11月

26

フランシスコ教皇の言葉

ローマ教皇が来日し、長崎、広島、東京と訪れた。
各地でミサを行い、言葉を残している。
核廃絶を訴え、戦争を撲滅し真の平和を希求した。
特に「生産性と消費への熱狂的な追求」についても批判した。
ありがたいことだ。
金銭を生み出さない「命の営み」に眼差しを向けるときが来た。

10月

25

宅配のお兄さん

週に一度、宅配のお兄さんが荷物を持ってやってくる。
今日は、この土砂降りのなかやってきてくれた。
カッパを着込んでフードをかぶり、びしょびしょになりながら。
荷物をおろして「ありがとうございました」と言って帰ろうとするところ、うちにあったキャラメルを一粒、「もしよかったら」と言って上げた。
たった一粒のキャラメルだ。
土砂降りのなか、荷物を持ってやってくる苦労にはまったく見合ってないので恥ずかしいなと思ったが、うちにはそんなものしかなかった。
するとその青年は「ありがとうございます」と、元気な明るい声でお礼を言ってくれた。

5月

22

わが世の旅をうるはしと思ふ

耆那教聖典のことを五月九日に書いたが、その本の最後に「故鈴木重信君を憶う」という文があり、それが16ページにもわたっているので読んでみた。
耆那教聖典には「瑜伽論(ヨーガ・シャストラ)」「入諦義経(タットヷ−ルター・ディガマ・スートラ)」「聖行経(カルパ・スートラ)」の三典が入り、付録として三典の注釈と「耆那経論」が入っているが、目次にはその文、つまり「故鈴木重信君を憶う」のことは書かれていない。
本の扉を開き、1ページ目に「耆那経聖典」と、きれいな枠囲いに書かれていて、次のページにただ一行「訳者 鈴木重信」とある。
凡例にこのようなことが書かれていた。

耆那教の所謂聖典は、前顕の三典のみならず、尚ほ別に多くを存す。訳者鈴木重信氏は、昨夏本会の嘱に応ずるや、同教の根本的信仰と行事とを伝ふるものとして、行支経(アーチヤーランガ・スートラ)、優婆塞十経(ウヷーサガ・ダサーオ)の二典、大優の伝記を語る聖行経(カルパ・スートラ)、同教倫理の要諦を説ける瑜伽論(ヨーガ・シャーストラ)、同教の哲学的作品たる入諦義経(タットヷ−ルター・アディガマ・スートラ)の三典、合して五典を翻訳するの胸案を抱けり。而かも訳者は、その時既に業に不治の難症に悩み、瑜伽論、入諦義経の二典を訳了し、漸く僅に聖行経の初三四葉に筆を染めたるのみにて、流星の虚を逸するが如くにして逝けり。訳者は文才煥発、学会稀に見るの秀才たるに加え、刻苦精励倦むを知らざるの士なりき。今や亡し、痛恨何ぞ勝えん。

鈴木重信氏は31歳で亡くなったそうだ。
16ページにわたる「故鈴木重信君を憶う」には、鈴木氏がいかなる人だったかが書かれ、最後に三典を訳出したノートに書かれていた和歌が紹介されていた。

月一つ古城の雨の夜半に晴れて
     わが世の旅をうるはしと思ふ

3月

15

エンジェルくみさん

二十数年前、はじめてお会いしたとき、変わった元気なおばさんだなとしか思わなかった。
手書きの天使の絵が書いてある名刺に「エンジェルくみ」と書かれていた。
それから二十年以上して再会した。
人の真の姿は一度や二度会った程度ではとてもわかるものではない。
でも、エンジェルくみさんは明らかに進化していた。
いま69歳だというが、下手な30代よりよっぽど元気だ。
いや、いまの10代の子もエンジェルくみさんの元気さにかなう人は少ないかもしれない。
そばにいる人をワクワクさせてくれる。
「私は地球に遊びに来たの」といって「遊びに来たの」という歌を歌う。
人生の苦楽を語って「いまを生きる」と歌う。
極めつけは「ミトコンドリア4G」という歌。
細胞内のミトコンドリアが活性化するという。
これを一緒に歌うと確かに大笑いして元気になれる。
どんな病気も治してしまいそうだ。
レゾナンスCafeでお話してくれた内容がこちらに。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=783

2月

21

ホセ・マリア・アルゲダス

笹久保伸さんが研究したというペルーの国民的作家。
読んでいくとときどき意味のわからないところがある。
きっとペルーの文化がわからないと理解できないのだろう。
こういうことかなと想像で埋めて先を読む。
音楽を演奏するシーンがよくでてくる。
ペルーの人たちの体臭が香る。

1月

20

アイ・ウェイウェイ

両親が詩人で、文化大革命のときに一家で新疆ウイグル自治区の労働改造所、つまり強制収容所に送られてしまう。
その後、北京電影学院で前衛芸術を始めるが、そこでも中国の圧力を受ける。
以来、中国に批判的な作品を多数生み出す。
2009年、森美術館での展覧会はイマイチな感じがした。
それが何故かをここに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p1395/
国から弾圧されても屈しない頑固な魂。
映画「アイ・ウェイウェイは謝らない」には感動した。
アイ・ウェイウェイが監督している「ヒューマン・フロー」という映画が上映されている。
まだ見てないが、感動するに違いない。
現在はドイツに住んでいるらしい。

1月

7

チュルチュルを思い出す

ふとしたときにチュルチュルを思い出した。
チュルチュルとは、麺類を総称した幼児語で、母がよく幼い僕に「チュルチュル食べましょうね」というふうに使っていた。
先日そばを食べていてそのことを思い出す。
そのときに一緒に思い出したのは、うまく言葉にできない感情だ。
それはずっとチュルチュルだと思っていた幼い僕が、チュルチュルに区別があることを知り、「このチュルチュルはおそば、このチュルチュルはうどん、このチュルチュルはラーメン、このチュルチュルはそうめん」と区別したときのなんとも言えない感情。
このチュルチュルはおそばであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはうどんであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはラーメンであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはそうめんであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
でも、僕と母さんのあいだにはチュルチュルに関してのたくさんの思い出がある。
しかも、当時の僕はこれほどはっきりした区別が持てず、何だかよくわからないけど何かに引っかかっている感情を感じ、どうしようもないのでどうにもできなかった。
この当時の僕にとっては複雑な思い。
そんな感情を大人になって味わいなおす。
言語化して区別できると「なんだかなぁ」という感情が生まれるが、きっと幼い頃の感情とは少し違うものなのだろう。

11月

30

柿の季節

柿の季節になると相方が
柿の皮をむいて出してくれる。
そのときに毎年同じ話をする。
それは、父が柔らかい柿が好きで
母は固い柿が好きだったこと。
母が固い柿の皮をむいて出すと
父が「僕は柔らかい柿が好きだから
固いうちに皮むかないでよ」という。
すると母が
「この前柔らかくなるまで
 待ったんだから
 今度は固くてもいいでしょう」
と反論する。
その二人のやりとりを僕は隣で
毎回見ていた。
母は母で母だったし、
父は父で父だった。
柿の季節になるとする話。

9月

20

スニーカーを洗う

黒い油が付いて汚れてしまった
白いスニーカーを洗った。
靴用の洗剤に漬け込む。
漂白剤が効いて白くなった。
何度か水ですすいで乾かしている。
履くのが楽しみ。
幼い頃、母が運動靴を
洗ってくれたことを思い出す。

6月

23

元気な言葉

元気な言葉は癖になる。
一度聞いて元気になると
もう一度聞きたくなる。
二度聞いて元気になれると
三度目も聞きたくなる。
でもそれって、
言葉じゃないんだよな。
それを発する
人の雰囲気だったりする。
こうして人は恋に落ちる。

6月

20

産んでくれてありがとう

この世界に出ることができて
ここにいられることが幸せだ。
いろんな苦労があるにせよ、
つらい思い出があるにせよ、
なんとかいまを生きている。
母さん、産んでくれてありがとう。

4月

7

ふきの煮物

春になって蕗が売られていたので
買って煮物にしてもらう。
少し苦味があってうまい。
しゃくっていう歯ごたえもいい。
子どもの頃、
母の作ったふきの煮物に
「おいしくない」と
文句をいっていた。
母は
「大人になるとおいしくなるの」
と言い続けていた。
「まさか」と思っていたけど、
本当だった。
文句を言い続けていた僕に、
「大人になるとおいしくなるの」
と言い続けてくれた母へ
いまさらながら感謝。

1月

4

黄金銃を持つ男

「007 黄金銃を持つ男」という
映画が公開されたのは
僕が中学生の頃。
正月映画として公開され、
父と見に行った。
見に行く直前、出掛けに
どんな理由かは忘れてしまったけど、
父が母と喧嘩した。
映画を見終わって、
帰りの丸の内線の中で
こんな話をした。
「母さんまだ怒っているかな?」
「どうかね」
「現実は映画みたいに行かないね」
「そうだな」
母さんの誕生日のことを思い出して
次に思い出したこと。

1月

3

母の誕生日

今日は母の誕生日。
母が好きだったものを思い出す。
黄色い車
生け花
お茶
お酒
ミシン
帽子
ハワイ
ミツコ
など。
生きていれば90歳だ。