7月

8

亡くなった方を思い出す

時々、亡くなった方を思い出す。
何かのきっかけで思い出したり、ぼうっとしていたら思い浮かんだり。
それを「気持ちいい」というのは少々抵抗があるが、しみじみとしてよかったり、うるっとしたりする。
「あんなことしなければ死なずにすんだのに」とか「一緒にあれをすればよかった」とか、文句や悔いも思いつつ、最後に「出会えてよかった」と思う。

7月

7

四季〜ユートピアノ〜

1980年に製作されNHKで放映された単発ドラマ。
2000年を過ぎた頃に一度再放送された。
それを一度だけ見たのだが、とても印象に残った。
主人公の女性が調律師としていろんなピアノを調律していく。
淡々としたドラマだが、ピアノの音が印象に残った。
ピアノによってあんなにも音色が違うのかとはじめて知った。
もちろんピアノによって音の違いがあるのは知っていたが、置かれている場所によって響きが違う。
調律していくことでも音が変わる。
その些細な違いに気付かされていく。
ピアノの音が流れるたびに「うちのピアノの音と違うな」と思う。
うちのピアノの音と思い出の大切さをかみしめた。

7月

7

騎手がチラッと見るように

昔、イェイツのお墓に行ったことがある。
スライゴーのドラムクリフ教会にある。
墓石に詩が彫られている。
とても印象的だった。
Cast a cold eye on life. on death.
Horseman pass by !

7月

5

Jeff Peterson のギター

ホノルルのはずれを散歩していたとき、疲れたのでカフェにでも入ろうと思い、知らないホテル内のアーケードに入った。
そこにはCDショップがあり、ふらっと入るとギターの素敵な音が聞こえてきた。
きっとハワイアン・スラッキーギターだろう。
ハワイにはスラッキーギターの名手が何人かいる。
前にハワイに行ったとき、スラッキーギターの名手によるベスト盤のようなアルバムを買っていた。
店員に「この曲は誰のなんていう曲ですか?」と質問すると、カウンターに立てかけてあったCDケースを指差して「それだよ」という。
オレンジ色の丘の先に霧に包まれた暗い森が写っている抽象的な表紙だった。
「有名なひとなんですか?」
「いや、新人だよ。いい音だすよねぇ」
そこではじめて Jeff Peterson を知った。
飾られていた「Slak key Guitar ~ The Artistotry of Jeff Peterson」を買った。
以来、何枚かのアルバムを買い、朝によく聞く。

7月

4

iMacの音

新しいiMacが到着した。
予定より二週間早かった。
正面から見ると10年前のiMacとほとんど何も変わらない。
デザインは10年前にほぼ完成されていた。
一番大きく変わったのは音だ。
かつてのiMacだと、スピーカーを繋がないと「音楽がどうも」という感じだったが、新しいマックはスピーカーを繋げなくてもある程度聴ける音になってきた。
アルミでできたコンピューター全体がスピーカーになっている。

7月

3

埴谷雄高の『虚空』

大学生の頃、古本屋に行くと必ず目にする本があった。
それは埴谷雄高の『死霊』。
当時は名前の読み方すら知らず、いったいどんな本なのか極めて謎だったので、読むだけ読んでみようと買ってみた。
当時の『死霊』は五章までしかなかった。
その時点ではまだ未完であることも知らなかった。
とにかく読んだが、何が何だかよくわからない。
この作品の何が面白いのか?
何十年も本棚に飾られた状態だった。
それを再び読む気になった。
安藤礼二の『光の曼陀羅』のおかげ。
九章で絶筆になり、全三巻の文庫が出ている。
埴谷雄高はいくつかの短編と『死霊』くらいしか作品がないと言われている。
まずは短編集『虚空』を読んでいる。

7月

2

香港ペニンシュラの弦楽合奏

ニュースを見ていて大学生の頃の中国旅行を思い出した。
ビザを安く買うためにまず香港に行った。
そこで、当時世界で一番いいといわれていたペニンシュラ・ホテルに行ってお茶をした。
一階のカフェでお茶をしていると、二階のバルコニーから生演奏の弦楽合奏が聞こえてきた。
いつか平和になったらまたペニンシュラで会おう。

7月

1

不快の区別

気持ちいいものについて4184もの区別を付けてきた。
そうしていると不思議なことが起きてくる。
「不快」のなかに気持ちよさを見つけるようになる。
または、「不快」と思い込んでいた感覚に、別の解釈を許すようになる。
それはいったいどういうことなのか、説明しようとしてもうまく説明できない。
あえて説明するなら、子供の頃に嫌いだった食べ物を大人になって好きになってしまうような感覚とでも言おうか。
「気持ちいいもの」について区別を与えれば与えるほど、「不快なもの」にも区別を与えていたのかもしれない。
それは自分が意図せずにも、心のどこかでそういう自動的な作業が発動していたのかも。
たとえば、気持ちいいものを表現すればするほど、太極図のようにどこかに不快な感覚がついてきて、そこに意図せぬ区別をつけていたのかも。
気持ちいいものを書き続けると、ときどきその作業が嫌になることがある。
それが陰の極まったとき。
それを過ぎて陽が現れるのをじっと待つ。
「気持ちいいもの」を書くように「不快なもの」も書ける気がする。
「不快なもの」を書き続けると、きっと「気持ちいいもの」にたどり着くのだろう。

6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

6月

29

することとしないこと

何かをすると、その影響が僕のまわりに生まれる。
たとえば「あの本読んだよ」といえば、その本を読みたい人が現れたり、また逆に「そんな本読むものか」という人が現れる。
そういう人たちがまた別の人に影響を与える。
同様に「しない」と決めたことにも影響が現れる。
そういう影響は多くの場合本人にはあまり感じられない。
でも確実にある。
それを知ると行動には喜びと慎重さが生まれる。

6月

28

嫌なことを体験すること

嫌なことを体験することが「気持ちいい」なんてとても言えない。
だけど、考え方を少し変えると、「気持ちいいかも」と思える。
僕たちは普段「個人」としてしか生きていない。
もしそうであれば「嫌なこと」は嫌なだけだ。
だけど「人類」という集団の一部であると考えると「嫌なこと」は改善すべき問題点に見えてくる。
「人類全体」が心地よい状態であるためには、僕が体験した「嫌なこと」は、改善すべき点となり、僕には改善する可能性が与えられたことになる。
その改善のためには多大な努力と時間と、計り知れないトライ&エラーが必要となるかもしれない。
でも、「人類全体」が心地よい状態になるためのお手伝いができるとしたら、ラッキーなことかもしれない。
その可能性を実現するか無視するかは、自己裁量である。

6月

27

子供と暮らす

幸せについて考えるとき、自分に子供がいないことが問題として現れることがある。
子供がいる人の幸せを理解できないのではないかと。
それは幸せにとってとても大きな要素のように思える。
赤ん坊のときその親は苦労する。
夜泣きしたり、理解できない行動をしたり、思わぬ事故にあったりする。
親はそれらに対処しなければ育てられない。
そのことを通してはじめて、「自分もそれをしてもらっていた」ことに気づく。
それは理性的に「気づく」だけではなく、感情的にも気づいていく。
「感情的に気づく」ということを説明することが難しいが、簡単に言えば、「理屈はさておき、大切にしたいから大切にする」という、損得もなければ、計算もなく、なんだかわからないけどただただ赤ん坊のためだけになることをしてしまう自分に気づくことだ。
それは言語的、理知的人間存在からは説明できないことで、生命がたどってきたすべての歴史を引きずってきている「心臓の鼓動」や「腸の蠕動運動」のように、それを感じて言語化しようとしてもしようがない、本能から引きずりだされる情動のようなものがそうさせる。
その情動にしたがって子供を育てることで、どんなに苦労してもあとで「よかった」と思える感情を親は手にする。
それはいろんな説明が付くかもしれないが、どんな説明も実は説明でしかなく、そのように感じるように生命は構築されてきたのではないだろうか。
子供と暮らすとき、その子が何歳であろうと、親は過去の自分と親の関係をそこに見出す。
その発見がどのようなものであろうと、親はそれを受け入れることで、幸福感に包まれるのではないだろうか?

6月

26

幸せになるということ

「幸せになる」というのはどういうことか考えてみた。
とても個人的で、一般の人には当てはまらない答えだったが、それこそが大切なのだと思うようになった。
それは、幼い頃からの体験に大きな根元がある。
うちには古本屋を開くことができるほど本があった。
木造家屋にただ本棚を置くと、その本棚があまりにも重くなってしまって、ついには床が抜けたりするので、本棚を新しく作るときには土台から作らなければならなかった。
そんな特殊な家に住んでいた。
幼い頃から家中にある本の背表紙を見ながら暮らした。
変な本がたくさんあった。
拷問の仕方とか、即身仏になる方法とか、売笑についてとか、普通の家庭にはこんな本ないよなと思う本であふれていた。
ある日そういう本の中から一冊を手に取る。
幼い頃にはまったく理解できなかった本が、理解できるようになっていく。
それが僕にとっての幸せだった。
そういう幸せに触れ続けるために本を読み、本を書く。

6月

25

梅雨らしい梅雨

今日も雨が降り、今年は梅雨らしい梅雨になった。
ここのところ温暖化の影響か、暑くて梅雨らしい梅雨ではなかった。
今年は雨が降るとひんやりとしていい。
この気候はひょっとしてコロナウィルスのおかげか?
四季のある日本らしい気候に戻ってほしい。

6月

24

進化の意外な順序

アントニオ・ダマシオの著書、『進化の意外な順序』を読んでいる。
とても面白い。
『日刊 気持ちいいもの』で、表現のしようのない感覚について何度か書いたけど、その説明になるような話が「第7章アフェクト」に登場する。
そうだよそうだよ、と思いながら読んだ。
『日刊 気持ちいいもの』に出てくる理屈っぽい部分が好きな人は読むと面白いかも。

6月

23

iMacを買い替える

2010年に買ったiMacを買い替えることにした。
申し込むと、なんと到着が一ヶ月後。
前回は翌日には来た気がするので、何かあるのかなと思っていたら、やっぱり何かあった。
申し込んだ二日後に今年の末からiMacはプロセッサーを自社のものにすると発表があった。
半年もせずに僕の買ったiMacは旧型になる。
あらら。
でも、何年も使われて品質は最高なものになっているだろうから、まあいいかと思う。
10年前のiMacはいろいろと不都合が出るようになってきたので、新しいのに期待する。
10年間、特に大きな故障もなく働いてくれて、ありがとう。

6月

22

ロータス ビスコフ

包みを開けるとシナモンの香り。
口に含んでサクッと噛めばカラメルの風味と独特の甘さ。
あっという間に一枚は食べ、すぐに二枚目に手を出す。
三枚目は血糖値のことを考えて我慢する。

6月

22

行動に意味が生まれる

ケニアに行ったとき、鳥の写真を撮ろうとした。
草原に一本の木が立っていて、そこにたくさんの鳥が群がっていた。
その木のまわりに飛ぶ鳥を、望遠レンズで一羽ずつ撮ろうと思った。
しかし、飛ぶ速度がとても速くてなかなかレンズで追いきれない。
諦めずに鳥をレンズで追いかけて行くと、しばらくして規則性があることがわかった。
ある一羽は、ほぼ同じ軌道を何度も飛んでいる。
それを見つけた途端、何羽もの鳥もそれぞれに軌道があることがわかった。
すると、二羽がほぼ同じ軌道を飛んでいるのも見つけた。
きっとつがいなのだろう。
そこで面白いことを思いついた。
同じ軌道を飛んでいるとつがいになるのか、つがいだから同じ軌道を飛ぶのか。
それともたまたま同じ軌道を飛んでいるだけなのか?
それは単に見ている僕が勝手に意味を付けているのかもしれない。
一方で、鳥たちにとって、同じ軌道を飛ぶことで、彼らの間に何か意味のようなものが生まれないのかと質問したくなった。

6月

22

太陽に意味を与える

太陽が輝いているおかげで、僕たちは生きていられる。
太陽がもし輝いていなかったら、地球は氷の星。
生命は生まれなかっただろう。
だから、太陽は一方的に僕たちに恩恵を与えていてくれるように思う。
僕たちは何か太陽にお返しをしているだろうか?
そう考えたとき、太陽を認識し、意味を与えていることが、僕たちのできる太陽へのお返しかもしれないと思う。
太陽を認識し、意味を与えても、太陽のためにはちっともならないと考えがちだが、果たしてそうなのか?
地球では二酸化炭素による温暖化が問題になっているが、一方で太陽は黒点が減少し、ミニ氷河期になるのではないかと言われている。
まるで地球の状況を見て太陽がバランスを取ってくれているようだ。
僕たちと太陽は重力で繋がっているが、ほかの要素でも繋がっているのかもしれない。
それとも重力に、コミュニケーションの能力があるのか?

6月

19

雨の音

今朝は雨の音で目覚めた。
「雨の音だな」と思った瞬間、懐かしい歌を思い出した。
Listen to the rhythm of the falling rain.で始まる「悲しき雨音」。
でも、なぜこの歌を覚えているのかよくわからない。
かつてCMに使われていたので、出だしの部分を覚えているのは理解できるけど、ほぼすべての歌詞をなんとなく覚えている。
歌詞を見てすぐに歌えてしまうのだ。
レコードやCDは持ってない。
ラジオや街中で聞いたのを覚えていたのかな。

6月

18

たくさんの意味

僕たちは言葉を持つことで何かにフォーカスすることができるようになった。
あれがしたいとか、これをしたいということを群れで共有できるようになった。
もちろん群れで何かの意図や目的を共有する動物はたくさんいる。
しかし、以前からある意味や行動以外の、新しい概念を共有することは難しい。
そのために言葉が役に立った。
ところが、あまりにもそれが発達したおかげで、「何かにフォーカスすること」以外の価値が見えにくくなってしまった。
たとえば「電話」という言葉。
僕が幼い頃は電話といえば二種類しかなかった。
黒電話か赤電話。
黒電話は家にある電話。
赤電話は公衆電話のこと。
しばらくすると公衆電話にもたくさんの種類が生まれ、黄色電話、ピンク電話、青電話、緑電話といろんな色が採用されて行った。
色が多様になるのと同時に、それぞれの色に象徴される電話の意味も生まれたはずだ。
だから、「電話」一言では、今の人たちはそれがどんな形状のものを指しているのか正確にはわからない。
ファックス付き電話かもしれず、グループ電話かもしれず、携帯電話かもしれず、スマートフォンかもしれない。スマートフォンの区別も考えると、いったい何種類の電話があるのか見当もつかない。
だけど、言葉上は「電話」でわかった気になる。
同じようなことがいろんな言葉で起きている。
「愛しているよ」という言葉の「愛」がどんな意味であるのか、よく聞いてみないとわからない。
ところが、自分が一番理解しやすいか受け取りやすいか、その微妙なところは人によってよくはわからないけど、たいてい人はどこかの意味に落ち着いている。
その意味の体系を組み直したり、壊してくれるのが文学的体験ということだろう。
他人と話しているとときどき自分の意味体系が壊れる。
「壊れる」と感じていることが、いかに自分の意味を強固に持ち続けているかを表している。
この世界にはたくさんの意味がある。
意味は次から次へと生まれてくる。
そのなかで、どうして自分の意味だけを大切にし続けるのか、よく考えなければならない。
言い方を変えると、なぜ自分の意味にだけしがみついているのか、ということになる。
自分を守るのと同様に、自分の意味も守らなければならない。
そう思い込んでいる結果、しなやかさを失っていることがあるかもしれない。

6月

17

粗大ゴミを捨てる

区の粗大ゴミ受付センターに連絡して、粗大ゴミシールを貼って、粗大ゴミを捨てた。
ひとつはラジカセ。
スピーカーが大きくて低い音のしっかり出るいいラジカセだった。
ひとつはファックス。
15年くらい使って来たかな。
気持ちいいかどうかは微妙だな。
愛用していたものを手放すって微妙だ。
気持ちいい部分と、そうではない部分がある。

6月

16

アメリカの混乱

アメリカの混乱は、いったい何が起きているのか正しく把握することが難しい。
アメリカにいる人でもきっとそうだろう。
まして日本にいたら矛盾した話がたくさんあって、どれが正しいのかわからない。
もうすぐきっと日本も同じ状態になる。
これはきっと新しい時代の禊のようなもの。
山本太郎の都知事選出馬で、いろんな勢力がいろんなことを言い始める。
すっきりとしたいい時代に脱皮したい。

6月

15

膿を出す

アメリカでは大きな混乱が起きている。
日本でも政治では大きな問題がたくさん未解決のままに置かれている。
これから、もし本当にAIの時代が来たら、これらの膿がそのままではならない。
膿を出し切らないとそれは大きな問題として降りかかる。
だから膿を出しましょう。
ちょっと痛いかもしれないけど。

6月

14

血圧計

新しい血圧計を買った。
前のはもう20年も使って来た。
新しい血圧計は作動がとても静かだ。
前のは空気排泄の「ブブブブ」という音がうるさかったが、新しいのは耳を澄まさないと聞こえないほど静かだ。
しかも前のは脈に合わせた電子音が「ビッピッピッ」と鳴っていたが、新しいのはそういう電子音がまったくない。
前の血圧計には愛着がある。
捨てるのはもったいないと思う。
でも、保持していても仕方ない。
悲しいが捨てる。
いままで測ってくれてありがとう。
新しい血圧計、ようこそ。