8月

7

新月瞑想会

新月の日に瞑想会をしていたことがある。
環境の良い部屋を借りて、そこで瞑想会をした。
いろんな人が来てくれたが、しばらくして嫌になってやめた。
「なぜ新月に瞑想するのですか?」と聞く人が現れた。
バリ島のニュピがほぼ新月の日だったというのが僕のなかでの理由だが、質問する人はその効用を聞きたがる。
「そんなもの知らん」と答えるのもどうかなと思っていたので、色々と言葉を濁したが、それが嫌だった。
今にして思えば「そんなものは知らん」と答えればよかったと思っている。
「僕がそうしたいから」でもよかった。
でも面白いもので、今ではネット上で「新月 瞑想」と検索すると、いろんな理由を読むことができる。
僕はそれらを「本当か?」と思っている。
新月に瞑想するのは、僕がなんとなく良いと思うから、それだけだ。
自分一人だと新月の日に瞑想をするというのはなかなか難しい。
なおざりになってしまったりする。
そこで、ここで宣言をして新月瞑想を再開することにした。
そもそも『日刊 気持ちいいもの』も、自分一人でこっそりやっていたら長続きはしないなと思って始めたこと。
それと同じだ。
天文学的に最も新月である時間というものがある。
それを調べてその時間に瞑想する。
昼間だったり、深夜だったりすることもあるが、都合が悪くてできない時にはそれを伝えます。
もし一緒にやりたい人はやってみてください。
次の新月は8月19日(水) 11:42 です。
「一人でやるのはなぁ」とか「やり方がわからない」という方には、ネット上でZOOMを利用して誘導瞑想をいたします。
こちらからお申し込みください。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/contact/
題名に「8月19日の新月瞑想に参加希望」と書いてください。
返信いたします。
そこにZOOMのURLや、参加のための手引きなどを書いて送ります。
参加費は無料です。
どんな宗教とも関係ありません。
8月19日(水) 11:42 に瞑想状態でいられるように、11:32から誘導を始めます。
11:30にはご入室ください。
11:30を過ぎるとご入室いただけなくなります。
瞑想は11:50頃には終了し、少しだけ皆さんの感想などを聞き、12:10には閉会します。
「なぜ新月に瞑想するのですか?」という質問はしないでください。w

8月

7

奇跡的なことを信じてみる

奇跡的な話というものを信じないように教え込まれている気がする。
「そうそう都合のいいことは起きない」と思い込まされている。
その思いがあるおかげで詐欺には引っかからない。
一方で、本当の奇跡に接したとき、そのことを素直に喜べなくなる。
よく話を聞いた上で、実際に体験することで、奇跡というものを信じると、何かとてもさっぱりとする。
例えば、清田益章さんに目の前でスプーンの柄を曲げて、ついにはポッキリと折ってもらったことがある。
疑いの目が見ているとモヤモヤするが「そういうものだ」と信じるとすっきりする。
自分の身の回りで起きることも同じ。
「そんなの信じられないよ」と思っている間はモヤモヤするが「そういうものか」と信じるとさっぱりとする。

8月

3

矛盾を受け入れる

毎日のように気持ちいいものを書いていると、自分の中で矛盾していることに気がつく。
そういうとき、かつては外界との関係を考えて正しいと思われるほうを選んでいた。
あるときから矛盾をしばらくそのままにするようにした。
すると居心地が悪かった。
今もときどき居心地が悪いことがある。
でも、それをそのままにしておく。
すると、個性化の扉が見えてきた。
その先はなんだろう?

8月

2

暗黙知の言語化

なんとなくわかってはいるけど、うまく言葉にできないことがある。
例えば、「家」という概念がなかった頃の人間がここにいたとしよう。
現在の家ほど立派なものではないが、動物の「巣」とは何かが違う場所に住んでいる。
「巣」にはたいてい屋根がない。
「屋根を付けた巣」だと表現してみる。
しかし、それもしっくりこない。
「巣」とは何が違うのか考えてみる。
そうだ、「巣」では何世代も同じところに住まないが、僕たちの住む場所は何世代も受け継ぐものだ。
だから「世代を超えた巣」とか言ってみる。
御先祖様がそこにいたし、きっと今もいるかもしれない。
そういう守るべき場所だ。
「屋根を付けた世代を超えた巣」という言葉は不便だ。
「寿限無寿限無」の落語のようになってしまう。
そこでは一緒に住んでいるものみんなが安寧に暮らせるように祈っている。
白川静先生の説によれば、その祈りのために犠牲を捧げ、それを表現したものが「家」という文字になった。
こんなふうにして、自然界に存在しなかった「家」という概念が生まれてきた。
似たようなことを人間は連綿と続け、いろんな概念と言葉を生み出してきた。
みんながなんとなくわかっていることをこうして言語化してきた。
これからも新しい言葉が生まれ続ける。

7月

20

発見の喜び

いろんなところに発見の喜びがある。
「そんなところに発見の喜びなどあるはずがない」と思っている人には見つけられない。
あまりにも普通な、陳腐な出来事の中にも発見の喜びは見つけられる。
それを見つけられる人は幸せ。
それを表現でき、他人に伝えられる人はもっと幸せ。

7月

19

素晴らしいものを探す旅

一体何が素晴らしいのか、それすらわからなかった。
そこが振り出しで素晴らしいものを探し続ける。
探せば探すほど、よくわからなくなる。
そして見つける。
「素晴らしいものは滅多にない」という前提がないと、素晴らしいものは見つからないということ。
素晴らしいものを見つければ見つけるほど、素晴らしいものは見えなくなっていく。
素晴らしいものが見つけられなくなってしまったとき、すべてが素晴らしいものであることに気づく。
そういうものの見方を許容でき、そうではないものの見方も許容できる。

7月

13

些細な選択

些細な選択によって未来を作っている。
朝ごはんに何を食べたかとか、メールになんて書いたかとか、家族に朝起きてどんな挨拶をしたのかとか、普段なんとも感じてないような些細な選択に、実は未来への鍵があるのかもしれない。
「そんなこと言ったら何もできなくなるじゃないか」と考えるのではなく、そういう可能性にあふれていることを喜ぼう。

7月

1

不快の区別

気持ちいいものについて4184もの区別を付けてきた。
そうしていると不思議なことが起きてくる。
「不快」のなかに気持ちよさを見つけるようになる。
または、「不快」と思い込んでいた感覚に、別の解釈を許すようになる。
それはいったいどういうことなのか、説明しようとしてもうまく説明できない。
あえて説明するなら、子供の頃に嫌いだった食べ物を大人になって好きになってしまうような感覚とでも言おうか。
「気持ちいいもの」について区別を与えれば与えるほど、「不快なもの」にも区別を与えていたのかもしれない。
それは自分が意図せずにも、心のどこかでそういう自動的な作業が発動していたのかも。
たとえば、気持ちいいものを表現すればするほど、太極図のようにどこかに不快な感覚がついてきて、そこに意図せぬ区別をつけていたのかも。
気持ちいいものを書き続けると、ときどきその作業が嫌になることがある。
それが陰の極まったとき。
それを過ぎて陽が現れるのをじっと待つ。
「気持ちいいもの」を書くように「不快なもの」も書ける気がする。
「不快なもの」を書き続けると、きっと「気持ちいいもの」にたどり着くのだろう。

6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

6月

29

することとしないこと

何かをすると、その影響が僕のまわりに生まれる。
たとえば「あの本読んだよ」といえば、その本を読みたい人が現れたり、また逆に「そんな本読むものか」という人が現れる。
そういう人たちがまた別の人に影響を与える。
同様に「しない」と決めたことにも影響が現れる。
そういう影響は多くの場合本人にはあまり感じられない。
でも確実にある。
それを知ると行動には喜びと慎重さが生まれる。

6月

28

嫌なことを体験すること

嫌なことを体験することが「気持ちいい」なんてとても言えない。
だけど、考え方を少し変えると、「気持ちいいかも」と思える。
僕たちは普段「個人」としてしか生きていない。
もしそうであれば「嫌なこと」は嫌なだけだ。
だけど「人類」という集団の一部であると考えると「嫌なこと」は改善すべき問題点に見えてくる。
「人類全体」が心地よい状態であるためには、僕が体験した「嫌なこと」は、改善すべき点となり、僕には改善する可能性が与えられたことになる。
その改善のためには多大な努力と時間と、計り知れないトライ&エラーが必要となるかもしれない。
でも、「人類全体」が心地よい状態になるためのお手伝いができるとしたら、ラッキーなことかもしれない。
その可能性を実現するか無視するかは、自己裁量である。

6月

27

子供と暮らす

幸せについて考えるとき、自分に子供がいないことが問題として現れることがある。
子供がいる人の幸せを理解できないのではないかと。
それは幸せにとってとても大きな要素のように思える。
赤ん坊のときその親は苦労する。
夜泣きしたり、理解できない行動をしたり、思わぬ事故にあったりする。
親はそれらに対処しなければ育てられない。
そのことを通してはじめて、「自分もそれをしてもらっていた」ことに気づく。
それは理性的に「気づく」だけではなく、感情的にも気づいていく。
「感情的に気づく」ということを説明することが難しいが、簡単に言えば、「理屈はさておき、大切にしたいから大切にする」という、損得もなければ、計算もなく、なんだかわからないけどただただ赤ん坊のためだけになることをしてしまう自分に気づくことだ。
それは言語的、理知的人間存在からは説明できないことで、生命がたどってきたすべての歴史を引きずってきている「心臓の鼓動」や「腸の蠕動運動」のように、それを感じて言語化しようとしてもしようがない、本能から引きずりだされる情動のようなものがそうさせる。
その情動にしたがって子供を育てることで、どんなに苦労してもあとで「よかった」と思える感情を親は手にする。
それはいろんな説明が付くかもしれないが、どんな説明も実は説明でしかなく、そのように感じるように生命は構築されてきたのではないだろうか。
子供と暮らすとき、その子が何歳であろうと、親は過去の自分と親の関係をそこに見出す。
その発見がどのようなものであろうと、親はそれを受け入れることで、幸福感に包まれるのではないだろうか?

6月

26

幸せになるということ

「幸せになる」というのはどういうことか考えてみた。
とても個人的で、一般の人には当てはまらない答えだったが、それこそが大切なのだと思うようになった。
それは、幼い頃からの体験に大きな根元がある。
うちには古本屋を開くことができるほど本があった。
木造家屋にただ本棚を置くと、その本棚があまりにも重くなってしまって、ついには床が抜けたりするので、本棚を新しく作るときには土台から作らなければならなかった。
そんな特殊な家に住んでいた。
幼い頃から家中にある本の背表紙を見ながら暮らした。
変な本がたくさんあった。
拷問の仕方とか、即身仏になる方法とか、売笑についてとか、普通の家庭にはこんな本ないよなと思う本であふれていた。
ある日そういう本の中から一冊を手に取る。
幼い頃にはまったく理解できなかった本が、理解できるようになっていく。
それが僕にとっての幸せだった。
そういう幸せに触れ続けるために本を読み、本を書く。

6月

22

太陽に意味を与える

太陽が輝いているおかげで、僕たちは生きていられる。
太陽がもし輝いていなかったら、地球は氷の星。
生命は生まれなかっただろう。
だから、太陽は一方的に僕たちに恩恵を与えていてくれるように思う。
僕たちは何か太陽にお返しをしているだろうか?
そう考えたとき、太陽を認識し、意味を与えていることが、僕たちのできる太陽へのお返しかもしれないと思う。
太陽を認識し、意味を与えても、太陽のためにはちっともならないと考えがちだが、果たしてそうなのか?
地球では二酸化炭素による温暖化が問題になっているが、一方で太陽は黒点が減少し、ミニ氷河期になるのではないかと言われている。
まるで地球の状況を見て太陽がバランスを取ってくれているようだ。
僕たちと太陽は重力で繋がっているが、ほかの要素でも繋がっているのかもしれない。
それとも重力に、コミュニケーションの能力があるのか?

6月

18

たくさんの意味

僕たちは言葉を持つことで何かにフォーカスすることができるようになった。
あれがしたいとか、これをしたいということを群れで共有できるようになった。
もちろん群れで何かの意図や目的を共有する動物はたくさんいる。
しかし、以前からある意味や行動以外の、新しい概念を共有することは難しい。
そのために言葉が役に立った。
ところが、あまりにもそれが発達したおかげで、「何かにフォーカスすること」以外の価値が見えにくくなってしまった。
たとえば「電話」という言葉。
僕が幼い頃は電話といえば二種類しかなかった。
黒電話か赤電話。
黒電話は家にある電話。
赤電話は公衆電話のこと。
しばらくすると公衆電話にもたくさんの種類が生まれ、黄色電話、ピンク電話、青電話、緑電話といろんな色が採用されて行った。
色が多様になるのと同時に、それぞれの色に象徴される電話の意味も生まれたはずだ。
だから、「電話」一言では、今の人たちはそれがどんな形状のものを指しているのか正確にはわからない。
ファックス付き電話かもしれず、グループ電話かもしれず、携帯電話かもしれず、スマートフォンかもしれない。スマートフォンの区別も考えると、いったい何種類の電話があるのか見当もつかない。
だけど、言葉上は「電話」でわかった気になる。
同じようなことがいろんな言葉で起きている。
「愛しているよ」という言葉の「愛」がどんな意味であるのか、よく聞いてみないとわからない。
ところが、自分が一番理解しやすいか受け取りやすいか、その微妙なところは人によってよくはわからないけど、たいてい人はどこかの意味に落ち着いている。
その意味の体系を組み直したり、壊してくれるのが文学的体験ということだろう。
他人と話しているとときどき自分の意味体系が壊れる。
「壊れる」と感じていることが、いかに自分の意味を強固に持ち続けているかを表している。
この世界にはたくさんの意味がある。
意味は次から次へと生まれてくる。
そのなかで、どうして自分の意味だけを大切にし続けるのか、よく考えなければならない。
言い方を変えると、なぜ自分の意味にだけしがみついているのか、ということになる。
自分を守るのと同様に、自分の意味も守らなければならない。
そう思い込んでいる結果、しなやかさを失っていることがあるかもしれない。

6月

16

アメリカの混乱

アメリカの混乱は、いったい何が起きているのか正しく把握することが難しい。
アメリカにいる人でもきっとそうだろう。
まして日本にいたら矛盾した話がたくさんあって、どれが正しいのかわからない。
もうすぐきっと日本も同じ状態になる。
これはきっと新しい時代の禊のようなもの。
山本太郎の都知事選出馬で、いろんな勢力がいろんなことを言い始める。
すっきりとしたいい時代に脱皮したい。

6月

15

膿を出す

アメリカでは大きな混乱が起きている。
日本でも政治では大きな問題がたくさん未解決のままに置かれている。
これから、もし本当にAIの時代が来たら、これらの膿がそのままではならない。
膿を出し切らないとそれは大きな問題として降りかかる。
だから膿を出しましょう。
ちょっと痛いかもしれないけど。

5月

31

抑圧からの解放

ひとは抑圧から解放されていく。
もしそうでなかったら、ひとはこれからますます暴力的になっていくだろう。
インターネットのおかげで万能感が与えられ、それにも関わらず抑圧され続けることで、ひとは心の中に鬱憤を溜めていく。
鬱憤を溜めない人になるために、何が必要か?
それを各個人が自分で考えていかなければならない。
制度で決められたものには不満が生まれる。
だから、他人が決めてもあまり意味がない。
自分が自分の内側の抑圧を、自分で解放していくしかない。
そうなるとエゴばかりのひとが現れてくるという恐怖を抱える人がいるが、そうはならない。
出し切るまでの間、エゴのかたまりのようなひとが現れるかもしれないけど。
人類は抑圧から解放されることで、以前には想像もつかなかったものを生み出すだろう。

5月

30

過去と未来

過去も未来もどこにもない。
ただ「いま」があるだけ。
過去は「いま」思い出したこと。
未来は「いま」空想したこと。
美しい過去も悲惨な過去も「いま」それを作っているだけ。
美しい未来も悲惨な未来も「いま」それを作っているだけ。
どんな過去や未来を作るのか?

5月

19

世界の人口

世界の人口77億4千万。
もうすぐ77億5千万。
産業革命が起きた頃から、人口は爆発的に増え続けている。
2055年には100億に達し、その後増加の割合は緩やかになるが、2100年頃に110億でピークに達するだろうと言われている。
1億に達するのに20万年かかったが、そこからたった200年で7億になった。
だから人口をコントロールしなければならないというが、生物の増加はままならないもの。
人間の生き方を変えるべきだろう。
いかにエネルギーの消費を減らすか。
AIのサポートでそれを可能にするとき、きっと社会のあり方も変わっていく。
狩猟社会から農耕社会に変わったように、農耕社会から工業社会に変わったように、工業社会から情報化社会に変わったように、次の社会はAI社会になる。
いまのままの社会で100億を超えることはできないだろう。
人々が生き生きと暮らし、あらゆる生物が共生し、どんな生命もおろそかにされないような地球を、実現できるのだろうか?
生物との共生がもし無理だとすると、おそらくAIによって人間はほぼ絶滅する。
もし生物との共生が可能になれば、AIとの共生も可能になるだろう。
生命もAIも共存できるビジョンを作ろう。

5月

17

非二元意識

一時期スピリチュアルな人たちの間でも「ノンデュアル」として話題になっていた。
僕がその存在を知ったのは二十年以上前、ケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』にその言葉が出て来たから。
その本の中で何度も「非二元的な知の様式」などという言葉で登場する。
はじめて読んだときはフロムの「生きるということ」に出てくる「あるということ」のように、意味がわかったようなわからないような状態だった。
書いてあることは理解できるが、言っている本当のところが、僕の想像しているものと同一のものかどうか自信が持てなかった。
ところが、「非二元的」なことが、いろんな本のあちこちに登場していることが、これ以降少しずつ理解できるようになった。
あれから二十数年、いまではすっかり「非二元」の追っかけフリークのようになってしまった。
ヒーリング・ライティングを通して、それをかいま見るにはどうしたらいいのか、伝えられるようになりたい。
でも、そのまま伝えられるものではなく、だからこそ秘教と言われている分野に登場するので、本にしたところで正しく伝えられるものではないことは知っている。
それでも、それを求める冒険の入口に立てるような本にしたい。

5月

12

妄想する

アフターコロナがどうなるか、妄想する。
根拠なんてなくていい、自分のとっていい社会とはどういうものか。
あまりにも利己的な社会を想像するのは無駄なことだ。
自分にとっていい社会といいつつ、実現する可能性を持たせるためには他人にとってもいい社会でなければ妄想するエネルギーが無駄になる。
面白い。

5月

11

生活が変わる

新型コロナウィルスのおかげで、多くの人が「世界が変わる」「生活が変わる」と言い出した。
どんな風に変わるのか、僕なりに妄想する。

みんなが好きな仕事をして生きていくことができるようになる。
政治は国民のサポートに徹し、国民のニーズにことごとく応える。
必要なものはたいていいつでもどこでも手に入る。
すべての人が本当によい教育を受けることで、世界中の民度が上がる。
民度が上がることで誰も他人を馬鹿にしないし、差別しない。
時間がたくさんあるから、いろんな国のいろんな言葉を学び合うようになる。
世界中の人々がネットで仲良くなって実際に会いにいくから、移動手段が必要になるが、地球からエネルギーを搾取しないように自転車や帆船での移動が多くなる。
帆船が増えると古代航法も復活し、ネットのやりとりと一緒にテレパシーでのやりとりも増えてくる。
電気は太陽発電や風力発電で、各家庭で必要な量を発電する。余ったら電力会社に売る。

妄想楽しいので止まらなくなりそう。

5月

8

競争を手放す

別に無理に手放すことはない。
まわりがみんな競争していたら、それに乗るしかないかもしれない。
でも、立ち止まってよく考えてほしい。
何のために競争をしているのだろう?
豊かになるための競争ならいい。
でも、どうも豊かになるためというよりは、誰かを踏みつけて上にあがりたいというふうに見えてしまう。
誰かより少しでも早く何かをするとか、効率的に何かを得るとか。
そういう人をまったくなくそうとは思わないけど、そういう人ばかりというのはなんか違うような気がする。
ほかの人にはない、オリジナルな自分を求めていきたい。

5月

7

ノヴァセン

ガイア理論を提唱したジェームズ・ラヴロックが99歳にして『ノヴァセン』という本を出版した。
簡単に書くと、人間も自然の一部なので、人間が作り出すAIも自然の一部であり、そうだとするといままでの生物が従ってきた法則に則るはずであり、人間の勢いがたとえ衰えても、AIが次世代を担うだろうという、明るいのか暗いのか判断が難しい未来について書いた。
人間が生き延びるかどうかについては、多分生き残るけど、覇権を握るのはAIになるだろうという。
僕もそうだろうなと思うし、まわりの友人たちにはその話をずっとしてきた。
いろいろと批判もされるが、なぜそうなのかという説明をしだすと長くなる。
ラヴロックはその説明の大部分をはしょっている。
賛成派と反対派に分かれるだろうなと思うけど、賛成しようが反対しようが、そうなるときはいつか来る。