョンというか、思い込みというか、信念というか、そういうものだ。
それは心に火がついた状態ともいえるし、ワクワク感ともいえるけど、ときによって少しずつ違い、とても落ち着いた気分でも書けることがあるし、不快という気持ちを抱えて書くときもある。
それがいったいどういう状態なのか、そのときどきで味わいながら書いている。
いろんな気持ちのよさがあるのと同様、いろんな状態がある。

1.気持ちよい体験を思い出すことによって書く。
2.気になった感覚を気持ちよいという側面から書く。
3.気持ちいい感覚がここにありそうだと当たりを付けて、それを気持ちいいものとして書く。
4.それが気持ちいいかどうかまったく疑問ではあるが、表現することによって気持ちよさが表れてくる感触があるので書いてみる。

こうして僕は「気持ちいいもの」に対しての目の開き方を学んでいる。

3月

16

意味のプリズム

あらゆる意味を僕たちは手にしている。
そのこと自体を思い出せばいいだけ。
今日、このとき、今の自分の立場によって呼び出される、いま見ている景色、解釈、意味。
それはまるでプリズムを通した光のように、自動的にもたらされる意味の無限色。
いまここで感じることは「今これしかない」と教え込まれてきた僕たちには、無限色のうちのひとつしか見ることができない。
時空を超えて光を見るためには、ちょっと工夫があればいい。
それを得た人は執着を手放し、別の世界に旅立つ。
いままでと同じに生きたい人は、そうすればいい。
別の未知に往きたい人はそうすればいいし、また別の道に逝きたい人はそうすればいい。
この宇宙での正しさは、音楽のように意味が曖昧。
それぞれの正しさがあっていい。
それは「正さ」というより「美しさ」と言った方がいいのかもしれない。
魅せられた人には絶対的な美しさになり、波長の合わない人にはまったく理解できない。

3月

16

新しい幻想を作る

幻想を手放そうと考えると、別の幻想が現れるだけ。
西遊記の孫悟空が、お釈迦様の手のひらから逃げられないのと同じ。
エリアーデの『世界宗教史』を何度か通読した。
そこで伝えられる大切なことのひとつ。
まったく新しい教えというものはほとんど流布しない。
必ずその時代に通底する教えがある上に、少しだけ新しい部分がある教えがあるとき爆発的に流布する。
きっと僕たちが手にする新しい幻想も、すでにある教えに似ているもの。
そして、どこかわずかにこの時代にフィットする新しい部分がある。

3月

16

幻想を手放す

幻想を手放すことにした。
そのためには、まず幻想とは何かを知らなければならない。
そう考えると、言葉で考えること自体が幻想であることに気づく。
言葉はそう簡単には手放せない。
どうする?
なんか笑える。

2月

29

スピリチュアルなこと

幼い頃から科学的に考えることが好きだった。
一生懸命理屈を追いかけた。
そうやって理系の大学に入った。
だけど、自分の気持ちというものは科学的には動かない。
なぜこんなことを僕はしたいのだろう?
なぜあの人が気になって仕方ないのだろう?
なぜ僕はここにいて、あんな方向に進もうとしているのだろう?
こういう疑問はちっとも科学的ではない。
スピリチュアルというものに向き合ったとき、いろんな理屈があることを知った。
もちろんカルトもある。
商業主義的なスピリチュアルも存在する。
なんだかまったく訳のわからないものもある。
そして僕はいろんな不思議なものに出会い、自分の道を進んでいる。
自分の道は未知である。
それを許容するしかない。

2月

28

前世でしてたこと

そもそも前世というものが本当にあるかどうかわからないが、あるとしたらきっとこれをやっていただろうなと思うことがある。
それは、写本だ。
文章を書き写していくだけの単純な作業だが、引用などでそれをしているとなぜか落ち着く。
しかも、幼い頃に兄がどこかから買ってきたレタリングの本に夢中になった。
百種類程度の異なる字体で書かれたアルファベットが、ただ羅列されているだけの本。
そこの字体を真似てみたり、参考にして自分なりの字体を作ったりもした。
当時はただ面白いからとやっていたけど、大人になって「なんでそんなことに夢中になっていたのだろう?」と思うようになって、そうか前世でしていたのかもと思うようになった。
科学的に本当のことではないけれど、僕の心に馴染むことなので、きっと本当のことだ。

2月

21

死にたくなること

ときどき死にたくなる。
とんでもない失敗をしてしまったとか、誰かに責められたとか、借金が返せないとか、したいことができないとか、誰かに裏切られたとか、病気になってしまったとか、大切な集まりに遅刻してしまったとか、いつまでたっても仕事が終わらないとか、うっかりくだらない答弁をしている国会中継を見てしまったとか、あと20年生きるとしてたった2万回程度しかない食事の機会にまずいものを食べてしまったとか、楽しみにしていた集会がコロナウィルスのせいで中止になったとか、可愛いあの子に会えなくなったとか、、、
生きているという本質に関係ない、まったくどうでもいいこと悩むなぁと考えたあと、攻めに転じる。
死んだら何にも感じられなくなる。
どうせならもっと苦しんでやろう、悲しもう、悔しがろう。
どたばたじたばたしたあとで、楽しいこと、うれしいこともあるだろう。
それを感じるためには生きていなければならない。
死にたくなるようなことは、そのためのいいスパイスだ。

7月

30

感覚の麻痺を超越

快感はしばらくすると当たり前になり、同じ快感を得るためには強い刺激を与えなければならなくなる。
気持ちいいものを書くことは、これに逆らっている。
だからこれは普通に考えると続かない。
それを越えて続けていくと何が起きてくるのかという実験だ。
「わずか、ほのか、かすか」を感じること。
夢を持つこと。
いまを生きること。
力を抜くこと。
環境に委ねること。
うまくいかないときは手放して再創作すること。

7月

19

縄文化

1997年、ヒーリング・ライティングを始めたとき、いったい自分が何を始めたのか、よくわかっていなかった。
いまでもよくわかってない部分があるだろう。
でも、わかった部分もある。
当時、自分で書いた文章を発表する人は少なかった。
インターネットが始まったばかりの頃だ。
ヒーリング・ライティングを始めて「文章の書き方をわざわざ学ぶかな?」と言われた。
でも、そこそこ人は参加してくれた。
癒されるために。
癒されて文章が書けるようになると、たいていの人はそこでやめる。
方法を手に入れたから。
当初はそれでいいと思っていた。
しかし、時間とともに何かが変わっていく。
何が変わったのだろう?
それは環境や社会だった。
インターネットが一般化し、SNSが広がると、みんな何かしら文章を書くようになる。
とても短い簡単な文章を。
かつて文章を書く人はこんなことを言った。
「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」
多くの人はそのズレを埋めるために文章を書き、その結果文章がうまくなっていく。
しかし、SNSができると「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」という人は鳴りを潜めた。
「イイネ」が付くことで安心する。
自分の心に書いていることのズレを聞くのではなく、他人に認めてもらって満足する。
「自分が感じていること」について深くは考えず、みんなが「イイネ」してくれることに流されていく。
僕みたいに「自分の心に聞いてみる」なんて奴は鬱陶しいだけだ。(笑)
こうして自分と社会との分断が始まる。
自分の心は置き去りにして、社会に同調することを覚える。
自分は社会の部分となり、全体にはなり得なくなっていく。
その結果、心も次第に部分しか見えなくなる。
選挙のときにそれが現れる。
「どうせ僕の一票は何の役にも立たない」
部分しか見てないために全体が見えないからだ。
政治について考えるためには全体を知らなければならない。
自分の住んでいる地区、都道府県、日本を知った上で、世界全体を考え、経済を考え、過去と未来を考える。
きちんと考えるためには、日常生活を送っている多くの人にとって時間が足りない。
全体を知るなんて無理としか思えない。
だから棄権する人もいるだろう。
だからあまり考えずに投票する人もいるだろう。
僕もかつてはそうだった。
いまでも本当に全体を考えているのかどうかはかなり疑問だ。
「全体」というものは得られるようで得られない。
話を簡単にするためにたとえとして三つの人格を取り上げる。
「読者」と「作家」と「編集者」。
ヒーリング・ライティングではこの三者が一体になることを目指していた。
それに気づいたのは最近のこと。
三者が一体になると全人格者になれると仮定する。
この三者が一体になどなれるのか?
「読者」も「作家」も「編集者」も、断片的な人格なのだ。
「読者」はただ受け取るだけ。
「作家」はただ発信するだけ。
「編集者」は「作家」が発信したいことを「読者」が受け取りやすくする工夫をするだけ。
工業的な社会ではそれで良かったと思う。
情報化社会になってこのような分断は、精緻に組み合わされるようになる。
インターネットでは「読者」であり「作家」であり「編集者」であることを求められる。
円環が閉じつつある。
分断されていた「読者」「作家」「編集者」が統合されていく。
きちんと統合されるためには学ぶ必要があることがとても増える。
しかし、それらを学び切って新たな地平に立つ人が増えていくだろう。
端から見ているとそこにはほとんど何の変化もない。
癒しと同じだ。
それは、深い解釈とともにもとの状態に戻ること。
分断は、統合のために必要なステップ。
ここで話は一気に飛ぶ。
すでに長く書き過ぎた。
日本人は深い解釈とともに縄文の社会に戻っていく。

7月

12

未来の自分になってみる

多次元リフレーミングをするとき、いろんな時代の自分を思い出すのだが、未来の自分を思い出すということはあまりしてこなかった。
唯一していたのは死ぬときのこと。
ニュピに行き、まる一日半 瞑想していると、死ぬときのような感覚が生まれる。
実際にどうなるかはわからないが、それが死への練習になっていたような気がする。
死は暗闇のような場所に戻る体験。
何も分からない領域に入っていくこと。
そのとき、居心地いい感覚を持てるかどうか。

7月

6

多次元リフレーミングのエッセンス

ふたつの選択肢があって、どちらがよいかよくわからないとき、一時的に片方を選択することがよくあります。
結局もうひとつの選択肢を選んでいたらどうなっていたのか、それは永遠の謎になったりしますよね。
世の中はそういう選択肢に満ち満ちています。
そして、そういう選択肢を思い出しては後悔している人もいるでしょう。
僕もそういう後悔をときどきしました。
どんな結果が来たとしても、その結果を肯定することは大切なことだと思います。
でも、感情というものは、そういうふうには動かないことがあります。
「もうひとつの選択肢がきっと良かった」
こういう思いを執着ともいいますね。
執着というものはなかなか手放せないものです。
しかし、僕は多次元リフレーミングを深く知ったときから、「なるほど執着とはこういうものなのか」と思うようになりました。
多次元リフレーミングを知ると、わざわざ執着を手放す必要がなくなります。
そして視野が広がります。

7月

4

スパムメールの山

スパムメールが毎日山のように届く。
メールソフトの上でほぼ毎日のようにポチポチと消去する。
メールソフトではサーバーのスパムも消すように指示しているのだが、なぜか消えずに残っている。
それは数ヶ月に一度はポチポチと消していく。
まったく無駄な作業だ。
そう考えることで感情が高ぶる。
落ち着かせようとしても無駄だ。
落ち着かせようとすると感情は高ぶる。
落ち着いていることが肝要だ。
まるで瞑想だな。
スパムメールも使いようによっては気づきの入口。

6月

26

誰かに読んでもらわなくてもいい文章を書くこと

毎日、誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらっている。
そう、これを読んでいるあなたにだ。
ありがとうございます。
こう書いた瞬間に僕は、誰かに読んでもらうための文章を書いている。
誰かに読んでもらうか もらわないかは、書いているときにはよくわからない。
結果としてそうなるか、ならないかだ。
だけど、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章には違いがある。
それはかつてはうまく区別できなかったが、いまはできる。
それを言葉にしようとするとき、言葉の難しさに直面する。
それを適切に概念として区分する言葉がないのだ。
しかも、3870回も曖昧にしてきたことは、言葉にするとどうも矛盾しているように読めてしまう。
だからここに書いても誤解が生じるかもしれないけど、言語化しない限りはその区分は明確にはできないと思い、書いてみることにした。
自分にだけ響くことは、矛盾に満ちている。
だから、誰か宛に書こうとすると、文章に修正が入りがちになる。
必ず修正する訳ではない。
自分に対して書いているから修正はしないようにする。
だけど、それでも修正してしまう。
自分が修正していると気づけば、修正をしないことを選択できる。
しかし、修正しているかどうかがとても微妙なときがある。
なぜなら基本的に言葉とは他人に伝えるものだからなのだと思う。
一方で、自分だけの心に留めておく言葉もある。
それは、言葉として区分しないと意味がわからないような気がするからだ。
たとえば、いま論じている、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差。
これは「日刊 気持ちいいもの」を書くとときどき感じる差なのだが、それをきちんと言語化できる言葉を知らない。
説明を重ねればそこに自分が思い出す感覚は思い出せるが、他人がそれを正しく汲み取ってくれるかどうかはわからない。
きっと汲み取れないだろうと思う。
その微妙な区別。
その微妙な区別は他人に伝えて果たして意味があるのだろうか?
きっと意味は生まれてくるのだろう。
ただし、僕が感じている感覚と、これを読んで何かを感じる人の感覚は、同じかどうかはわからない。
これは、きっとどんな感覚も、言葉になっている感覚はすべてそうなのだろう。
だから、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、気にしなくてもいいのかもしれない。
でも、あえて気にしてみる。
そんなことに意味があるのか?
意味は生まれてくるのだ。
なぜそう思うのか?
かつてBlog「水のきらめき」にこんなことを書いた。
長いが引用する。

___引用開始

今年(2010年)1月に『奇界遺産』という本が出版された。大判で3,990円もする写真集だ。これがなかなか僕の目を釘付けにしてくれる。

表紙もインパクトがあるが、内容もなかなか凄い。なかなか出会えない景色がどこまでも続いていく。

(中略)

洞窟の中にある村、ブータンの男根魔除け図、直径34mのミクロネシアの島に住む日本人、巨岩の上にある住宅、地獄絵図のテーマパーク、神々の像で満たされた奇想の庭園、中華神話のテーマパーク、巨大龍の胎内を巡る道教テーマパーク、キリストをテーマとした遊園地、世界の果て博物館、世界に散らばる「珍奇」を蒐集した元祖変態冒険家の博物館、貝殻で作られた竜宮城(写真のページ)、世界八大奇蹟館、ミイラ博物館、アガスティアの葉、死体博物館、ボリビアの忍者学校、三万体もの人骨が眠る巨大な地下迷路、人骨教会、エリア51、7万人が聖母を目撃した聖地ファティマなど、世界の不思議なものや景色や人などをゴリッと撮影してある。

これらの写真を撮影した佐藤健寿氏はオカルト研究家を続け、ある疑問を抱いたという。それは「これ(オカルト)って本当に必要なのだろうか?」という疑問だ。こんなことに一生を捧げてもいいものか。この疑問にあのコリン・ウィルソンが『アトランティスの遺産』という本の中で答えてくれたという。

ネアンデネタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟の中に獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである。

この一文のいったいどこがその答えなのか、一見しただけではちっともわからない。しかし、佐藤氏はこんな文を書いている。

壁画、すなわち<芸術>であり<魔術= オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。

無論、多くの識者達が口を酸っぱくして指摘してきた通り、青年期の悩みにコリン・ウィルソンは劇薬、すなわち<混ぜるな危険>である。しかし私はこのアウトサイダーならではの大胆な発想に、大きな感銘を受けたのだった。<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているのかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。しかしこの事実をラスコーの逸話にたとえるならば、これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと>、それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。

以上の試論を踏まえた上で、私は「現代のラスコー」を探すべく、旅にでた。世界各地を歩き、この<奇妙な想像力>が生み出した<余計なこと>を、ひたすら探し求めたのである。…

『奇界遺産』 佐藤健寿著 エクスナレッジ刊より

___引用終わり
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p1760/ より

誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、きっとここでいう「究極の無駄」だ。
だけど、その「究極の無駄」をなんとか「現代のラスコー」にさせたいと思う。
一方で、「そんな煩悩を持ってどうする?」という感覚もある。
坐禅を深く探求したことはないが、禅問答とはこういうものかもと思う。
読んでもらわなくてもいい文章を、読んでくれてありがとう。
でも、この文章は読んでもらうために書いた。
自分の心に響かせるためだけに書いたら、きっと意味が浮上してこない。
言語は他人が必要なものなのだ。
このことと、5月16日に書いた「悟った」や5月17日の「質問」がつながっている。
多くの人は「言葉」は自分と区別されていて、「言葉」として存在するものだと思っていると思う。
なぜなら、僕がそうだったから。
だけど「言葉」は、人間が形作っている社会の要素であり、その意味では人間と同列に考えてもいいものだ。
社会というホロンにとって「人間」も「言葉」もその要素であるという意味で。
つまり、人間が言葉を使っているように僕たちは考えるが、言葉が人間を動かしているとも言える。
言葉は区別を微細にし、いままでにない区別を生み出し、人間を新たな状態に押し上げて行く。
言葉のおかげで表れた区別は、たとえそれが他人に伝えられなくても、その言葉を抱える人間に新たな区別を与えることで、その人間の行動に変化を与え、やがてその変化は社会ににじみ出てくる。
このことと生命の進化がつながっている。
「自分が響くためだけの文章」には、自分の思い出と経験が感情に練り上げられた鍵となる言葉がちりばめられる。
一方で「誰かに読んでもらうための文章」は、誰かの思い出と経験が感情に練り上げられる鍵となるであろう言葉を手探りしていく。
この手探りは正しいものかどうか、誰かに読んでもらうまではわからない。
結局、「他人に読んでもらうための文章」を書いていると思いながら、「自分が響くためだけの文章」しか書けないのかもしれない。
「誰かに読んでもらうための文章」を書きながら、自分の心中にある他人と同調する部分を探しているとも言える。
つまり、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると言うこと。
さらにいうと、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると思い込む部分と、そうではない部分が同居しているということ。
そうではない部分については、またいつか書いていこう。

6月

25

自分に響くことを書く

この「日刊 気持ちいいもの」では、自分が気持ちいいと思うことを書いてきた。
まったく利己的である。
他人がどう思うかはさておく。
自分にとって響くことだけを書こうとしてきた。
そして、毎日成功したり、失敗したりしている。
そうやってきてしばらくするとあることに気づいた。
誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらうとはどういうことか。
これはいろんなことを考えることになる。
そして、その考えたいろんなことが、一見すると矛盾している。
その矛盾の中に、というか、その矛盾自体が真実の一端だと理解した。

6月

23

いい意味、悪い意味

意味とは何か?
よく考えるとわからなくなっていく。
意味とは、意味だよ。
こんな答えになってしまう。
あの広辞苑も「記号・表現によって表される内容またはメッセージ」というわかったようなわからない内容またはメッセージになっている。
意味は「意味がわかる」という信念がないと、よくわからないものになっていく。
大人はときどき、何かを言ったあと、「いい意味で」と付け加えることがある。
それをいわれることでいわれたほうは「その言葉は皮肉ではないんだな」と思う。
しかし、「いい意味で」というためには、一瞬「皮肉に受け取られるかな?」という疑問なり、疑念なりが浮かんだからそういうのであって、まったくそれらが浮かばなかったら「いい意味で」とはいわない。
つまり、「いい意味で」という人は、必ずその瞬間「悪い意味」を知っている。
つまり、大人であればあるほど、「いい意味」と「悪い意味」の両方を同時に持っていることになる。
さらに洗練された人は「いい」「悪い」を越えて、言葉にはいろんな意味が生まれることを知っている。
それを知っているからこそ、自分が伝えたい意味に落とし込まれるように、言葉を使う。