5月

18

獅司 対 狼雅

両者のしこ名と出身地がアナウンスされると、東京・両国国技館内は温かい拍手に包まれたそうだ。
大相撲夏場所10日目。
獅司はウクライナ、狼雅はロシア出身。
下手投げで狼雅の勝ち。

4月

19

小さな仏様

下駄箱の奥から、小さな仏様の頭が出てきた。
なぜそんなところにこんなものがあるのかわからない。
はじめて見るもので記憶にない。
いつか買ったのか? もらったのか? それとも天からの授かり物?
頭だけではかわいそうなので、うちにあった石を胴体にしてあげた。

3月

27

砂曼陀羅

昔、護国寺でおこなわれたチベット・フェスティバルで、砂曼陀羅の写真を撮る許可をもらった。
それはチベット僧たちが数日間、息を殺して描き上げたものだった。
初日の儀式を見学し、書き上げられた砂曼陀羅の写真を撮った。
近づくと、砂がもっこりと盛り上がっているのがわかった。
真上から撮影した写真しか見たことがなかったので、そのもっこりを撮るべく、横から何枚も撮影した。
結界となっている城壁や、如来や菩薩が佇んでいる場所が立体となって浮かび上がった。

2月

9

すべてを知る必要はない

ジャイナ教のマハーヴィーラがこんなことを言ったようです。
人間は神様のように全てを知ることはできないので、一部のことしか知りようがないと諦めなさい。
それを知った上で、修行する人は、全てを知るためにいろんなことを学んでいくんですね。
それでも神様のように知ることは難しい。

1月

28

はじめて見たオゴオゴ

バリ島のニュピの日に、プリカレラン家にホームステイさせてもらった。
ニュピ前日の夜、低級霊を祓うために、村ごとに大きなはりぼての鬼を作り練り歩く。
その儀式や鬼をオゴオゴという。
当時バリ島の街にはほとんど街灯がなく真っ暗だった。
その中を数十人の男たちが高さ五、六メートルもあるようなオゴオゴを神輿のように担いで移動していく。
時々なぜか彼らは走り出す。
数十人が一度に暗闇の中を走ってくると、その音は恐怖をもたらす。
うっすらと見えるオゴオゴの影、激しい息と意味のわからない言葉、そして数十も重なったペタペタというサンダルの音。
どう避けていいかもわからない。
狭い道の中で揉みくちゃにされて、ひとごみから吐き出されると、オゴオゴを引き回した集団は遠ざかっていった。

1月

22

ガムランを聴く

大学生の頃、「題名のない音楽会」で小泉文夫がケチャを紹介していた。
世の中には不思議な音楽があるもんだなぁとそのCDを探して買おうとした。
ところが見つからず、同じバリ島の音楽ということで、ガムランのCDを買った。
うちに帰って聞くと、最初の音でゾーッと鳥肌が立った。
「なんだこの音楽は!」と思い、ラックにしまった。
「こんな気持ちの悪い音楽はもう聴かないだろう」と思っていたのだが、なぜかときどき聞きたくなる。
聞いてはゾッとしてまたしまう。
「いったい何をしているんだろう?」と思っていた。
このゾッとした感じが、ヌミノーゼだと理解するのは十年以上過ぎてから。
縁があり、そのガムラン楽団を率いていたプリカレラン家にホームステイさせてもらうようになってからだった。

1月

21

聖なるものと幽霊

聖なるものを目の前にしたとき感じるヌミノーゼについて書くために、その感覚を思い出そうとしていろいろと書いているが、そこに幽霊が出てくるのはいかがなものかと感じている人もいるだろうと思い、これを書く。
でも、そんな人がいるかどうかは実は問題ではない。
僕の中にそう疑う部分があるから書く。
つまり、「聖なるものと幽霊を混同していることについて心配している」という僕の内側について、あたかも誰かがそう考えているだろうからと前置きして、他人事のようにして書こうとしている。
こういうことは実はよくあって、「僕の内側にある別の面の僕」というのは、説明が面倒なので「きっとこう考える人がいるだろう」とことわって、実は自分のことを書いている。
そう言ったほうが話しが早いし、誤解も生まないだろうという前提でそう書くが、その時点で実は多少のミスリードを含んでいる。
こういう些細な区別はどうでもいいと感じる人が多いかもしれないが、厳密な話しをするときには大切な話になる。(ここにも些細なミスリードが含まれたね)
それに「聖なるものと幽霊」は少し似ている部分があるように感じる。
「聖なるもの」とは何かであるが、宗教の歴史をたどっていくと、時代によって変化があることがわかる。
たとえばそれはエリアーデの「世界宗教史」を読めば明確になるが、そのことと個人の精神の発達とをよく比較して考えなければならない。
たとえば、十歳の頃の僕と、二十代の頃の僕、そして現在の僕では変化がある。
その変化を把握した上で精神の発達について考えなければならない。
こう書くのは簡単だが、具体的にどう変化したかを指摘するのは、自分にとってはあまり簡単なことではない。
なぜなら、自分の考えは、時代によっての変化を、普段明確には区別してないから。
十歳の時の僕のことを書いている最中に、実は六十歳の感覚で表現していることはよくある。
つまりそれは、十歳の頃の感覚そのままの表現ではなく、六十になった僕というフィルターを通しての表現になる。
それを手放すのはあまり簡単なことではない。
そのことを意識して始めて可能になる。
その些細な違いを言語化するのは困難を伴う。
そこには明確な区別があるという前提に立つことによって可能にはなるが、その前提に立たない限り、それはできない。
僕の若い頃には「聖なるものと幽霊」の区別は曖昧だった。
だから、幽霊についての強い興味があったのだと思う。
つまりそれは、若い頃から「聖なるもの」に興味があったが、幽霊との区別が曖昧だから、幽霊についても興味があったのだと思う。
こう区別を与えているのは、現在の僕に他ならない。
若い頃の僕は、そもそも「聖なるもの」に出会う機会がなかった。
科学の台頭により、宗教の価値が低くされていた時代だったからだろう。
「聖なるもの」の代替物として「幽霊」があったように思う。
だから「聖なるもの」について書くとき、幽霊が出てきてしまう。

1月

18

京都のお寺で聞いた読経

大学生の頃だっただろうか。
京都を旅行していたらあるお寺で読経が始まった。
どこのなんというお寺かも忘れてしまった。
だけどそこの読経が凄かった。
僧侶が数名で読経していたのだが、聞いたことのない和音になっていた。
それが読経の言葉とともにうねっていく。
楽譜にはしようがない微妙な和音の変化。
音楽のように心地よいのと同時に、底知れない畏怖を感じた。

11月

18

山川草木悉皆仏性

日本人にはあらゆる存在に仏性があったり、神様が宿っているという感覚があった。
原子にも仏性があり、だから複雑なネットワークを通して生命が生まれてくるのだと思う。

11月

10

愛による、個人の全体化

個性を伸ばしていくと、個性同士がぶつかり合って、なかなか合意に至れないと考えがちである。
しかし、テイヤール・ド・シャルダンは、その背景にキリスト的な愛がありさえすれば、互いに認め合うことが可能であるとし、それが人類を統合するための鍵だとした。
みんなが同じ考えを持つべきと考えるのではなく、みんな違ってみんないい状態を、愛を通して生み出すことができるという。
それがいったいどういうことなのか、僕たちはまだ知らない。

11月

10

人間のエネルギー

テイヤール・ド・シャルダンが1937年に、船旅のさなかに書いた「人間のエネルギー」という短い文章がある。
「現象としての人間」を書くにあたっての準備のような文だと思う。
それはテイヤール・ド・シャルダン著作集の第二巻に入っている。
現在の世界を知ると何かモヤモヤした考えに覆われてしまう。
それを吹き払うのにいい。

10月

25

ナイト・レインボウ

本を整理していたら「Tales from the night rainbow」という本が出てきた。
No.04584に書いた「夜の虹」について書かれた本。
山崎美弥子さんに確かめたら、「はい。この本です」とのこと。
20年近く前にすでにその話に触れていたのに気づかずにいた。

9月

18

打ち上げの本当の意味とは

夢を見た。
何度か見た夢の続きのようだ。
でも実際にその夢を何度か見たのかどうかはわからない。
そういう感じがするだけなのかもしれない。
その夢の中で、「打ち上げの本当の意味」を探すことになる。
何かに一区切り付いて、打ち上げをするのだが、きちんと打ち上げようということになり、いったい何をすればいいのか悩むことになる。
その悩みの最中に知り合いが建物を建てたという。
建物の大きな壁面に何かを描きたいのだが、知らない人が勝手にいろんなことを描いていく。
「いったい私は何を描けばいいのか?」と質問される。
緑のような青のような深い色をしたその壁面はタイルで覆われていたので、黒いペンキで描いてもあまり目立たない。
何が描かれているのか知るために目を凝らす。
そのときに「打ち上げの本当の意味」を知る。
エリアーデによれば、祭は始原の時に戻ること。
神様がかつておこなった行為を繰り返すことが本義だという。
そのおかげで円環の時を人々は生きることになる。
それが「進化する歴史的な時」に変更されたのはキリストのおかげだという。
僕たちは進化する時の中で生きている。
僕たちにとっての「打ち上げ」とは何か?
打ち上げ花火は地上という二次元から、高さを得て三次元になる。
きっとその視点は神のものだったのだろう。
それを繰り返すのは円環の時を過ごす人々がすればいい。
「進化する時」を過ごす僕たちは、新次元を得るのが「打ち上げ」。
そう閃いて目が覚めた。

9月

12

鎌倉の大仏

生まれてはじめて鎌倉の大仏を見た。
青空を背景に美しかった。
最初の大仏は木製だったが、風で倒れて青銅製に作り直したという。
明応7年8月25日(1498年9月20日)の大地震で津波に流され、以来お堂は作らなくなったそうだ。
新型コロナの影響で、胎内には入れなかった。
800年近く瞑想していると、どんな悟りが開けるのだろう。

8月

26

古式フラ

青山スパイラルでおこなわれている山崎美弥子さんの個展「Night Rainbow」で、友人に「写真を撮ってあげるから好きな絵の前に立って」と言われて立ったとき、ふと古式フラの格好を真似してみた。
山崎美弥子さんはモロカイ島に住んでいる。
絵からはハワイのエネルギーが流れ出ているのかもしれない。
古式フラはお相撲の土俵入りのような格好をする。
男によって踊られる、力強い祈りだ。
相撲でも古式フラでも、踏ん張るのは大切なこと。

8月

18

気持ちいい状態にいる

これがなかなか難しい。
あーしてこーしてといろいろと考えてしまう。
泳いでいるときには水の動きを想像するといい。
それで思いついた。
なるほど。
瞑想のとき、なぜ光の回転を思うのか。

8月

6

祈り

人々は何度繰り返したことだろう。
成就されなくても、それが存在すると知っただけで、人の行動は変わるだろう。
それが継続する限り、希望は消えない。

8月

2

ウルトラマン

エリアーデ著作集の第六巻『悪魔と両性具有』を読んでいる。
第1章が「神秘的な光の体験」という章で、光にまつわる霊的体験がたくさん例として出てくる。
それを読んでいてウルトラマンを思い出した。
「光の国から僕らのために、来たぞ我らのウルトラマン」だから、幼い僕にとっては神様のような存在だった。
放映開始が1966年7月だから、僕はもうすぐ五歳になる頃。
どんな話だったかは忘れてしまったが、確か中東の砂漠の中から、ウルトラマンの石像が見つかるという話しがあったように記憶している。
その石像に僕は妙に惹かれてしまった。
「神秘的な光の体験」を読み進めていくと、光の信仰の起源はイランにたどり着く。

「これらすべての要素は、極めてイラン化された「宇宙主宰者-救世主」 の一大混淆神話にとって必要不可欠なものである。この神話は確かに、ある一つの形態あるいは別の形態をとって後のユダヤ教キリスト教に影響を与えた。しかしこれらの宗教観念のいくつかは、ミスラ信仰やイラン・セム的な混淆宗教に先立っている」 エリアーデ著作集の第六巻『悪魔と両性具有』p.60-61

これがウルトラマンの起源かと勝手に思う。

7月

20

全体性に触れる

書くのは簡単だが、実行は難しい。
そもそも全体性とは何か?
人間にとっての全体性とは、宇宙のことであり、地球のことであり、国家のことであり、地方社会のことであり、家族のことであり、個人のことであり、それらの総合でもある。
それぞれに支配している理屈は異なり、自分がどの観点からモノを見るかによって現れてくる思いや感想は異なり、その違いに惑わされていると即断即決はできなくなるため、多くの人はそれらの違いについてあまり深くは考えないのだろう。
しかし、長い人生について考えるとき、これらについてじっくりと考える必要がある。
いま僕たちが混乱の中にいるとしたら、この全体性に触れる機会なのではないか?
この答えも簡単に出すべきものではないだろう。

7月

17

東大寺戒壇院の広目天像

幼い頃、居間に東大寺戒壇院の広目天像の写真が飾られていた。
どうしてこんな怖い顔した仏像の写真を飾っておくんだろうと思っていた。
一方で、パパに似ているとも思っていた。
親父が死んでエッセイを読んでいたら、誰かに広目天に似ていると言われたという話が出てきた。
知っていて飾っていたのかと思う。
自分に似ているという仏像の写真を飾るっていうのは、どういうつもりなんだろう?
広目天の写真をどこかで見る度にその疑問が浮かぶ。
まあ、単純に嬉しかったのかな?

7月

8

山から星へ

昔、宇宙の中心は山の頂上にあった。
だから神様の多くは山にいた。
長い歴史のなかで、いろんな宗教が神様をいろんなところに連れて行った。
いろんなところに神様が現れるようになり、宇宙の中心は曖昧になったが、それでも人間のイメージとしては、山の頂上が宇宙の中心になることが多かった。
ところがある時から、星が宇宙の中心になった気がする。
その星の中心が宇宙の中心でもある。
それはもちろん象徴的なもの。
各個人が宇宙の中心にいて、いろんな存在につながっている。
星と星が重力や電磁波で結ばれているように。
山を象徴とするピラミッド構造を維持したい人は、星を象徴とする多次元的な人とのつながりに困惑し、一生懸命ピラミッドに戻そうとしているかのように思える。

7月

7

農耕神

バリ島の水田には、ほぼ必ずデウィ・スリの祠があるようだ。
僕が見たものは手のひらに載るくらいの小さな家のような形で、背丈より少し低いくらいの柱の上に置かれていた。
日本でいえばお稲荷様のようなもの。
昔は農耕がとても大切にされていた。
だから神様としても祀られる。
世界中に似た神様がいた。
宗教が低く見られるようになって、農耕の価値も落ちてしまった。
食べるものがなくなると困るのに。
農耕神がきちんと祀られているとウフッと思う。

6月

30

緊急事態宣言下の神社

緊急事態宣言下の神社は、手水舎が閉鎖され、拝殿前に吊された鈴も鈴緒がはずされ、これでお参りになるのかな?という状態です。
これは神社として正しいおこないなのか?と思ってしまいますが、こういうときこそ人間の創造力を発動させましょう。
まず、手水舎の前で手を洗い口をすすぐイメージをする。
一瞬でいいのです。
水の流れている音も思い出しましょう。
そして拝殿前に進んだら、鈴をガラガラと鳴らすことを想像します。
想像した音で清められる。
あとはいつものように参拝してさっぱり。

6月

28

神の居場所

昔、神は天空にいた。
その息子や娘が降りてきて、民を治めた。
その神は今はどこへ行ったのか?
自分の内か、メディアの中か、一般大衆という幻の中か?

6月

24

堕天使

「堕天使」という言葉があります。
天使だったのに、悪魔になってしまった存在。
悪魔を演じるしかしようがない存在。
堕天使のみなさん、自分が天使であることを思い出してください。
あなたの力は強大です。
あなたの力で多くの人が救われます。