3月

6

春めく

昼間にビルの屋上でワインを飲んだ。
薄雲がかかった青空に、植えられていた木々を微かに揺らす風が気持ちよかった。
もうすぐ春だ。

3月

5

お湯待ち

朝起きてトイレに行く。
見た夢を反芻する。
モデルの女の子が和服を着て立っていた。
なんの夢だろう?
頭を掻きながらトイレから出て、コーヒーを淹れることにする。
コーヒードリップケトルに水を入れ、コンロにかける。
カップにドリッパーをセットして、紙フィルターを載せる。
コーヒー豆を電動ミルで砕く。
フィルターに砕いたコーヒー豆を入れてお湯待ち。
カップ二杯程度の水はすぐに湧くので、立ったまま待つ。
水がふつふつしてくるのと一緒に、見た夢もふつふつしてくる。
夢の中でモデルの女の子が何を考えているか感じていた。
男が近づくとモデルは倒れかかった。
そのときの感覚。
男はモデルにつかまれて立たせる。
「平気ですか?」
「はい」と言ったときの感情の動き。
「服が乱れてしまったので、直してもらえますか?」
「いいよ。両手を横に伸ばして」
女は両手を横に伸ばして男の目を覗き込む。
男は女の帯を解いて着物を直し、また帯を結ぶ。
「これでいいかい」
「お食事に連れて行ってもらえませんか?」
「いま?」
「はい」
「あいにくいま持ち合わせがない」
「じゃあ今度」
ふと、ふたりの感情が両方とも、手に取るようにわかったことに気づく。
言葉の間にある一瞬の感情。
どちらの感情もここにあることが不思議なことだと、湧きつつあるお湯を眺めながら知る。
「不自然な夢だ」
きっと僕が非二元なんてことを考えているから、夢がそれに合わせてくれたのだろう。
夢はそのくらい自由なものだと教えられた気がする。
しゃらくさい夢だ。

3月

4

歳を取って知ること

歳を取って知ることは、若い頃には知りようがなかったこと。
そう思うと、若い人がさらにかわいく思える。
僕もあんなだったなと。

3月

4

聖なる瞬間

ミルチャ・エリアーデの著作に『聖と俗』がある。
そのなかで「聖なる瞬間は繰り返される」という話しがある。
たとえば聖なる瞬間をお祭りなどで反復するのだ。
なるほどと思う。
僕にとっての聖なる瞬間もいくつかあって、それらを記憶の中で反芻している。
この『日刊 気持ちいいもの』で何度か書きたくなる内容は、僕にとっての聖なる瞬間なのだな。
そうだとしたら、同じこと何度か書いてもいいじゃないかと思える。

3月

4

夢見と何度も書くこと

夢について何度か書いた。
それでわかったのは、夢は一面的ではないことだ。
ある場面を見たとする。
それが僕にとってどんな意味なのか、どんな感情をともなうのか、どんな表現が適切なのか、それを感じていくと、いくつもの意味や感情や表現があらわれてくる。
それは現実の景色でも多少あって、結局、僕の感じる夢や景色は多面的であることがわかってくる。
一度それを受け入れてしまうと、不安定な意味や感情の羅列が吹き出してくる。
いや、ちょっと違う。
羅列ではないのだ、不安定な意味や感情が同時に生起し、それを表現するのに羅列するしかなくなるのだ。
言葉を使うことにあまりにも慣れてしまっていて、羅列されることが当たり前で、そのように感じていると思い込んでいるのだ。
同時に生起した意味や感情は、表現しにくいためにすぐには言葉にならない。
この沈黙が大切なのだ。

3月

1

5-アミノレブリン酸(5-ALA)

長崎大学とネオファーマジャパン株式会社が新型コロナウィルス(SARS-CoV–2)を用いて、培養細胞による感染実験をおこなったところ、5-アミノレブリン酸(5-ALA)で強い感染抑制効果があることを発見したそうです。
5-ALAはアミノ酸で、発酵食品に含まれていて、日本酒、赤ワイン、納豆などに含有しているとか。
長崎大学の発表した内容はこちら。
http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/info/science/science225.html
このニュース、あちこちに上がったのに、なぜかどんどん消されているので、早めにご覧下さい。