12月

7

歌垣の世界

折口信夫の本に歌垣という言葉が登場し、それがいったいどんなものか興味を持った。
長いあいだ忘れていた興味が、一冊の本によって解き明かされる。
工藤隆著『歌垣の世界』。
かつて日本にあった歌垣が、いまも中国雲南省の奥地に存在し、その研究と考察によって、日本についてのさまざまな示唆を与える。

令和の時代となり、天皇の儀式もかつてより報道されるようになり、憲法改正をするのならば日本人が考えなければならない天皇制というものについて、この本の最後に書かれていることはとても大事なことを伝えていると思うので、ここに転載する。

——
恋愛文化は『源氏物語』(1000年代初頭)に典型的であるように、王朝の物語世界でも、男女の恋愛をめぐるテーマを熟成させた。宮廷を舞台とする世界中の物語のほとんどは、政治的暴力の醜い権謀術数が展開される世界である。しかし『源氏物語』のテーマはあくまでも男女の恋愛である。

このような恋歌文化の強力な伝統は、長江以南諸民族の歌垣文化に発するものであり、しかもそれが日本においては、六〇〇、七〇〇年代の本格的国家建設の際にも継承されたということは、世界文化史上でも画期的なことであった。

もちろん恋愛と言うものは、合理的・現実的判断力(リアリズムの眼)が強すぎるときには生まれにくい。恋愛文化の伝統が強いということは、柔らかな価値観、だれかを恋い慕う思いなどに価値を認めようとする感性が強いということである。したがって、政治的な権力争い、国際政治における謀略的な闘いなどのリアリズムの眼が求められる場面では、しばしば判断ミスを誘う思考構造ともなる。

人間は、限られた生命を生きる存在であることを自覚しつつ、それでもなお生きることを選択して生きている以上、何らかの幻想や願望や憧憬を抱え込んで、いわばそれらを、生きることの栄養源にして生きていくのである。そのような幻想や願望や承継の最も甘美かつ魅力的な世界が恋愛であり、その表現形態の一つとして恋歌文化がある。したがって、長江以南少数民族の歌垣文化とその中心にある恋歌文化を、古代国家段階だけでなく二十一世紀の現代にまで伝えている日本文化は、それ自体で誇るべき世界文化遺産だとして良い。

しかし、他国と戦争するような場合にまで、幻想と願望と憧憬という、リアリズムから最も遠い意識に身をゆだねて行動をとれば、どれほど悲惨な結末を迎えるかは、一九四五年の敗戦までの日本軍部およびそれを心情的に支えた多くの日本国民が実際に体験したことであった。

11月

26

フランシスコ教皇の言葉

ローマ教皇が来日し、長崎、広島、東京と訪れた。
各地でミサを行い、言葉を残している。
核廃絶を訴え、戦争を撲滅し真の平和を希求した。
特に「生産性と消費への熱狂的な追求」についても批判した。
ありがたいことだ。
金銭を生み出さない「命の営み」に眼差しを向けるときが来た。

11月

11

弥勒菩薩

京都に行ったので、広隆寺を訪ね、弥勒菩薩に対面した。
諸仏に守られ、薄闇の中に佇む弥勒菩薩。
背中には千手観音。
外に出ると苔に囲われた池に日の光がきらきら。

10月

1

ケーヴァラ・ジュニャーナを空想する

ジャイナ教において完全智と呼ばれるもの、それがケーヴァラ・ジュニャーナ。
ケーヴァラ・ジュニャーナは人間には得ることができない。
せいぜいアネーカーンタヴァーダを得るところまで。
アネーカーンタヴァーダとは、多元的観点。
完全智は、人間の感覚では感じられないものも含む、人間には到底得られない知恵。
でも、そういう知恵とはどういうものか、無理だと知っていても考えたくなる。

8月

17

ケルトの魂

『ケルトの魂』という本をいただいた。
鶴岡真弓の対談集。
20年以上も前にアイルランドに行った。
また行きたいなと思う。
キリスト教が入る前のアイルランドは多神教だった。
その影響がキリスト教が入っても残り続ける。
一神教というのは政治的にはいい宗教かもしれない。
人民を統一しやすいから。
でも、暮らしている人にとっては多神教のほうが暮らしやすいように思う。
いろんな視点が混在することが許されて、それでなんとか折り合いをつけていくから。
宗教学では多神教が進化して一神教になるというような説があるようだが、それがまた多神教に戻るのがいいように思う。
せめて戻らなくても、ケルトのように混在するとか。

6月

1

古墳時代

僕が小・中学生くらいの頃には、古墳時代という区分はなかったように思う。
縄文・弥生・飛鳥・奈良・・・となっていたはずだ。
弥生と飛鳥のあいだにいつの間にか古墳時代が入っている。
いつからなんだろう?
古墳は全国になんと16万基以上ある。
古墳時代はだいたい400年ほどだから、単純に計算すると年間400基の古墳が作られていったことになる。
僕はそれがとても不思議なことだと思う。
かつて仁徳天皇陵と呼ばれた古墳が世界遺産の候補になっている。
それはきっとめでたいことなんだろうけど、本当にめでたいのかどうかは立場によるようだ。
世界遺産に認定してもらうために大山(仙)古墳と名前を改めた。
つまり仁徳天皇の陵ではないことがわかっているから。
さらに日本の文字の発生はこの頃だと言われている。
漢字が渡ってくる以前、日本には神代文字というものがあったという主張があるが、学術的にはまだあまり認められてない。
神代文字は何種類もあり、立場によって主張が微妙に異なるため学術的に認められないようだが、存在したことは確かなことのように思われる。
なぜなら、400年のうちに16万基の古墳を作るのであれば、その作り方等を文字文書にしてないはずはないと思うからだ。
古墳を作る技術にはたくさんの知識が必要だろう。
それを徹底させるための文書があり、それを多くの人が目にして読み、それを人夫たちに伝えない限り、あのように巨大な構築物は作れないのではないか?
しかも、毎年400も。
その文書がすべて漢字であったのだろうか?
もしかしたら大陸から信じられないほどたくさんの人たちが日本に押し寄せてきたのだろうか?
そして、大陸から来た人たちと、もとからいた日本の人たちとの混血が始まったのだろうか?
大陸と日本の言葉がクレオール化したものが日本語となったのだろうか?
日本語に漢字が使われているのは、そういうことなのかもしれない。
謎がたくさんあるって、なんかワクワクする。

5月

31

神道と仏教

原始仏典と大乗仏典では、言葉は違うかもしれないが、概念としてはほぼ同じことを言っているのではないかということが、否定されたり肯定されたりしている。
それが不思議だったのだが、なぜそのようなことが起きたのか、やっと理解できた。
昔、仏教が成立した時代は、インドにたくさんの聖者がいて、それぞれの法(ダルマ)を説いていた。
バラモン教という源流があり、そこから派生した宗教の一つが仏教だった。
仏教はその頃ライバルだった他の聖者を六師外道と呼んだ。
四師の教えは時代とともにほぼ消滅したようだ。
マッカリ・ゴーサーラのアージーヴィカ教は13世紀頃迄続いた。
マハーヴィーラーのジャイナ教と仏教だけが現在まで続いている。
ジャイナ教はインドに根付く民族宗教に、仏教は世界宗教になった。
バラモン教やジャイナ教の聖典を読み、世界宗教史などを紐解くと、仏典だけ読んでいてはわからないことを多く知ることになる。
それで謎が解けた。
わかってしまえば簡単なこと。
ブッダが生きていた頃には六師外道たちと戦うために、いろんな理屈を否定していた。
ところがブッダが入滅し、弟子たちが悟りを得てテラワーダから大乗仏教へと変化していく頃、かつて否定した理屈を取り込んで、さらに深甚なものにしていった。
その結果を僕たちは読んでいるのだ。
日本における神道と仏教の関係に似ている。
大化の改新前後に戦っていた神道と仏教の派閥は、長い年月の間に境目を薄くしていき、いつしか一体となる。
それを明治になって政府が政治利用するために分離した。
何百年もかけて出来上がってきた教えは数年の研究で解体され、政治が利用できる形態になった。
宗教と言うものは、何百年という単位で見ない限り、いいものかどうかはわからない。
即席で作ったものの価値がわかるのは数百年後。

5月

28

アネーカーンタヴァーダ

ジャイナ教に「アネーカーンタヴァーダ」という考え方がある。
一言でいうと多元論と価値の多様性の原理。
三冊の本を読み比べて、どういうことかを探ってみた。
しかし、不明なことがまだ多い。
アネーカーンタヴァーダを比較的きちんと説明しているのはなんとウィキペディアだった。
インターネット万歳。
多次元リフレーミングの内容が濃くなった。

5月

27

菩薩行を生きる

2010年頃に『チベット仏教・菩薩行を生きる』という本を読んだ。
いい本だった。
『入菩薩行論』という仏典の翻訳だ。
2016年にダライ・ラマ法王が日本でその説教をした。
そのときの録画がこちらにある。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p4367/
ひさしぶりにその本を取り出し読み、なるほどなぁと思う。

5月

22

わが世の旅をうるはしと思ふ

耆那教聖典のことを五月九日に書いたが、その本の最後に「故鈴木重信君を憶う」という文があり、それが16ページにもわたっているので読んでみた。
耆那教聖典には「瑜伽論(ヨーガ・シャストラ)」「入諦義経(タットヷ−ルター・ディガマ・スートラ)」「聖行経(カルパ・スートラ)」の三典が入り、付録として三典の注釈と「耆那経論」が入っているが、目次にはその文、つまり「故鈴木重信君を憶う」のことは書かれていない。
本の扉を開き、1ページ目に「耆那経聖典」と、きれいな枠囲いに書かれていて、次のページにただ一行「訳者 鈴木重信」とある。
凡例にこのようなことが書かれていた。

耆那教の所謂聖典は、前顕の三典のみならず、尚ほ別に多くを存す。訳者鈴木重信氏は、昨夏本会の嘱に応ずるや、同教の根本的信仰と行事とを伝ふるものとして、行支経(アーチヤーランガ・スートラ)、優婆塞十経(ウヷーサガ・ダサーオ)の二典、大優の伝記を語る聖行経(カルパ・スートラ)、同教倫理の要諦を説ける瑜伽論(ヨーガ・シャーストラ)、同教の哲学的作品たる入諦義経(タットヷ−ルター・アディガマ・スートラ)の三典、合して五典を翻訳するの胸案を抱けり。而かも訳者は、その時既に業に不治の難症に悩み、瑜伽論、入諦義経の二典を訳了し、漸く僅に聖行経の初三四葉に筆を染めたるのみにて、流星の虚を逸するが如くにして逝けり。訳者は文才煥発、学会稀に見るの秀才たるに加え、刻苦精励倦むを知らざるの士なりき。今や亡し、痛恨何ぞ勝えん。

鈴木重信氏は31歳で亡くなったそうだ。
16ページにわたる「故鈴木重信君を憶う」には、鈴木氏がいかなる人だったかが書かれ、最後に三典を訳出したノートに書かれていた和歌が紹介されていた。

月一つ古城の雨の夜半に晴れて
     わが世の旅をうるはしと思ふ

5月

21

大乗起信論

ひさしぶりに「大乗起信論」の現代語訳を読む。
以前はよくわからない部分があったが、いまではすっきり理解できる。
何度も読んだし、解釈するためにいろいろと考えた。
ヒーリング・ライティングにその考えが反映されている。
お世話になりました。

5月

9

耆那教聖典

埴谷雄高が「死霊」を書いたきっかけとなったという「耆那教聖典」を手に入れた。
世界聖典全集の前輯第七巻。
大正九年に出版され、十四年に四版となったものだ。
ジャイナ教の本としては日本ではじめてのもの。
折口信夫もこの全集の刊行に関わっていた。
94年も前の本だから、どんなに古いものが届くかと心配だったが、案外きれいな本だった。
きっと凄く高いだろうと思ったが、普通の書籍とかわらない値段で安心した。
表紙も裏表紙も凝っていて素敵。
読むのが楽しみ。

3月

6

世界宗教史

ちくま学芸文庫ミルチア・エリアーデ著の『世界宗教史』を再読している。
いま四巻まで読んだ。
全八巻なのであと四巻。
一度読んだだけではスルーしていたことがやっとはっきり理解できるようになった。
きっと読めば読むほど発見があるだろう。
これら八巻を読んでわかったことは、宗教は急には発達しないと言うこと。
ある宗教が台頭したとき、そのすぐ前にはその宗教のベースとなる考えがすでにあり、それが何かのきっかけで広まると言うこと。
新興宗教が広まるということは、その直前に何かその宗教のベースとなる考えが、または、その宗教が必要とされる状況が、すでに暗々裡に広がっているということ。
聖人が急に出てきて人々に影響を与えるだけではないということ。

2月

27

神様はいてもいいし、いなくてもいい

あるとき、神様はいるのかいないのかという話になって、みんないるとかいないとか意見を言い合ったのですが、僕はなぜか「いてもいいし、いなくてもいい」のではないかと思ったのです。
でも、なぜそう思うのかがうまく説明できなかった。
「神様はいるという人がいるし、そうは思わない人もいるから」とは考えたけど、まだあまりうまい説明ではないなと感じていた。
それが、2月24日に秩父でおこなわれた「武甲山未来フォーラム」に参加して、哲学者の内山節さんの話を聞いて、思わず膝を叩いてしまった。「なるほど」と。
そこで内山さんはこんな説明をしたんです。
「ヨーロッパの考え方は霊というものが存在してそれが人や社会を守っていると考えた。ところが日本ではそのようには考えなかった。どう考えたかというと、かつて生きていた死者がいる。その人とどのような関係を取り結ぶのかが重視された。神様を大切にする人には神様との関係ができて神様がいるし、神様なんかいないという人には神様はいない。世の中に男と女はたくさんいるが、夫や妻は一人だけ。それはその人と関係を結んだから。それと同じ」
ひとつの謎が解けてすっきりしました。
この講演の概要はこちら。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/190225-01/

1月

14

ピタゴラスの数秘術

数秘術というものを以前から噂では聞いていた。
調べるとそれはピタゴラスが発祥らしい。
しかも、その真髄をプラトンが『国家』に書いているという。
調べると面白かった。
http://bit.ly/2tRjLSM

1月

12

武甲山かつての山容

秩父に通うようになった。
はじめて行ったとき、武甲山を見ても何とも思わなかった。
だけど、1970年頃から急激に形を変えたと聞いてなるほどと思う。
かつての山容はもこもこもっこりとして、頼もしい山だった。
現在は山のてっぺんがピラミッドのようになっている。
かつての武甲山の写真を見ると、今の武甲山が痛々しい。
日本三大曳山祭のひとつである秩父夜祭では、いまでも武甲山に向かって祈りを捧げる。
神の住む山が削り取られ続けている。
もこもこもっこりの山の写真を見て慰める。

1月

4

あけましておめでとうございます

新年を言祝ぐ言葉。
言祝ぐは寿ぐであり、事祝ぐことでもある。
日本には祝う言葉があふれていた。
祝うは「いわ・う」であるため神社には大きな岩があることがある。
「細石も巌となりて」と君が代にあるが、実際に成長しつつあった細石が秩父今宮神社に奉納されている。
巌となりつつある細石が現実にあるとはつい数年前まで知りませんでした。
疑う方はご自分の目で確かめてみてください。
見ればなるほどと思うでしょう。

12月

23

クリスマスソング

この季節になるとあちこちからクリスマスソングが聞こえてくる。
「ジングルベル」とか「リトル・ドラマー・ボーイ」など懐かしいスタンダード曲もあるが、ジャパニーズポップの定番もたくさんある。
どれが一番印象的かというと僕にとっては「ホワイトクリスマス」か山下達郎の「クリスマス・イブ」だな。
どの曲にせよ、キュンとする。

12月

10

神の詩 バガヴァッド・ギーター

何年か前に読んだが
そのときはあまり意味が
わからなかった。
戦争の最中に悩む者と
至上者との対話。
悩む者は
「一家一族を全滅させたり
 親しい友人同志が殺しあうほどの
 過誤があったとは思えません」
と嘆くが、至上者は
「すべての生物は永遠不滅であり
 その実相は人智では測り難い
 破壊されうるのは物質体(肉体)
 だけである
 だから戦え」
という。
何度も問答を繰り返し、
ついに導かれるのは
宇宙普遍相の偉大な形相(姿)。
果たしてそこに何を見るのか。

真実も科学も高度になればなるほど
少しの歪みが大きな影響を与える。
神の詩も、少し間違えると
とんでもない考えに導かれるだろう。
仏教でいう「真如」とともに
これを読むことが求められる。

12月

6

おもろさうし

昔懐かしい歌詞の一部が
はじめて読む文章に
埋め込まれていると
それを読んだ途端に
感覚が懐かしい頃を思い出す。
そのことを思いながら
「おもろそさうし」を読むと、
沖縄のきらびやかな時代が
どのように編まれていたのかが
わかるような気がする。

12月

3

秩父夜祭

いま秩父夜祭がおこなわれている。
今日が大祭で今晩が大きな盛り上がりとなる。
普段の秩父は閑散としていて静かな田舎町だが、
今日だけは人が沢山でてきて、
いったい普段この人たちはどこにいるんだろう?
という状態になる。
意匠を凝らした山車や
夜に打ち上げられる花火などを見てうっとりとする。
山車の周りに張り巡らされた
彫刻作品を見るだけで
秩父の人々の熱意が伝わってくる。
もちろん山車を引き回すために
かけ声をかける男たちの熱さが見物だ。

11月

7

仏典を読みなおす

かつて仏典には理解不能な文章が
たくさんあった。
書いてあることは判読できるが
それから生まれる実感が伴わない。
ふん、とか、うーむとか思っていた。
しばらくして書かれていることは
たいてい理解できるようになった。
最近では読み始めると没入する。
若い頃、
本を再読することはなかった。
いまは読みなおすことが愛おしい。

11月

2

ブサキ寺院での礼拝

バリ島のブサキ寺院は
いくつかのお寺が
集まってできている。
その中心にあるのが
プナタラ・アグン・ブサキ寺院。
ここに三大神である
ブラフマ・ヴィシュヌ・シヴァを
祀っている場所があり、
そこで礼拝する。
この三神をまとめて
トゥリ・ムルティと呼ぶが、
その三神のための椅子が
その礼拝所には用意されている。
礼拝所に座り、
アグン山の方向に目をやると
高い場所に
その三つの聖なる椅子が目に入る。
神様は目に見えるものではない。
その見えない神を
そこに降ろすことをイメージした。
そしてその場所と
自分の祖先や親族と
大宇宙に感謝することを促される。
すると、その三つが、実はすべて
つながっているものであることが
イメージでき、そのことに震えた。

10月

12

道(タオ)に戻る

「黄金の華の秘密」を翻訳した
ヴィルヘルムが、こんな体験をした。
ヴィルヘルムが住んでいた
中国のある地方が旱魃になり、
村人が雨乞い師を呼んでくる。
しばらくしてしわくちゃな老人がやってきた。
その老人は静かな場所にある
小屋を貸してくれといい、
そこに三日間こもりました。
すると、四日目には曇ってきて
雪など降るはずがない季節に雪が降りました。
ヴィルヘルムはその雨乞い師に
どうすればそういうことができるのか聞きました。
「どうやって雪を降らせたのですか?」
「わしは雪など降らせていない」
「では、この三日間
 何をしていたのですか?」
「それなら答えられる。
 この土地はタオからはずれていた。
 天の定めるしかるべきあり方から
 はずれていたのじゃ。
 わしもそんな土地に来たために
 タオからはずれた。
 だからその自然な秩序に戻るため
 三日必要だったんじゃ。
 自分がタオに戻ったから
 おのずと雨が降ったんじゃよ」

7月

31

大山阿夫利神社

去年の秋、大山祇神社に行った。
その話を知り合いにしたら
こんなことを言われた。
「以前、
 大山祇神社に行こうとして
 バスに乗ったら、
 知らずに乗り過ごして
 阿奈波神社に行ってしまった」
阿奈波神社は大山祇神社の祭神
大山祇神の娘、
磐長姫が祀られている。
木花咲耶姫のお姉さんだ。
その話を聞いた夜、夢を見た。
僕はなぜか大山祇神に清められた。
そこで目が覚め、もう一度寝ると、
今度は大山阿夫利神社という
神社がでてくる。
そこの祭神も調べたら
大山祇神だった。
そのときは思い出せなかったが、
ずっと前、石神井川のほとりを
散歩していたとき、
不動尊を見つけた。
そこに大山講の名残だと
書かれていて、
大山講とは何かを調べたときに
大山阿夫利神社のことを知った。
しかし、それ以来ずっと忘れていた。
その夢を見ても、その神社の名前を
聞いたことがあるような気がしたが
はっきりとは思い出せなかった。
そこで大山阿夫利神社を調べて
そういう神社が実在することを知り、
もっとしばらくしてから
不動尊のことを思い出した。
だから、いつか行ってみようと
思っていた。
先週末、台風が接近するなか
大山阿夫利神社に行った。
まずは下社で参拝し、
奥社に向かう。
往復三時間だと書かれていたので、
それくらいなら平気だろうと
思ったが、甘かった。
以前の大雨で石段が
たくさん崩れていた。
それをよじ登っていく。
行きに二時間かかった。
帰りは下りだから
早いだろうと思ったが、
今度は足が疲れて
思うように進めない。
結局往復四時間かかった。
なぜ大山阿夫利神社が
夢にでてきたのか、
いまだにわからない。
でもお参りできてよかった。
やっと足の筋肉痛が
やわらぎつつある。