6月

9

いろんな意味を受け取ると何に気づくのか

No.03861の続きを書く。
いろんな意味を受け取る人がどんなことに気づくかだが、それはたくさんのことに気づくことになるので、「これに気づく」というふうに限定はできない。
自分が持っている意味の枠組みがガラッと変わるので、人によってはそれをアセンションというかもしれないし、人によってはそれは気づきだというかもしれないし、人によっては悟りだというかもしれない。
そんなの当たり前に知っていたという人には、たいした変化は表れないかもしれない。
この話は最近の若い人で、センスのいい人ならすぐに理解するだろう。
平野啓一郎が『ドーン』という小説で分人主義と言う考え方を披露している。
それは、人間は誰でも、目の前の相手や、置かれた場所によって自然と自分のあり方を変えて行くというものだ。
それは意図的なものではなく、自然とそうなってしまうようなこと。
たとえば、会社で話す話し方と、家で子供に話す話し方では、自然と語調も雰囲気も違うだろう。
そのような状況によって異なる自分になってしまうことを認める立場が分人主義だ。
たとえば企業人としては認めざるを得ないことでも、父親としては認められないとか、地域社会の一個人としてはどう考えるとか、立場が違うと出す答えも違うことがあるだろう。
それをいままでは比較的「個人」という考えにまとめられ「矛盾があってはならない」という幻想を抱かされ、ひとつのある方向に思考を限定するような教育がなされてきた。
それは工業社会や帝国主義社会には必要だったかもしれない。
それがいま緩まりつつある。
緩まることで多様性を許容する社会となっていくだろう。
社会の多様性を許容するためにはこのような心の状態、つまりいろんな状態が複合していることを許容することが不可欠に思える。
そのようなことを感性的に受け取るきっかけのひとつとして多次元リフレーミングが使えたらなと思う。
結局、多次元リフレーミングとは何かだが、人はひとつだけの考えしか持たないものではない。立場によって違う考えを持つ。
だから、目の前に現れた現象の意味は一つだけではない。
しかも、別の人が同じ状況を体験しても、また別の意味が生じる。
そのようにして現象に対する意味は複雑で様々だが、その様々な意味を人間は共通のものでないとおかしいと思い込もうとしていた。
その思い込みを手放すときが来て、それを手放すことで何が表れてくるかということが大切なこと。
それを多次元リフレーミングが可能にする。
しかし、多次元リフレーミングが意味するものは、ここに書いたことよりもっと範囲が広い。
それはまたいつか。

6月

9

いろんな意味を含む言葉

「多次元リフレーミング」の話をするといったら「難しそう」といわれた。
確かに難しいのかもしれない。
でも、それを簡単に伝える方法はないかなと思っていたら、答えが夢に出てきた。
たとえば、この会話。

A「あの人に好きだって言ったんだ」
B「あんたバカやわ」

この会話文からどんな意味を読み取っただろう?
かつての僕なら「前提がわからないから正しい意味はわからない」と答えた。
それも確かなことだろう。
だけど、こんな答えもできる。
Aがどんな相手に「好きだ」と言ったかによって、いろんな意味が表れてくる。
もしAが遊び人風の男だったら、Bの「あんたバカやわ」は、「あんな男はやめておきな」という意味かもしれないし、「あんな男とつき合うなんて時間の無駄よ」という意味かもしれないし、「あんた物好きだね」という意味かもしれないし、往々にしてそれらすべての意味を含むことになる。
またはAが「好きだ」と言った相手が堅物でまじめで、浮気なんか絶対しないような男だったとしたら、Bの「あんたバカやわ」は、「結婚するつもり?」だったり、「遊びじゃ済まなくなるよ」という意味だったり、「あの男はやめておきなさい」だったり、またまたいろんな意味が浮上する。
そのどの意味を自分が受け取るのかは、心持ちや状態で変化することがある。
つまり、自分が持っている心的フレームによって、どんな意味が表れてくるかは決まってくる。
それが心の深い部分で同意できる人は、自分の心のあり方を変えることで、同じ文でもいろんな意味が浮上してくることがあることを受け入れられるだろう。
多次元リフレーミングでは、その自分の枠を意図的にいろんなものにしてみることで、自分が固く持ち続けている意味や解釈を別の物にしてみる試みだ。
無理にすることはない。
したい人がすればいい。
それが簡単にできる人は、いろんなことに気づいていく。
簡単にはできなくても、多少はできる人は、それを意図的におこなうことで着実に何かに気付いていくだろう。
次回へ続く。

6月

6

好きなら好きだとはっきりいえ、ない

最近この『日刊 気持ちいいもの』では、気持ちいいのかよくないのか、はっきりしないものが取り上げられるというご意見をいただきそうな気がする。(笑)
気持ちいいものを追求していった結果、「気持ちいい」と「気持ちよくない」の二分化は正しくないなと思うに至った。
どんな感覚でも繊細に感じていくと、「いい」部分と「よくない」部分と、さらに感じていくと「いいともよくないともいえない」部分が現れてくる。
それを「いいか悪いか」で二分するのはどうも違うなと、3859回も書き続けて感じるようになってきた。
ある日には「いいな」と思っていたものが、別の日には「それほどよくないな」と思うことなどいくらでもある。
しかし、一度「いい」と言ってしまったら、「正しい自分を演出するため」にはいつでも「いいものはいい」といい続けなければならないような気がしていた、というか、そういうことを意識もせずにそれを結果として心がけていたように感じる。
最近それは違うなと思うようになった。
右翼か左翼かと問われたとき、たいていの人は違和感を感じながらかつてはどちらかを選んでいたのだと思う。
でも、最近のセンスのいい人は「どちらかには決められない」と思っている人が多いのではないか?
立場やその日の状態や、話す相手などによって、言いたいことが微妙に違うのはよくあること。
あって当然だろう。
時代がその曖昧さを許容できるものになってきた。
国会も多数決だけで考えているのは時代遅れではないか?

6月

2

こころを落ち着かせる

僕が朝起きてすぐにこの「日刊 気持ちいいもの」が書けるときは、こころが落ちいている。
風のない湖の表面のように景色がはっきりと湖面に映るから、気持ちいいものがすっと書ける。
風が吹きまくる荒れた湖面には何も映らない。
だから、このメルマガを読んでいる人にひとつの楽しい読み方を伝授しよう。
この連載が朝届かないとき、きっと僕は四苦八苦している。
荒れた湖面を落ち着かせようと、風の反対側からふーふー吹いたり、うちわを扇いだり、扇風機を回したりしているはずだ。
そんなことをしても湖面は静かにならない。
たいていはさらに荒れる。
「しょうがねぇよなぁ」とあきらめた頃に風はやむ。
しかし「しょうがねぇよなぁ」では、自分の意図が働かない。
意図通りにやっていくためには僕がふーふーしなければならない。
ふーふー。
しかし、これには効き目がない。
さて、どうするか。
どうしようもないことを僕は悟った。

5月

30

猫を棄てる

文藝春秋に掲載されている村上春樹のエッセー「猫を棄てる–父親について語るときに僕の語ること」を読んだ。
いろんなことを思わされる文章で、「棄てる」の意味を考えてしまった。
「捨てる」ではなく「棄てる」。
「兵隊は日本に棄てられた」とか「棄てられても家に帰る」とか「一緒に棄てた思い出」とか。
最後に登場する猫の逸話。
木に登っていった猫を筆者は棄てたのだろうか? 棄てたと思っているのだろうか?
棄てたつもりはなくても結果として棄ててしまったようなことが、僕のまわりにもあるような気がする。
それは「気がする」だけで、それが事実だとは認めない。
現実を把握するのは難しいし、難しいと思い込みたい僕がいる。

5月

20

生きていること

この世に生まれて生きていること。
苦労であり、忍耐であり、努力であり、苦痛である。
しかし一方でそこは、楽園であり、大いなる夢であり、幻想であり、何かを達成する機会でもある。
ブッダが楽園を語ったように、どんな世界にいてもそこを楽園と感じることはできる。
どんなに辛い状態にいても、この世界を見られることはすごいことだと理解できる。
死んだら何も見ることはできない。
感じることもできない。
人間として生きているからこそ、問題が見え、苦労が見え、忍耐を体験できる。
この世界を楽園にするのが自分のミッションだとしたら、自分には何が出来るのか?
自分の非力を感じながら、多くの人と手をつないでいく。
失敗もあれば、成功もある。
難しいゲームほど、はまってしまう。

5月

17

質問

昨日、悟ったと書いたら、「どんな悟り?」と質問された。
確かにその質問には答えたい。
入口は「言葉」だ。
この入口を見つけたのは、いや、この入口に導かれたのは、ヒーリング・ライティングという宿題を授かったおかげだ。
それから22年間の質問と答えの日々が続く。
それらの集積のおかげ。
そして、何冊もの仏典や聖典を読んだ。
それらのおかげ。
実際に聖人と言われた方にも何人か会った。
そのおかげもある。
バリ島にニュピで通い続けたのもよかった。
幼い頃に比較的自由にいろんなことができたおかげもある。
本は好きなものを読めたし、音楽は作曲できるようになった。
そして就職して世の中を見る。
この就職先も良かった。
いろんな大手の会社と関わることができた。
そして、会社を辞めて自営になって、小さな会社ともやりとりするようになる。
このおかげもある。
毎日ささいなことで喧嘩したり和解したり言い合っている相方のおかげでもある。
経済的に苦労して、借金したりして、そういう苦労のおかげでもある。
もちろん、こうやってほぼ毎日気持ちいいものを書いていることとも関係している。
だから、これを読んでいるあなたのおかげでもある。
こういういろんな体験の積み重ねが、昨日の朝、パチッとパズルがハマったようにうまく組合わさった。
そのパズルは平面でも立体でもなく、多次元のパズル。
チチェン・イツァーで「この世界が多次元であることに深く気づけ」と言われたことにやっとたどり着いた。
その内容については、言葉では書ききれない。
でも伝えなければならないと思っている。
少しずつ書いていく。

5月

16

悟った

神通力が使える訳でもなく、世界のことがすべてわかる訳でもないけど、悟った。
悟りはとても繊細で、うっかりすると忘れてしまうようなものだが、その存在を認めることにした。
それは小さな命のようで、僕自身が食べ物や水を与えないとすぐにひからびてしまいそうだ。
だけど、それを育て続けることに決めた。
僕を包んでくれている一切の過去、環境、宇宙、人々に感謝します。

5月

7

心の散逸構造を確立する

今朝起き掛けに「心の散逸構造とは何か」と夢から問いかけられた。
散逸構造とはベルギー人のイリア・プリゴジンが1970年代に確立した考えで、液体など、流動的な物質に現れる現象だ。
たとえば生命は散逸構造である。
物質を取り込み、そこからエネルギーなどを抽出して、別の形でいろんなものを発散させることで、生命という非平衡的な状態を維持する。
つまり「心を散逸構造と見ると何が現れてくるのか」という課題を夢から与えられたのだ。
朝起きてイリア・プリゴジンを検索すると、エリッヒ・ヤンツの「自己組織化する宇宙」に序文を寄せていることを見つける。
もう30年近く前に読んだ本なので「おや、そうだっけ」と思って書棚から引っ張りだして読んだ。
その序文を読み終わり、ページをパラパラとめくると、その本の終わりにあった文章に赤線が引かれていた。僕がかつて引いた赤線だ。

生命を、とりわけ人間の人生を、自己実現のプロセスと見ることもできる。外的には、ダーウィン的な側面が解放に拮抗する体験を形成し、内的には、協調的な側面がより豊かな交響楽を奏でる意識のクレシェンドとなって、自己を実現させていく。自己組織化の新たなレベル–心の新たなレベル–が切り開かれる自己超越において、意識の和音はより豊穣なものとなるのだ。無限にきわまって、聖なるものと一致する。だが、聖性は人格とかのかたちをとることはなく、むしろ、多レベルのリアリティの総体的な進化ダイナミクスとして現れる。神秘に代わって〈意味〉が、われわれの主題に加わるのである。オルダス・ハクスレー流に言えば、われわれは〈全体意識〉となり、すべてを包括するこの心の進化に、そして〈意味〉という聖なる原理に、ひとりひとりが参与することになる。

はじめてこの本を読んだとき、「外的には、ダーウィン的な側面が解放に拮抗する体験を形成し、内的には、協調的な側面がより豊かな交響楽を奏でる意識のクレシェンドとなって、自己を実現させていく。自己組織化の新たなレベル–心の新たなレベル–が切り開かれる自己超越において、意識の和音はより豊穣なものとなるのだ。無限にきわまって、聖なるものと一致する。だが、聖性は人格とかのかたちをとることはなく、むしろ、多レベルのリアリティの総体的な進化ダイナミクスとして現れる。神秘に代わって〈意味〉が、われわれの主題に加わるのである。」の部分が、よくわからなかった。

二度目に読んだとき、ここがとても大切だなと思って赤線を引いた。

三度目にこの箇所を読んで、この部分を誰もが理解できる物語にしたいと思う。

4月

19

感情を見つめる僕といる

感情の嵐というものは勝手に吹き荒れる。
その最中にそれを観察するのは難しい。
「気持ちいいもの」を書くことで、何度もそれに直面する。
気持ちいい風が吹いているとき「気持ちいいもの」を書くのは難しいことではない。
嵐のときには難しくなる。
そのときに嵐を見つめる自分を見出す。

4月

18

何度も気づく

昔読んだ本をもう一度読むと、かつて読んだときと違った印象を受けることがある。
それは読んでいる自分が変わったから。
自分というものは変わっていく。
同じ言葉を使っていても、その言葉が表現しているものは変化していく。
だから、同じ言葉で同じことに気づいたと言っても、まったく同じ気づきではない。

4月

16

何をしているのかに気づく

毎日は書けないときもあるが、せっせと気持ちいいものを書くのはなぜか?
僕はずっと心を調えるためだと思ってきた。
だけどやっと気づいたことがある。
それは、自分の心の目の曇りを取ることだった。
常識とか思い込みとか、教え込まれたこととか、そういうことを通してしか物事を見ることができなかった。
その心の目の曇りを取るためにしてきたのだ。
なるほどね。
生きていることって、気持ちいいことしかないのだな、本当は。

4月

15

生きている

人生最大の驚きとは何だろう?
それをさっき見つけた。
自分が生きていることだ。
あまりにも当たり前なため、気づいていなかった。
オギャアと生まれたときから、僕は生き続けている。
すごいことだ。
いろんな意味で。

4月

14

一瞬の理解

人は一瞬にしていろんなことを理解する。
しかし、それを言語化できないために「理解した」と思えないことがある。
そのことを長い時間をかけて僕は理解した。
それをきちんと説明するには本一冊でも足りないかもしれない。

4月

11

言祝ぐ

おめでとうございます。
この文章を読んでいるあなたは世界でたったひとりのあなた。
この世界であなたにしかできない経験を積んでいる。
その貴重な経験はあなたこそのもの。
だからこそ、おめでとうございます。
あなたが生きていることに万歳。

3月

13

表現すること

生きていると、他人にはいえないことが仕方なく生まれてしまう。
たとえば、介護をしている親がいるために、友達に旅行に誘われても行けない、という状況があったとしよう。
そのとき、つい「親さえいなければ」と思ってしまう。
普通であれば「そんなことを思うなんて」と非難されてしまいそうなので、口には出さずに否定する。
「なんてこと考えてしまったんだ」と。
こんなとき、他人にわざわざ聞かせたり見せたりする必要はないけど、言葉や文字にしてみる。
「親さえいなければ友達と一緒に旅行に行けたのに」
こう言ったり書いたりしたあとで、「でも私は親の介護のために行かない」と表現する。
すると不思議なもので、言わないでいたときよりなんかすっきりする。
もしそれでもどうしても行きたいなら、親を誰かに頼んで旅行に行く準備をすればいいのだ。
それでもどうしても旅行に行ける状況にならないのなら、「この状況を打破する」と宣言する。
あいまいにしているとモヤモヤ感を抱えることになるが、はっきりさせると気が楽になる。
言葉の力はすごい。

2月

28

全体観を持つ

インターネットというメディアのおかげかもしれませんが、立場が違うと見えるものやことが違うということに多くの人が気づいてきています。
父は「敗者の文学」というのを追求していました。
負けた者から見た世界は、勝った者から見た世界とは違うということを小説の中に織り込んでいきました。
多くの人がそれに気づくことで、正しいとか間違っているとか、そういうことの基準が揺らいでいるように感じます。
その基準が動くことで、さらに多くの人たちが心地よく生きていけるようになればいいと思います。
でも実際にはそのゆらぎがいいことにも悪いことにも作用しているようです。
きちんと区別して行動していきたいものです。
たとえば、個人が感じる歴史と、国が解釈するであろう歴史とは異なり、どちらが正しいかというのは一概には決められません。
だからときどき、自分という枠を離れて、国や地球という視点からものを見ることもいいですし、逆に微細な生物がもし外界を見たらどんなことを思うのかということを空想するのも意味のないことではないでしょう。
そういう解釈を積み上げていったとき、いったい何が現れてくるのか。
それが僕たちの未来を思わぬ方向に導くような気がします。

2月

27

神様はいてもいいし、いなくてもいい

あるとき、神様はいるのかいないのかという話になって、みんないるとかいないとか意見を言い合ったのですが、僕はなぜか「いてもいいし、いなくてもいい」のではないかと思ったのです。
でも、なぜそう思うのかがうまく説明できなかった。
「神様はいるという人がいるし、そうは思わない人もいるから」とは考えたけど、まだあまりうまい説明ではないなと感じていた。
それが、2月24日に秩父でおこなわれた「武甲山未来フォーラム」に参加して、哲学者の内山節さんの話を聞いて、思わず膝を叩いてしまった。「なるほど」と。
そこで内山さんはこんな説明をしたんです。
「ヨーロッパの考え方は霊というものが存在してそれが人や社会を守っていると考えた。ところが日本ではそのようには考えなかった。どう考えたかというと、かつて生きていた死者がいる。その人とどのような関係を取り結ぶのかが重視された。神様を大切にする人には神様との関係ができて神様がいるし、神様なんかいないという人には神様はいない。世の中に男と女はたくさんいるが、夫や妻は一人だけ。それはその人と関係を結んだから。それと同じ」
ひとつの謎が解けてすっきりしました。
この講演の概要はこちら。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/190225-01/

2月

18

3768個の気持ちいいもの

僕がなぜ「気持ちいいもの」を書き続けているのか、その理由はここに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/feelgoodblog/what_is_daily_feel_good/
そして、自分の心の中で様々なリフレーミングが現れるのだろうと期待していた。
3768個も書き続けてきて、そのリフレーミングが複雑に積み重なり、なんともいえない状態になりつつあることを感じる。
これはきっとある種の悟りなんだろうなと僕は思う。
ただし、ブッダの悟りとは明らかに違う。
いろんなお経にあるように、別世界へと僕の心は旅立つことはない。
かつてバリ島でニュピの瞑想をしていたとき、朝日とともに弥勒菩薩が飛んで来て、一体化した経験がある。
もちろん夢だと思うのだが、夢にしては生々しいし、それで一気に目が覚めた。
それ以来、ときどきそのときのことを思い出す。
もちろん、この「気持ちいいもの」を書いているときにもしばしば思い出した。
言葉にすることでできた森。
多次元な感覚を再生するための鍵。

2月

8

世の中はあふれている

いい情報も悪い情報もゴッチャになって流れている。
その整理をつけるのがきっと人間の仕事だろう。
にもかかわらず本の読めない人が増えていると言う。
長い文章があると理解ができない人。
そういう人は短い文章から理解していけばいい。
文章はそもそも面倒なものだ。
一瞬で理解できることも、文章にするとどうしても時間がかかる。
でも、時間をかけたおかげで理解できることもある。
「一瞬で理解できる」というのは魔物だ。
「一瞬で理解できる」ことの深さを問わなければならないが、その深さは往々にして長い時間をかけて言語化をしてはじめて表に現れてくる。
その深さは人によって全く違うものだから、その深さについて論議することはとても時間のかかる仕事になる。
わかった気になって放置しておくと、些細な差があとで大きな差になってくる。
だから、繊細な人ほど文章が理解できないと思い込むのではないか?
同じ文章の解釈は丁寧に考えていくと百人百様。
表面上は同じ意味だが、その行間に分け入っていくと、読む人によって見ているものが異なってくる。
だから、わかるわからないなんかあまり気にせず、とにかく読んでみること。
僕が小学生の頃、親父が「ようじは江戸川乱歩が好きか?」というから、「好きだ」と答えた。
怪人二十面相などの子供向けの推理小説を読んでいた。
ところが、それから数日後に、大人向けの江戸川乱歩の全集が届いた。
小学生にはどうかじりついても読めない。
人間椅子になって女性に座られる喜びなんて、小学生には理解不能だ。
笑うしかない。
だけど少しずつ読んでいった。
小学生にこんな教育してもいいのかと思いながら、「こんなの読ませるなんて、変な親父」と思いながら読んでいった。
でも、そのおかげで、理解できないものを読んでも、いつか理解できる時が来ることへの信頼が僕のなかに生まれた。
いまだによく理解できない文章に出会う。
でもそれは、いつか理解されることを待っているのだ。
さあ、世の中にあふれている意味の渦に飛び込もう。

12月

27

人新世の投げかける問題

2000年2月、メキシコでおこなわれた地球圏・生物圏国際共同研究計画(IGBP)の席上、オゾン層研究でノーベル賞を受賞したパウル・クルッツェンが叫んだ。
「我々は完新世ではなく、すでに人新世の中にいるんだ」
その二年後、クルッツェンは科学雑誌『ネイチャー』に論文を投稿する。
その論文で彼は1784年から人新世という地質時代を加えるべきだと主張した。
地質時代はそもそも数百万年から数億年の単位で変化してきた。
それに比して人新世はたった200年程度のものでしかない。
本当に地質時代に見合うものなのか?
クリストフ・ボヌイユとジャン=バティスト・フレソズはそれを擁護する共著書『人新世とは何か』を発表する。
読むと確かに納得させられる。
僕たち人類は地層も大気圏も水圏も、1784年以降どれほど変化させてしまったのか読むことができる。
地球に対する知性の影響は斯くも大きなものであった。
当時の知性は社会と自然の関係に目隠しをする「欲望の裏返し」だった。
それにやっと気づくときが来た。

12月

26

水滴の音

水道から水が滴り、コップに落ちる。
その音に聞き入りながら水琴窟を思いだす。
一粒の水滴が空洞に豊かに響く。
水琴窟の水滴にはたくさんの生命が宿っている。
生命の歌が響く。
地球に満ちあふれた人類。
人類の歌も水滴に宿る命に伝えよう。
名のない命もともに繁栄するように。
形が違うだけの、遺伝子という名の複製子に支えられた仲間達。

12月

13

ジョギング

ジョギングは習慣になるとせずにはいられなくなる。
はじめのうちはダイエットとか、健康のためにとかいって始めるが、次第にからだが慣れてくると、走りたいから走るようになってくる。
もしダイエットが理由なら、体重が減少して目標値に達すればしなくてもいいことになる。
だけど、目標に達しても、僕の場合はジョギングを続けた。
なぜかと問われれば、走ることが気持ちがよかったからだ。
ここまで書いて思考は飛躍する。
仕事も気持ちいいからするようになれるといい。
仕事は義務だから嫌々するものと思い込んでいる人がいる。
それは「嫌々でもさせたいことがある人」が考えることで、自発的にそう考える必要はまったくない。
「嫌々でもさせたいことがある人」の洗脳によって、多くの人がそういうものだと考えるようになってしまったようだ。
したい人がジョギングするのと同じで、したい人がしたい仕事をすればいいと思う。
その人が自分の技術を高めようと考えれば、他の人がしたいとも思わないこともするようになっていく。
たとえば僕の場合は、ジョギングを続けることでマラソンを走りたいと思うようになった。
それで42.195kmを走れるようにいろんな工夫をする。
嫌々そんなことをさせられたら、僕にはマラソンは無理だっただろう。
働くことも、もし気持ちよければ自発的な工夫がたくさんできる。
それが自然なことだと思う。

12月

10

神の詩 バガヴァッド・ギーター

何年か前に読んだが
そのときはあまり意味が
わからなかった。
戦争の最中に悩む者と
至上者との対話。
悩む者は
「一家一族を全滅させたり
 親しい友人同志が殺しあうほどの
 過誤があったとは思えません」
と嘆くが、至上者は
「すべての生物は永遠不滅であり
 その実相は人智では測り難い
 破壊されうるのは物質体(肉体)
 だけである
 だから戦え」
という。
何度も問答を繰り返し、
ついに導かれるのは
宇宙普遍相の偉大な形相(姿)。
果たしてそこに何を見るのか。

真実も科学も高度になればなるほど
少しの歪みが大きな影響を与える。
神の詩も、少し間違えると
とんでもない考えに導かれるだろう。
仏教でいう「真如」とともに
これを読むことが求められる。

12月

6

おもろさうし

昔懐かしい歌詞の一部が
はじめて読む文章に
埋め込まれていると
それを読んだ途端に
感覚が懐かしい頃を思い出す。
そのことを思いながら
「おもろそさうし」を読むと、
沖縄のきらびやかな時代が
どのように編まれていたのかが
わかるような気がする。