1月

30

羽ばたく人類

僕たちの文明はいまだに戦争を繰り返している。
多くの人たちが「戦争などしたくない」と考えているにも関わらず。
なぜそんなことが起きるのか?
多くの人が恐怖や執着や我欲を乗り越えることができれば、毛虫がさなぎを経て蝶になるように、人類もメタモルフォーゼできるのではないか?
かつてキリストは「隣人を愛せ」と説いた。
階級の上下が厳しく、隣人を愛することができなかった時代だからこそ。
隣人を愛するようになった人類は、少し遠くの人、国境を超えたところにいる人も愛するべき時代になったのだと思わないかい?

1月

21

イニシュモア島

「イニシェリン島の精霊」という映画が1月27日に公開される。
その予告編を見た。
実際に映画の撮影に使われている島の名前はイニシュモア島だ。
イニシュモア、イニシュマーン、イニシィアの三島をアラン諸島と呼ぶ。
アランセーターの起源となった島々だ。
そこに20年ほど前に仕事で行った。
「イニシェリン島の精霊」の予告編に一瞬、ダン・エンガスと呼ばれる石でできた砦が映る。
懐かしかった。
その島にはヤコブの梯子と呼ばれる坂があり、その坂の下にキロン修道院跡がある。
その脇にキロンの泉がある。
腕が入れられる程度の小さな穴で、そこに腕を入れて手を伸ばすと、泉に触れることができる。
その泉では年に一度九月九日に「太陽の祭」がおこなわれる。
島の人たちが集まり、泉の周りを七回まわって泉の水を顔につけ、願掛けをするのだとか。
重陽の節句を思い出す。

1月

14

華厳経入法界品

ずっと華厳経の現代語訳を読みたいと思っていた。
国書刊行会から出版されている華厳経の全訳は分厚い上下巻で四万七千円もする。
非常に長いお経で、いきなりそれを買って読んでも歯が立ちそうにないと思い、解説本などを読んできた。
一昨年、華厳経入法界品の全訳が岩波文庫から三巻本として出されていた。
一年以上知らずにいた。
見つけてすぐに買った。
それは華厳経の最後の部分のサンスクリットからの翻訳だ。
国書刊行会のものは漢訳からの和訳。
華厳経の原本と言われるものは三種類あり、そのどれにもこの「入法界品」が入っている。
つまり華厳経の肝といってもいいだろう。
入法界品は国書刊行会が出した華厳経全訳の終わり三分の一ほどらしい。
届いてすぐに文庫三巻それぞれについている解説部分を読んだ。
期待に胸が膨らみ、鼻息が荒くなっている。

12月

31

除夜の鐘

もうすぐ今年も終わる。
この一年は療養しかしなかった。
来年は何をしようか?
煩悩の数だけ鐘の音を聞き、何を思うだろう?
良い年をお迎えください。

12月

18

死は存在しない

田坂広志氏の新刊『死は存在しない』を読んだ。
素晴らしい本だと思った。
ゼロポイントフィールド仮説の実態がわからなかったので、この本の内容全体が正しいことなのかどうか、僕には語れないが、その仮説が正しいとすると、多くのことが見えてくる。
僕の考えととてもよく似ているので、ゆくゆくはその些細な違いについてはどこかて発表して行きたい。
YouTubeで公開している「ヌースフィアってなに?」で少しずつ説明していくことになると思う。

11月

8

お賽銭の音

神社でお賽銭箱にお賽銭を投げ入れる。
木の枠に何度かぶつかり、カランコロンと音を立てる。
一番下に落ちるとき、ゴトッという低い音になる。
投げ入れる度にいい音だなと思う。

10月

6

祓え給い 清め給え

身体が不調だとどうも感覚に靄がかかっているようだ。
そんなとき「祓え給い 清め給え」と心の中で唱えると、すっきりする。

9月

15

お祓い

このところ体力回復のため朝に散歩している。
まず行くところは近所の神社。
そこでお参り。
今日はなんと、お参りしようとしたら、神主さんが出てきて、お参りする前に幣(ぬさ)でお祓いしてくれた。
二礼二拍手一礼。
「ありがとうございます」と言ってあとにした。
絶対なんかいいことある。

8月

1

八朔

八月一日のことを江戸時代には八朔と言っていた。
徳川家康がはじめて江戸城に入った日なのだとか。
当時は旧暦だったので、正確に新暦でいえば8月末から9月末までで、年によって違うそうだ。
それでも八月一日になると「八朔」を思い出す。
父が「今日は八朔だ」と、毎年のように言っていたから。

6月

18

肉食動物が生きているのは草のおかげ

草食動物が元気に生きるためには広い草原が必要。
草原が狭いと、食べ尽くして終わってしまう。
肉食動物は、草食動物がたくさんいないと生きていけない。
草食動物を食べ尽くしてしまったら、肉食動物は生きていけない。
だから、肉食動物が元気に生きて行くためには、たくさんの草食動物と、それを支える広い草原が大切。
でも、動物園には草原はない。
人間が草や餌を持ってきてくれるから。
それでいつしか忘れてしまう。
肉食動物は草食動物のおかげで肉食動物になれたこと。
草食動物は草原のおかげで草食動物でいられたこと。
人間も、便利になることで、いろんなおかげを忘れてしまう。
宗教には、それを忘れないための仕組みがあった。

5月

18

獅司 対 狼雅

両者のしこ名と出身地がアナウンスされると、東京・両国国技館内は温かい拍手に包まれたそうだ。
大相撲夏場所10日目。
獅司はウクライナ、狼雅はロシア出身。
下手投げで狼雅の勝ち。

4月

19

小さな仏様

下駄箱の奥から、小さな仏様の頭が出てきた。
なぜそんなところにこんなものがあるのかわからない。
はじめて見るもので記憶にない。
いつか買ったのか? もらったのか? それとも天からの授かり物?
頭だけではかわいそうなので、うちにあった石を胴体にしてあげた。

3月

27

砂曼陀羅

昔、護国寺でおこなわれたチベット・フェスティバルで、砂曼陀羅の写真を撮る許可をもらった。
それはチベット僧たちが数日間、息を殺して描き上げたものだった。
初日の儀式を見学し、書き上げられた砂曼陀羅の写真を撮った。
近づくと、砂がもっこりと盛り上がっているのがわかった。
真上から撮影した写真しか見たことがなかったので、そのもっこりを撮るべく、横から何枚も撮影した。
結界となっている城壁や、如来や菩薩が佇んでいる場所が立体となって浮かび上がった。

2月

9

すべてを知る必要はない

ジャイナ教のマハーヴィーラがこんなことを言ったようです。
人間は神様のように全てを知ることはできないので、一部のことしか知りようがないと諦めなさい。
それを知った上で、修行する人は、全てを知るためにいろんなことを学んでいくんですね。
それでも神様のように知ることは難しい。

1月

28

はじめて見たオゴオゴ

バリ島のニュピの日に、プリカレラン家にホームステイさせてもらった。
ニュピ前日の夜、低級霊を祓うために、村ごとに大きなはりぼての鬼を作り練り歩く。
その儀式や鬼をオゴオゴという。
当時バリ島の街にはほとんど街灯がなく真っ暗だった。
その中を数十人の男たちが高さ五、六メートルもあるようなオゴオゴを神輿のように担いで移動していく。
時々なぜか彼らは走り出す。
数十人が一度に暗闇の中を走ってくると、その音は恐怖をもたらす。
うっすらと見えるオゴオゴの影、激しい息と意味のわからない言葉、そして数十も重なったペタペタというサンダルの音。
どう避けていいかもわからない。
狭い道の中で揉みくちゃにされて、ひとごみから吐き出されると、オゴオゴを引き回した集団は遠ざかっていった。

1月

22

ガムランを聴く

大学生の頃、「題名のない音楽会」で小泉文夫がケチャを紹介していた。
世の中には不思議な音楽があるもんだなぁとそのCDを探して買おうとした。
ところが見つからず、同じバリ島の音楽ということで、ガムランのCDを買った。
うちに帰って聞くと、最初の音でゾーッと鳥肌が立った。
「なんだこの音楽は!」と思い、ラックにしまった。
「こんな気持ちの悪い音楽はもう聴かないだろう」と思っていたのだが、なぜかときどき聞きたくなる。
聞いてはゾッとしてまたしまう。
「いったい何をしているんだろう?」と思っていた。
このゾッとした感じが、ヌミノーゼだと理解するのは十年以上過ぎてから。
縁があり、そのガムラン楽団を率いていたプリカレラン家にホームステイさせてもらうようになってからだった。

1月

21

聖なるものと幽霊

聖なるものを目の前にしたとき感じるヌミノーゼについて書くために、その感覚を思い出そうとしていろいろと書いているが、そこに幽霊が出てくるのはいかがなものかと感じている人もいるだろうと思い、これを書く。
でも、そんな人がいるかどうかは実は問題ではない。
僕の中にそう疑う部分があるから書く。
つまり、「聖なるものと幽霊を混同していることについて心配している」という僕の内側について、あたかも誰かがそう考えているだろうからと前置きして、他人事のようにして書こうとしている。
こういうことは実はよくあって、「僕の内側にある別の面の僕」というのは、説明が面倒なので「きっとこう考える人がいるだろう」とことわって、実は自分のことを書いている。
そう言ったほうが話しが早いし、誤解も生まないだろうという前提でそう書くが、その時点で実は多少のミスリードを含んでいる。
こういう些細な区別はどうでもいいと感じる人が多いかもしれないが、厳密な話しをするときには大切な話になる。(ここにも些細なミスリードが含まれたね)
それに「聖なるものと幽霊」は少し似ている部分があるように感じる。
「聖なるもの」とは何かであるが、宗教の歴史をたどっていくと、時代によって変化があることがわかる。
たとえばそれはエリアーデの「世界宗教史」を読めば明確になるが、そのことと個人の精神の発達とをよく比較して考えなければならない。
たとえば、十歳の頃の僕と、二十代の頃の僕、そして現在の僕では変化がある。
その変化を把握した上で精神の発達について考えなければならない。
こう書くのは簡単だが、具体的にどう変化したかを指摘するのは、自分にとってはあまり簡単なことではない。
なぜなら、自分の考えは、時代によっての変化を、普段明確には区別してないから。
十歳の時の僕のことを書いている最中に、実は六十歳の感覚で表現していることはよくある。
つまりそれは、十歳の頃の感覚そのままの表現ではなく、六十になった僕というフィルターを通しての表現になる。
それを手放すのはあまり簡単なことではない。
そのことを意識して始めて可能になる。
その些細な違いを言語化するのは困難を伴う。
そこには明確な区別があるという前提に立つことによって可能にはなるが、その前提に立たない限り、それはできない。
僕の若い頃には「聖なるものと幽霊」の区別は曖昧だった。
だから、幽霊についての強い興味があったのだと思う。
つまりそれは、若い頃から「聖なるもの」に興味があったが、幽霊との区別が曖昧だから、幽霊についても興味があったのだと思う。
こう区別を与えているのは、現在の僕に他ならない。
若い頃の僕は、そもそも「聖なるもの」に出会う機会がなかった。
科学の台頭により、宗教の価値が低くされていた時代だったからだろう。
「聖なるもの」の代替物として「幽霊」があったように思う。
だから「聖なるもの」について書くとき、幽霊が出てきてしまう。

1月

18

京都のお寺で聞いた読経

大学生の頃だっただろうか。
京都を旅行していたらあるお寺で読経が始まった。
どこのなんというお寺かも忘れてしまった。
だけどそこの読経が凄かった。
僧侶が数名で読経していたのだが、聞いたことのない和音になっていた。
それが読経の言葉とともにうねっていく。
楽譜にはしようがない微妙な和音の変化。
音楽のように心地よいのと同時に、底知れない畏怖を感じた。

11月

18

山川草木悉皆仏性

日本人にはあらゆる存在に仏性があったり、神様が宿っているという感覚があった。
原子にも仏性があり、だから複雑なネットワークを通して生命が生まれてくるのだと思う。

11月

10

愛による、個人の全体化

個性を伸ばしていくと、個性同士がぶつかり合って、なかなか合意に至れないと考えがちである。
しかし、テイヤール・ド・シャルダンは、その背景にキリスト的な愛がありさえすれば、互いに認め合うことが可能であるとし、それが人類を統合するための鍵だとした。
みんなが同じ考えを持つべきと考えるのではなく、みんな違ってみんないい状態を、愛を通して生み出すことができるという。
それがいったいどういうことなのか、僕たちはまだ知らない。

11月

10

人間のエネルギー

テイヤール・ド・シャルダンが1937年に、船旅のさなかに書いた「人間のエネルギー」という短い文章がある。
「現象としての人間」を書くにあたっての準備のような文だと思う。
それはテイヤール・ド・シャルダン著作集の第二巻に入っている。
現在の世界を知ると何かモヤモヤした考えに覆われてしまう。
それを吹き払うのにいい。

10月

25

ナイト・レインボウ

本を整理していたら「Tales from the night rainbow」という本が出てきた。
No.04584に書いた「夜の虹」について書かれた本。
山崎美弥子さんに確かめたら、「はい。この本です」とのこと。
20年近く前にすでにその話に触れていたのに気づかずにいた。

9月

18

打ち上げの本当の意味とは

夢を見た。
何度か見た夢の続きのようだ。
でも実際にその夢を何度か見たのかどうかはわからない。
そういう感じがするだけなのかもしれない。
その夢の中で、「打ち上げの本当の意味」を探すことになる。
何かに一区切り付いて、打ち上げをするのだが、きちんと打ち上げようということになり、いったい何をすればいいのか悩むことになる。
その悩みの最中に知り合いが建物を建てたという。
建物の大きな壁面に何かを描きたいのだが、知らない人が勝手にいろんなことを描いていく。
「いったい私は何を描けばいいのか?」と質問される。
緑のような青のような深い色をしたその壁面はタイルで覆われていたので、黒いペンキで描いてもあまり目立たない。
何が描かれているのか知るために目を凝らす。
そのときに「打ち上げの本当の意味」を知る。
エリアーデによれば、祭は始原の時に戻ること。
神様がかつておこなった行為を繰り返すことが本義だという。
そのおかげで円環の時を人々は生きることになる。
それが「進化する歴史的な時」に変更されたのはキリストのおかげだという。
僕たちは進化する時の中で生きている。
僕たちにとっての「打ち上げ」とは何か?
打ち上げ花火は地上という二次元から、高さを得て三次元になる。
きっとその視点は神のものだったのだろう。
それを繰り返すのは円環の時を過ごす人々がすればいい。
「進化する時」を過ごす僕たちは、新次元を得るのが「打ち上げ」。
そう閃いて目が覚めた。

9月

12

鎌倉の大仏

生まれてはじめて鎌倉の大仏を見た。
青空を背景に美しかった。
最初の大仏は木製だったが、風で倒れて青銅製に作り直したという。
明応7年8月25日(1498年9月20日)の大地震で津波に流され、以来お堂は作らなくなったそうだ。
新型コロナの影響で、胎内には入れなかった。
800年近く瞑想していると、どんな悟りが開けるのだろう。

8月

26

古式フラ

青山スパイラルでおこなわれている山崎美弥子さんの個展「Night Rainbow」で、友人に「写真を撮ってあげるから好きな絵の前に立って」と言われて立ったとき、ふと古式フラの格好を真似してみた。
山崎美弥子さんはモロカイ島に住んでいる。
絵からはハワイのエネルギーが流れ出ているのかもしれない。
古式フラはお相撲の土俵入りのような格好をする。
男によって踊られる、力強い祈りだ。
相撲でも古式フラでも、踏ん張るのは大切なこと。