12月

19

AMAZON MUSIC

200万曲が聴けるそうだ。
月に780円を払うと、7000万曲が聴けるようになるという。
あるアーティストの曲ばかりを追いかけようとすると、すべて聞けるわけではないので、780円払いたくなる。
商売がお上手。
聞いたことのない曲がたくさん聴けるので、200万曲で充分ありがたい。
全部聞くにはどのくらいの時間がかかるのだろう?

12月

14

ミラーマンの歌

今朝、朝焼けを見た。
朝焼けを見るとふとこの歌を思い出す。
「朝焼けの光の中に立つ影は、ミラーマン」
だけど、その番組がどのような話だったのか、歌詞の続きがどうなるのか、まったく覚えてない。

12月

10

セルジオ・メンデス&ブラジル’66

中学生の頃、よくラジオを聞いていた。
流れてくるヒット曲を聴いても誰が演奏しているのかわからないことがよくあった。
セルジオ・メンデス&ブラジル’66のベスト盤を聞いたら、その頃聞いた懐かしい曲が次々とかかる。
いま聞くと、編成がコーラスのほかにはピアノとベースとパーカッションが中心で、それ以外はほとんどない。
ときどき別の楽器が聞こえてくると、それが贅沢に感じられる。
こんな薄い編成でこれだけ聞かせていたんだと驚く。

10月

24

ジャズを聴く

ほぼ毎日のようにジャズを聴く。
アドリブが好きなのだ。
フリージャズのようなアドリブではなく、元になるメロディーやコード、あるいはモードがある程度決まっているものの方が安心する。
ジャズのアドリブの気持ち良さは、生まれてくる音の流れがある程度予想でき、そしてたいていは裏切られることにある。
予想してその通りだと喜び、裏切られてもまた喜ぶ。
それに慣れてきたら、そういう音の流れの中に浸かっていることが気持ちよくなる。

10月

10

リンガラ

ケニアに行った時、土地のポビュラー音楽にリンガラというものがあった。
特徴は軽快なエレキギターのリズムパターン。
どの曲にもほぼ必ずウキウキするようなリズムパターンが刻まれる。
それを聞きながら平原に作られた一本道を車で走るのは最高だった。

9月

27

歌は口から口へと伝わっていく。
時にはメディアを介して。
時には直接。
伝わっていくのはメロディーや歌詞だけではない。
一緒に感情も伝えられる。
感情はいろいろなものが生まれ、人によって、場所によって、時によって違う。
歌って不思議。

9月

26

ライズ

ハーブ・アルパートのヒット曲。
これが流行った頃からいろんな音楽を聴き始めたので、ティファナ・ブラスを知らなかった。
だからハーブ・アルパートといえば、この曲だと思っていた。
オールナイト・ニッポンのテーマ曲「ビター・スウィート・サンバ」とか「蜜の味」「ティファナ・タクシー」などはあとで聞いて知った。
ティファナ・ブラスとは雰囲気が全然違うので、それを楽しんでいた人はきっとびっくりしたんだろうな。

9月

19

ディア・ハンターのテーマ曲「カヴァティーナ」

理髪店に行った。
高校生の頃から通っている理髪店。
来月、開店から115年になるそうだ。
20歳ほど年上のマスターが、僕が来年還暦だと言ったら、「もうすぐ僕に追いつくね」と言う。
思わず「絶対追いつかない」と言った。w
顔を剃ってもらっている時、ディア・ハンターのテーマ曲「カヴァティーナ」がBGMでかかる。
高校生の時、その切ない映画を劇場で見た。

9月

17

オーバーハイムOB-Xa

大学生の頃、シンセサイザーが欲しくて、よく楽器屋に通った。
シンセサイザーはいろんな音が出るものだから、どの楽器でも調整次第でいい音が出るものと思っていた。
ところが、機種によって出しようのない音があるのがのちのちわかる。
オーバーハイムという会社が出していたOB-Xaというシンセの音は抜群によかった。
単音を聴いているだけで気持ち良いのだ。
いまではPCにダウンロードしてその音が再現できるようだが、デモを聞いてもあの頃の輝きには物足りない。

8月

31

金太の大冒険

高校生の時、昼休みに弁当を食べていた。
すると「金太の大冒険」が校内放送でかかる。
その時は聞いたことのない曲だったので、変わった曲かけるなとしか思わなかったが、サビに入って弁当を吹き出しそうになった。
「デカメロン」のことを書こうとして、ふと思い出したこと。

7月

28

スマイル

チャップリンが映画『モダン・タイムス』のために作った挿入曲。
のちにタイトルと歌詞が加えられ、ナット・キング・コールが歌った。
以来たくさんのアーティストにカバーされている。
僕が久しぶりに聞いたのは、マイケル・ジャクソンによるカバーだった。
チャップリンがアメリカを追放され、20年ぶりに帰国の機会を与えられたのがアカデミー賞の授賞式だった。
オスカー像をチャップリンが受け取るとき、会場にいた人たちがみんなでこの歌を歌ったという。

7月

24

チャイコフスキー交響曲第5番第二楽章

iMacのミュージックソフトを整理している。
前のiMacから引き継がれてきちんと表示される曲と、そうではない曲がある。
前のiMacで聞いたはずなのに再生回数が0のものがあるのだ。
それらが聞けるかどうか確かめるために、再生回数0の曲ばかりを流しっぱなしにしている。
その中にチャイコフスキー交響曲第5番第二楽章があった。
弦楽合奏の前奏のあとでホルンのソロが始まる。
それを聞いて冬の石神井公園を思い出した。
池の表面が凍った石神井池。

7月

7

四季〜ユートピアノ〜

1980年に製作されNHKで放映された単発ドラマ。
2000年を過ぎた頃に一度再放送された。
それを一度だけ見たのだが、とても印象に残った。
主人公の女性が調律師としていろんなピアノを調律していく。
淡々としたドラマだが、ピアノの音が印象に残った。
ピアノによってあんなにも音色が違うのかとはじめて知った。
もちろんピアノによって音の違いがあるのは知っていたが、置かれている場所によって響きが違う。
調律していくことでも音が変わる。
その些細な違いに気付かされていく。
ピアノの音が流れるたびに「うちのピアノの音と違うな」と思う。
うちのピアノの音と思い出の大切さをかみしめた。

7月

5

Jeff Peterson のギター

ホノルルのはずれを散歩していたとき、疲れたのでカフェにでも入ろうと思い、知らないホテル内のアーケードに入った。
そこにはCDショップがあり、ふらっと入るとギターの素敵な音が聞こえてきた。
きっとハワイアン・スラッキーギターだろう。
ハワイにはスラッキーギターの名手が何人かいる。
前にハワイに行ったとき、スラッキーギターの名手によるベスト盤のようなアルバムを買っていた。
店員に「この曲は誰のなんていう曲ですか?」と質問すると、カウンターに立てかけてあったCDケースを指差して「それだよ」という。
オレンジ色の丘の先に霧に包まれた暗い森が写っている抽象的な表紙だった。
「有名なひとなんですか?」
「いや、新人だよ。いい音だすよねぇ」
そこではじめて Jeff Peterson を知った。
飾られていた「Slak key Guitar ~ The Artistotry of Jeff Peterson」を買った。
以来、何枚かのアルバムを買い、朝によく聞く。

6月

19

雨の音

今朝は雨の音で目覚めた。
「雨の音だな」と思った瞬間、懐かしい歌を思い出した。
Listen to the rhythm of the falling rain.で始まる「悲しき雨音」。
でも、なぜこの歌を覚えているのかよくわからない。
かつてCMに使われていたので、出だしの部分を覚えているのは理解できるけど、ほぼすべての歌詞をなんとなく覚えている。
歌詞を見てすぐに歌えてしまうのだ。
レコードやCDは持ってない。
ラジオや街中で聞いたのを覚えていたのかな。

6月

10

ティンシャ

ヒーリング・ライティングのワークショップを始めた頃、いい音のティンシャが欲しくて、お店で見つけると鳴らしていた。
なかなか気に入った音のが見つからず、あるとき安曇野のシャンティクティで見つけて、それを使った。
10年ほど使って、バリ島で見つけたティンシャに変えた。
以前のものはひとに譲った。
ふたつの鐘の音程が微妙に違うのがいい。
ワウワウワウと、音のモアレが生まれる。
今使っているものも、かつて使っていたものも、すぐにその音を思い出すことができる。

5月

22

紺碧の空

twitterに「紺碧の空」を歌う学生たちの映像が流れて来た。
NHKの朝ドラ「エール」の一場面を切り取って流したもの。
とても懐かしい。
球場で、喉がかれるまで歌った。

5月

15

短調と長調

音楽には短調の曲と長調の曲がある。
大雑把に考えると、短調は悲しげで、長調は楽しげになる。
なぜそうなるのか、理由はわからない。
古事記や大嘗祭の研究をしている工藤隆博士が、中国の少数民族のなかに歌垣を残している部族を見つけ、その研究をした。
すると、創世神話をめでたいときと葬式のとき、両方で歌われることを知った。
文字に書くと同じに読めてしまうが、歌で聞くと内容が同じでも雰囲気が明らかに違ったそうだ。
言葉がはっきりと文字化され、意味が限定されていく以前の言葉は、表現の仕方によって楽しく感じられたり、悲しく感じられたりしたのかもしれない。
ここからは僕の勝手な推測。
そもそも言葉は、現実のものが存在したらそれに名前を付けて「なんとかだ」とするのは比較的簡単だったろうが、感情のようなものは、始原の言葉にはなく、雰囲気だけを伝えていて、それが歌のようになったのかもしれない。
それが歌垣に残ったということ。
それが長年の文化の堆積、意味の堆積によって、短調と長調に分かれたのかもしれない。
推論の推論でしかないが、こういうことを考えるのは楽しい。

4月

22

イージー・リスニング・オーケストラ

僕の子供の頃にはイージー・リスニング・オーケストラが流行っていた。
オーケストラもたくさんあって、
パーシー・フェイス
フランク・プゥルセル
ポール・モーリア
レイモン・ルフェーブル
カラベリ
なんかがいつものようにラジオから流れていた。
楽団ごとに違う同じ曲の別アレンジが楽しめた。
いまでも同じ曲のいろんなアレンジを聞きたいと思うのだけど、かつてのようには楽しめない時代になってしまった。
一度景気がどん底まで落ち込んで、はい上がって来るときに復活するのかな。

4月

22

音楽は楽しむためにある

高校では吹奏楽部にいた。
吹奏楽団の指揮者は楽団の中から学生同士で選んだ。
顧問の先生は音大で指揮を教えていた。
先生が指揮をすると何も言わずとも楽団が見事にまとまった。
その先生に年に一度、夏の合宿のときだけ指揮を教えてもらえた。
歴代の指揮者が自分の指揮と先生の指揮の違いを見せつけられ、何が違うかを学ぶ機会をもらえた。
その先生にこんな質問をしたことがある。
「先生が指揮してコンクール出たら優勝できるんじゃないですか?」
先生は答えた。
「そんなことしたいの? どうしてもというならやってもいいけど、音楽を楽しんだ方がいいんじゃない? みんながそういうなら考えるよ」
僕たちは楽しむことを選んだ。

3月

8

サテン・ドール

マッコイ・タイナーと聞いてすぐに思い出すのが、『バラードとブルースの夜』に収められた「サテン・ドール」。
ジャズピアノで「サテン・ドール」を習ったとき、「お手本として聞くのは誰の演奏がいいか?」という質問に先生が教えてくれたもの。
「こうやるとモード奏法っぽくていいよ」と、コードとスケールの考え方から離れられない僕に、単一コードが指定されている小節の中にいくつもの違う和音をぶち込んだ演奏を教えてくれた。
「そんなことやっていいんですか?」という、ジャズの考え方からすればまったくとんちんかんな僕に「かっこよく聞こえれば何をしてもいいんだよ」という、めまいがする名言をいただいた。
他のアルバムではマッコイ・タイナ−はどんどんモダンジャズっぽくなっていったが、そういうのももちろんいいけど、僕にはデビュー三作目の「サテン・ドール」が、思い出とともに沁みる演奏だった。

3月

4

ジェントル・レイン

朝、相方が電話で誰かと話していた。
「今日の雨はジェントル・レインね」
それを聞いてキュンとする。
大学生の頃、僕はジャズピアノを習っていた。
「枯葉」の次に習ったのが「ジェントル・レイン」。
アストラッド・ジルベルトの歌を聴いたのはそのあとだった。
英語の歌詞がとても粋だった。

私たちふたり、互いにこの世でひとりぼっち。
やさしい雨の中、一緒に歩いてよ。
心配しないで、私はあなたの腕を抱え、ちょっとのあいだあなたの恋人になる。
あなたの涙が私の頬を伝うのを感じる。
やさしい雨の中。
おいで愛しい人、私を守って、ぬくぬくさせて、この悲しくてやさしい雨の中で。

2月

2

声に乗るもの

声にはいろんなものが乗ってくる。
感情、体調はもちろん、ささいな違和感も伝えてくる。
声というものはいろんなことを含んでくれる。
その不思議さ。
僕の声にもいろんなものが乗るのだろう。
隠しても無駄だ。

2月

1

秩父遥拝

今朝、テレビをつけたら矢野顕子が民謡を歌っていた。
なんかいいなと思っていたとき、ふと「秩父遥拝」を思い出す。
笹久保伸さんが秩父の機織り歌やまりつき歌、雨乞いの歌などを集めてアルバムにしたもの。
もう歌われなくなってしまった歌ばかり。
笹久保さんは「秩父前衛派」というアート集団を主宰している。
武甲山の破壊をやめろと訴えながら、さまざまなアート活動をしている。
武甲山は石灰が産出されるのでセメント会社が掘り続け、山の形が変わってしまった。
毎年秩父夜祭で人々はその山を祀る。
秩父の町を潤すためにやせ細った山。
笹久保さんは「おかしいだろう」と訴えながら、いまはもうほかでは聞けない歌を声を絞り出すように歌うとき、隠されてしまった魂たちが咆哮を始める。
失われた山容、鉱石、泉、草花、動物、古事記の時代から伝わってきた物語や祀られた神々。
あなたには聞いてほしい、その咆哮を。

1月

27

新しい音楽通論

中学生の頃に吹奏楽の編曲をしようと思い、『新しい音楽通論』という本を買った。
音大生用のテキストとして作られたそうだが、難しくて理解できないところがいくつかあった。
そのひとつが対位法。
ひさしぶりに出して読んだが、やはり対位法がわからない。
このまま理解できずに一生を終えそうだ。