10月

28

流れ行くこと

僕たちは宇宙空間をもの凄い勢いで移動している。
ただ、まわりのものが一緒に移動しているので、それに気付かない。
そのおかげで静かにいられる。
この静けさは、つまり幻だ。
まぼろしが幻であり続けるためにはそれ相当の努力が必要となる。
僕のまわりにあるものすべて、その幻を生み出すために一緒に働いている。
スリルのある幻を一緒に生み出してくれてありがとう。

10月

20

別人になる

「気持ちいいもの」がなかなか思い浮かばないとき、いままで書いた「気持ちいいもの」を読みなおすことがある。
そして気付く。
書いたときには気持ちよかったことが、いまはちっとも気持ちよくないことを。
読みなおすことでそのときの感覚を思い出すが、なかには思い出せないものもある。
いったいどうしたことだろう?
きっと僕のなかにはたくさんの別人がいるのだろう。

10月

11

豊穣なる世界への入口

「いまここ」を愛すること。
「いま」と「ここ」は別のものに思えるが、実は同じもの。
「愛する」とは、繊細に注意深く感じること。

10月

2

当たり前なこと

自分にとって当たり前なことは、どんなに奇跡的なことでも、それを当たり前としか見ない。
たとえそれがどんなに奇跡的なことだとしても、数が多ければ、いつもそうであれば、あまりにも身近であれば、奇跡には思えなくなっていく。
それをきちんと奇跡的なこととして見ることができるのは、とても幸せなこと。

10月

1

ケーヴァラ・ジュニャーナを空想する

ジャイナ教において完全智と呼ばれるもの、それがケーヴァラ・ジュニャーナ。
ケーヴァラ・ジュニャーナは人間には得ることができない。
せいぜいアネーカーンタヴァーダを得るところまで。
アネーカーンタヴァーダとは、多元的観点。
完全智は、人間の感覚では感じられないものも含む、人間には到底得られない知恵。
でも、そういう知恵とはどういうものか、無理だと知っていても考えたくなる。

9月

30

するべきことは?

恐竜が滅亡してほ乳類が栄えた。
そのおかげか、人間が生まれた。
人間が滅亡しても、次の種が栄えるのだろう。
地球にとってはどうでもいいことと思ってしまう。
いや、次の種が生まれたほうが、地球にとってはいいのかもしれない。
そういうあきらめを受け入れれば、そういう未来がやってくる。
僕たちはいまなにをすべきか?
ジェーン・グドールからのメッセージ

9月

29

人間の生き方

人間の生き方がどうであれ、地球にはあまり関係ない。
アリが別種同士で戦っても、人間にはあまり関係ないのと同じ。
人間の生き方が重要なのは、地球にとってではなく、人間にとって。
それなのに人間は、勝手に戦って死んでいく。
間違いはきちんと認めて、仲良く生きていこうよ。
間違えた人を「ぶっ殺す」なんて言わないでさ。
人間が生み出した熱や物質で熱くなった地球が、さらに熱くなってしまうよ。

9月

24

個人の気持ちいいものから全体の気持ちいいものへ

エゴイスティックに気持ちいいものを書いてきた。
他人がそれを気持ちいいと思うかどうかはさておき、自分が気持ちいいと思えること。
それを書き尽くすことで「自分の気持ちいいこと」だけではない気持ちいいことが生まれてきた。
それがいったい何なのかよくわからなかったけど、いってみればもっと高い視点の気持ちいいもの。
自分ではない視点から出る言葉が、いったいどんなものかよくわからないけど、それに挑戦してみる。
言葉は個がないと成立しないけど、個と全体の境をふらふらするのだろう。
いまがあるのはすべての過去のおかげ。
明日がきっとあるのは、すべての今のおかげ。
「今」はひとつでもあり、見方によっては無限にあるもの。

9月

20

まぼろし

快楽はまぼろしであるが、苦痛もまぼろしである。
気持ちいいときに気持ちよくなり、苦しいときに苦しめばいい。

9月

6

自分のテンポで

人間は喜びや楽しみを基として生きるのがいい。
かつて他人を働かせてなんとかしたいと思った王たちは、自分の欲望を満たすために制度を作り、人を縛った。
生命にも成長のステップがあるように、社会にもステップがあるだろう。
そのステップをそろそろひとつ上がったほうがいいと思う。
人は節度ある教育を受けて、この社会の役に立つことが人生での楽しみであると理解できれば、あとはある程度自由にできるようにすればいいのではないか?
生産性は落ちるかもしれない。
でも、それで困るのは、困るような社会にしているからではないか?
過度な競争は戦争を生む。
話し合いで互いを高められるように社会を少しずつ変質させていこう。
「競争しなければならない」と考えるのは手放してもいいのではないか?

9月

4

本当に願っていることは何か

人は多くの矛盾に挟まれる。
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこういうしかなく、親としてはこう言わざるを得ないのに、たくさんの想いを抱えているのにも関わらず、どれかひとつしか表明できない。
なぜどれかひとつしか表明できないのか?
そういうものだと自分が思っているからではないか?
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこう言うしかなく、親としてはこう言わざるを得ないということを、全部言ってみたらどうだ?
「それは矛盾だ」と誰かに言われたら、「立場が違えば言うべきことが変わるのは当たり前でしょう」と言えばいい。
そうやって多面的な本当のことを言い合うことができれば、いままでにはなかったような鮮やかな答えが得られるかも。

8月

23

バレットタイム

映画「マトリックス」で、カメラのアングルを動かしながら一瞬の動作を流れるような視点で捉える映像が流された。
当時はスゲーとしか思わなかったが、あれの何に感動したのか、ふと思いついた。
ピカソなんかがキュービズムという絵を描いたのも、はじめはナンダ?としか思わなかったが、あとでジワジワと感動したのと同じで、あのバレットタイムという撮影方法も、今頃になってジワジワと来た。
空間や時間を超えて多視点になることの予兆に感動したんだ。

8月

22

水滴の音

世界は一滴の水の音とともに始まった。
一滴の水の音が世界を変えた。
それ以上でもそれ以下でもない。
一滴の水の音とともに人は笑い、人は歌い、鳥は飛び、魚は群れをなす。
僕がそれを認識していなかっただけ。
一滴の水の音とともに宇宙は存在し、銀河は巡り、彗星は流れ、太陽は輝く。
一滴の水の音とともにあらゆることが起き、あらゆることが変化し、あらゆることが流れていく。
僕はその状況の中に浮かんで流されるだけ。
一滴の水。

8月

20

書くことがない

3906回も気持ちいいものを書いていると、もう書くことがないと思うことがある。
それをなんとか乗り越えてきた。
もう乗り越える必要はない。
書くことがないことが気持ちいいから。
「書くことがない」ことは良くないと感じているあいだ、その気持ちよさは現れてこない。
書くことがないこともいいものだ。

8月

6

錯綜する思考

僕のなかには矛盾がたくさんある。
あるときは好きだったものが、別のときには鬱陶しくなり、あるときは興味のあったものが、別のときには無関心になる。
そういう自分の勝手さは、たいてい意識されない。
気持ちいいものを3900回も書いていると、そういう自分に向き合うことになる。
そういうとき、ちっとも気持ちよくない。
だけど、この不快さが新しいものを生み出す力になる。
不快だけど気持ちいい。
こういう矛盾した僕の心よ。
不快だけど気持ちいいという、論理的には理解し難い感覚よ。

8月

1

流れに乗る

流れはいつも形を変える。
こういうときにはこういう流れが来ると思い込むと、まったく違う流れが来る。
常に思い込みを手放すこと。
最善の対応はいま生まれる。

7月

31

COSMIC BIRTH

地球交響曲第一番でラッセル・シュワイカートが語っていた「COSMIC BIRTH」。
人類が宇宙に飛び出していくことは、まるで地球という母胎から生まれでてきた「COSMIC BIRTH」という意味合いで語られる。
しかし、それをSUDIO VOICEという雑誌は「宇宙的覚醒」と訳していた。
もう26年も前のこと。
本当に宇宙的覚醒の時代になるかと思いきや、いまのところ挫折しているように思える。
しかし、その準備は見えないところで着々と進んでいるのだろう。
「COSMIC BIRTH」に必要なのは、一見矛盾するコトたちのゆるやかなつながりと、その全体性への覚醒。
かつて細胞として独立していたモノたちが、いまの生物の細胞の中に見事に組み込まれ宇宙を作っているように、かつて反発していた考えや価値観が融和して、ひとつの体系を作ること。
そんなこと可能なのか?
これから出来上がる、いま生まれつつあるコスモが生まれてはじめて、それが可能だということがわかるようなものになるのだろう。
地球交響曲第九番がクランクインしたとのこと。
第一番で提示された問いの答えが、そこに表れるのだろうか。
それを楽しみに待つ。

7月

30

感覚の麻痺を超越

快感はしばらくすると当たり前になり、同じ快感を得るためには強い刺激を与えなければならなくなる。
気持ちいいものを書くことは、これに逆らっている。
だからこれは普通に考えると続かない。
それを越えて続けていくと何が起きてくるのかという実験だ。
「わずか、ほのか、かすか」を感じること。
夢を持つこと。
いまを生きること。
力を抜くこと。
環境に委ねること。
うまくいかないときは手放して再創作すること。

7月

19

縄文化

1997年、ヒーリング・ライティングを始めたとき、いったい自分が何を始めたのか、よくわかっていなかった。
いまでもよくわかってない部分があるだろう。
でも、わかった部分もある。
当時、自分で書いた文章を発表する人は少なかった。
インターネットが始まったばかりの頃だ。
ヒーリング・ライティングを始めて「文章の書き方をわざわざ学ぶかな?」と言われた。
でも、そこそこ人は参加してくれた。
癒されるために。
癒されて文章が書けるようになると、たいていの人はそこでやめる。
方法を手に入れたから。
当初はそれでいいと思っていた。
しかし、時間とともに何かが変わっていく。
何が変わったのだろう?
それは環境や社会だった。
インターネットが一般化し、SNSが広がると、みんな何かしら文章を書くようになる。
とても短い簡単な文章を。
かつて文章を書く人はこんなことを言った。
「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」
多くの人はそのズレを埋めるために文章を書き、その結果文章がうまくなっていく。
しかし、SNSができると「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」という人は鳴りを潜めた。
「イイネ」が付くことで安心する。
自分の心に書いていることのズレを聞くのではなく、他人に認めてもらって満足する。
「自分が感じていること」について深くは考えず、みんなが「イイネ」してくれることに流されていく。
僕みたいに「自分の心に聞いてみる」なんて奴は鬱陶しいだけだ。(笑)
こうして自分と社会との分断が始まる。
自分の心は置き去りにして、社会に同調することを覚える。
自分は社会の部分となり、全体にはなり得なくなっていく。
その結果、心も次第に部分しか見えなくなる。
選挙のときにそれが現れる。
「どうせ僕の一票は何の役にも立たない」
部分しか見てないために全体が見えないからだ。
政治について考えるためには全体を知らなければならない。
自分の住んでいる地区、都道府県、日本を知った上で、世界全体を考え、経済を考え、過去と未来を考える。
きちんと考えるためには、日常生活を送っている多くの人にとって時間が足りない。
全体を知るなんて無理としか思えない。
だから棄権する人もいるだろう。
だからあまり考えずに投票する人もいるだろう。
僕もかつてはそうだった。
いまでも本当に全体を考えているのかどうかはかなり疑問だ。
「全体」というものは得られるようで得られない。
話を簡単にするためにたとえとして三つの人格を取り上げる。
「読者」と「作家」と「編集者」。
ヒーリング・ライティングではこの三者が一体になることを目指していた。
それに気づいたのは最近のこと。
三者が一体になると全人格者になれると仮定する。
この三者が一体になどなれるのか?
「読者」も「作家」も「編集者」も、断片的な人格なのだ。
「読者」はただ受け取るだけ。
「作家」はただ発信するだけ。
「編集者」は「作家」が発信したいことを「読者」が受け取りやすくする工夫をするだけ。
工業的な社会ではそれで良かったと思う。
情報化社会になってこのような分断は、精緻に組み合わされるようになる。
インターネットでは「読者」であり「作家」であり「編集者」であることを求められる。
円環が閉じつつある。
分断されていた「読者」「作家」「編集者」が統合されていく。
きちんと統合されるためには学ぶ必要があることがとても増える。
しかし、それらを学び切って新たな地平に立つ人が増えていくだろう。
端から見ているとそこにはほとんど何の変化もない。
癒しと同じだ。
それは、深い解釈とともにもとの状態に戻ること。
分断は、統合のために必要なステップ。
ここで話は一気に飛ぶ。
すでに長く書き過ぎた。
日本人は深い解釈とともに縄文の社会に戻っていく。

7月

12

未来の自分になってみる

多次元リフレーミングをするとき、いろんな時代の自分を思い出すのだが、未来の自分を思い出すということはあまりしてこなかった。
唯一していたのは死ぬときのこと。
ニュピに行き、まる一日半 瞑想していると、死ぬときのような感覚が生まれる。
実際にどうなるかはわからないが、それが死への練習になっていたような気がする。
死は暗闇のような場所に戻る体験。
何も分からない領域に入っていくこと。
そのとき、居心地いい感覚を持てるかどうか。

7月

10

気持ちいいのかどうか

お化け屋敷に入った人は、そこで恐怖を体験する。
だから、その体験は恐怖であって楽しみではない。
だけど、お化け屋敷に行く人は必ずその体験を楽しむために行く。
恐怖を感じることを楽しんでいるのだ。
僕たちはいろんな感情を体験する。
その体験は、そのある状況に投げ込まれたから。
たまたまその状況に居合わせたからその体験をする。
しかし、もしお化け屋敷のように、その状況に自分から入っていたのだとしたら、どうだろうか?
いろいろな感情を楽しむ、味わうわたし。

7月

4

スパムメールの山

スパムメールが毎日山のように届く。
メールソフトの上でほぼ毎日のようにポチポチと消去する。
メールソフトではサーバーのスパムも消すように指示しているのだが、なぜか消えずに残っている。
それは数ヶ月に一度はポチポチと消していく。
まったく無駄な作業だ。
そう考えることで感情が高ぶる。
落ち着かせようとしても無駄だ。
落ち着かせようとすると感情は高ぶる。
落ち着いていることが肝要だ。
まるで瞑想だな。
スパムメールも使いようによっては気づきの入口。

7月

2

意味の深化

言葉を使う動物がいる。
しかし、現在のところ、それらは単語を使うだけだと考えられている。
人間のように文法を駆使して単語に深い意味を与える動物はほかにはいないと思われている。
文法があるおかげで人間は複雑な意味を共有できるようになった。
単語だけしかやりとりのできない動物から見れば、想像できないことだ。
同様に人間は、文法の次を作り出そうとしている。
それは文法だけで言葉を理解しようとしている人間には理解のできないこと。
言葉だけで表現しようとしている人には、表しようのないこと。
果たしてそれが「意味」という言葉の範疇に入るかどうかもわかりようのないこと。

6月

26

誰かに読んでもらわなくてもいい文章を書くこと

毎日、誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらっている。
そう、これを読んでいるあなたにだ。
ありがとうございます。
こう書いた瞬間に僕は、誰かに読んでもらうための文章を書いている。
誰かに読んでもらうか もらわないかは、書いているときにはよくわからない。
結果としてそうなるか、ならないかだ。
だけど、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章には違いがある。
それはかつてはうまく区別できなかったが、いまはできる。
それを言葉にしようとするとき、言葉の難しさに直面する。
それを適切に概念として区分する言葉がないのだ。
しかも、3870回も曖昧にしてきたことは、言葉にするとどうも矛盾しているように読めてしまう。
だからここに書いても誤解が生じるかもしれないけど、言語化しない限りはその区分は明確にはできないと思い、書いてみることにした。
自分にだけ響くことは、矛盾に満ちている。
だから、誰か宛に書こうとすると、文章に修正が入りがちになる。
必ず修正する訳ではない。
自分に対して書いているから修正はしないようにする。
だけど、それでも修正してしまう。
自分が修正していると気づけば、修正をしないことを選択できる。
しかし、修正しているかどうかがとても微妙なときがある。
なぜなら基本的に言葉とは他人に伝えるものだからなのだと思う。
一方で、自分だけの心に留めておく言葉もある。
それは、言葉として区分しないと意味がわからないような気がするからだ。
たとえば、いま論じている、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差。
これは「日刊 気持ちいいもの」を書くとときどき感じる差なのだが、それをきちんと言語化できる言葉を知らない。
説明を重ねればそこに自分が思い出す感覚は思い出せるが、他人がそれを正しく汲み取ってくれるかどうかはわからない。
きっと汲み取れないだろうと思う。
その微妙な区別。
その微妙な区別は他人に伝えて果たして意味があるのだろうか?
きっと意味は生まれてくるのだろう。
ただし、僕が感じている感覚と、これを読んで何かを感じる人の感覚は、同じかどうかはわからない。
これは、きっとどんな感覚も、言葉になっている感覚はすべてそうなのだろう。
だから、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、気にしなくてもいいのかもしれない。
でも、あえて気にしてみる。
そんなことに意味があるのか?
意味は生まれてくるのだ。
なぜそう思うのか?
かつてBlog「水のきらめき」にこんなことを書いた。
長いが引用する。

___引用開始

今年(2010年)1月に『奇界遺産』という本が出版された。大判で3,990円もする写真集だ。これがなかなか僕の目を釘付けにしてくれる。

表紙もインパクトがあるが、内容もなかなか凄い。なかなか出会えない景色がどこまでも続いていく。

(中略)

洞窟の中にある村、ブータンの男根魔除け図、直径34mのミクロネシアの島に住む日本人、巨岩の上にある住宅、地獄絵図のテーマパーク、神々の像で満たされた奇想の庭園、中華神話のテーマパーク、巨大龍の胎内を巡る道教テーマパーク、キリストをテーマとした遊園地、世界の果て博物館、世界に散らばる「珍奇」を蒐集した元祖変態冒険家の博物館、貝殻で作られた竜宮城(写真のページ)、世界八大奇蹟館、ミイラ博物館、アガスティアの葉、死体博物館、ボリビアの忍者学校、三万体もの人骨が眠る巨大な地下迷路、人骨教会、エリア51、7万人が聖母を目撃した聖地ファティマなど、世界の不思議なものや景色や人などをゴリッと撮影してある。

これらの写真を撮影した佐藤健寿氏はオカルト研究家を続け、ある疑問を抱いたという。それは「これ(オカルト)って本当に必要なのだろうか?」という疑問だ。こんなことに一生を捧げてもいいものか。この疑問にあのコリン・ウィルソンが『アトランティスの遺産』という本の中で答えてくれたという。

ネアンデネタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟の中に獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである。

この一文のいったいどこがその答えなのか、一見しただけではちっともわからない。しかし、佐藤氏はこんな文を書いている。

壁画、すなわち<芸術>であり<魔術= オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。

無論、多くの識者達が口を酸っぱくして指摘してきた通り、青年期の悩みにコリン・ウィルソンは劇薬、すなわち<混ぜるな危険>である。しかし私はこのアウトサイダーならではの大胆な発想に、大きな感銘を受けたのだった。<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているのかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。しかしこの事実をラスコーの逸話にたとえるならば、これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと>、それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。

以上の試論を踏まえた上で、私は「現代のラスコー」を探すべく、旅にでた。世界各地を歩き、この<奇妙な想像力>が生み出した<余計なこと>を、ひたすら探し求めたのである。…

『奇界遺産』 佐藤健寿著 エクスナレッジ刊より

___引用終わり
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p1760/ より

誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、きっとここでいう「究極の無駄」だ。
だけど、その「究極の無駄」をなんとか「現代のラスコー」にさせたいと思う。
一方で、「そんな煩悩を持ってどうする?」という感覚もある。
坐禅を深く探求したことはないが、禅問答とはこういうものかもと思う。
読んでもらわなくてもいい文章を、読んでくれてありがとう。
でも、この文章は読んでもらうために書いた。
自分の心に響かせるためだけに書いたら、きっと意味が浮上してこない。
言語は他人が必要なものなのだ。
このことと、5月16日に書いた「悟った」や5月17日の「質問」がつながっている。
多くの人は「言葉」は自分と区別されていて、「言葉」として存在するものだと思っていると思う。
なぜなら、僕がそうだったから。
だけど「言葉」は、人間が形作っている社会の要素であり、その意味では人間と同列に考えてもいいものだ。
社会というホロンにとって「人間」も「言葉」もその要素であるという意味で。
つまり、人間が言葉を使っているように僕たちは考えるが、言葉が人間を動かしているとも言える。
言葉は区別を微細にし、いままでにない区別を生み出し、人間を新たな状態に押し上げて行く。
言葉のおかげで表れた区別は、たとえそれが他人に伝えられなくても、その言葉を抱える人間に新たな区別を与えることで、その人間の行動に変化を与え、やがてその変化は社会ににじみ出てくる。
このことと生命の進化がつながっている。
「自分が響くためだけの文章」には、自分の思い出と経験が感情に練り上げられた鍵となる言葉がちりばめられる。
一方で「誰かに読んでもらうための文章」は、誰かの思い出と経験が感情に練り上げられる鍵となるであろう言葉を手探りしていく。
この手探りは正しいものかどうか、誰かに読んでもらうまではわからない。
結局、「他人に読んでもらうための文章」を書いていると思いながら、「自分が響くためだけの文章」しか書けないのかもしれない。
「誰かに読んでもらうための文章」を書きながら、自分の心中にある他人と同調する部分を探しているとも言える。
つまり、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると言うこと。
さらにいうと、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると思い込む部分と、そうではない部分が同居しているということ。
そうではない部分については、またいつか書いていこう。

6月

25

自分に響くことを書く

この「日刊 気持ちいいもの」では、自分が気持ちいいと思うことを書いてきた。
まったく利己的である。
他人がどう思うかはさておく。
自分にとって響くことだけを書こうとしてきた。
そして、毎日成功したり、失敗したりしている。
そうやってきてしばらくするとあることに気づいた。
誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらうとはどういうことか。
これはいろんなことを考えることになる。
そして、その考えたいろんなことが、一見すると矛盾している。
その矛盾の中に、というか、その矛盾自体が真実の一端だと理解した。