7月

31

COSMIC BIRTH

地球交響曲第一番でラッセル・シュワイカートが語っていた「COSMIC BIRTH」。
人類が宇宙に飛び出していくことは、まるで地球という母胎から生まれでてきた「COSMIC BIRTH」という意味合いで語られる。
しかし、それをSUDIO VOICEという雑誌は「宇宙的覚醒」と訳していた。
もう26年も前のこと。
本当に宇宙的覚醒の時代になるかと思いきや、いまのところ挫折しているように思える。
しかし、その準備は見えないところで着々と進んでいるのだろう。
「COSMIC BIRTH」に必要なのは、一見矛盾するコトたちのゆるやかなつながりと、その全体性への覚醒。
かつて細胞として独立していたモノたちが、いまの生物の細胞の中に見事に組み込まれ宇宙を作っているように、かつて反発していた考えや価値観が融和して、ひとつの体系を作ること。
そんなこと可能なのか?
これから出来上がる、いま生まれつつあるコスモが生まれてはじめて、それが可能だということがわかるようなものになるのだろう。
地球交響曲第九番がクランクインしたとのこと。
第一番で提示された問いの答えが、そこに表れるのだろうか。
それを楽しみに待つ。

7月

30

感覚の麻痺を超越

快感はしばらくすると当たり前になり、同じ快感を得るためには強い刺激を与えなければならなくなる。
気持ちいいものを書くことは、これに逆らっている。
だからこれは普通に考えると続かない。
それを越えて続けていくと何が起きてくるのかという実験だ。
「わずか、ほのか、かすか」を感じること。
夢を持つこと。
いまを生きること。
力を抜くこと。
環境に委ねること。
うまくいかないときは手放して再創作すること。

7月

29

長い話を書くための目次

長い話を書くとき、まずは目次を作ってみる。
実際にその目次に沿うかどうかは書いてみないとわからない。
だけど、目次を書くことで、伝えるべき内容の方向性が見えてくる。
これから表れてくる内容にわくわくする。

7月

26

海と雲の輝き

飛行機に乗るとき、できれば窓際に座る。
景色を撮影したいから。
太陽に輝く海と雲の輝きが好き。
特に早朝や夕暮れ時の海や雲は格別。
海に映る雲の影が、海の輝きとコントラストを作る。

7月

25

「簡単」という言葉について

昨日、「第九のスコアは簡単」と書いたが、その言葉がどうも魚の骨が喉に刺さったように気になる。
それはたとえば、プロの指揮者にとっては「簡単」という訳ではないから。
僕のように気楽に聞いている人にとっては「簡単」で済むが、演奏する人にとってはきっと簡単ではないはずだから。
特に第九は名曲だ。
多くの人に何度も聞かれ、曲の解釈によって褒められもするがけなされることもあるだろう。
その難しさは実際に演奏した人でないと理解できないかもしれない。
もし理解したとしても、それを言語化するのが難しい。
この難しさは言葉の難しさであり、人間の心や認知の問題に関わってくる。
一方で、その難しさのおかげで、感動は大きくなる。
演奏によって心が震えるのは、きっとこの難しさを乗り越えてきた情熱が音となって伝わるから。

7月

24

スコアを読みながら第九を聞く

何十年かぶりにスコアを読みながら第九を聞いた。
スコアとはオーケストラすべての楽器の楽譜が書かれている譜面だ。
高校生まではいろんな曲のスコアを読みながらクラシックを聴いたものだ。
一番難しかったのは「春の祭典」。
きちんとついて行けるようになるのに3回くらい聞き直した。
「春の祭典」に比べれば第九のスコアは簡単。
実際には演奏されていても聴こえてこない音というものがある。
スコアを読むとそれがわかる。
どの指揮者のどのオーケストラの演奏だと、この音を強調するとかしないとか、そういうことがわかる。
とても面白い。

7月

22

社会の進化

議会は社会とともに変化する。
近代議会はほぼ産業革命と同時に起きたことは偶然ではない。
現在の議会はほぼこの工業化時代に確立されたもの。
情報化時代には情報化時代にあった議会になるべきだろう。
工業化時代は均一であることを求められた。
情報化時代は多様な価値観に対応できる議会であるべき。
もしそうだとすると、どんな政治がいま必要なのだろう?
工業化時代の考え方から脱すことのできない自分は、どういう考え方をしたらいいのだろう?
想像すると楽しいね。

7月

19

縄文化

1997年、ヒーリング・ライティングを始めたとき、いったい自分が何を始めたのか、よくわかっていなかった。
いまでもよくわかってない部分があるだろう。
でも、わかった部分もある。
当時、自分で書いた文章を発表する人は少なかった。
インターネットが始まったばかりの頃だ。
ヒーリング・ライティングを始めて「文章の書き方をわざわざ学ぶかな?」と言われた。
でも、そこそこ人は参加してくれた。
癒されるために。
癒されて文章が書けるようになると、たいていの人はそこでやめる。
方法を手に入れたから。
当初はそれでいいと思っていた。
しかし、時間とともに何かが変わっていく。
何が変わったのだろう?
それは環境や社会だった。
インターネットが一般化し、SNSが広がると、みんな何かしら文章を書くようになる。
とても短い簡単な文章を。
かつて文章を書く人はこんなことを言った。
「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」
多くの人はそのズレを埋めるために文章を書き、その結果文章がうまくなっていく。
しかし、SNSができると「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」という人は鳴りを潜めた。
「イイネ」が付くことで安心する。
自分の心に書いていることのズレを聞くのではなく、他人に認めてもらって満足する。
「自分が感じていること」について深くは考えず、みんなが「イイネ」してくれることに流されていく。
僕みたいに「自分の心に聞いてみる」なんて奴は鬱陶しいだけだ。(笑)
こうして自分と社会との分断が始まる。
自分の心は置き去りにして、社会に同調することを覚える。
自分は社会の部分となり、全体にはなり得なくなっていく。
その結果、心も次第に部分しか見えなくなる。
選挙のときにそれが現れる。
「どうせ僕の一票は何の役にも立たない」
部分しか見てないために全体が見えないからだ。
政治について考えるためには全体を知らなければならない。
自分の住んでいる地区、都道府県、日本を知った上で、世界全体を考え、経済を考え、過去と未来を考える。
きちんと考えるためには、日常生活を送っている多くの人にとって時間が足りない。
全体を知るなんて無理としか思えない。
だから棄権する人もいるだろう。
だからあまり考えずに投票する人もいるだろう。
僕もかつてはそうだった。
いまでも本当に全体を考えているのかどうかはかなり疑問だ。
「全体」というものは得られるようで得られない。
話を簡単にするためにたとえとして三つの人格を取り上げる。
「読者」と「作家」と「編集者」。
ヒーリング・ライティングではこの三者が一体になることを目指していた。
それに気づいたのは最近のこと。
三者が一体になると全人格者になれると仮定する。
この三者が一体になどなれるのか?
「読者」も「作家」も「編集者」も、断片的な人格なのだ。
「読者」はただ受け取るだけ。
「作家」はただ発信するだけ。
「編集者」は「作家」が発信したいことを「読者」が受け取りやすくする工夫をするだけ。
工業的な社会ではそれで良かったと思う。
情報化社会になってこのような分断は、精緻に組み合わされるようになる。
インターネットでは「読者」であり「作家」であり「編集者」であることを求められる。
円環が閉じつつある。
分断されていた「読者」「作家」「編集者」が統合されていく。
きちんと統合されるためには学ぶ必要があることがとても増える。
しかし、それらを学び切って新たな地平に立つ人が増えていくだろう。
端から見ているとそこにはほとんど何の変化もない。
癒しと同じだ。
それは、深い解釈とともにもとの状態に戻ること。
分断は、統合のために必要なステップ。
ここで話は一気に飛ぶ。
すでに長く書き過ぎた。
日本人は深い解釈とともに縄文の社会に戻っていく。

7月

17

せめぎ合い

頭の中ではあーでもないこーでもないとせめぎ合い、
人と人の間でもあーでもないこーでもないとせめぎ合い、
国と国の間でもあーでもないこーでもないとせめぎ合う。
せめぎ合いがないといいものはできない。
せめぎあえる相手がいることを喜ぶ。

7月

14

日常を冒険として見る

普段の生活はほぼ退屈なことの繰り返し。
学生時代であれば、覚えてももう一生使わないような難しいことを学んだり、会社員になれば会社や社会に貢献することで自分をすり減らす。
定年まで過ごして年金をもらうが、その頃にはそのお金をどう使っていいものかわからない。
そんな生活を一新するものの見方。
「日常を冒険として見る」
退屈だと思っていたことを冒険の入口とすると、そこから何が表れてくるのか。
どのようにして一生使わないような知恵を冒険のための道具に変え、会社員と言う立場を冒険への参加のための訓練や儀礼と見るか。
冒険には仲間がいた方がいい。
本当の仲間はどこにいるのか?
冒険のためには体力がいる。
どのように体力をつけていくのか?
冒険のための移動手段はどのように調達するのか?
そのすべてが自分の知力と胆力にかかっている。

7月

13

混沌

いま世界は混沌としている。
多数決がいいのか悪いのか。
資本主義がいいのか悪いのか。
貨幣経済がいいのか悪いのか。
AI導入がいいのか悪いのか。
あるイデオロギーがいいのか悪いのか。
いろんないいのか悪いのかが問われている。
いいのか悪いのかを適当に決めるのではなく、豊かな会話のあとでそれを決めないと、あとで困ることになる。
きちんと相手の話に耳を傾け、伝えるべきを伝えましょう。
そのためには時間が必要なのかも。

7月

12

未来の自分になってみる

多次元リフレーミングをするとき、いろんな時代の自分を思い出すのだが、未来の自分を思い出すということはあまりしてこなかった。
唯一していたのは死ぬときのこと。
ニュピに行き、まる一日半 瞑想していると、死ぬときのような感覚が生まれる。
実際にどうなるかはわからないが、それが死への練習になっていたような気がする。
死は暗闇のような場所に戻る体験。
何も分からない領域に入っていくこと。
そのとき、居心地いい感覚を持てるかどうか。

7月

10

気持ちいいのかどうか

お化け屋敷に入った人は、そこで恐怖を体験する。
だから、その体験は恐怖であって楽しみではない。
だけど、お化け屋敷に行く人は必ずその体験を楽しむために行く。
恐怖を感じることを楽しんでいるのだ。
僕たちはいろんな感情を体験する。
その体験は、そのある状況に投げ込まれたから。
たまたまその状況に居合わせたからその体験をする。
しかし、もしお化け屋敷のように、その状況に自分から入っていたのだとしたら、どうだろうか?
いろいろな感情を楽しむ、味わうわたし。

7月

9

メディアの発達

メディアが発達したことで、世界中の人たちと近くなれた。
海外旅行にも気軽に行けるようになった。
字幕付きの映画をケーブルテレビでいくらでも見られるようになって、英語が少しうまくなった気がする。
メールアドレスやSNSのIDさえわかれば、誰とでも対話ができるので、誰とでも仲良くすることを無意識にも心がけるようになったように思う。
こうやって、人と人との距離が近づくと、喧嘩も起こりやすくなる。
インターネットができたばかりの頃、いろんな人がいろんなところでバトルしていた。
いまでもあるが、かつてのような感情むき出しのバトルは少なくなったように思う。
炎上しても、少しは礼儀作法がある。
まぁ、人にもよるのだろうけど。
メディアが発達したら、自分の心もそれ相応に発達させないとね。
適切な教育があれば、昔の人より容易に成熟した大人になれるような気がするが、一方で、命のやりとりをするような場面が減ったせいか、苦みばしった価値観の深い大人は減ったような気がする。
社会全体が幼形成熟(ネオテニー)しているのかな?

7月

8

バジルの香り

おいしいモッツァレラがうちにあったので、カプレーゼを作ることにした。
相方にいわれてベランダのバジルの葉を摘む。
「ありがとうね」といいながら大きくて美味しそうなバジルの葉を一枚ずつ摘んでいく。
摘み終わってバジルの葉を台所に持っていくと、手のひらに香りが残っている。
たった一、二分軽く持っていただけでこの香り。
葉から香りの成分が溢れ出ていたんだね。
カプレーゼもとても美味しゅうございました。

7月

7

トレッチャ

三つ編みのように編み込んだモッツァレラを食べた。
しかも作りたて。
弾力のある歯ごたえ、鼻に抜ける香り、飲み込むときの感触。
うまくて死にそう。

7月

6

多次元リフレーミングのエッセンス

ふたつの選択肢があって、どちらがよいかよくわからないとき、一時的に片方を選択することがよくあります。
結局もうひとつの選択肢を選んでいたらどうなっていたのか、それは永遠の謎になったりしますよね。
世の中はそういう選択肢に満ち満ちています。
そして、そういう選択肢を思い出しては後悔している人もいるでしょう。
僕もそういう後悔をときどきしました。
どんな結果が来たとしても、その結果を肯定することは大切なことだと思います。
でも、感情というものは、そういうふうには動かないことがあります。
「もうひとつの選択肢がきっと良かった」
こういう思いを執着ともいいますね。
執着というものはなかなか手放せないものです。
しかし、僕は多次元リフレーミングを深く知ったときから、「なるほど執着とはこういうものなのか」と思うようになりました。
多次元リフレーミングを知ると、わざわざ執着を手放す必要がなくなります。
そして視野が広がります。

7月

5

ひなた28号

鉄腕アトムが原子力で動くように、もしソーラーパワーで動くロボットがあったらどうなるかと空想してみた。
名付けて「ひなた28号」。
28号に至るまで、27の試作機が作られてきた。
28号でやっと作者の満足のいくロボットができる。
まず、日に当たってないとパワーが足りないので、曇りの日は必ず休む。
とても有能だが、お天道様の下にいないとかなり仕事がアバウトになる。
ちからを出し尽くすと「身の程を知りましょう」といって日向ぼっこをする。

7月

4

スパムメールの山

スパムメールが毎日山のように届く。
メールソフトの上でほぼ毎日のようにポチポチと消去する。
メールソフトではサーバーのスパムも消すように指示しているのだが、なぜか消えずに残っている。
それは数ヶ月に一度はポチポチと消していく。
まったく無駄な作業だ。
そう考えることで感情が高ぶる。
落ち着かせようとしても無駄だ。
落ち着かせようとすると感情は高ぶる。
落ち着いていることが肝要だ。
まるで瞑想だな。
スパムメールも使いようによっては気づきの入口。

7月

3

アイスピックの思い出

アイスピックのことをここに書こうと思った。
しかし、あまり記憶が明確ではない。
サラリーマンの頃、バーで丸い氷のロックを飲んだ。
あれをうちでも真似したかった。
それで、丸い氷ができる器を買った。
でも満足しなかった。
そこで大きな氷を作って、バーでやっているように削ってみようと思った。
だからアイスピックを買った、のだと思う。
しかし、いつどこで買ったのかはっきりしない。
もう二十年以上使っていることだけははっきりしている。
こうして記憶は失われていくのだな。
いいこともある。
自分にとって都合の悪いことは忘れてしまうということだ。
こうして僕は、自分が思うような理想的な人間になっていく。(笑)

7月

2

意味の深化

言葉を使う動物がいる。
しかし、現在のところ、それらは単語を使うだけだと考えられている。
人間のように文法を駆使して単語に深い意味を与える動物はほかにはいないと思われている。
文法があるおかげで人間は複雑な意味を共有できるようになった。
単語だけしかやりとりのできない動物から見れば、想像できないことだ。
同様に人間は、文法の次を作り出そうとしている。
それは文法だけで言葉を理解しようとしている人間には理解のできないこと。
言葉だけで表現しようとしている人には、表しようのないこと。
果たしてそれが「意味」という言葉の範疇に入るかどうかもわかりようのないこと。

7月

1

ベランダの植木鉢

うちのベランダには植木鉢がいくつかある。
月桂樹、山椒、ローズマリー、バジルが植わっている。
ミントも試みたがそれだけはなぜかちょっと難しい。
すべていつかうちの食材になる。
かつて山椒に蝶の幼虫がついたことがある。
見事に葉っぱが喰いつくされた。
まるまると太った幼虫を炒めてかじるとほのかな山椒の味がした。(←ここだけ作り話です)