11月

19

庭になっていたという柿を知人からいただいた。
いただいたときはまだ硬かったのでしばらくおいて今朝食べた。
やっぱり両親のことを思い出す。
18.11.30のNo.03715に書いた話。
毎年硬い柿が好きな母は硬いうちに柿を食卓に出し、父は柔らかい柿が好きだったので怒る。
ニーチェは「夫婦生活は長い会話だ」と言ったそうですが、柿の話を思い出す度に「夫婦は永遠の会話だ」と思うのです。
なにしろ、毎年繰り返していた両親の会話を、二人とも亡くなってからも僕が思い出し、僕がこうして書くことで、誰かがその話をきっといつか思い出すんだろうなと思うから。
言語学者が、子どもがどのように言語を獲得していくのか研究するため、自分の幼い娘の会話をすべて記録して分析したことがありました。
予想では、新奇なことをたくさん話すのだろうと予測していましたが、実際には話題は限られていて、ほぼ毎日繰り返されることの些細な変化についてよく話したそうです。
両親の柿の話もきっと毎年些細な変化を繰り返し、最初は本気で喧嘩していたが、途中から毎年の恒例になり、そのうちに「また柿の季節になったねぇ」という意味を含んだ口げんかとなり、最後には「また今年もこの会話を繰り返すよ」と思いながら、談笑していたのかなと思います。
その毎年の変化に当時の僕は気づけず、本当のところは覚えてないのですが。
こうやって繰り返すことで、新たな発見があり、新たな概念が生まれ、それがいつしか新しい言葉として表現されるようになり、子どもは言語を獲得し、大人はさらなる気づきを得ていくのでしょうか。

11月

18

山川草木悉皆仏性

日本人にはあらゆる存在に仏性があったり、神様が宿っているという感覚があった。
原子にも仏性があり、だから複雑なネットワークを通して生命が生まれてくるのだと思う。

11月

13

長い目で見る

世間の情報の流通があまりにも早いので、つい目先にとらわれてしまう。
だからこそ、長い目で見ることが大切。
長い目で見ないと、かなり遅れてひどい目にあうことがある。
多くの場合、そのことに気づけない。

11月

10

愛による、個人の全体化

個性を伸ばしていくと、個性同士がぶつかり合って、なかなか合意に至れないと考えがちである。
しかし、テイヤール・ド・シャルダンは、その背景にキリスト的な愛がありさえすれば、互いに認め合うことが可能であるとし、それが人類を統合するための鍵だとした。
みんなが同じ考えを持つべきと考えるのではなく、みんな違ってみんないい状態を、愛を通して生み出すことができるという。
それがいったいどういうことなのか、僕たちはまだ知らない。

11月

5

ホワイト・フラジリティ

『ホワイト・フラジリティ〜私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?」という本を読んだ。
白人がなぜ黒人差別をしてしまうのかについての本である。
BLMが社会問題として浮上したアメリカで、ベストセラーになったとのこと。
白人はレイシズムがいけないということを知っている。
だから、みんな自分はそんなことはしないという証拠をあげつらう。
しかし、そのような行動すら、黒人にとっては不快な行動に思えてしまう。
では、どうすればいいのか?
それが理解できるように書かれているが、微妙な話なのですべての人がこれで理解できるかどうかは疑問だ。
僕自身理解したのだろうか?
この本には白人が否応なくしてしまう黒人への差別について書かれているが、敷延することで、日本人が直面する社会問題のヒントにもなると思う。

11月

2

不愉快なこと

身の回りで不愉快なことが起きると、気持ちいいものは思い浮かばなくなる。
「仕方ない」とも言えるが、「修行が足りない」とも言える。
「もっとがんばれ」とも言えるが、「たまには力を抜いたら」とも言える。
「いい加減ばかなことはやめろよ」とも言えるが、「ここが踏んだりどきだ」とも言える。
どれかが真実でどれかが間違いということはない。
そういう言葉のあいだで揺れている自分を見つめよう。

10月

25

ナイト・レインボウ

本を整理していたら「Tales from the night rainbow」という本が出てきた。
No.04584に書いた「夜の虹」について書かれた本。
山崎美弥子さんに確かめたら、「はい。この本です」とのこと。
20年近く前にすでにその話に触れていたのに気づかずにいた。

10月

19

単純化

「日本人はこういう人間」とまとめる本がたくさんある。
縄文文化の影響でとか、平安時代の何かにちなみとか、江戸時代の風習によってとか、いろんな理由でまるっとまとめられる。
そのおかげで好き勝手なことを言えるが、実際にはいろんな人がいる。
単純化することで表現の楽しみが生まれるが、複雑なものを複雑なまま受け入れようとすると、難しくなって手に負えない。

10月

18

かつての指

ピアノが弾けた。
かつての指。
しばらく弾かなかったので忘れてしまった。
最近はパソコンのキーボードもミスタッチが増えたように思う。
かつての指に戻らないかとさすってみる。
今の指も悪くはない。

10月

13

理屈っぽい話

理屈っぽい話嫌い。
でも本は理屈が通っているのが好き。
自分自身は非常に理屈っぽいらしい。
他人からよく指摘される。w

10月

5

映画「MINAMATA」の功罪

映画「MINAMATA」にはあきらかに事実とは違う点がいくつかある。
だから、あの映画の話がすべて史実に則っていると思うと、大きな間違いが生じる。
たとえば、チッソはユージンの現像小屋を放火したりしなかったし、ユージンを買収しようともしなかった。
「チッソという会社がとんでもないことをした」という概念を伝えるためにそうしたのだろうことはよくわかるが、してないことをしたかのように勘違いしてしまう人が現れてくるのは問題だ。
水俣にかつてそのような事件があり、それを思い出すためにはいいかもしれないが、事実誤認が大きくなると、手の付けようがなくなるかもしれない。
もしかしたらアメリカでは映画「MINAMATA」は公開されないかもしれないという。
表立った理由はジョニー・デップが家庭内暴力をしたからということになっているが、人によってはチッソから訴訟を起こされた場合、映画会社が勝てないからといっている人がいる。
水俣に興味を持った人は、きちんと事実を調べてみる必要がある。
今日のポイント、映画「MINAMATA」は面白い。でも事実とは違う。
これも正直化の一環か。

10月

3

走馬灯

死の間際に走馬灯のように記憶が甦るというが、僕にはそういう体験がないので、それが本当かどうかはわからない。
だけど、PCに入っている好きな写真を何十枚か、スクリーンセーバーがかかるときに見られるようにしている。
でてくる写真はこの十年ほどのものでしかないが、過去の写真を見ていると、ふと幸せな感覚になるときがある。

10月

1

繊細さを忘れながらそれに直面する

幼い頃、日本語の歌が嫌いだった。
テレビからはいろんな歌謡曲が流れていた。
それがことごとく恥ずかしかった。
多くは恋愛の歌で、とても僕には歌えないと思った。
ところが、大学生の頃には慣れてしまった。
理系だったので文章はほとんど書かなかった。
書くとなんだか恥ずかしかった。
だから日記は二日と続いたことがない。
会社に入った。
会社にいると文章を書かざるを得ない。
だけど、自分のことを書くのではなく、企画書とか、何かの趣意書だとか、他人事ばかり書いていた。
そうやって自分の内側にある繊細さを忘れていった。
自分のことを書くと途端にその繊細さに直面する。
「僕がいいたいことと違う」
いつもそう思っていた。
言葉にすると、大切なニュアンスがごそっと抜け落ちるような気がした。
だけど、それに慣れていった。
「日刊 気持ちいいもの」を書くことは、そういう繊細さを忘れていくことだ。
まるっと感覚を捉えて表現する。
一方で、うまくは書けないニュアンスに直面し続けることでもある。
あなたは「いったいどっちだ」と思うかもしれない。
うまく説明はできないが、どっちでもあるんです。

9月

29

真実を味わう

真実はプリズムのようにいろんな光を放つ。
たったひとつの真実なんて、きっとどこにもない。
いろんなものに見える真実を、真実だと認めたら、それを表現する言葉はきっといろんなものに見える。
他人に理解してもらうためには、大雑把に括らなければならない。
それを真実だと信じるのは、その人のセンスによる。

9月

18

打ち上げの本当の意味とは

夢を見た。
何度か見た夢の続きのようだ。
でも実際にその夢を何度か見たのかどうかはわからない。
そういう感じがするだけなのかもしれない。
その夢の中で、「打ち上げの本当の意味」を探すことになる。
何かに一区切り付いて、打ち上げをするのだが、きちんと打ち上げようということになり、いったい何をすればいいのか悩むことになる。
その悩みの最中に知り合いが建物を建てたという。
建物の大きな壁面に何かを描きたいのだが、知らない人が勝手にいろんなことを描いていく。
「いったい私は何を描けばいいのか?」と質問される。
緑のような青のような深い色をしたその壁面はタイルで覆われていたので、黒いペンキで描いてもあまり目立たない。
何が描かれているのか知るために目を凝らす。
そのときに「打ち上げの本当の意味」を知る。
エリアーデによれば、祭は始原の時に戻ること。
神様がかつておこなった行為を繰り返すことが本義だという。
そのおかげで円環の時を人々は生きることになる。
それが「進化する歴史的な時」に変更されたのはキリストのおかげだという。
僕たちは進化する時の中で生きている。
僕たちにとっての「打ち上げ」とは何か?
打ち上げ花火は地上という二次元から、高さを得て三次元になる。
きっとその視点は神のものだったのだろう。
それを繰り返すのは円環の時を過ごす人々がすればいい。
「進化する時」を過ごす僕たちは、新次元を得るのが「打ち上げ」。
そう閃いて目が覚めた。

9月

16

気持ちの多様性に気づく

身体にはいろんな細胞がある。
皮膚になっている物もあれば、臓器になっている物もあるし、骨になっている物もある。
そのようにいろんな細胞が存在して複雑な連携を作っている。
それと同様に、気持ちにもいろんな気持ちがある。
具体的なある選択をするときに、気持ちの多様性に気づくことができる。
ある選択をしようとするとき、立場の違いを考えることによって導かれる選択が異なる。
親として、子として、師として、弟子として、自分の職業的立場などから選択をするとき、それぞれの選択が異なる場合があることに気づく。
さらに、いつも同じ立場からの選択しかしないと、その立場からの選択がしやすくなるように感情が変化していく。
いつもひとつの立場からの選択しかしないと、ほかの立場からの選択の際の感情はどんどん感じられなくなっていく。
もしそれを避けたいなら、ほかの立場からの選択もきちんと考え、その感情を味わうことが必要だろう。
そうしないと利己的で冷淡な人に、他人からは思えるような人になっていく。
多元的な感情を味わう人ほど、他人から見ると愛情豊かな人になる。

9月

15

多様性を取り込む

多様性が大切な時代になってきた。
自分の考えに多様性を取り込むためには何をすればいいのか?
一番最初の入口は「他人の気持ちになってみる」。
それは小説や脚本を書くといい。
主人公の気持ちになり、脇役の気持ちになり、ほんの一瞬しか登場しないキャラクターの気持ちになってみる。
いろんな発見がある。

9月

13

衰えを観察

この数年で体力がかなり落ちた。
かつてのように走れないし、力も入れられない。
四十を過ぎたくらいから筋肉は簡単に発達しなくなった。
運動を続けていると少しずつ筋肉がつくくらい。
若い頃には運動すれば筋肉はついたのに。
だから運動を続けるようにした。
しかし、五十を過ぎると、四十の時のようにも筋肉はつかなくなる。
ただ落ちていくだけ。
運動をすると同じ状態が継続できる程度。
それでときどき少しだけ付いたかな?と思うこともあった。
でもさぼるとすぐに落ちる。
健康でいたいなら、運動することを仕事にしないと無理だな。
そういう意味で農作業はいいかも。

9月

11

911から20年

あの日、僕は京都にいた。
20年経って、僕は何をしているのか?
無意味な殺戮と破壊を眺めていることしかできない。
それでも、世界は少しずつ変化し、殺戮と破壊がなくなっていくものと信じている。

9月

11

自分がどう感じるか

世の中の常識からして「いいか悪いか」で物事の判断をすることが多い。
僕もそうだ。
でも、それってどうかな?と思うこともある。
僕は赤と思っていても、世の中では青ということが最近よくある。
そういうことが戦時中にはたくさんあっただろう。
しっかりと心の声を聞こう。

9月

11

還暦

還暦を迎えてしまった。
気持ちいいかというと、微妙だ。
よくこの歳まで生きられたという点ではありがたいことだが、これからの時代、安心して生きて行かれるのかということを考えると、かなり不安だ。
不安を抱えても、それはそれとして、楽しく生きていこう。
生きていくというのは、常にエッジに立つことだから。

9月

6

ベルクソンの『笑い』

確か大学生の頃、ベルクソンの『笑い』を読んだ。
当時の僕にはつまらない本だった。
だけど何かがひっかかった。
後日、うちの書庫にあった「世界の名著」のベルクソンの巻を手に取った。
理解できないのに何かに惹かれる。
何に惹かれたのかよくわからない。
その何かよくわからないことが次第に明確になってきた。
でも、それを言葉で説明するのは難しい。
僕自身が理解できるように書き残しておくと、複雑系における「エラン・ヴィタール(生の飛躍)」と非二元的知覚による選択とは似ているのではないかと言うこと。
このように言語化しておくと、いろんな誤解が生まれるであろうことは予想できる。
後日、自分で読んでも誤解するかもしれない。

9月

6

矛盾に共感

人の話を聞いていて、ときどき「そこ矛盾しているな」と感じるときがある。
ところが、矛盾しているのにそこが魅力だったりする。
それっていったいなんだろう?

9月

3

無意味と無意識

ある時点では自分にとってまったく気にしていない何かについて、あとで意味が現れてくることがある。
あるときに聴いた音楽が、タイトルも演者もわからなかったのにどこかでもう一度その同じ曲を聴いたとき心が動かされるとか、ふと聞いた言葉があるとき思い出されて強く興味を持つとか。
そういう体験はありふれているかもしれないが、大切なことだと思う。

8月

31

8月31日

8月31日は夏休み最後の日だった。
地方や時期によって異なるようだが、僕の幼い頃はずっと夏休み最後の日だったので、この日が来ると身体と心が反応する。
切ないような、悲しいような、気が重くなるような、胸が押しつぶされるような、恋がひとつ終わったような、そんな感じ。