8月

19

ヒメアカボシテントウの夢

相方が僕についているムシを殺してくれた。
まわりを見るとヒメアカボシテントウが何匹かいる。
子供の頃、フタホシテントウと呼んでいた、黒地に赤い星が二つあるてんとう虫。
「殺さなくていいよ、なにもしない虫だから」
と言ったが、相方は気になるらしい。
そこで目が覚めた。

8月

17

ケルトの魂

『ケルトの魂』という本をいただいた。
鶴岡真弓の対談集。
20年以上も前にアイルランドに行った。
また行きたいなと思う。
キリスト教が入る前のアイルランドは多神教だった。
その影響がキリスト教が入っても残り続ける。
一神教というのは政治的にはいい宗教かもしれない。
人民を統一しやすいから。
でも、暮らしている人にとっては多神教のほうが暮らしやすいように思う。
いろんな視点が混在することが許されて、それでなんとか折り合いをつけていくから。
宗教学では多神教が進化して一神教になるというような説があるようだが、それがまた多神教に戻るのがいいように思う。
せめて戻らなくても、ケルトのように混在するとか。

8月

16

きれいな海でシュノーケリング

きれいな海でシュノーケリングしたい。
沖縄とかハワイとか、グレートバリアリーフも最高だった。
そういうところでシュノーケリングして魚やイルカを一緒に泳ぐ。
ムフフだ。
想像するだけで真夏の暑さの中、一瞬の涼が得られる。

8月

14

はじめて作ったオムライス

オムレツが作れるようになったので、オムライスに挑戦。
レシピを見ずにできるかどうかやってみる。
まずは中に入れるケチャップライスを作る。
ベーコンを炒めてタマネギを炒め、ご飯を入れてケチャップライスにする。
このときうっかり塩コショウをわすれた。
薄焼き卵を作って、ケチャップライスを包む。
卵の量が多かったのか、薄焼き卵が破けてしまった。
でも一応できあがり。
次はもっと上手に作りましょう。

8月

8

鬼押出し

浅間山が小規模な噴火を起こしたとか。
すぐに思い出したのが「鬼押出し」。
浅間山のまわりをごつごつした岩が取り囲んでいる。
かつて浅間山が噴火したとき流れ出た溶岩がそのようになったと聞いた。
行ったのは小学生のころだったかな。
今日のようにとても暑い日だったように思う。

8月

6

錯綜する思考

僕のなかには矛盾がたくさんある。
あるときは好きだったものが、別のときには鬱陶しくなり、あるときは興味のあったものが、別のときには無関心になる。
そういう自分の勝手さは、たいてい意識されない。
気持ちいいものを3900回も書いていると、そういう自分に向き合うことになる。
そういうとき、ちっとも気持ちよくない。
だけど、この不快さが新しいものを生み出す力になる。
不快だけど気持ちいい。
こういう矛盾した僕の心よ。
不快だけど気持ちいいという、論理的には理解し難い感覚よ。

8月

5

古いアイルランドのCD

98年だったかな、アイルランドに行った。
そのときに買ったCDをひさしぶりに聴く。
そのCDを買ったお店の雰囲気を思い出す。
トリニティ大学のそばだった。
そこでケルズの書を見て、有名な図書館に行った。
芝生の緑が美しかった。
小学生たちが社会科見学に来ていて写真を撮ったらはしゃいでいた。
音楽の中に記憶が閉じ込められていたようだ。

8月

4

萩野公介の復帰

先日韓国でおこなわれた水泳世界選手権。
瀬戸大也が活躍していたが、ライバルだった萩野公介が参加していなかった。
どうしたのだろう? と思いネットを調べると理由がわかった。
その荻野が一昨日から開催している「FINAスイミングワールドカップ2019東京大会」に168日ぶりに参加しているとのこと。
とてもうれしかった。
他人の期待はさておいて、自分の道を進んで欲しい。
そういいながら、期待している僕の矛盾よ。

8月

3

意味の発見

かつて読んだ古い本や雑誌を再読していると、そのときには汲み取れなかった意味が湧き出てくることがある。
そういう意味を見つけると「今の僕もわからない意味があるんだろうな」と思う。
最近はインターネットで言葉の意味を探す。
すると、何でもわかった気になる。
でも、それはきっと違うのだと思う。
辞書を読むよりはその言葉の体系を知ることができるようになっただろう。
辞書はスペースが限られているので、用例が少ない。
言葉の意味のプリズムのわずかしか受け取られない。
インターネットを調べると、その気になればいろんな用例が得られる。
なかには新しい創作もあるし、間違ったものもあるだろう。
そういう意味の宇宙に放り出されると、何が正しくて何が間違っているのか、はっきりとはわからなくなってくる。
誰かが創作した言葉の意味を「間違っている」というのは正しい態度なのだろうか?

8月

2

肩や首が凝ること

泳いでいるとときどき、肩や首が凝っていると感じることがある。
そういうときは体を緩める。
ついでに気持ちも緩める。
一日中PCに向かったりしていると、知らないうちに無理をしている。
そういう年になってしまった。
泳ぎながらからだと気持ちをほぐす。
肩や首のコリはいい合図。

8月

1

流れに乗る

流れはいつも形を変える。
こういうときにはこういう流れが来ると思い込むと、まったく違う流れが来る。
常に思い込みを手放すこと。
最善の対応はいま生まれる。

7月

31

COSMIC BIRTH

地球交響曲第一番でラッセル・シュワイカートが語っていた「COSMIC BIRTH」。
人類が宇宙に飛び出していくことは、まるで地球という母胎から生まれでてきた「COSMIC BIRTH」という意味合いで語られる。
しかし、それをSUDIO VOICEという雑誌は「宇宙的覚醒」と訳していた。
もう26年も前のこと。
本当に宇宙的覚醒の時代になるかと思いきや、いまのところ挫折しているように思える。
しかし、その準備は見えないところで着々と進んでいるのだろう。
「COSMIC BIRTH」に必要なのは、一見矛盾するコトたちのゆるやかなつながりと、その全体性への覚醒。
かつて細胞として独立していたモノたちが、いまの生物の細胞の中に見事に組み込まれ宇宙を作っているように、かつて反発していた考えや価値観が融和して、ひとつの体系を作ること。
そんなこと可能なのか?
これから出来上がる、いま生まれつつあるコスモが生まれてはじめて、それが可能だということがわかるようなものになるのだろう。
地球交響曲第九番がクランクインしたとのこと。
第一番で提示された問いの答えが、そこに表れるのだろうか。
それを楽しみに待つ。

7月

30

感覚の麻痺を超越

快感はしばらくすると当たり前になり、同じ快感を得るためには強い刺激を与えなければならなくなる。
気持ちいいものを書くことは、これに逆らっている。
だからこれは普通に考えると続かない。
それを越えて続けていくと何が起きてくるのかという実験だ。
「わずか、ほのか、かすか」を感じること。
夢を持つこと。
いまを生きること。
力を抜くこと。
環境に委ねること。
うまくいかないときは手放して再創作すること。

7月

29

長い話を書くための目次

長い話を書くとき、まずは目次を作ってみる。
実際にその目次に沿うかどうかは書いてみないとわからない。
だけど、目次を書くことで、伝えるべき内容の方向性が見えてくる。
これから表れてくる内容にわくわくする。

7月

26

海と雲の輝き

飛行機に乗るとき、できれば窓際に座る。
景色を撮影したいから。
太陽に輝く海と雲の輝きが好き。
特に早朝や夕暮れ時の海や雲は格別。
海に映る雲の影が、海の輝きとコントラストを作る。

7月

25

「簡単」という言葉について

昨日、「第九のスコアは簡単」と書いたが、その言葉がどうも魚の骨が喉に刺さったように気になる。
それはたとえば、プロの指揮者にとっては「簡単」という訳ではないから。
僕のように気楽に聞いている人にとっては「簡単」で済むが、演奏する人にとってはきっと簡単ではないはずだから。
特に第九は名曲だ。
多くの人に何度も聞かれ、曲の解釈によって褒められもするがけなされることもあるだろう。
その難しさは実際に演奏した人でないと理解できないかもしれない。
もし理解したとしても、それを言語化するのが難しい。
この難しさは言葉の難しさであり、人間の心や認知の問題に関わってくる。
一方で、その難しさのおかげで、感動は大きくなる。
演奏によって心が震えるのは、きっとこの難しさを乗り越えてきた情熱が音となって伝わるから。

7月

24

スコアを読みながら第九を聞く

何十年かぶりにスコアを読みながら第九を聞いた。
スコアとはオーケストラすべての楽器の楽譜が書かれている譜面だ。
高校生まではいろんな曲のスコアを読みながらクラシックを聴いたものだ。
一番難しかったのは「春の祭典」。
きちんとついて行けるようになるのに3回くらい聞き直した。
「春の祭典」に比べれば第九のスコアは簡単。
実際には演奏されていても聴こえてこない音というものがある。
スコアを読むとそれがわかる。
どの指揮者のどのオーケストラの演奏だと、この音を強調するとかしないとか、そういうことがわかる。
とても面白い。

7月

22

社会の進化

議会は社会とともに変化する。
近代議会はほぼ産業革命と同時に起きたことは偶然ではない。
現在の議会はほぼこの工業化時代に確立されたもの。
情報化時代には情報化時代にあった議会になるべきだろう。
工業化時代は均一であることを求められた。
情報化時代は多様な価値観に対応できる議会であるべき。
もしそうだとすると、どんな政治がいま必要なのだろう?
工業化時代の考え方から脱すことのできない自分は、どういう考え方をしたらいいのだろう?
想像すると楽しいね。

7月

19

縄文化

1997年、ヒーリング・ライティングを始めたとき、いったい自分が何を始めたのか、よくわかっていなかった。
いまでもよくわかってない部分があるだろう。
でも、わかった部分もある。
当時、自分で書いた文章を発表する人は少なかった。
インターネットが始まったばかりの頃だ。
ヒーリング・ライティングを始めて「文章の書き方をわざわざ学ぶかな?」と言われた。
でも、そこそこ人は参加してくれた。
癒されるために。
癒されて文章が書けるようになると、たいていの人はそこでやめる。
方法を手に入れたから。
当初はそれでいいと思っていた。
しかし、時間とともに何かが変わっていく。
何が変わったのだろう?
それは環境や社会だった。
インターネットが一般化し、SNSが広がると、みんな何かしら文章を書くようになる。
とても短い簡単な文章を。
かつて文章を書く人はこんなことを言った。
「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」
多くの人はそのズレを埋めるために文章を書き、その結果文章がうまくなっていく。
しかし、SNSができると「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」という人は鳴りを潜めた。
「イイネ」が付くことで安心する。
自分の心に書いていることのズレを聞くのではなく、他人に認めてもらって満足する。
「自分が感じていること」について深くは考えず、みんなが「イイネ」してくれることに流されていく。
僕みたいに「自分の心に聞いてみる」なんて奴は鬱陶しいだけだ。(笑)
こうして自分と社会との分断が始まる。
自分の心は置き去りにして、社会に同調することを覚える。
自分は社会の部分となり、全体にはなり得なくなっていく。
その結果、心も次第に部分しか見えなくなる。
選挙のときにそれが現れる。
「どうせ僕の一票は何の役にも立たない」
部分しか見てないために全体が見えないからだ。
政治について考えるためには全体を知らなければならない。
自分の住んでいる地区、都道府県、日本を知った上で、世界全体を考え、経済を考え、過去と未来を考える。
きちんと考えるためには、日常生活を送っている多くの人にとって時間が足りない。
全体を知るなんて無理としか思えない。
だから棄権する人もいるだろう。
だからあまり考えずに投票する人もいるだろう。
僕もかつてはそうだった。
いまでも本当に全体を考えているのかどうかはかなり疑問だ。
「全体」というものは得られるようで得られない。
話を簡単にするためにたとえとして三つの人格を取り上げる。
「読者」と「作家」と「編集者」。
ヒーリング・ライティングではこの三者が一体になることを目指していた。
それに気づいたのは最近のこと。
三者が一体になると全人格者になれると仮定する。
この三者が一体になどなれるのか?
「読者」も「作家」も「編集者」も、断片的な人格なのだ。
「読者」はただ受け取るだけ。
「作家」はただ発信するだけ。
「編集者」は「作家」が発信したいことを「読者」が受け取りやすくする工夫をするだけ。
工業的な社会ではそれで良かったと思う。
情報化社会になってこのような分断は、精緻に組み合わされるようになる。
インターネットでは「読者」であり「作家」であり「編集者」であることを求められる。
円環が閉じつつある。
分断されていた「読者」「作家」「編集者」が統合されていく。
きちんと統合されるためには学ぶ必要があることがとても増える。
しかし、それらを学び切って新たな地平に立つ人が増えていくだろう。
端から見ているとそこにはほとんど何の変化もない。
癒しと同じだ。
それは、深い解釈とともにもとの状態に戻ること。
分断は、統合のために必要なステップ。
ここで話は一気に飛ぶ。
すでに長く書き過ぎた。
日本人は深い解釈とともに縄文の社会に戻っていく。

7月

17

せめぎ合い

頭の中ではあーでもないこーでもないとせめぎ合い、
人と人の間でもあーでもないこーでもないとせめぎ合い、
国と国の間でもあーでもないこーでもないとせめぎ合う。
せめぎ合いがないといいものはできない。
せめぎあえる相手がいることを喜ぶ。

7月

14

日常を冒険として見る

普段の生活はほぼ退屈なことの繰り返し。
学生時代であれば、覚えてももう一生使わないような難しいことを学んだり、会社員になれば会社や社会に貢献することで自分をすり減らす。
定年まで過ごして年金をもらうが、その頃にはそのお金をどう使っていいものかわからない。
そんな生活を一新するものの見方。
「日常を冒険として見る」
退屈だと思っていたことを冒険の入口とすると、そこから何が表れてくるのか。
どのようにして一生使わないような知恵を冒険のための道具に変え、会社員と言う立場を冒険への参加のための訓練や儀礼と見るか。
冒険には仲間がいた方がいい。
本当の仲間はどこにいるのか?
冒険のためには体力がいる。
どのように体力をつけていくのか?
冒険のための移動手段はどのように調達するのか?
そのすべてが自分の知力と胆力にかかっている。

7月

13

混沌

いま世界は混沌としている。
多数決がいいのか悪いのか。
資本主義がいいのか悪いのか。
貨幣経済がいいのか悪いのか。
AI導入がいいのか悪いのか。
あるイデオロギーがいいのか悪いのか。
いろんないいのか悪いのかが問われている。
いいのか悪いのかを適当に決めるのではなく、豊かな会話のあとでそれを決めないと、あとで困ることになる。
きちんと相手の話に耳を傾け、伝えるべきを伝えましょう。
そのためには時間が必要なのかも。

7月

12

未来の自分になってみる

多次元リフレーミングをするとき、いろんな時代の自分を思い出すのだが、未来の自分を思い出すということはあまりしてこなかった。
唯一していたのは死ぬときのこと。
ニュピに行き、まる一日半 瞑想していると、死ぬときのような感覚が生まれる。
実際にどうなるかはわからないが、それが死への練習になっていたような気がする。
死は暗闇のような場所に戻る体験。
何も分からない領域に入っていくこと。
そのとき、居心地いい感覚を持てるかどうか。

7月

10

気持ちいいのかどうか

お化け屋敷に入った人は、そこで恐怖を体験する。
だから、その体験は恐怖であって楽しみではない。
だけど、お化け屋敷に行く人は必ずその体験を楽しむために行く。
恐怖を感じることを楽しんでいるのだ。
僕たちはいろんな感情を体験する。
その体験は、そのある状況に投げ込まれたから。
たまたまその状況に居合わせたからその体験をする。
しかし、もしお化け屋敷のように、その状況に自分から入っていたのだとしたら、どうだろうか?
いろいろな感情を楽しむ、味わうわたし。

7月

9

メディアの発達

メディアが発達したことで、世界中の人たちと近くなれた。
海外旅行にも気軽に行けるようになった。
字幕付きの映画をケーブルテレビでいくらでも見られるようになって、英語が少しうまくなった気がする。
メールアドレスやSNSのIDさえわかれば、誰とでも対話ができるので、誰とでも仲良くすることを無意識にも心がけるようになったように思う。
こうやって、人と人との距離が近づくと、喧嘩も起こりやすくなる。
インターネットができたばかりの頃、いろんな人がいろんなところでバトルしていた。
いまでもあるが、かつてのような感情むき出しのバトルは少なくなったように思う。
炎上しても、少しは礼儀作法がある。
まぁ、人にもよるのだろうけど。
メディアが発達したら、自分の心もそれ相応に発達させないとね。
適切な教育があれば、昔の人より容易に成熟した大人になれるような気がするが、一方で、命のやりとりをするような場面が減ったせいか、苦みばしった価値観の深い大人は減ったような気がする。
社会全体が幼形成熟(ネオテニー)しているのかな?