6月

9

いろんな意味を受け取ると何に気づくのか

No.03861の続きを書く。
いろんな意味を受け取る人がどんなことに気づくかだが、それはたくさんのことに気づくことになるので、「これに気づく」というふうに限定はできない。
自分が持っている意味の枠組みがガラッと変わるので、人によってはそれをアセンションというかもしれないし、人によってはそれは気づきだというかもしれないし、人によっては悟りだというかもしれない。
そんなの当たり前に知っていたという人には、たいした変化は表れないかもしれない。
この話は最近の若い人で、センスのいい人ならすぐに理解するだろう。
平野啓一郎が『ドーン』という小説で分人主義と言う考え方を披露している。
それは、人間は誰でも、目の前の相手や、置かれた場所によって自然と自分のあり方を変えて行くというものだ。
それは意図的なものではなく、自然とそうなってしまうようなこと。
たとえば、会社で話す話し方と、家で子供に話す話し方では、自然と語調も雰囲気も違うだろう。
そのような状況によって異なる自分になってしまうことを認める立場が分人主義だ。
たとえば企業人としては認めざるを得ないことでも、父親としては認められないとか、地域社会の一個人としてはどう考えるとか、立場が違うと出す答えも違うことがあるだろう。
それをいままでは比較的「個人」という考えにまとめられ「矛盾があってはならない」という幻想を抱かされ、ひとつのある方向に思考を限定するような教育がなされてきた。
それは工業社会や帝国主義社会には必要だったかもしれない。
それがいま緩まりつつある。
緩まることで多様性を許容する社会となっていくだろう。
社会の多様性を許容するためにはこのような心の状態、つまりいろんな状態が複合していることを許容することが不可欠に思える。
そのようなことを感性的に受け取るきっかけのひとつとして多次元リフレーミングが使えたらなと思う。
結局、多次元リフレーミングとは何かだが、人はひとつだけの考えしか持たないものではない。立場によって違う考えを持つ。
だから、目の前に現れた現象の意味は一つだけではない。
しかも、別の人が同じ状況を体験しても、また別の意味が生じる。
そのようにして現象に対する意味は複雑で様々だが、その様々な意味を人間は共通のものでないとおかしいと思い込もうとしていた。
その思い込みを手放すときが来て、それを手放すことで何が表れてくるかということが大切なこと。
それを多次元リフレーミングが可能にする。
しかし、多次元リフレーミングが意味するものは、ここに書いたことよりもっと範囲が広い。
それはまたいつか。

6月

9

いろんな意味を含む言葉

「多次元リフレーミング」の話をするといったら「難しそう」といわれた。
確かに難しいのかもしれない。
でも、それを簡単に伝える方法はないかなと思っていたら、答えが夢に出てきた。
たとえば、この会話。

A「あの人に好きだって言ったんだ」
B「あんたバカやわ」

この会話文からどんな意味を読み取っただろう?
かつての僕なら「前提がわからないから正しい意味はわからない」と答えた。
それも確かなことだろう。
だけど、こんな答えもできる。
Aがどんな相手に「好きだ」と言ったかによって、いろんな意味が表れてくる。
もしAが遊び人風の男だったら、Bの「あんたバカやわ」は、「あんな男はやめておきな」という意味かもしれないし、「あんな男とつき合うなんて時間の無駄よ」という意味かもしれないし、「あんた物好きだね」という意味かもしれないし、往々にしてそれらすべての意味を含むことになる。
またはAが「好きだ」と言った相手が堅物でまじめで、浮気なんか絶対しないような男だったとしたら、Bの「あんたバカやわ」は、「結婚するつもり?」だったり、「遊びじゃ済まなくなるよ」という意味だったり、「あの男はやめておきなさい」だったり、またまたいろんな意味が浮上する。
そのどの意味を自分が受け取るのかは、心持ちや状態で変化することがある。
つまり、自分が持っている心的フレームによって、どんな意味が表れてくるかは決まってくる。
それが心の深い部分で同意できる人は、自分の心のあり方を変えることで、同じ文でもいろんな意味が浮上してくることがあることを受け入れられるだろう。
多次元リフレーミングでは、その自分の枠を意図的にいろんなものにしてみることで、自分が固く持ち続けている意味や解釈を別の物にしてみる試みだ。
無理にすることはない。
したい人がすればいい。
それが簡単にできる人は、いろんなことに気づいていく。
簡単にはできなくても、多少はできる人は、それを意図的におこなうことで着実に何かに気付いていくだろう。
次回へ続く。

6月

4

言えない思い

昨日の「日刊 気持ちいいもの」を書いて思い出したことがある。
それはまだ黛敏郎が「題名のない音楽会」の司会をしていた頃、「ビギン・ザ・ビギン」をテーマに番組を作ったことがあった。
その中で黛が「ビギン・ザ・ビギンはフリオ・イグレシアスの編曲で短調の部分がなくなり、芸術性が失われた」と主張した。
「ビギン・ザ・ビギン」の原曲には長調の部分と短調の部分があり、長調の部分でかつての恋の華々しい思い出を歌い、短調の部分で現在の失恋状態を思うという構成になっている。
それを黛は実際にオーケストラに演奏させて解説し、さきほどの主張をしたのだ。
それを聞いて、僕はうなってしまった。
黛の言いたいことはわかる、でもね・・・という、「・・・」の部分がうまく言葉にならなかったのだ。
それを30年もして思い出すのだから、「・・・」の部分はよっぽどのことだろうと思うのだが、そんなによっぽどのことでもない。
なにが「・・・」に含まれていたのか、やっと言語化できるようになった。
ようは「フリオ・イグレシアスの曲もいい」と言いたかったのだが、黛の説得力には勝てそうにないので黙っていたのだ。
いまなら反論できる。
フリオの曲は長調で歌っていても、すでに哀愁を帯びているのだ。
長調の部分と短調の部分が、長調の歌のなかにギュッとまとまって絞り込まれている。
開高健がエッセイに「(モダニズムとは)1.最高の材質。2.デサインは極端なまでにシンプル。3.機能を完全に果たす」と書いていたが、まさにそれだと。
でも、30年前でも本来なら「いいものはいい」それだけですんだのだろうけど、僕はそこで口を噤んだ。
そんな些細なことでも30年後に思い出すのだから、本当に恨みに思っていることなど、死ぬまで忘れないんだろうな、心の底では、と思った。

5月

28

アネーカーンタヴァーダ

ジャイナ教に「アネーカーンタヴァーダ」という考え方がある。
一言でいうと多元論と価値の多様性の原理。
三冊の本を読み比べて、どういうことかを探ってみた。
しかし、不明なことがまだ多い。
アネーカーンタヴァーダを比較的きちんと説明しているのはなんとウィキペディアだった。
インターネット万歳。
多次元リフレーミングの内容が濃くなった。

5月

27

菩薩行を生きる

2010年頃に『チベット仏教・菩薩行を生きる』という本を読んだ。
いい本だった。
『入菩薩行論』という仏典の翻訳だ。
2016年にダライ・ラマ法王が日本でその説教をした。
そのときの録画がこちらにある。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p4367/
ひさしぶりにその本を取り出し読み、なるほどなぁと思う。

5月

21

大乗起信論

ひさしぶりに「大乗起信論」の現代語訳を読む。
以前はよくわからない部分があったが、いまではすっきり理解できる。
何度も読んだし、解釈するためにいろいろと考えた。
ヒーリング・ライティングにその考えが反映されている。
お世話になりました。

5月

17

質問

昨日、悟ったと書いたら、「どんな悟り?」と質問された。
確かにその質問には答えたい。
入口は「言葉」だ。
この入口を見つけたのは、いや、この入口に導かれたのは、ヒーリング・ライティングという宿題を授かったおかげだ。
それから22年間の質問と答えの日々が続く。
それらの集積のおかげ。
そして、何冊もの仏典や聖典を読んだ。
それらのおかげ。
実際に聖人と言われた方にも何人か会った。
そのおかげもある。
バリ島にニュピで通い続けたのもよかった。
幼い頃に比較的自由にいろんなことができたおかげもある。
本は好きなものを読めたし、音楽は作曲できるようになった。
そして就職して世の中を見る。
この就職先も良かった。
いろんな大手の会社と関わることができた。
そして、会社を辞めて自営になって、小さな会社ともやりとりするようになる。
このおかげもある。
毎日ささいなことで喧嘩したり和解したり言い合っている相方のおかげでもある。
経済的に苦労して、借金したりして、そういう苦労のおかげでもある。
もちろん、こうやってほぼ毎日気持ちいいものを書いていることとも関係している。
だから、これを読んでいるあなたのおかげでもある。
こういういろんな体験の積み重ねが、昨日の朝、パチッとパズルがハマったようにうまく組合わさった。
そのパズルは平面でも立体でもなく、多次元のパズル。
チチェン・イツァーで「この世界が多次元であることに深く気づけ」と言われたことにやっとたどり着いた。
その内容については、言葉では書ききれない。
でも伝えなければならないと思っている。
少しずつ書いていく。

5月

15

サイトを作りなおす

ヒーリング・ライティングのサイトを作りなおした。
前に使っていたCMSが、ページ数が増えるごとに更新が難しくなり、困っていたのでwordpressで全部作りなおした。
これで気が向いたときに更新していける。
http://www.healingwriting.com/

4月

13

言葉の山が花盛り

言葉にはいろんな働きがあります。
言葉のおかげで空想を空想としてあなたに伝えることができます。
言葉様々です。
言葉の山が花盛りになるまであと数ヶ月。
きっと素晴らしく麗しい山を愛でることができるでしょう。

4月

11

言祝ぐ

おめでとうございます。
この文章を読んでいるあなたは世界でたったひとりのあなた。
この世界であなたにしかできない経験を積んでいる。
その貴重な経験はあなたこそのもの。
だからこそ、おめでとうございます。
あなたが生きていることに万歳。

3月

11

8年目

毎日書くと言いながら、書いたり書かなかったりして8年がたった。
8年前の今日、7年ぶりに「日刊 気持ちいいもの」を書き始めた。
そして、その日に東日本大震災が起きた。
もう8年がたったのかと思う。
最初に「日刊 気持ちいいもの」を書き出してからは20年がたつ。
あの頃は初代のiMacとPHSを使っていた。
PHSは普通の携帯より軽くて好きだった。

2月

18

3768個の気持ちいいもの

僕がなぜ「気持ちいいもの」を書き続けているのか、その理由はここに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/feelgoodblog/what_is_daily_feel_good/
そして、自分の心の中で様々なリフレーミングが現れるのだろうと期待していた。
3768個も書き続けてきて、そのリフレーミングが複雑に積み重なり、なんともいえない状態になりつつあることを感じる。
これはきっとある種の悟りなんだろうなと僕は思う。
ただし、ブッダの悟りとは明らかに違う。
いろんなお経にあるように、別世界へと僕の心は旅立つことはない。
かつてバリ島でニュピの瞑想をしていたとき、朝日とともに弥勒菩薩が飛んで来て、一体化した経験がある。
もちろん夢だと思うのだが、夢にしては生々しいし、それで一気に目が覚めた。
それ以来、ときどきそのときのことを思い出す。
もちろん、この「気持ちいいもの」を書いているときにもしばしば思い出した。
言葉にすることでできた森。
多次元な感覚を再生するための鍵。

2月

8

世の中はあふれている

いい情報も悪い情報もゴッチャになって流れている。
その整理をつけるのがきっと人間の仕事だろう。
にもかかわらず本の読めない人が増えていると言う。
長い文章があると理解ができない人。
そういう人は短い文章から理解していけばいい。
文章はそもそも面倒なものだ。
一瞬で理解できることも、文章にするとどうしても時間がかかる。
でも、時間をかけたおかげで理解できることもある。
「一瞬で理解できる」というのは魔物だ。
「一瞬で理解できる」ことの深さを問わなければならないが、その深さは往々にして長い時間をかけて言語化をしてはじめて表に現れてくる。
その深さは人によって全く違うものだから、その深さについて論議することはとても時間のかかる仕事になる。
わかった気になって放置しておくと、些細な差があとで大きな差になってくる。
だから、繊細な人ほど文章が理解できないと思い込むのではないか?
同じ文章の解釈は丁寧に考えていくと百人百様。
表面上は同じ意味だが、その行間に分け入っていくと、読む人によって見ているものが異なってくる。
だから、わかるわからないなんかあまり気にせず、とにかく読んでみること。
僕が小学生の頃、親父が「ようじは江戸川乱歩が好きか?」というから、「好きだ」と答えた。
怪人二十面相などの子供向けの推理小説を読んでいた。
ところが、それから数日後に、大人向けの江戸川乱歩の全集が届いた。
小学生にはどうかじりついても読めない。
人間椅子になって女性に座られる喜びなんて、小学生には理解不能だ。
笑うしかない。
だけど少しずつ読んでいった。
小学生にこんな教育してもいいのかと思いながら、「こんなの読ませるなんて、変な親父」と思いながら読んでいった。
でも、そのおかげで、理解できないものを読んでも、いつか理解できる時が来ることへの信頼が僕のなかに生まれた。
いまだによく理解できない文章に出会う。
でもそれは、いつか理解されることを待っているのだ。
さあ、世の中にあふれている意味の渦に飛び込もう。

11月

21

非二元

二十年以上前、ケン・ウィルバーの
『意識のスペクトル』を読んで以来、
非二元という言葉の意味が
いまひとつ理解できないでいた。
わかったような、わからないような
ムニュムニュ状態。
それがふとつながった。
仏典の多くも、
一部のスピリチュアリストも、
一部の哲学者も
このムニュムニュを説明したくて
がんばっていたのだ。
言葉自体が非二元的ではないので
文字にすると
ムニュムニュしてしまうのは
仕方ないのだ。
いまはどんな非二元に関する質問にも
答えられるような気がするが、
実際には
ムニュムニュしてみないと
わからない。

6月

7

繰り返すことを楽しむ

同じことを何度も繰り返すと
たいてい飽きる。
ところが何度やっても
飽きないことがある。
それが「商い」になると
商売をしている人はよくいう。
でも、商売以外でも飽きないことは
たくさんあって、
人はそれをしていけば
いいんだろうなと思う。
同じことを何度もしてているうちに
工夫が生まれ、
工夫がいくつか積み重なって
発明や発見になり、
その人にしかできない
何かが生まれる。

6月

5

力を抜く

何かがうまく行かないとき、
からだ全体の力を抜く。
肩に力が入っていたり、
腰に力が入っていたり、
ふくらはぎに力が入っていたり、
思わぬ所に力が入っていたりする。
椅子に座って楽にして、
からだのすみずみを感じてみる。
足や手、お腹、背中、首、肩、
あご、口、目、額、耳、頭皮などを
順番に感じてみる。
どこかに力が入っているのを感じたら、
その力を緩めましょう。
「がんばってくれてありがとう」
といいながら。

5月

31

区別する

何かの本で、
「愛することとは」という問いに
「あるがままを受け取ること」と
あった。
そこで考える。
「愛することの反対は?」
本に書かれているそのままを
反対にすると、
「あるがままを受け取らない」
となるであろうか。
「あるがままを受け取らない」
としたら、それはどういうことか。
「差別する」ということかなと思う。
つまり「こうならいい」
「これはだめ」とすることだ。
でも、常識とか作法というものは
「こうならいい」「これはだめ」
がなければ成り立たない。
では、こうしたらどうかな?
「こうしたらみんなが喜ぶ」
「こうしたらみんなが怒る」
でも「喜ぶ」と「怒る」ほどの
感情的な距離がない場合は
「こうしたら気持ちいい」
「こうしたら不快」
という区別になるかな。
もっと微妙な場合は
「こうしたらちょっと気持ちいい」
「こうしたらちょっと不快」
となるのかな。
「こうならいい」「これはだめ」

「こうしたらちょっと気持ちいい」
「こうしたらちょっと不快」
の微妙な区別は
もし本当のAIや
ベーシックインカムの時代が
来るのであれば、
大切なものになるのかも。
そもそも人間は
言葉でいろんなものを
区別することで繁栄してきた。
この「区別」と「差別」の違いを
自分にとってはっきりとさせないと
ならないのかも。
「区別」するといいながら
どうしても「差別」しているような
ことがないかな?
僕は使っているうちに
混同してしまうし、
状況によって「区別する」
といいながら
「差別する」ようなことが
生まれている気がする。
「区別する」という
シニフィアンに
「差別する」という
シニフィエがつく。
「区別」はきちんと
「区別」のままにしよう。

5月

21

平成30年5月21日の夢

三日ほど、気持ちいいものが書けなかった。
無理をすれば書けたのかもしれないが、
書くのにちっとも気持ちよくない。
気持ちよくないのに無理に書いて
嘘をつくのは嫌だなと感じる。
いったいどうすればいいんだ?
感情は、さまざまな些細なことの
積み重ねでできている。
自分にとってどうでもいいと思うようなことが
実は重大な影響を与えていたりする。
そのことを今朝の夢で思い出した。
だけど、この体験を意味が通るように
書くことができるのか不安だ。
なぜ僕がそのことを思い出せたのか
僕自身はっきりしていないからだ。
そして、それがなぜ解決できたのか、
きっといろんなことの
些細な積み重ねであるから、
それをひとつひとつ書いても、
その話のどこが効果的だったのか、
結局わからないだろうと思う。
でも、一応書いてみる。
夢はこんなものだった。
ある日、どこかの田舎に行く。
何かの手伝いをしに行った。
その手伝いが終わって帰ろうとすると
もうすでにかなり遅い。
その場所は駅からかなり離れている。
近くにはふたつの駅があり、
どちらの駅まで歩こうかと考える。
ひとつの駅には
雪道を歩かなければならない。
もうひとつの駅には
雪道を歩く必要はない。
僕は雪道を歩こうとして途中まで行ったが
やっぱりやめたと思い
もうひとつの駅に向かう道を選ぶ。
うちに帰るのに遅くなると思い
電話をかける。
そこで気づきがやってきた。
そして目覚める。
目が覚めるとラジオで飛行機の
話をしていた。
そういえば、と思い出す。
飛行機の航路は世界中を巡っている。
どの街とどの街が、
距離は隔たっていても
関係が深いのか、
便数でわかるなと思う。
それでさらに何かが解決した。
そしてなぜか
「日刊 気持ちいいもの」が
書けるような気がした。

3月

19

不満たらたらで気持ちいいもの

生きていれば
いつもいい状態で
いられるわけではない。
困ったこともあれば、
悲しいこともあり、
イライラすることもある。
そういう状態で
気持ちいいものを書くのは難しい。
でも、書く。
するといろんなことに気づかされる。
そんなこと認めたくないなと
思うようなことにも直面する。
その結果、認めるつもりはなくても、
そういう解釈ができる
ということに気づく。
この世界には
いろんな解釈が生まれてくるが、
持ちたくない解釈も見えてくる。
それが気持ちいいのか?
僕個人としては気持ちよくない。
でも、きっと全体から見ると
そういう解釈ができることを
僕が知っていると言うことは
いいことなのだと思う。