10月

25

ナイト・レインボウ

本を整理していたら「Tales from the night rainbow」という本が出てきた。
No.04584に書いた「夜の虹」について書かれた本。
山崎美弥子さんに確かめたら、「はい。この本です」とのこと。
20年近く前にすでにその話に触れていたのに気づかずにいた。

9月

18

打ち上げの本当の意味とは

夢を見た。
何度か見た夢の続きのようだ。
でも実際にその夢を何度か見たのかどうかはわからない。
そういう感じがするだけなのかもしれない。
その夢の中で、「打ち上げの本当の意味」を探すことになる。
何かに一区切り付いて、打ち上げをするのだが、きちんと打ち上げようということになり、いったい何をすればいいのか悩むことになる。
その悩みの最中に知り合いが建物を建てたという。
建物の大きな壁面に何かを描きたいのだが、知らない人が勝手にいろんなことを描いていく。
「いったい私は何を描けばいいのか?」と質問される。
緑のような青のような深い色をしたその壁面はタイルで覆われていたので、黒いペンキで描いてもあまり目立たない。
何が描かれているのか知るために目を凝らす。
そのときに「打ち上げの本当の意味」を知る。
エリアーデによれば、祭は始原の時に戻ること。
神様がかつておこなった行為を繰り返すことが本義だという。
そのおかげで円環の時を人々は生きることになる。
それが「進化する歴史的な時」に変更されたのはキリストのおかげだという。
僕たちは進化する時の中で生きている。
僕たちにとっての「打ち上げ」とは何か?
打ち上げ花火は地上という二次元から、高さを得て三次元になる。
きっとその視点は神のものだったのだろう。
それを繰り返すのは円環の時を過ごす人々がすればいい。
「進化する時」を過ごす僕たちは、新次元を得るのが「打ち上げ」。
そう閃いて目が覚めた。

9月

12

鎌倉の大仏

生まれてはじめて鎌倉の大仏を見た。
青空を背景に美しかった。
最初の大仏は木製だったが、風で倒れて青銅製に作り直したという。
明応7年8月25日(1498年9月20日)の大地震で津波に流され、以来お堂は作らなくなったそうだ。
新型コロナの影響で、胎内には入れなかった。
800年近く瞑想していると、どんな悟りが開けるのだろう。

8月

26

古式フラ

青山スパイラルでおこなわれている山崎美弥子さんの個展「Night Rainbow」で、友人に「写真を撮ってあげるから好きな絵の前に立って」と言われて立ったとき、ふと古式フラの格好を真似してみた。
山崎美弥子さんはモロカイ島に住んでいる。
絵からはハワイのエネルギーが流れ出ているのかもしれない。
古式フラはお相撲の土俵入りのような格好をする。
男によって踊られる、力強い祈りだ。
相撲でも古式フラでも、踏ん張るのは大切なこと。

8月

18

気持ちいい状態にいる

これがなかなか難しい。
あーしてこーしてといろいろと考えてしまう。
泳いでいるときには水の動きを想像するといい。
それで思いついた。
なるほど。
瞑想のとき、なぜ光の回転を思うのか。

8月

6

祈り

人々は何度繰り返したことだろう。
成就されなくても、それが存在すると知っただけで、人の行動は変わるだろう。
それが継続する限り、希望は消えない。

8月

2

ウルトラマン

エリアーデ著作集の第六巻『悪魔と両性具有』を読んでいる。
第1章が「神秘的な光の体験」という章で、光にまつわる霊的体験がたくさん例として出てくる。
それを読んでいてウルトラマンを思い出した。
「光の国から僕らのために、来たぞ我らのウルトラマン」だから、幼い僕にとっては神様のような存在だった。
放映開始が1966年7月だから、僕はもうすぐ五歳になる頃。
どんな話だったかは忘れてしまったが、確か中東の砂漠の中から、ウルトラマンの石像が見つかるという話しがあったように記憶している。
その石像に僕は妙に惹かれてしまった。
「神秘的な光の体験」を読み進めていくと、光の信仰の起源はイランにたどり着く。

「これらすべての要素は、極めてイラン化された「宇宙主宰者-救世主」 の一大混淆神話にとって必要不可欠なものである。この神話は確かに、ある一つの形態あるいは別の形態をとって後のユダヤ教キリスト教に影響を与えた。しかしこれらの宗教観念のいくつかは、ミスラ信仰やイラン・セム的な混淆宗教に先立っている」 エリアーデ著作集の第六巻『悪魔と両性具有』p.60-61

これがウルトラマンの起源かと勝手に思う。

7月

20

全体性に触れる

書くのは簡単だが、実行は難しい。
そもそも全体性とは何か?
人間にとっての全体性とは、宇宙のことであり、地球のことであり、国家のことであり、地方社会のことであり、家族のことであり、個人のことであり、それらの総合でもある。
それぞれに支配している理屈は異なり、自分がどの観点からモノを見るかによって現れてくる思いや感想は異なり、その違いに惑わされていると即断即決はできなくなるため、多くの人はそれらの違いについてあまり深くは考えないのだろう。
しかし、長い人生について考えるとき、これらについてじっくりと考える必要がある。
いま僕たちが混乱の中にいるとしたら、この全体性に触れる機会なのではないか?
この答えも簡単に出すべきものではないだろう。

7月

17

東大寺戒壇院の広目天像

幼い頃、居間に東大寺戒壇院の広目天像の写真が飾られていた。
どうしてこんな怖い顔した仏像の写真を飾っておくんだろうと思っていた。
一方で、パパに似ているとも思っていた。
親父が死んでエッセイを読んでいたら、誰かに広目天に似ていると言われたという話が出てきた。
知っていて飾っていたのかと思う。
自分に似ているという仏像の写真を飾るっていうのは、どういうつもりなんだろう?
広目天の写真をどこかで見る度にその疑問が浮かぶ。
まあ、単純に嬉しかったのかな?

7月

8

山から星へ

昔、宇宙の中心は山の頂上にあった。
だから神様の多くは山にいた。
長い歴史のなかで、いろんな宗教が神様をいろんなところに連れて行った。
いろんなところに神様が現れるようになり、宇宙の中心は曖昧になったが、それでも人間のイメージとしては、山の頂上が宇宙の中心になることが多かった。
ところがある時から、星が宇宙の中心になった気がする。
その星の中心が宇宙の中心でもある。
それはもちろん象徴的なもの。
各個人が宇宙の中心にいて、いろんな存在につながっている。
星と星が重力や電磁波で結ばれているように。
山を象徴とするピラミッド構造を維持したい人は、星を象徴とする多次元的な人とのつながりに困惑し、一生懸命ピラミッドに戻そうとしているかのように思える。

7月

7

農耕神

バリ島の水田には、ほぼ必ずデウィ・スリの祠があるようだ。
僕が見たものは手のひらに載るくらいの小さな家のような形で、背丈より少し低いくらいの柱の上に置かれていた。
日本でいえばお稲荷様のようなもの。
昔は農耕がとても大切にされていた。
だから神様としても祀られる。
世界中に似た神様がいた。
宗教が低く見られるようになって、農耕の価値も落ちてしまった。
食べるものがなくなると困るのに。
農耕神がきちんと祀られているとウフッと思う。

6月

30

緊急事態宣言下の神社

緊急事態宣言下の神社は、手水舎が閉鎖され、拝殿前に吊された鈴も鈴緒がはずされ、これでお参りになるのかな?という状態です。
これは神社として正しいおこないなのか?と思ってしまいますが、こういうときこそ人間の創造力を発動させましょう。
まず、手水舎の前で手を洗い口をすすぐイメージをする。
一瞬でいいのです。
水の流れている音も思い出しましょう。
そして拝殿前に進んだら、鈴をガラガラと鳴らすことを想像します。
想像した音で清められる。
あとはいつものように参拝してさっぱり。

6月

28

神の居場所

昔、神は天空にいた。
その息子や娘が降りてきて、民を治めた。
その神は今はどこへ行ったのか?
自分の内か、メディアの中か、一般大衆という幻の中か?

6月

24

堕天使

「堕天使」という言葉があります。
天使だったのに、悪魔になってしまった存在。
悪魔を演じるしかしようがない存在。
堕天使のみなさん、自分が天使であることを思い出してください。
あなたの力は強大です。
あなたの力で多くの人が救われます。

6月

5

ヒジュラ

石川武志氏の『ヒジュラ〜インド第三の性』を読んだ。
これが出版された1995年にも興味を持ったが、そのときには読まなかった。
それから20年以上して読んでみる。
読む機会が回ってきたと言ってもいい。
いろんな意味で凄い本だ。
宗教として捉える。
ジェンダー論として捉える。
隠喩として捉える。
文化として捉える。
消えゆく歴史として捉える。
人の生き様として捉える。
いろんな刺激を受ける。

5月

22

ウダンを巻く

バリ島にいるアナック・アグン・グデ・ラーマ・ダレムさんとお話しするために、ひさしぶりにウダンを巻いた。
ウダンとは、バリ人男性が礼拝の時に頭に巻く、少しデザインに凝った鉢巻のことだ。
いまはほとんど裁縫されたものを頭に巻くが、凝る人は一枚の布を畳んであの形を作る。
知り合いになった僧侶から畳み方を教わって、一枚の布からウダンを作る。
なぜウダンを頭に巻くのか。
多くの男性が巻いたウダンに花を挿す。
そうすることで陰を装う。
男は陽、女は陰。
神様は陽、地上は陰。
しかし、男は陽だから神様の陽と反発してしまう。
だから、神様の前に跪くとき、男は陰を装う。
男の無意識にあるアニマ(女性性)と同一化するとも言える。

5月

13

バリ島の秘密

毎年のようにバリ島に行っていた。
2017年からアグン山の噴火が始まり、去年からはコロナで何年か行ってない。
ひさしぶりにお世話になっているアナック・アグン・グデ・ラーマ・ダレムさんとZOOMを介してお話しした。
バリ島の宗教はバリ・ヒンドゥーと言われるが、それはいろいろな宗教の渾然一体化だ。
アグン・ラーマさんとお話ししていると、どのように様々な宗教が習合されるのかわかるような気がする。
基本的には他を批判しない。
相手のいいところを自己同一化する。
自分の都合に合うように多少の改変を加える。
議論をする。
本当の答えは神のみぞ知る。

4月

22

賢者の石

賢者の石について、理系出身の僕は「馬鹿なことを考えていたな」くらいにしか思っていなかったが、ユングの『心理学と錬金術』を読んで唸ってしまった。
心の目で見ると現実は変わる。

4月

13

一炊の夢

中学二年の時、国語担当の榊原先生が、担当した生徒全員と交換日記を始めた。
ひとクラスだいたい40名。
担当していたクラスは多分4クラスはあっただろう。
すると毎週160名と交換日記をしていたことになる。
凄く大変だっただろう。
その第一回の課題が「日記に名前を付けて、その理由を書け」というものだった。
僕は確かことわざ辞典のようなものを引いて、「一炊の夢」という言葉を見つけ、日記の名前を「一炊の夢記」とした。
そんなことはすっかり忘れ40年ほど経ってしまったが、ユングが解説を書いた「黄金の華の秘密」を読んでいたら、その本の訳者(湯浅泰雄)が書いた解説に「一炊の夢」を見つけた。
「黄金の華の秘密」の各章が「呂祖師曰く」で始まるのだが、「一炊の夢」はその「呂祖師」が邯鄲(かんたん)の村で盧生という青年に教えた話なんだそうだ。
だから別名「邯鄲の夢」ともいう。
さらにへぇと思ったのは、呂祖師のことを道教史上に残したのは全真教という教団なんだそうだが、そこの開祖は王重陽というひとだそうだ。
重陽の節句に生まれて「陽二」と名付けられた僕は「一炊の夢」から目覚めてしまいそうだ。

4月

10

曼陀羅瞑想

中村元博士の説によると、カトリックの儀式は仏教の儀式と起源が同じだそうだ。
神(キリスト・仏)を自分に受け入れるという儀式は仏教では徹底している。
日本では空海が恵果和尚から伝えられて持ってきた胎蔵界・金剛界の曼陀羅を利用した修行が知られているが、僕はその概要しか読んだことがない。
僕が詳しく読んだことのあるのは、理趣経をもっと濃くしたような秘密集会タントラの現代語訳と、それを利用した曼陀羅瞑想法。
知識として知っていることと、実践することとは違うことを前提にして言うが、これを全部丁寧にやるのは大変だろうなと思う。
だからこその功徳もあるのだろう。

4月

10

受け入れる

「やー」と言って両腕を広げ、抱き合うという不自然な行為を相方とときどきする。
そもそもの起こりは「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマだ。
そのなかで主人公の二人が、互いの恋愛感情をぎこちなく表現するために「やー」と言って両腕を広げ抱き合うシーンがあるのだ。
そのドラマが面白かったので、二人で真似している。w
先日、ユングの本を読んでいたら、そのポーズは何かを受け入れるための象徴だと書かれていた。
だからその同じポーズでキリストは十字架に磔にされたという。
キリストは人間が犯す罪をすべて受け入れてくれたということ。
そして、聖餐でキリストの肉と血(実際にはパンとワイン)を食べることで、その聖体を自らのものとする。

4月

5

創作的に読む

はじめて現代語訳された大乗起信論を偶然読むことになった。
それを古本屋で見つけたのだ。
その本は筑摩書房から昭和40年に出版された世界古典文学全集の第七巻『仏典Ⅱ』、そのなかに大乗起信論が含まれていた。
仏典の現代語訳を自分で買ったのはこれがはじめてだった。
翻訳が良かったのだろう、そこにある意味をぼんやりとつかむことができた。
しかし、一見すると矛盾しているようなことが多く出てきて、「なんのことやら?」と思う部分もたくさんあった。
だけどひとつ、これはこういうことだなと理解できることがあった。
それは「熏習」という言葉。
これはまさに「リフレーミング」のことを言っているのだろうと勝手に解釈した。
そのおかげで、その大乗起信論を何度も読むことになった。
その一点を理解したことで、この文書には読み取れていない何事かが書かれていることを信じることができた。
信じなければこの本は、とても読めなかっただろう。
信じて読むことで、あとから新たな区別が僕の心に生まれてくる。
その区別がまた別のことを理解させてくれる。
「創作的に読む」ということがどのようなことか、読んでいる最中には気づかなかったが、あとで考えるとこういうことなのだなと理解できた。

4月

3

供物

バリ島のブサキ寺院に行って、何度も礼拝させていただいた。
その度にひと抱えある供物を持っていく。
寺院は数十段の階段を登って行くので、非力な人には一苦労だ。
寺院の下で一緒に行った誰かにそれを持っていくことを頼む。
たいていの人は「はい」と言って頼まれてくれるが、ときどき「えっ? 私がこれを?」という顔をする人がいる。
そういうとき、こんな話をする。
「これは僕たちから神様への供物だ。代表して持って行ってくれるかな?」
これに対してはいろんな解釈が生まれるだろう。
だけど、「ブサキ寺院に礼拝に行く」と自ら決めた人は、それを光栄な機会だと思う。
供物が供物として輝いて見える。

4月

1

タイムマシンの窓より

友人の画家アキラが、「タイムマシンの窓より アルバート・アインシュタイン」という絵を僕に預けてくれた。
なぜ預けてくれたのかというと、8年前チチェン・イツァーに行ったときの体験をアキラに話したからだ。
その体験は、あまりにも不思議で、言語化するとあまりにも嘘くさいので、あまり言いたくないのだが、一番大切な点は「この世界が多次元であることに深く気づけ」というメッセージがあったことだ。
それ以来、非二元とか、多次元とか、そういうことを手当たり次第調べて行った。
それで今朝、アキラから預かった絵を眺めていて、あることに気がついた。
大乗仏教で、なぜ曼陀羅を見ながらお経を上げるのか。
なぜユングは「黄金の華の秘密」と出会って「赤の書」を書くのをやめたのか。
ジャイナ教のアネーカーンタヴァーダから、どのようにしてケーヴァラ・ジュニャーナに近づいていくのか。
ひと言では表現できない「あること」をいつかきちんと本にしたい。

3月

30

日本人の何か

十年ほど前、インドの聖者であるパイロットババジにインタビューしたとき、こんなことを言われた。
「ヒマラヤの教えを正しく受け取れる可能性が高いのは日本人だと思う。欧米人はあらゆる価値をお金に換算してしまう。日本人は尊いものがお金に換算できないことを知っているし、そのことを行動に示してくれる」
それがなぜかを知りたくなり、いろんな本を読んだ。
それはひと言ではうまくくくれない何かだと思うようになった。
それをあえて言語化すると「日本的霊性」ということになるんだろう。
鈴木大拙の著作にあるが、その広がりは一冊の本ではまとめきれない。