6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

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