12月

9

あふれる言葉

中村哲医師が殺され、SNSでは中村医師を賛美し悼む声が鳴り響いている。
二ヶ月ほど前、中村医師がアフガニスタンから名誉国民として市民証を授与されたニュースが入った。
そのニュースはあまり話題にはならなかった。
なぜだろう?
陰謀論の好きな人はきっとこういうだろう。
「喜びや賞讃されるような話はマスメディアは流さないんだよ」
確かにそういう部分はあるかもしれない。
でも「いいものはいい」と伝えてくれる人もいる。
「搾取するためには人民を困った状態に置かなければならないのに、ヒーローが助けるような話が一般化したら搾取できなくなるから、権力者は人民が困っているという情報だけしか流したくないんだ」
そうなのかな? そうかもしれないがそれを肯定する材料がないからなんともいえない。
こういう人もいる。
「一般の人が嫉妬したりうらやむような話はあまり流れないんだよ」
視聴率が上がらないとマスメディアには流しにくいからね。
それはあるかもしれない。
だとしたら、一般の人が嫉妬したり、うらやんだりしないようにならない限り、いまの状況は続くことになる。
でも、そのことだけに話を収束すると、それは正しくないような気がする。
現代の僕たちにとって、単純な言葉は罠だ。
社会は複雑に絡み合い、個人の感情もネットワーク社会によって生まれてきた算出しようもない果てしない関係で形作られる。
誰か一人が何かを乗り越えたところで何も変わらない。
その絶望感が世界を覆う。
でも、考え方をちょっと変えると希望も見える。
みんなで考え方を改めると、それはもの凄いパワーを生み出すということ。
そのきっかけとなる言葉が、ネットにあふれている。
新たな複製子が生まれるとき、そこには必ず解き明かせない混沌がある。

12月

6

風立ちぬ 玄き峰より

友人の望月クララさんが写真のグループ展に出展した。
その作品群のタイトルが「風立ちぬ 玄き峰より」。
「風立ちぬ」といえば、僕の年代で言えば、松田聖子の歌か、宮崎駿のアニメを思い出す。
どちらかに関係があるのかな?と思うと、宮崎駿のアニメであることがすぐにわかる。
クララさんのお父様が「震電」という戦闘機の開発に携わっていたそうだ。
12年前に他界した父親のノートを見つけ、それを読み、生前交わされなかった父娘の会話を取り戻す。
故人との会話は一方通行であるはずが、クララさんは亡父からの会話を思い出の場所、残された写真、残されたカメラやコンパス、計算尺などを頼りにおこなっていく。
亡父からの言葉はいったいどんなものだったのか、グループ展に立ち合う僕たちは、それを探りながら作品と向き合う。
クララさんはお父様とあまりお話しをした覚えがないと言う。
それを12年たったいま、取り戻そうとする試み。
父とした遅々とした会話によって蘇った言葉。
「飛行機ほど緻密な機械はないから、いまでは何を作っても簡単すぎる」
震電は1945年8月3日に試験飛行し見事に成功するが、実戦に投入されることはなく終戦を迎えた。
戦争・飛行機・意図の破綻・命の終わり。
これらがアニメ「風立ちぬ」とリンクし、不思議な感慨を抱かせる。

PHaT PHOTO 17J Exhibition “M”⠀
【会期】⠀
2019/11/27(水)〜2019/12/8(日)⠀
12:00-19:00(最終日は17:00まで)⠀
12/2(月)、12/3(火)休館⠀
【会場】⠀
72Gallery内 WhiteCube⠀
東京都中央区京橋3-6-6 エクスアートビル1F⠀
03-5524-6994⠀
(開館時間12:00-19:00 月、火休館)⠀
・JR東京駅 八重洲南口より徒歩7分⠀
・都営浅草線 宝町駅A4番出口より徒歩1分⠀
・東京メトロ銀座線 京橋駅1番出口より徒歩1分⠀
・東京メトロ有楽町線 銀座1丁目駅7番出口より徒歩3分⠀
https://facebook.com/events/528279214649754⠀

望月クララさんの在廊スケジュール⠀
6日 12:00〜19:00⠀
7日 15:00〜19:00⠀
8日 12:00〜15:00⠀
最終日の展示は17:00まで。

11月

28

美術手帳・アーティストのための宇宙論

美術手帳という雑誌の10月号が「アーティストのための宇宙論」というテーマだった。
普段ではあまり考えないことを考えるチャンスになった。
宇宙に行ってアートを作るとしたらどんなアートになるのか?
宇宙は地球の常識から離れた場所だ。
そこでさらにアートについて考える。
二段階でいまいる世界から離れていく。
でもさ、どう考えてもアートとして成立させるためには、人間の常識に戻ってしまう。
本当に超越してしまうと、ほとんどの人には理解不能になるしかない。
ごくわずかな人にうけるアート。
超通人向け。
宇宙人でも理解できるとさらにいい。

11月

26

フランシスコ教皇の言葉

ローマ教皇が来日し、長崎、広島、東京と訪れた。
各地でミサを行い、言葉を残している。
核廃絶を訴え、戦争を撲滅し真の平和を希求した。
特に「生産性と消費への熱狂的な追求」についても批判した。
ありがたいことだ。
金銭を生み出さない「命の営み」に眼差しを向けるときが来た。

11月

19

メモパッド

何かを忘れないようにチャチャッとメモが書けるメモパッド。
最近は携帯電話の中にもあって、紙でできたメモパッドか、電子的なメモパッドか、一瞬悩む。
ここに書くは紙製のもの。
切り取り線が入っていて、ピッと切り離せるのがいい。
「はい、これやっといてね」とメモを渡す。
ちょっとうれしい。

11月

7

嘘とは何か?

嘘という言葉があるが、よく考えると嘘の中にいろんな種類がある。

1.意図的な嘘 言った人が聞いている人を騙そうとしてわざとつく嘘。
2.結果的な嘘 嘘をいうつもりはなくとも、環境などの変化によって話を聞いた人に嘘と解釈されてしまうこと。
3.微妙な嘘 聞いている人が傷つくのを恐れて、言う人が聞いている人を傷つけまいとしてつく嘘。

すぐに思いつくのはこの三つだが、ほかにもいろんな嘘があるかもしれない。
これら三つを全部「嘘」という言葉にまとめるのはどうかなと思う。
これらがごちゃ混ぜのおかげで、悲喜劇が起こる。

11月

2

ダジャレ

友達に会っている時、ダジャレをいう。
たいてい馬鹿にされる。
馬鹿にされてまた笑う。
ここでへこたれてはいけない。
さらにバカバカしいダジャレを連発する。

10月

25

宅配のお兄さん

週に一度、宅配のお兄さんが荷物を持ってやってくる。
今日は、この土砂降りのなかやってきてくれた。
カッパを着込んでフードをかぶり、びしょびしょになりながら。
荷物をおろして「ありがとうございました」と言って帰ろうとするところ、うちにあったキャラメルを一粒、「もしよかったら」と言って上げた。
たった一粒のキャラメルだ。
土砂降りのなか、荷物を持ってやってくる苦労にはまったく見合ってないので恥ずかしいなと思ったが、うちにはそんなものしかなかった。
するとその青年は「ありがとうございます」と、元気な明るい声でお礼を言ってくれた。

10月

23

真実を語ること

現代は真実を語りにくくなってしまった。
マスメディアは政府に忖度する。
ネットもシレっと規制される。
何が秘密か知らされないのに、秘密を暴露すると処罰されるという。
変な世の中だ。
それでも真実を語ろう。
語らないとさらに語れなくなる。

10月

22

どこでもドア

「いますぐ会いたいね」というとき、どこでもドアがあるといいなと思う。
その代わり、通信状況が良ければ、いまは簡単にテレビ電話が通じる。
スマホがあって、共通のフォーマットがあればOK。
便利だなぁ。

10月

3

感情を出せること

コミュニケーションが密になってくると、つい感情的になりたくなる。
怒ったり、わめいたり、泣いたり、笑ったり。
社会的な人はそういうのを抑えるのが上手。
もし感情的になったら、その感情を受け止めてくれる人がいるといい。
あまり抑えてばかりだと、いつか爆発してしまう。
感情的になれるとき、きっとそれを受け止めてくれるであろう人がそばにいるはず。
そういう人に、感情を発散したあとで感謝しよう。

9月

27

鳩の鳴き声

朝、相方が窓を開けると、外で鳩が鳴いていた。
プープーポプゥー、プープーポプゥー、プープーポプゥー。
その声を真似て鳴いてみた。
すると相方は「そんな鳴き方はしてない」という。
「じゃあ、どんな鳴き方?」と質問するが、モゴモゴ言って答えてもらえなかった。
鳩の声真似は難しい。
ツーツージョウホー、ツーツージョウホー、ツーツージョウホー。
とも聞こえる。

9月

4

本当に願っていることは何か

人は多くの矛盾に挟まれる。
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこういうしかなく、親としてはこう言わざるを得ないのに、たくさんの想いを抱えているのにも関わらず、どれかひとつしか表明できない。
なぜどれかひとつしか表明できないのか?
そういうものだと自分が思っているからではないか?
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこう言うしかなく、親としてはこう言わざるを得ないということを、全部言ってみたらどうだ?
「それは矛盾だ」と誰かに言われたら、「立場が違えば言うべきことが変わるのは当たり前でしょう」と言えばいい。
そうやって多面的な本当のことを言い合うことができれば、いままでにはなかったような鮮やかな答えが得られるかも。

8月

30

複雑なこと

善意でしてあげたことでも、相手は「押し付けられた」と思うかもしれない。
意地悪でしたことを相手は「うれしい」と思うかもしれない。
たまたましてあげたことを相手は「鬱陶しい」と思うかもしれないし、「うれしい」と思うかもしれない。
一対一ならこういうことはまだ理解できる。
しかし、多人数対多人数のやりとりは複雑すぎて話にならない。
あるグルーブが別のグループに何かをしてあげる。
1グループの人によっては善意だったり、悪意だったり、「面倒だからしなくてもいい」と思っていたりもするのだろうが、そのグループの代表のような人が「善意だ」と宣言すると、それは善意でやったことになる。
一方で、何かをしてもらった2グループには1グループからしてもらったことを「ありがとう」と思う人がいれば、「嫌みだ」と思う人もいて、「面倒なことをするな」と思う人もいるが、2グループの代表が「ありがとう」と言えば、それが2グループの代表的な意見となる。
しかし、互いのグループの中にはいろんな思いの人がいて、代表が変わるとそのグループの思いも変わったかのような状態になる。
ここいらのゴタゴタを人間はあまり丁寧に考えない。
「グループの意見」とか「かつてからの認識」とか言って、いくつもある解釈のひとつだけを強調して取り出すから複雑度が増す。
複雑なことをそのまま取り上げることはできないのかな?
いまのところ難しそうだ。
もし可能になったら?
楽しいかもって思えるかな?
能率ばかりで考えるとそんなことはできないと思うけど、好きな人たちと意見交換がたくさんできると思えれば、楽しいかも。
「1グループのAさんはこういう意見、Bさんはこういう意見、Cさんはこういう意見。2グループのxさんはこういう意見、yさんはこういう意見、zさんはこういう意見」
こういうのを全部言い合い、聞き取ったら、みんなが「なるほどそういう考え方もあるのか」となるのでは?
それで、最善の策はどんなものかをみんなで考える。
時間がかかるので能率的ではないけどね。
みんながそのやりとりを楽しいと思えたら、いいのでは?

7月

29

長い話を書くための目次

長い話を書くとき、まずは目次を作ってみる。
実際にその目次に沿うかどうかは書いてみないとわからない。
だけど、目次を書くことで、伝えるべき内容の方向性が見えてくる。
これから表れてくる内容にわくわくする。

7月

9

メディアの発達

メディアが発達したことで、世界中の人たちと近くなれた。
海外旅行にも気軽に行けるようになった。
字幕付きの映画をケーブルテレビでいくらでも見られるようになって、英語が少しうまくなった気がする。
メールアドレスやSNSのIDさえわかれば、誰とでも対話ができるので、誰とでも仲良くすることを無意識にも心がけるようになったように思う。
こうやって、人と人との距離が近づくと、喧嘩も起こりやすくなる。
インターネットができたばかりの頃、いろんな人がいろんなところでバトルしていた。
いまでもあるが、かつてのような感情むき出しのバトルは少なくなったように思う。
炎上しても、少しは礼儀作法がある。
まぁ、人にもよるのだろうけど。
メディアが発達したら、自分の心もそれ相応に発達させないとね。
適切な教育があれば、昔の人より容易に成熟した大人になれるような気がするが、一方で、命のやりとりをするような場面が減ったせいか、苦みばしった価値観の深い大人は減ったような気がする。
社会全体が幼形成熟(ネオテニー)しているのかな?

6月

23

いい意味、悪い意味

意味とは何か?
よく考えるとわからなくなっていく。
意味とは、意味だよ。
こんな答えになってしまう。
あの広辞苑も「記号・表現によって表される内容またはメッセージ」というわかったようなわからない内容またはメッセージになっている。
意味は「意味がわかる」という信念がないと、よくわからないものになっていく。
大人はときどき、何かを言ったあと、「いい意味で」と付け加えることがある。
それをいわれることでいわれたほうは「その言葉は皮肉ではないんだな」と思う。
しかし、「いい意味で」というためには、一瞬「皮肉に受け取られるかな?」という疑問なり、疑念なりが浮かんだからそういうのであって、まったくそれらが浮かばなかったら「いい意味で」とはいわない。
つまり、「いい意味で」という人は、必ずその瞬間「悪い意味」を知っている。
つまり、大人であればあるほど、「いい意味」と「悪い意味」の両方を同時に持っていることになる。
さらに洗練された人は「いい」「悪い」を越えて、言葉にはいろんな意味が生まれることを知っている。
それを知っているからこそ、自分が伝えたい意味に落とし込まれるように、言葉を使う。

6月

17

笑いのコツ

笑いとは感情だから、伝染する。
泣いている人がそばにいると泣きたくなるし、怒っている人がそばにいると怒りたくなる。
大人になれば感情の操作に長けてきて、隣に誰がいようが無視できるようにもなるが、意図的に操作しないと人間の感情は同調していくもの。
なので、笑っている人のそばにいるとたいてい笑いたくなる。
笑いの感覚をもし自分が意識的に持てれば、いつでも笑えるのかもしれない。
かつて笑いのエクササイズというのをやったことがある。
1時間半笑い続けるという飛んでもないエクササイズだ。
はじめは笑いたくもないのに笑うという心理的障壁があるが、自分がやると決めれば案外笑えるものだ。
そして、笑い続けて30分もすると、アゴと腹筋が痛くなってくる。
ここから先はその痛みを感じながら笑い続けるという感情の創作作業になる。
このエクササイズのおかげで、いつでも笑おうと思えば笑えるようになった。
そして、笑うとまわりの人がたいていつられて笑う。
一生懸命抵抗する人はいるが、そういう人は抵抗することに怒りを覚えるようになる。
抵抗を手放せば、笑えるのに。
笑いのコツは、笑いの雰囲気を作り、きっかけを与えるということだろう。
笑いの雰囲気は、雰囲気であるが故に、簡単な人には簡単だし、難しいという人には難しくなるようだ。

6月

11

連絡がつく

知らない人にインタビューするのに、いろいろと手を尽くして連絡先を探り、やっと見つけて連絡を取る。
相手から返事が来るととてもうれしい。

6月

9

いろんな意味を受け取ると何に気づくのか

No.03861の続きを書く。
いろんな意味を受け取る人がどんなことに気づくかだが、それはたくさんのことに気づくことになるので、「これに気づく」というふうに限定はできない。
自分が持っている意味の枠組みがガラッと変わるので、人によってはそれをアセンションというかもしれないし、人によってはそれは気づきだというかもしれないし、人によっては悟りだというかもしれない。
そんなの当たり前に知っていたという人には、たいした変化は表れないかもしれない。
この話は最近の若い人で、センスのいい人ならすぐに理解するだろう。
平野啓一郎が『ドーン』という小説で分人主義と言う考え方を披露している。
それは、人間は誰でも、目の前の相手や、置かれた場所によって自然と自分のあり方を変えて行くというものだ。
それは意図的なものではなく、自然とそうなってしまうようなこと。
たとえば、会社で話す話し方と、家で子供に話す話し方では、自然と語調も雰囲気も違うだろう。
そのような状況によって異なる自分になってしまうことを認める立場が分人主義だ。
たとえば企業人としては認めざるを得ないことでも、父親としては認められないとか、地域社会の一個人としてはどう考えるとか、立場が違うと出す答えも違うことがあるだろう。
それをいままでは比較的「個人」という考えにまとめられ「矛盾があってはならない」という幻想を抱かされ、ひとつのある方向に思考を限定するような教育がなされてきた。
それは工業社会や帝国主義社会には必要だったかもしれない。
それがいま緩まりつつある。
緩まることで多様性を許容する社会となっていくだろう。
社会の多様性を許容するためにはこのような心の状態、つまりいろんな状態が複合していることを許容することが不可欠に思える。
そのようなことを感性的に受け取るきっかけのひとつとして多次元リフレーミングが使えたらなと思う。
結局、多次元リフレーミングとは何かだが、人はひとつだけの考えしか持たないものではない。立場によって違う考えを持つ。
だから、目の前に現れた現象の意味は一つだけではない。
しかも、別の人が同じ状況を体験しても、また別の意味が生じる。
そのようにして現象に対する意味は複雑で様々だが、その様々な意味を人間は共通のものでないとおかしいと思い込もうとしていた。
その思い込みを手放すときが来て、それを手放すことで何が表れてくるかということが大切なこと。
それを多次元リフレーミングが可能にする。
しかし、多次元リフレーミングが意味するものは、ここに書いたことよりもっと範囲が広い。
それはまたいつか。

6月

9

いろんな意味を含む言葉

「多次元リフレーミング」の話をするといったら「難しそう」といわれた。
確かに難しいのかもしれない。
でも、それを簡単に伝える方法はないかなと思っていたら、答えが夢に出てきた。
たとえば、この会話。

A「あの人に好きだって言ったんだ」
B「あんたバカやわ」

この会話文からどんな意味を読み取っただろう?
かつての僕なら「前提がわからないから正しい意味はわからない」と答えた。
それも確かなことだろう。
だけど、こんな答えもできる。
Aがどんな相手に「好きだ」と言ったかによって、いろんな意味が表れてくる。
もしAが遊び人風の男だったら、Bの「あんたバカやわ」は、「あんな男はやめておきな」という意味かもしれないし、「あんな男とつき合うなんて時間の無駄よ」という意味かもしれないし、「あんた物好きだね」という意味かもしれないし、往々にしてそれらすべての意味を含むことになる。
またはAが「好きだ」と言った相手が堅物でまじめで、浮気なんか絶対しないような男だったとしたら、Bの「あんたバカやわ」は、「結婚するつもり?」だったり、「遊びじゃ済まなくなるよ」という意味だったり、「あの男はやめておきなさい」だったり、またまたいろんな意味が浮上する。
そのどの意味を自分が受け取るのかは、心持ちや状態で変化することがある。
つまり、自分が持っている心的フレームによって、どんな意味が表れてくるかは決まってくる。
それが心の深い部分で同意できる人は、自分の心のあり方を変えることで、同じ文でもいろんな意味が浮上してくることがあることを受け入れられるだろう。
多次元リフレーミングでは、その自分の枠を意図的にいろんなものにしてみることで、自分が固く持ち続けている意味や解釈を別の物にしてみる試みだ。
無理にすることはない。
したい人がすればいい。
それが簡単にできる人は、いろんなことに気づいていく。
簡単にはできなくても、多少はできる人は、それを意図的におこなうことで着実に何かに気付いていくだろう。
次回へ続く。

6月

4

言えない思い

昨日の「日刊 気持ちいいもの」を書いて思い出したことがある。
それはまだ黛敏郎が「題名のない音楽会」の司会をしていた頃、「ビギン・ザ・ビギン」をテーマに番組を作ったことがあった。
その中で黛が「ビギン・ザ・ビギンはフリオ・イグレシアスの編曲で短調の部分がなくなり、芸術性が失われた」と主張した。
「ビギン・ザ・ビギン」の原曲には長調の部分と短調の部分があり、長調の部分でかつての恋の華々しい思い出を歌い、短調の部分で現在の失恋状態を思うという構成になっている。
それを黛は実際にオーケストラに演奏させて解説し、さきほどの主張をしたのだ。
それを聞いて、僕はうなってしまった。
黛の言いたいことはわかる、でもね・・・という、「・・・」の部分がうまく言葉にならなかったのだ。
それを30年もして思い出すのだから、「・・・」の部分はよっぽどのことだろうと思うのだが、そんなによっぽどのことでもない。
なにが「・・・」に含まれていたのか、やっと言語化できるようになった。
ようは「フリオ・イグレシアスの曲もいい」と言いたかったのだが、黛の説得力には勝てそうにないので黙っていたのだ。
いまなら反論できる。
フリオの曲は長調で歌っていても、すでに哀愁を帯びているのだ。
長調の部分と短調の部分が、長調の歌のなかにギュッとまとまって絞り込まれている。
開高健がエッセイに「(モダニズムとは)1.最高の材質。2.デサインは極端なまでにシンプル。3.機能を完全に果たす」と書いていたが、まさにそれだと。
でも、30年前でも本来なら「いいものはいい」それだけですんだのだろうけど、僕はそこで口を噤んだ。
そんな些細なことでも30年後に思い出すのだから、本当に恨みに思っていることなど、死ぬまで忘れないんだろうな、心の底では、と思った。

5月

27

釈迦に説法

会話の中で「それはあなたには釈迦に説法だろうけど」というところ、「それはあなたには馬の耳に念仏だと思うけど」と言ってしまった。
しまったとは思ったけど、なぜか「釈迦に説法」という簡単な言葉がすぐに思い浮かばなかった。
話は流れていってしまった。
お馬鹿な自分を笑う。

5月

24

彼が来た

朝起きると、きれいな鳥の声。
初夏にやってくる彼が来た。
バードコールで呼びかけてみる。

4月

14

一瞬の理解

人は一瞬にしていろんなことを理解する。
しかし、それを言語化できないために「理解した」と思えないことがある。
そのことを長い時間をかけて僕は理解した。
それをきちんと説明するには本一冊でも足りないかもしれない。