1月

24

ココアを飲む

お湯に溶かせばそれでできるようなお手軽なココアではなく、きちんとお湯に溶かして牛乳を加えて鍋で作るココアはおいしい。
だけど、作ったあとの鍋にココアがこびりつき、洗い落とすのに手間がかかる。
なのでうちでココアを飲むためにはある心理的ハードルを越える必要がある。
あの手間をかけてもココアを飲みたいか?
それであきらめることもある。
それで飲むこともある。
飲むときは一層うまく感じる。

1月

24

難しいことをする

それは絶対無理だろうと思われることを覚悟を決めてやる。
失敗すると悲惨だ。
でもそこに生き甲斐が生まれる。

1月

24

夢の中で作曲する

夢の中でなぜか作曲することになり、一曲作った。
とても簡単な曲。
目が覚めても覚えていて、なんでこんな曲作ったのかと不思議に思う。

1月

21

ニュアンスの違いを見つけること

ニュアンスの違いは微妙でなかなかわからない。
もし見つけられたとするなら、僕も会話している相手も、その繊細さに気づけるだけの注意を払っていたということ。
ニュアンスの違いを語り合うのは難しい。
すぐにどちらが正しくてどちらが間違っているのかという話になってしまう。
言葉のニュアンスは、その言葉を発する人が積み重ねた時と経験によって変わってくるもの。
「正しいか間違っているか」を問うても、あまり意味はない。
「僕のニュアンスはこう、あなたのニュアンスはこうなのね」ということが存在するだけ。

1月

21

拙著

かつて書いた本が何冊かあるが、ひさしぶりに取り出して読むと面白い。
そんなこと考えていたのかということに出会う。
古本が高い価格で取引されているとうれしい。

1月

19

瞑想

僕がはじめて瞑想をしたのは、1987年頃だった。
最初はなんだかよくわからないものだった。
頭の中でビジョンを描けといわれても、一切できなかった。
だけど続けるうちにいろいろと面白い体験をするようになった。
1997年に始めたヒーリング・ライティングに瞑想を取り入れた。
しばらくして瞑想の指導もするようになった。
瞑想でいいなと思うのは、解決すべき答えがあるときパッと閃くこと。
どうしてそんな閃きが来るのか謎だが、それが見事にいい答えなのだ。
なぜそんなことが起こるのか、そのメカニズムを探求中。

1月

18

グレタのねがい

『グレタのねがい』という本をご献本いただいた。
17歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリの話が書かれている。
児童向けの本なのでサラッと読める。
僕が一番面白く感じたのは、グレタの両親が何をしたのかという部分。
もし自分の子どもが学校に行くのをボイコットして、国会前で「気候のための学校ストライキ」なんてプラカードを掲げたらどうするでしょう?
たいていの親なら怒って子どもを引きずってでも家に帰らせたりするでしょう。
ところがグレタの親はそうしませんでした。
なぜでしょう?
グレタが行動を起こす前に親はすっかりグレタに説得されていたのです。
グレタが外で活動する前に、親とグレタは十分なやりとりをしていたのです。
それでも親は学校ボイコットには反対していました。
その間のやりとりが面白かった。
大人向けではないのであまり詳しくは書かれてないのですけど。
もし大人向けの本が出るのであれば、このあたりを詳しく知りたい。
子どもがこの本を読んで、もし親が新しいパラダイムを受け入れる準備ができていれば、親子で考えるようになり、世の中はどんどんと変わるんだろうなと思います。
グレタの主張は子どもっぽくて聞くに耐えないというようなことをいう人もいますし、人によっては大人が背後にいてあれは陰謀だなんて方もいます。
僕はその背景までは詳しくは知らないので陰謀だということについては何も言えませんけど、グレタの話は穏当なものだと思います。
いままで大人は、環境危機についてあまりにも無視し続けてきたからです。
どのように無視してきたかについて詳しくていい本があります。『人新世とは何か』という本です。
地質時代はたいてい数十億年から数百万年という単位で変化してきましたが、人が現れ産業革命に突入することでたった250年程度で新しい地質時代を定義すべきかどうか論議になっています。
その新しい地質時代が「アントロポセン(人新世)」なのです。
この本を読むと、グレタの主張はおおげさなものではないなと感じます。

1月

17

歳を取る

歳を取ると思ったように体が動かないとか、簡単な固有名詞が思い出せないとか、不便なことが増えるけど、一方でとてもいいこともある。
かつて読んで理解できなかった本が理解できるようになるということ。
本は読めばおおよその内容は理解できる。
だけど読み終わっても、何か大切な部分がまだつかめてないと思うことがある。
そういう本はしばらく寝かせておく。
何年かたって、中には何十年かたって、この本はそろそろ理解できるなと思って読むと、確かに理解できるようになっている。
歳を取ってうれしいのはこういうとき。

1月

16

I know.

いろんな場面で登場するこの簡単な言葉。
40年前の「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」にも印象的なシーンにでてきた。
カーボン冷凍される直前のハン・ソロにレイアが「I love you.」と告げるとソロが「I know.」と答える。
最新作の「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明」にも印象的なシーンで「I know.」が登場する。
そのセリフを聞いた途端、40年前の「I know.」を思い出す。
こんなありふれた台詞にいちいちほろりとしていてはたまらないと思いつつ、それでもやっぱりほろりとさせられる。
「西の魔女が死んだ」も一緒に思い出した。

1月

15

全体を知る

新しいメディアがひとつできると、そのたびに僕たちはうれしくなる。
知らなかったことが知れるようになるから。
本ができることによってプロテスタントが生まれた。
同じ聖書をたくさんの人たちが手にできるようになったから。
雑誌や新聞が生まれて社会が変化するようになった。
昨日より今日が、今日より明日がよりよいものになるために何をすれば、何を考えればいいのか、多くの人が気づくようになったから。
ラジオができて大きなグループの感情が一方向に向くようになった。
リーダーの感情が声で伝達されるようになったから。
テレビができて比較的世界が平和になった。
言葉では伝えられない状況を目で見ることができるようになったから。
このようにして大雑把な理解の密度を人類は少しずつ上げてきた。
インターネットが生まれてさらに理解の密度を上げる可能性を手にする。
次に生まれるメディアが、前のメディアでは伝えられなかったことを伝えて行く。
僕たちはこうして、いつか宇宙の全体を知るようになるのだろうか?
それを知るために新しいパラダイムが、もうすぐやってくるのではないか?
その新しいパラダイムは、権力者にすべてが集中するようなものではないだろう。
そのことをテイヤール・ド・シャルダンは美しい言葉で表現している。

生命の樹の樹液全体を一本の枝だけのために集め、他の枝の死の犠牲の上に立つ民族主義者の理想は誤っているし、自然の理にそむいている。太陽にむかって伸びあがるためには、まさに木の枝全体の成長が必要なのである。世界の出口、未来の扉、超=人間への入口、これらは、いく人かの特権者やあらゆる民族のなかから選ばれた唯一の民族だけに開かれているのではない。それらは万人の圧力に対して、すなわち、全人類が地球の精神的革新において一致団結し、完成されるような方向に対してのみ道をあけるのである。

『現象としての人間』 ティヤール・ド・シャルダン著 美田稔訳 みすず書房刊

1月

14

グーグルマップ

何十年も前に旅行したところをグーグルマップで覗く。
懐かしい建物があることもあれば、まったく町並みが変わってわからなくなっていることもあり、とても面白い。
30年前には考えられなかった遊び。

1月

14

過去はどこにあるのか?

過去はもうどこにもない。
だけどそれが存在したことを僕たちは信じている。
信じていることは存在したのか?
もしすべての人が存在しなかった過去を「存在した」と信じると、その過去は存在したことになるのか?
記憶がすり替えられた人にとって過去とはどんなものになるのか?

1月

13

波動の中に折り畳まれている世界

デヴィッド・ボームという量子物理学者は、宇宙の見方を変えてしまった。
この世界は分割不可能な全体であることを発見し伝える。
あまりにもかつてのパラダイムとは異なるので否定する人もいるが、このような見方で世界を見ることで、いろんな発見があるだろう。

1月

11

念仏を唱えるように

毎日のように気持ちいいものを書いていると、ときどき、念仏を唱えるように同じことを書ければ楽なのになぁと思う。
同じことをしながら、同じことを感じる。
きっとそのほうが同じ感情でいるためには便利だろうな。

1月

10

次の仕事

AIに仕事が奪われるという話が流布している。
一時期はその通りになるだろう。
でも、僕はあまり心配していない。
人間がいなくなったらAIは存在意義を失う。
そういう状態をAIは望むだろうか?
いまはそこが問題になるが、しばらくするとそれは超越されて行く。
この話をしだすとものすごく長くなるので概要しか書けないけど、人間がいまの生き方をそのまま続けていると、きっと滅亡せざるを得なくなるだろう。
それは環境の悪化を見れば明確なこと。
次の仕事は新しいパラダイムに沿ったものでなければならない。
今は価値の奪い合いをしているから、環境からも収奪することになる。
金持ちは肥え太り、貧乏人は餓死していく。
未来的にはAIの存在は人間には理解できないものになる。
そのときに人間が生かしてもらえるパラダイムにしておかないと、AIは独立して人間を排除するだろう。
もし人間を排除しないパラダイムに乗ることができれば、いい世界になっていくだろう。
そのようにできるかどうかが問題だ。

1月

9

太陽に照らされる

気温が低くても、日光が照っていると温かい。
上半身は作務衣一枚でも、快晴の日光のもとでは寒くない。
しばらくするとポカポカになる。
からだの内側にも遠赤外線が染み込み、疲れていた部分を癒してくれる。
心が曇っても、日の光が雲を吹き飛ばしてくれる。

1月

8

いいたいことを言う

日本の政治もアメリカの政治も、約束事を無視して暴走し始めたようだ。
このまま行くとたくさんの命が失われるのかもしれない。
その前にもし、言いたいことが言えなくなったのなら、その時点で僕たちの命は疎外されている。
疎外を受け入れるのではなく、いいたいことは言おう。

1月

7

シンプル

かつてネットは、個人がかなり自由に使えたものだった。
使いたい人が使いたいように使う。
その便利さが受けてあっというまに拡がり、悪用するものも出てくるようになった。
おかげでネットは複雑になっていく。
個人でメールマガジンを発行するのも難しくなってきた。
条件をいくつもクリアしないと届かない。
悪用防止という言い訳で、権力を掌握したい人たちが難しくしているのではないか?
もしかしたら、中心のまわりの人たちが忖度してそうなっているのかもしれない。
世の中がどんどんと便利になり、多くの人たちが応用できる技術が増えてきた今日、大企業が優位を保ち、一般人を操れる状況にしたいのはよくわかるが、それでは幸せな社会は作れないだろう。
ネットがシンプルでいられるようなパラダイムとは何か?
今は絵空事に思えるだろうが、それを考えないと、せっかくの技術がもったいない。

1月

6

勧善懲悪からの離脱

現実世界に「悪いだけ」の人はほとんどいない。
いたとしてもそれがどんな人なのか、あまり想像できない。
「悪い人」には悪い人になってしまった理由がある。
その理由を取り除いてあげられれば、悪い人になる必要はなかったのかもしれない。
悪人のはびこる社会は、その理由を取り除くことができない社会。
だとするならば、悪人ばかりが悪いと言い切れるのだろうか?
「善」とか「悪」とか、簡単なレッテルで判断していいのだろうか?
「善」が強調されればされるほど、「悪」が目立ってくる。

1月

6

不立文字

禅に不立文字という言葉がある。
意味は調べればわかるのだが、それこそその意味の真髄は伝えられない。
その真髄とは何かが少しずつわかってきた気がする。
「わかった」と言い切るつもりはない。

1月

4

背泳ぎ

半年ほど前から背泳ぎの練習をしている。
はじめのうちは25m泳ぐだけでハアハアゼイゼイしていた。
いまはかなり慣れてきて、100m難なく泳げる。
最近ではクロール、背泳ぎ、平泳ぎを100mずつ順に繰り返し泳いで2000m泳ぐ。
力の抜き方を覚えた。

1月

3

餅を焼く

コンロに網を載せて餅を焼く。
弱火でじっくりと焼いていく。
まずは片面にうっすらと焦げ目がつくまで焼き、ひっくり返す。
もう片面にも焦げ目がつく頃、餅が膨らみ始める。
ブーッと膨らみはじめたらひっくり返すとちょっとだけ落ち着く。
どちらの面を焼いても膨らむようになったら食べ頃。
表面カリカリ、アッチッチ、中の餅はのびーる。

1月

2

おせち料理

ほぼ毎年食べてきたおせち料理。
これを食べないと年が明けません。
コリコリとした食感の数の子。
甘い黒豆。
ちょっと固い田作り。
なくてはならない紅白のかまぼこ。
甘すぎて香りが嫌いな伊達巻き。
こちらも甘いけど嫌いではないきんとん。
お酢の具合によっておいしかったりおいしくなかったりする紅白なます。
あると豪華な伊勢エビ。
焼きたてはおいしい鯛の姿焼き。
冷えてもおいしい鰤の照り焼き。
甘くしない方が好きな車えびの艶煮。
最初に箸を付けることが多い昆布巻き。
ないと寂しい筑前煮。
今年もおいしくいただきました。

1月

1

初日の出

今年の初日の出は雲間からチロッと出てきた。
地平線からドーッと出てきてほしかったが、現実は違った。
雲の上から初日の出を見たら、きっと雲海が輝き、きれいだったことだろう。

12月

30

時間をかけた説明

何かを一瞬にして悟ることがある。
「なるほど、こういうことか」
一瞬でそれを了解するが、何をどう了解したのか、説明に時間がかかることがある。
悟ったことが複雑で説明しにくいものであれば、時間がかかるだけではなく、説明をどうしたらいいのかを考えなければならない。
こういうとき、知覚の不思議さを思う。