11月

23

思い込んでいるものとは違う

僕はたくさんの幻想を持っている。
僕は六感で感じることしか知らない。
つまりそれらの感覚で生まれる幻想と共に生きている。
だとしたら、真実とは何か?

11月

20

いろんな意味を感じる

いまニュースになっているいろんなことについて、いろんな意味を感じてみる。
いろんな解釈が可能だ。
だけど、もし自分が恐怖に駆られていて、「とにかく安全でないといけない」と考えると、他の存在を軽んずるようなことを考えるかもしれない。
日本とか、世界とか、大きな社会のことを考えるのなら、大きな視点を持たないと判断を誤る。
自分という個人のことだけを考えていては正しい考察はできない。
だからといって日本のことを考えるのに、日本だけのことを考えてもダメだ。
各個人のことを考え、国のことを考え、世界のことを考える。
その上で、考えることを脱してそれぞれの階層を感じてみる。
そのためにはまずたくさんのことを学ばなければならない。

11月

20

世界の正直化

ネットのおかげで、かつては普通では知られなかった情報が流れてくるようになった。
フェイクも含まれているが、フェイクではないものもある。
どれがフェイクでどれが真実か見分けるための感覚を養わないとならない。
多くの人がそれができるようになってくると、世界の正直化が加速度を孕む。

11月

11

小さな勝ち負け

目の前の小さな勝ち負けにこだわる。
あらゆることを知ることはできない。
だから、それが本当に正しいことなのかどうか、わかりようがない。
小さな勝ち負けにこだわったところで、宇宙に対して意味があるのかないのかわからないし、あってもなくても僕には関係ないのかもしれない。
理解できる意味にこだわるしか仕方ない。

11月

8

トランプとバイデンの大統領選

世の中のあり方が明るみに出てしまう出来事がある。
かつて911がそうだった。
もっと古くはケネディ大統領の暗殺もそうだろう。
しかし、どちらも事実は明るみには出ず、「陰謀論」というレッテルが貼られるたくさんの説が現れて終わりになる。
噴出してくる陰謀論のうち、どれかは正しい話だろうし、もしかしたら陰謀論に目を眩まされて掴めていない事実があったのかもしれない。
今回の大統領選もそういうことの一つになるのだろう。
そこから何を学ぶべきなのか?

11月

8

長い文章を読まないと理解できない概念

本を読んでもなかなか理解できない概念がある。
一度読んでも理解できず、すぐに読み直して理解できることもあるが、時間を置いて読まないと理解できないこともある。
他のことを学んでやっと理解できるようになった時、とても嬉しい。
そうやって手に入れた概念は、しばらく使わないと忘れてしまう。
しかも、そういう概念は、すぐに役に立つことはあまりない。
長い時間をかけて磨いて熟成させて、やっと何かの役に立つ。

11月

5

豊さとはたくさんの意味に気づいていること

アメリカの大統領選は混沌としてきた。
いろんな人がいろんな意見を言うだろう。
そして、どの意見が本当は正しいのか、よくわからなくなっていく。
アメリカにはすでにたくさんの謎が存在する。
なぜケネディ大統領が暗殺されたのか。
911の本当の主犯は誰なのか。
なぜ大量破壊兵器のないイラクが攻撃されたのか。
挙げていけばキリがない。
そして、そのような政治の在り方は、世界全体を包んでしまっている。
残念というしかないが、そのことをきちんと知っておく必要がある。
たった一つの真理を求めていくと、解釈や立場、見方の違いによる意見の相違を許容することができなくなっていく。
どちらが正しいか、戦わざるを得なくなる。
解釈や立場の違いによって見方の相違が生まれてくることは仕方のないことだ。
それを許容できないと暴力が行使されてしまう。
立場が違えば意味や解釈が違うことを許容し、その違いを越えて共同するためには時間がかかるだろう。
しかし、その時間を取ることで、豊かな結果を得られるよう努力していかないと、地球環境は荒れ、人々は無意味に殺され、荒涼とした世界に直面しなければならないだろう。
どんな出来事にもいろんな意味が生まれてしまう。
そのことに深く気づかない限り、無意味な争いが続くだけだ。

11月

4

全体性を見つめる

全体性を見つめると、悪は善に勝てない。
堕天使は天使に勝てない。
闇は光に勝てない、
だから光は闇の存在をただ愛してあげれば良い。
共感しつつ、その境界線を認識していればいい。
愛とは、関わり合う全ての存在をありのままにしてその力を引き出すような、高度な組織化を助ける力だから。

11月

2

古い常識

常識はいつも同じもののように感じてしまうが、時代とともに変化する。
変化してしまった過去の常識はたいてい忘れられる。
ところが、毎日のように文章を書いていたり、古い本を読むことでそれを思い出す。
長く生きていると大切なこと。

10月

29

心が揺れる

些細なことで心が揺れる。
「そんなこと気にしているんだ」と気づく。
僕の心は薄い絹のカーテンのよう。

10月

23

意味をたくさん持つ

毎日気持ちいいものを書くことは気持ちいい。
毎日気持ちいいものを書くことは面倒だ。
毎日気持ちいいものを書くことは勉強になる。
毎日気持ちいいものを書くことは無駄なことだ。
毎日気持ちいいものを書くことは価値のあることだ。
毎日気持ちいいものを書くことは暇な人がすることだ。
毎日気持ちいいものを書くことは心の修養になる。
毎日気持ちいいものを書くことは意味がない。
毎日気持ちいいものを書くことは光を灯すことだ。
毎日気持ちいいものを書くことは闇を見つけることだ。
・・・
こうやって毎日いろんな意味を見つけ続けられることがとてもありがたいこと。
このような状況を生み出してくれた一切の存在、状況、宇宙に、深い感謝を捧げる。

10月

22

満足する

現代の人にとって、満足するというのがとても大切な課題になってきた。
どんなに技術力をあげても、どんなに環境負荷の低い商品を作っても、環境破壊は止まらない。
今の文明で満足し、物資が足りない国や地域、資源が足りなくて困っている人たちに、一緒に生きていくために何ができるのかを考え、自分の利益や楽しみや消費が過剰にならないように考えなければならない。
それは、自分の身の回りの状況を考えて何が過剰かを考えるのではなく、飢餓や飢饉、戦争や難民の状況を考えた上で、何が過剰かを考える。
日本のような先進国は、どう考えても過剰だ。
もう今の状況で満足するべきだろう。
国内においてもヒエラルキーの下にいる人たちからの過剰な搾取はもうやめよう。
特に資産をたくさんお持ちの方は。
不満足な人を満足させてあげよう。
そしたらきっと、新たな不満足の循環は生まれてこなくなる。
もう十分に与えられているのだから。

10月

20

欲望の拡大を抑制する

資本主義では人間の欲望をうまく利用することで社会を成立させているという。
社会が成熟するまではそれでよかっただろう。
でも、そろそろ欲望の拡大に歯止めをかけるべきではないか?
人間は十分に地球資源を搾取した。
これからは搾取せずに生きる術を探すべきだろう。
そのためには、自分の中に存在する「欲」に直面しないとならない。
他人に対する搾取についても考えなければならない。

10月

15

複雑なことを味わう

世の中はよく見てみると複雑なことで満たされている。
その複雑なことを一般の人はすべて知る必要はないようにできている。
そのおかげで多くの人は楽に生きていける。
一方で、複雑なことを知ることで、それまで見えなかったことが見えてくる。
どちらの楽しさを味わってもいいし、辛さを味わってもいい。

10月

4

可能性を高める

これから、可能性を高めるためには、以前とは違うことをしなければならなくなるだろう。
たとえば、かつてなら可能性を高めるために勉強しただろうが、これからは可能性を高めるためにあえて勉強しないでいることが大切になるかもしれない。
なぜそんなことになるのか。
知識がどんどんとホロン階層を作っていくために、低いホロンに関わっていると、高いホロンの理屈を学べなくなるから。
しかし、高いホロンが未来的に存続するかどうか、それは現時点ではわからない。
その時その場で踊るしかない。

8月

24

概念を伝える

新しい概念がきざしたとき、それを他人に伝えるのは難しい。
きっと誰の頭にも新しい概念が宿り、それを伝えたいとは思うけど、どう説明したらいいのかがわからず伝えられていないことがたくさんあるだろう。
どうしても伝えなければならないことは、伝えるための努力をしなければならない。
人間として生まれ、言葉を与えられたからには、そのような努力が、実は一番の喜びになるのではないか。

8月

24

考えを反芻する

毎朝この『日刊 気持ちいいもの』を書くために、瞑想したり、考えを反芻したりする。
いろんな思いや考えが現れては消えていく。
反芻した考えを理解するためにはその前提となることも理解しないとならない。
毎日少しずつ考えることは、実は物凄い価値を生む。
その大きな価値は、毎日少しずつ考え続けた人が得る。

8月

7

新月瞑想会

新月の日に瞑想会をしていたことがある。
環境の良い部屋を借りて、そこで瞑想会をした。
いろんな人が来てくれたが、しばらくして嫌になってやめた。
「なぜ新月に瞑想するのですか?」と聞く人が現れた。
バリ島のニュピがほぼ新月の日だったというのが僕のなかでの理由だが、質問する人はその効用を聞きたがる。
「そんなもの知らん」と答えるのもどうかなと思っていたので、色々と言葉を濁したが、それが嫌だった。
今にして思えば「そんなものは知らん」と答えればよかったと思っている。
「僕がそうしたいから」でもよかった。
でも面白いもので、今ではネット上で「新月 瞑想」と検索すると、いろんな理由を読むことができる。
僕はそれらを「本当か?」と思っている。
新月に瞑想するのは、僕がなんとなく良いと思うから、それだけだ。
自分一人だと新月の日に瞑想をするというのはなかなか難しい。
なおざりになってしまったりする。
そこで、ここで宣言をして新月瞑想を再開することにした。
そもそも『日刊 気持ちいいもの』も、自分一人でこっそりやっていたら長続きはしないなと思って始めたこと。
それと同じだ。
天文学的に最も新月である時間というものがある。
それを調べてその時間に瞑想する。
昼間だったり、深夜だったりすることもあるが、都合が悪くてできない時にはそれを伝えます。
もし一緒にやりたい人はやってみてください。
次の新月は8月19日(水) 11:42 です。
「一人でやるのはなぁ」とか「やり方がわからない」という方には、ネット上でZOOMを利用して誘導瞑想をいたします。
こちらからお申し込みください。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/contact/
題名に「8月19日の新月瞑想に参加希望」と書いてください。
返信いたします。
そこにZOOMのURLや、参加のための手引きなどを書いて送ります。
参加費は無料です。
どんな宗教とも関係ありません。
8月19日(水) 11:42 に瞑想状態でいられるように、11:32から誘導を始めます。
11:30にはご入室ください。
11:30を過ぎるとご入室いただけなくなります。
瞑想は11:50頃には終了し、少しだけ皆さんの感想などを聞き、12:10には閉会します。
「なぜ新月に瞑想するのですか?」という質問はしないでください。w

8月

7

奇跡的なことを信じてみる

奇跡的な話というものを信じないように教え込まれている気がする。
「そうそう都合のいいことは起きない」と思い込まされている。
その思いがあるおかげで詐欺には引っかからない。
一方で、本当の奇跡に接したとき、そのことを素直に喜べなくなる。
よく話を聞いた上で、実際に体験することで、奇跡というものを信じると、何かとてもさっぱりとする。
例えば、清田益章さんに目の前でスプーンの柄を曲げて、ついにはポッキリと折ってもらったことがある。
疑いの目が見ているとモヤモヤするが「そういうものだ」と信じるとすっきりする。
自分の身の回りで起きることも同じ。
「そんなの信じられないよ」と思っている間はモヤモヤするが「そういうものか」と信じるとさっぱりとする。

8月

3

矛盾を受け入れる

毎日のように気持ちいいものを書いていると、自分の中で矛盾していることに気がつく。
そういうとき、かつては外界との関係を考えて正しいと思われるほうを選んでいた。
あるときから矛盾をしばらくそのままにするようにした。
すると居心地が悪かった。
今もときどき居心地が悪いことがある。
でも、それをそのままにしておく。
すると、個性化の扉が見えてきた。
その先はなんだろう?

8月

2

暗黙知の言語化

なんとなくわかってはいるけど、うまく言葉にできないことがある。
例えば、「家」という概念がなかった頃の人間がここにいたとしよう。
現在の家ほど立派なものではないが、動物の「巣」とは何かが違う場所に住んでいる。
「巣」にはたいてい屋根がない。
「屋根を付けた巣」だと表現してみる。
しかし、それもしっくりこない。
「巣」とは何が違うのか考えてみる。
そうだ、「巣」では何世代も同じところに住まないが、僕たちの住む場所は何世代も受け継ぐものだ。
だから「世代を超えた巣」とか言ってみる。
御先祖様がそこにいたし、きっと今もいるかもしれない。
そういう守るべき場所だ。
「屋根を付けた世代を超えた巣」という言葉は不便だ。
「寿限無寿限無」の落語のようになってしまう。
そこでは一緒に住んでいるものみんなが安寧に暮らせるように祈っている。
白川静先生の説によれば、その祈りのために犠牲を捧げ、それを表現したものが「家」という文字になった。
こんなふうにして、自然界に存在しなかった「家」という概念が生まれてきた。
似たようなことを人間は連綿と続け、いろんな概念と言葉を生み出してきた。
みんながなんとなくわかっていることをこうして言語化してきた。
これからも新しい言葉が生まれ続ける。

7月

20

発見の喜び

いろんなところに発見の喜びがある。
「そんなところに発見の喜びなどあるはずがない」と思っている人には見つけられない。
あまりにも普通な、陳腐な出来事の中にも発見の喜びは見つけられる。
それを見つけられる人は幸せ。
それを表現でき、他人に伝えられる人はもっと幸せ。

7月

19

素晴らしいものを探す旅

一体何が素晴らしいのか、それすらわからなかった。
そこが振り出しで素晴らしいものを探し続ける。
探せば探すほど、よくわからなくなる。
そして見つける。
「素晴らしいものは滅多にない」という前提がないと、素晴らしいものは見つからないということ。
素晴らしいものを見つければ見つけるほど、素晴らしいものは見えなくなっていく。
素晴らしいものが見つけられなくなってしまったとき、すべてが素晴らしいものであることに気づく。
そういうものの見方を許容でき、そうではないものの見方も許容できる。

7月

13

些細な選択

些細な選択によって未来を作っている。
朝ごはんに何を食べたかとか、メールになんて書いたかとか、家族に朝起きてどんな挨拶をしたのかとか、普段なんとも感じてないような些細な選択に、実は未来への鍵があるのかもしれない。
「そんなこと言ったら何もできなくなるじゃないか」と考えるのではなく、そういう可能性にあふれていることを喜ぼう。

7月

1

不快の区別

気持ちいいものについて4184もの区別を付けてきた。
そうしていると不思議なことが起きてくる。
「不快」のなかに気持ちよさを見つけるようになる。
または、「不快」と思い込んでいた感覚に、別の解釈を許すようになる。
それはいったいどういうことなのか、説明しようとしてもうまく説明できない。
あえて説明するなら、子供の頃に嫌いだった食べ物を大人になって好きになってしまうような感覚とでも言おうか。
「気持ちいいもの」について区別を与えれば与えるほど、「不快なもの」にも区別を与えていたのかもしれない。
それは自分が意図せずにも、心のどこかでそういう自動的な作業が発動していたのかも。
たとえば、気持ちいいものを表現すればするほど、太極図のようにどこかに不快な感覚がついてきて、そこに意図せぬ区別をつけていたのかも。
気持ちいいものを書き続けると、ときどきその作業が嫌になることがある。
それが陰の極まったとき。
それを過ぎて陽が現れるのをじっと待つ。
「気持ちいいもの」を書くように「不快なもの」も書ける気がする。
「不快なもの」を書き続けると、きっと「気持ちいいもの」にたどり着くのだろう。