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9月

13

川の夢

石神井川沿いに散歩したせいか、川の夢を見た。
都会にあるような護岸工事された川ではなく、岩や小石がゴツゴツとある自然の川沿い。
そこを歩いていると水鳥が集まってくる。
なぜかドローンが飛んできた。
ドローンが空中に止まっていると、それを見上げる水鳥たち。
そのあとで、木の手漕ぎボートにワニを乗せて河口まで降りて行った。
海に出るとボートに穴が開き沈没。
泳いで岸に立った。
どういう意味のある夢だったんだろう?

8月

16

逆説の日本史

逆説の日本史25巻を読んだ。
作者の井沢元彦は歴史学者のことをよく批判する。
その批判はもっともだと思う。
でも、歴史学者も大変なのだと思う。
皇統に関する公に認められていること以外のことを発表すると何をされるのかわからない。
きっと天皇がそんなことをしているのではないだろう。
取り巻きが変な忖度をしているのだと思う。
それがどこの誰かもわからない。
だからとても怖い。
もし天皇が「歴史と神話は切り離しましょう」とひとこと言ってくれたら、きっと日本の歴史学は急速な進歩をするのだと思う。

7月

24

チャイコフスキー交響曲第5番第二楽章

iMacのミュージックソフトを整理している。
前のiMacから引き継がれてきちんと表示される曲と、そうではない曲がある。
前のiMacで聞いたはずなのに再生回数が0のものがあるのだ。
それらが聞けるかどうか確かめるために、再生回数0の曲ばかりを流しっぱなしにしている。
その中にチャイコフスキー交響曲第5番第二楽章があった。
弦楽合奏の前奏のあとでホルンのソロが始まる。
それを聞いて冬の石神井公園を思い出した。
池の表面が凍った石神井池。

5月

26

真実と物語

日本には古事記以来、天皇にまつわる物語がある。
日本にとってそれは大切なものだ。
伊勢神宮に行ったり、皇居でご奉仕したりして、それは感じている。
しかし一方で、歴史的事実も大切なもの。
古墳を調べると、被埋葬者が歴史的事実と、宮内庁が発表していることとの間に差があることがわかる。
歴史は歴史として調べ、日本の物語は日本の物語として保持することはできないのか?
多くの人はできないと思っているようだ。
事実がわかると皇室に危機が訪れると考えている人。
事実を知って日本を変えようとしている人。
いろんな人がいる。
こう考えてくると、真実と物語のどちらを大切にするかというよりは、それを利用して何かをしようとする人の問題だとわかる。
それを解決するのは難しく思えるが、ただみんなが節度を守ればいいだけのようにも思える。

5月

15

次代の天皇

現在の天皇は「国民の象徴」ということになっているが、自民党の憲法改正案では「元首」とするとなっている。
明治維新以降天皇は君主として統治していた。
「元首」と「君主」は何が違うのだろう?
古事記や大嘗祭を研究した工藤隆博士がその著書『古事記誕生』でこんなことを書いている。
短くまとめるので概念の大切な部分が抜け落ちるが、気になる方は中公新書の『古事記誕生』を読んで下さい。

日本は戦前、誇大妄想の神国日本像へとのめりこまされた。
敗戦後は逆に日本人のアイデンティティーを考えなくなり、心的空洞をもたらした。
日本の島国文化・ムラ社会には助け合い精神・忍耐力・自己抑制力などプラス面があるが、同時にムラの内側の論理がすべてにおいて優先されるので、外側からの視点を正確に把握できなくなることがある。
よって、文化人類学、考古学、古代史学、言語学、民族学ほか、さまざまな学問から得られた要素をインプットして、縄文・弥生期をホログラフィー的手法で立体的に浮かび上がらせることで古事記を研究することが大切だ。
そうしてはじめて日本は自分のオリジナリティーがどのようなものか知ることができるだろう。

このような考察を経てから、次代の天皇像を考える必要があるように思う。
政治家が利用するための天皇はいらない。

5月

15

短調と長調

音楽には短調の曲と長調の曲がある。
大雑把に考えると、短調は悲しげで、長調は楽しげになる。
なぜそうなるのか、理由はわからない。
古事記や大嘗祭の研究をしている工藤隆博士が、中国の少数民族のなかに歌垣を残している部族を見つけ、その研究をした。
すると、創世神話をめでたいときと葬式のとき、両方で歌われることを知った。
文字に書くと同じに読めてしまうが、歌で聞くと内容が同じでも雰囲気が明らかに違ったそうだ。
言葉がはっきりと文字化され、意味が限定されていく以前の言葉は、表現の仕方によって楽しく感じられたり、悲しく感じられたりしたのかもしれない。
ここからは僕の勝手な推測。
そもそも言葉は、現実のものが存在したらそれに名前を付けて「なんとかだ」とするのは比較的簡単だったろうが、感情のようなものは、始原の言葉にはなく、雰囲気だけを伝えていて、それが歌のようになったのかもしれない。
それが歌垣に残ったということ。
それが長年の文化の堆積、意味の堆積によって、短調と長調に分かれたのかもしれない。
推論の推論でしかないが、こういうことを考えるのは楽しい。

2月

20

岩田健太郎氏

昨日公開されたYouTubeで、ダイヤモンド・プリンセス内のCOVID-19の検疫状態を告発した、神戸大学病院感染症内科の岩田健太郎先生。
一日にして英雄となる。
よくぞ内容を公開してくれました。

2月

14

美保関隕石と直方隕石

初夢会で面白い話を聞いた。
ある参加者がバイクでツーリング中に、美保関隕石の碑を見つけたのだそうだ。
美保関隕石とは、1994年12月10日に島根県八東郡美保関町にある民家に隕石が落ちた、その隕石の名前だ。
その碑にはもうひとつ直方隕石という隕石の説明も書かれていた。
直方隕石は861年5月19日、当時の暦では貞観3年4月7日に、福岡県直方市の須賀神社に落ちたそうだ。
直方隕石は世界最古の落下目撃隕石だそうだ。
このふたつの隕石は岩石鉱物学的な観察から、同じ母体のしかもすぐ近くから飛んで来たはずだということがわかった。
火星と木星のあいだにある小惑星帯から来たらしいと言われるが、もしそうだとしたら、いったいどういう意味のあることなのか?
あんなに遠いところから、その距離に比すればほぼ一点ともいえるような場所に、1130年を隔てて、ほぼ同じ隕石が落ちる。
しかも、地球は公転と自転をしているし、小惑星帯も違う速度で太陽のまわりを回っているはずだ。
いったいどういうことだろう?
須賀神社ではその隕石が保存されていて、五年に一度の神幸大祭でそれが公開される。
次の神幸大祭は2021年10月らしい。

2月

8

ホケノ山古墳

大神神社に参拝に行ったとき、立ち寄った古墳。
箸墓古墳のすぐそばにある。
さほど大きくないし、登れるようだったので登っていった。
小高い丘となっていて、周囲をぐるりと見回すと、いくつかの古墳らしき丘が見える。
とても気持ちがいいので相方がそこで踊りだした。
両手を広げて「アー」っていいながらクルクル回った。
隣にいて思わず笑った。

2月

1

秩父遥拝

今朝、テレビをつけたら矢野顕子が民謡を歌っていた。
なんかいいなと思っていたとき、ふと「秩父遥拝」を思い出す。
笹久保伸さんが秩父の機織り歌やまりつき歌、雨乞いの歌などを集めてアルバムにしたもの。
もう歌われなくなってしまった歌ばかり。
笹久保さんは「秩父前衛派」というアート集団を主宰している。
武甲山の破壊をやめろと訴えながら、さまざまなアート活動をしている。
武甲山は石灰が産出されるのでセメント会社が掘り続け、山の形が変わってしまった。
毎年秩父夜祭で人々はその山を祀る。
秩父の町を潤すためにやせ細った山。
笹久保さんは「おかしいだろう」と訴えながら、いまはもうほかでは聞けない歌を声を絞り出すように歌うとき、隠されてしまった魂たちが咆哮を始める。
失われた山容、鉱石、泉、草花、動物、古事記の時代から伝わってきた物語や祀られた神々。
あなたには聞いてほしい、その咆哮を。

1月

15

全体を知る

新しいメディアがひとつできると、そのたびに僕たちはうれしくなる。
知らなかったことが知れるようになるから。
本ができることによってプロテスタントが生まれた。
同じ聖書をたくさんの人たちが手にできるようになったから。
雑誌や新聞が生まれて社会が変化するようになった。
昨日より今日が、今日より明日がよりよいものになるために何をすれば、何を考えればいいのか、多くの人が気づくようになったから。
ラジオができて大きなグループの感情が一方向に向くようになった。
リーダーの感情が声で伝達されるようになったから。
テレビができて比較的世界が平和になった。
言葉では伝えられない状況を目で見ることができるようになったから。
このようにして大雑把な理解の密度を人類は少しずつ上げてきた。
インターネットが生まれてさらに理解の密度を上げる可能性を手にする。
次に生まれるメディアが、前のメディアでは伝えられなかったことを伝えて行く。
僕たちはこうして、いつか宇宙の全体を知るようになるのだろうか?
それを知るために新しいパラダイムが、もうすぐやってくるのではないか?
その新しいパラダイムは、権力者にすべてが集中するようなものではないだろう。
そのことをテイヤール・ド・シャルダンは美しい言葉で表現している。

生命の樹の樹液全体を一本の枝だけのために集め、他の枝の死の犠牲の上に立つ民族主義者の理想は誤っているし、自然の理にそむいている。太陽にむかって伸びあがるためには、まさに木の枝全体の成長が必要なのである。世界の出口、未来の扉、超=人間への入口、これらは、いく人かの特権者やあらゆる民族のなかから選ばれた唯一の民族だけに開かれているのではない。それらは万人の圧力に対して、すなわち、全人類が地球の精神的革新において一致団結し、完成されるような方向に対してのみ道をあけるのである。

『現象としての人間』 ティヤール・ド・シャルダン著 美田稔訳 みすず書房刊

12月

24

多次元に生きる

臼田夜半さんとお話しをしたとき、地湧社の社長だった増田圭一郎さんが同席していた。
何かの話がきっかけで、増田さんが片桐ユズルさんの話をした。
オルダス・ハクスリーの翻訳をしたかただという。
調べると何冊かのハクスリーの著作とアレクサンダー・テクニークに関する本の翻訳をなさっている。
そのなかから『多次元に生きる』を読んだ。
とてもいい本だ。
特に「両生類の教育」という章に興味を持った。
僕たちは言語の世界と非言語の世界の両方に生きている。
その二つの世界に同時に生きているから両生類。
そこにこんなことが書かれていた。

ほんとうの『道』に好悪はない。愛憎から離れてはじめて道の本来の姿が見えて来る。好きなものを嫌いなものに対立させること、それこそ心の病いである。

神を何か特別なものと思ったり、神を何かよりも貴いと思ったりしているうちは、そのひとは未開の地に住む野蛮人であり、子供であるのだ。その人にとって神がすべてと同じになってはじめて一人前になったといえるのだ。

気持ちいいものばかりを抽出していると、どうしてもときどき気持ちよくないものに直面する。
気持ちいいものと一緒にいるとき、実は気持ちよくないものとも一緒であることがよくわかる。
気持ちいいものを感じるとき、気持ちよくないものも一緒に居させてあげる。
今日はクリスマスイブ。
クリスマスキャロルを思い出すと悲しい感じがする。
もちろん楽しいものだという側面もあるのです。
でも悲しくも感じる。
言語の世界ではどちらか片方だけを取り上げますが、非言語の世界には両方存在するのです。
愛する家族ほど、実は憎たらしかったりするのです。
それを表現してもいいし、表現しなくてもいい。
僕たちは両生類だから。

8月

17

ケルトの魂

『ケルトの魂』という本をいただいた。
鶴岡真弓の対談集。
20年以上も前にアイルランドに行った。
また行きたいなと思う。
キリスト教が入る前のアイルランドは多神教だった。
その影響がキリスト教が入っても残り続ける。
一神教というのは政治的にはいい宗教かもしれない。
人民を統一しやすいから。
でも、暮らしている人にとっては多神教のほうが暮らしやすいように思う。
いろんな視点が混在することが許されて、それでなんとか折り合いをつけていくから。
宗教学では多神教が進化して一神教になるというような説があるようだが、それがまた多神教に戻るのがいいように思う。
せめて戻らなくても、ケルトのように混在するとか。

6月

26

誰かに読んでもらわなくてもいい文章を書くこと

毎日、誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらっている。
そう、これを読んでいるあなたにだ。
ありがとうございます。
こう書いた瞬間に僕は、誰かに読んでもらうための文章を書いている。
誰かに読んでもらうか もらわないかは、書いているときにはよくわからない。
結果としてそうなるか、ならないかだ。
だけど、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章には違いがある。
それはかつてはうまく区別できなかったが、いまはできる。
それを言葉にしようとするとき、言葉の難しさに直面する。
それを適切に概念として区分する言葉がないのだ。
しかも、3870回も曖昧にしてきたことは、言葉にするとどうも矛盾しているように読めてしまう。
だからここに書いても誤解が生じるかもしれないけど、言語化しない限りはその区分は明確にはできないと思い、書いてみることにした。
自分にだけ響くことは、矛盾に満ちている。
だから、誰か宛に書こうとすると、文章に修正が入りがちになる。
必ず修正する訳ではない。
自分に対して書いているから修正はしないようにする。
だけど、それでも修正してしまう。
自分が修正していると気づけば、修正をしないことを選択できる。
しかし、修正しているかどうかがとても微妙なときがある。
なぜなら基本的に言葉とは他人に伝えるものだからなのだと思う。
一方で、自分だけの心に留めておく言葉もある。
それは、言葉として区分しないと意味がわからないような気がするからだ。
たとえば、いま論じている、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差。
これは「日刊 気持ちいいもの」を書くとときどき感じる差なのだが、それをきちんと言語化できる言葉を知らない。
説明を重ねればそこに自分が思い出す感覚は思い出せるが、他人がそれを正しく汲み取ってくれるかどうかはわからない。
きっと汲み取れないだろうと思う。
その微妙な区別。
その微妙な区別は他人に伝えて果たして意味があるのだろうか?
きっと意味は生まれてくるのだろう。
ただし、僕が感じている感覚と、これを読んで何かを感じる人の感覚は、同じかどうかはわからない。
これは、きっとどんな感覚も、言葉になっている感覚はすべてそうなのだろう。
だから、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、気にしなくてもいいのかもしれない。
でも、あえて気にしてみる。
そんなことに意味があるのか?
意味は生まれてくるのだ。
なぜそう思うのか?
かつてBlog「水のきらめき」にこんなことを書いた。
長いが引用する。

___引用開始

今年(2010年)1月に『奇界遺産』という本が出版された。大判で3,990円もする写真集だ。これがなかなか僕の目を釘付けにしてくれる。

表紙もインパクトがあるが、内容もなかなか凄い。なかなか出会えない景色がどこまでも続いていく。

(中略)

洞窟の中にある村、ブータンの男根魔除け図、直径34mのミクロネシアの島に住む日本人、巨岩の上にある住宅、地獄絵図のテーマパーク、神々の像で満たされた奇想の庭園、中華神話のテーマパーク、巨大龍の胎内を巡る道教テーマパーク、キリストをテーマとした遊園地、世界の果て博物館、世界に散らばる「珍奇」を蒐集した元祖変態冒険家の博物館、貝殻で作られた竜宮城(写真のページ)、世界八大奇蹟館、ミイラ博物館、アガスティアの葉、死体博物館、ボリビアの忍者学校、三万体もの人骨が眠る巨大な地下迷路、人骨教会、エリア51、7万人が聖母を目撃した聖地ファティマなど、世界の不思議なものや景色や人などをゴリッと撮影してある。

これらの写真を撮影した佐藤健寿氏はオカルト研究家を続け、ある疑問を抱いたという。それは「これ(オカルト)って本当に必要なのだろうか?」という疑問だ。こんなことに一生を捧げてもいいものか。この疑問にあのコリン・ウィルソンが『アトランティスの遺産』という本の中で答えてくれたという。

ネアンデネタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟の中に獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである。

この一文のいったいどこがその答えなのか、一見しただけではちっともわからない。しかし、佐藤氏はこんな文を書いている。

壁画、すなわち<芸術>であり<魔術= オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。

無論、多くの識者達が口を酸っぱくして指摘してきた通り、青年期の悩みにコリン・ウィルソンは劇薬、すなわち<混ぜるな危険>である。しかし私はこのアウトサイダーならではの大胆な発想に、大きな感銘を受けたのだった。<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているのかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。しかしこの事実をラスコーの逸話にたとえるならば、これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと>、それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。

以上の試論を踏まえた上で、私は「現代のラスコー」を探すべく、旅にでた。世界各地を歩き、この<奇妙な想像力>が生み出した<余計なこと>を、ひたすら探し求めたのである。…

『奇界遺産』 佐藤健寿著 エクスナレッジ刊より

___引用終わり
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p1760/ より

誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、きっとここでいう「究極の無駄」だ。
だけど、その「究極の無駄」をなんとか「現代のラスコー」にさせたいと思う。
一方で、「そんな煩悩を持ってどうする?」という感覚もある。
坐禅を深く探求したことはないが、禅問答とはこういうものかもと思う。
読んでもらわなくてもいい文章を、読んでくれてありがとう。
でも、この文章は読んでもらうために書いた。
自分の心に響かせるためだけに書いたら、きっと意味が浮上してこない。
言語は他人が必要なものなのだ。
このことと、5月16日に書いた「悟った」や5月17日の「質問」がつながっている。
多くの人は「言葉」は自分と区別されていて、「言葉」として存在するものだと思っていると思う。
なぜなら、僕がそうだったから。
だけど「言葉」は、人間が形作っている社会の要素であり、その意味では人間と同列に考えてもいいものだ。
社会というホロンにとって「人間」も「言葉」もその要素であるという意味で。
つまり、人間が言葉を使っているように僕たちは考えるが、言葉が人間を動かしているとも言える。
言葉は区別を微細にし、いままでにない区別を生み出し、人間を新たな状態に押し上げて行く。
言葉のおかげで表れた区別は、たとえそれが他人に伝えられなくても、その言葉を抱える人間に新たな区別を与えることで、その人間の行動に変化を与え、やがてその変化は社会ににじみ出てくる。
このことと生命の進化がつながっている。
「自分が響くためだけの文章」には、自分の思い出と経験が感情に練り上げられた鍵となる言葉がちりばめられる。
一方で「誰かに読んでもらうための文章」は、誰かの思い出と経験が感情に練り上げられる鍵となるであろう言葉を手探りしていく。
この手探りは正しいものかどうか、誰かに読んでもらうまではわからない。
結局、「他人に読んでもらうための文章」を書いていると思いながら、「自分が響くためだけの文章」しか書けないのかもしれない。
「誰かに読んでもらうための文章」を書きながら、自分の心中にある他人と同調する部分を探しているとも言える。
つまり、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると言うこと。
さらにいうと、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると思い込む部分と、そうではない部分が同居しているということ。
そうではない部分については、またいつか書いていこう。

6月

1

古墳時代

僕が小・中学生くらいの頃には、古墳時代という区分はなかったように思う。
縄文・弥生・飛鳥・奈良・・・となっていたはずだ。
弥生と飛鳥のあいだにいつの間にか古墳時代が入っている。
いつからなんだろう?
古墳は全国になんと16万基以上ある。
古墳時代はだいたい400年ほどだから、単純に計算すると年間400基の古墳が作られていったことになる。
僕はそれがとても不思議なことだと思う。
かつて仁徳天皇陵と呼ばれた古墳が世界遺産の候補になっている。
それはきっとめでたいことなんだろうけど、本当にめでたいのかどうかは立場によるようだ。
世界遺産に認定してもらうために大山(仙)古墳と名前を改めた。
つまり仁徳天皇の陵ではないことがわかっているから。
さらに日本の文字の発生はこの頃だと言われている。
漢字が渡ってくる以前、日本には神代文字というものがあったという主張があるが、学術的にはまだあまり認められてない。
神代文字は何種類もあり、立場によって主張が微妙に異なるため学術的に認められないようだが、存在したことは確かなことのように思われる。
なぜなら、400年のうちに16万基の古墳を作るのであれば、その作り方等を文字文書にしてないはずはないと思うからだ。
古墳を作る技術にはたくさんの知識が必要だろう。
それを徹底させるための文書があり、それを多くの人が目にして読み、それを人夫たちに伝えない限り、あのように巨大な構築物は作れないのではないか?
しかも、毎年400も。
その文書がすべて漢字であったのだろうか?
もしかしたら大陸から信じられないほどたくさんの人たちが日本に押し寄せてきたのだろうか?
そして、大陸から来た人たちと、もとからいた日本の人たちとの混血が始まったのだろうか?
大陸と日本の言葉がクレオール化したものが日本語となったのだろうか?
日本語に漢字が使われているのは、そういうことなのかもしれない。
謎がたくさんあるって、なんかワクワクする。

5月

16

悟った

神通力が使える訳でもなく、世界のことがすべてわかる訳でもないけど、悟った。
悟りはとても繊細で、うっかりすると忘れてしまうようなものだが、その存在を認めることにした。
それは小さな命のようで、僕自身が食べ物や水を与えないとすぐにひからびてしまいそうだ。
だけど、それを育て続けることに決めた。
僕を包んでくれている一切の過去、環境、宇宙、人々に感謝します。

5月

7

心の散逸構造を確立する

今朝起き掛けに「心の散逸構造とは何か」と夢から問いかけられた。
散逸構造とはベルギー人のイリア・プリゴジンが1970年代に確立した考えで、液体など、流動的な物質に現れる現象だ。
たとえば生命は散逸構造である。
物質を取り込み、そこからエネルギーなどを抽出して、別の形でいろんなものを発散させることで、生命という非平衡的な状態を維持する。
つまり「心を散逸構造と見ると何が現れてくるのか」という課題を夢から与えられたのだ。
朝起きてイリア・プリゴジンを検索すると、エリッヒ・ヤンツの「自己組織化する宇宙」に序文を寄せていることを見つける。
もう30年近く前に読んだ本なので「おや、そうだっけ」と思って書棚から引っ張りだして読んだ。
その序文を読み終わり、ページをパラパラとめくると、その本の終わりにあった文章に赤線が引かれていた。僕がかつて引いた赤線だ。

生命を、とりわけ人間の人生を、自己実現のプロセスと見ることもできる。外的には、ダーウィン的な側面が解放に拮抗する体験を形成し、内的には、協調的な側面がより豊かな交響楽を奏でる意識のクレシェンドとなって、自己を実現させていく。自己組織化の新たなレベル–心の新たなレベル–が切り開かれる自己超越において、意識の和音はより豊穣なものとなるのだ。無限にきわまって、聖なるものと一致する。だが、聖性は人格とかのかたちをとることはなく、むしろ、多レベルのリアリティの総体的な進化ダイナミクスとして現れる。神秘に代わって〈意味〉が、われわれの主題に加わるのである。オルダス・ハクスレー流に言えば、われわれは〈全体意識〉となり、すべてを包括するこの心の進化に、そして〈意味〉という聖なる原理に、ひとりひとりが参与することになる。

はじめてこの本を読んだとき、「外的には、ダーウィン的な側面が解放に拮抗する体験を形成し、内的には、協調的な側面がより豊かな交響楽を奏でる意識のクレシェンドとなって、自己を実現させていく。自己組織化の新たなレベル–心の新たなレベル–が切り開かれる自己超越において、意識の和音はより豊穣なものとなるのだ。無限にきわまって、聖なるものと一致する。だが、聖性は人格とかのかたちをとることはなく、むしろ、多レベルのリアリティの総体的な進化ダイナミクスとして現れる。神秘に代わって〈意味〉が、われわれの主題に加わるのである。」の部分が、よくわからなかった。

二度目に読んだとき、ここがとても大切だなと思って赤線を引いた。

三度目にこの箇所を読んで、この部分を誰もが理解できる物語にしたいと思う。

3月

14

ムラサキイモのパン

朝起きて天気が良くて気が向くと、近所の神社にお参りに行き、ついでに散歩する。
その散歩コースの途中に一軒のパン屋さんがある。
朝の七時にはもう営業しているで、そこで朝ご飯のパンを買うことがある。
いろんなパンが売られているが、必ず買うのはムラサキイモのパン。
ムラサキイモが練りこまれていて、ほのかに甘くておいしい。

2月

11

A3

紙の大きさではない。
森達也さんのオウム真理教に関するノンフィクションだ。
「A」と「A2」というオウムに関するドキュメンタリー映画を撮影した森さんだが、「A3」を途中まで撮影してやめ、ノンフィクションを月刊プレイボーイに連載した。
それが出版され、講談社ノンフィクション賞を受賞し、その作品を出版から十年以上過ぎてここで無料公開し始めた。
https://note.mu/morit2y/n/nde972b9f0eac
よっぽど伝えたいことがあるようなので、文庫の上下巻を買って読んでみた。
面白かった。
断片的に知っていることがまとめられているから読んでいて興奮する。
なぜ裁判を「どうしてサリンを撒いたのか」など、わからないことをたくさん残しながら、松本智津夫(麻原彰晃)の精神状態が明らかに裁判を続行できる状態ではないのに、無理矢理続行して終わらせてしまったのか。
なぜそのことについてマスメディアはほぼ沈黙してしまったのか。
謎に対する答えがある訳ではない。
ただ、はっきりとした視点を得ることになる。
オウム真理教の教団内では松本に対する忖度が行なわれていたようだが、その状況を丁寧に読んでいくと、現在の日本の状況に似ているのではないかとぞっとする。
オウムの残した歪みがフラクタルのように社会に広がっているのではないか?
窮屈な現在の状況から目を覚ましたい人は読むべき。

1月

12

武甲山かつての山容

秩父に通うようになった。
はじめて行ったとき、武甲山を見ても何とも思わなかった。
だけど、1970年頃から急激に形を変えたと聞いてなるほどと思う。
かつての山容はもこもこもっこりとして、頼もしい山だった。
現在は山のてっぺんがピラミッドのようになっている。
かつての武甲山の写真を見ると、今の武甲山が痛々しい。
日本三大曳山祭のひとつである秩父夜祭では、いまでも武甲山に向かって祈りを捧げる。
神の住む山が削り取られ続けている。
もこもこもっこりの山の写真を見て慰める。

1月

4

あけましておめでとうございます

新年を言祝ぐ言葉。
言祝ぐは寿ぐであり、事祝ぐことでもある。
日本には祝う言葉があふれていた。
祝うは「いわ・う」であるため神社には大きな岩があることがある。
「細石も巌となりて」と君が代にあるが、実際に成長しつつあった細石が秩父今宮神社に奉納されている。
巌となりつつある細石が現実にあるとはつい数年前まで知りませんでした。
疑う方はご自分の目で確かめてみてください。
見ればなるほどと思うでしょう。

12月

9

異形化する身体

臼田夜半さんが目取真俊さんの作品について講演をしてくださった。
そのなかで「異形化する身体」という話が出てきた。
精神がからだを変形させるというのだ。
救われてない、赦されてないという思いがからだを変形させる。
これはまったく科学的な話ではない。
なぜなら定量化できないから。
これだけ思うとどれだけからだが変化すると決める訳には
いかないから。
だけど、精神がからだを変形させるということがあっても
不思議ではないような気がする。
もし生物の精神が
からだを変形させることができるとしたら、
現代の僕たちはどうからだを
変形させていくのか?
その結果がサイボーグ化なのかもしれない。
ただし、目取真俊の話は
無意識によって異形化するからだ、
サイボーグは意識的な構築、
という違いはあるが。
臼田夜半さんの講演内容はこちら。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=697

12月

7

空想の翼を広げる

小説を書いているととときどき
筆が止まることがある。
なぜかその先が書けなくなる。
精神的障壁が立ち上がる時。
その障壁は姿が見えない。
そんなとき、空想の翼を広げる。
普通にはあり得ないことを考えてみる。
この世界は謎に満ちている。
この小さな頭で考える程度の空想では
とても収まり切らない。
だから安心して大風呂敷を広げる。
いや大風呂敷じゃ収まらない、
無限平面を広げよう。

11月

2

ブサキ寺院での礼拝

バリ島のブサキ寺院は
いくつかのお寺が
集まってできている。
その中心にあるのが
プナタラ・アグン・ブサキ寺院。
ここに三大神である
ブラフマ・ヴィシュヌ・シヴァを
祀っている場所があり、
そこで礼拝する。
この三神をまとめて
トゥリ・ムルティと呼ぶが、
その三神のための椅子が
その礼拝所には用意されている。
礼拝所に座り、
アグン山の方向に目をやると
高い場所に
その三つの聖なる椅子が目に入る。
神様は目に見えるものではない。
その見えない神を
そこに降ろすことをイメージした。
そしてその場所と
自分の祖先や親族と
大宇宙に感謝することを促される。
すると、その三つが、実はすべて
つながっているものであることが
イメージでき、そのことに震えた。

10月

7

古本を探す

神保町で古本を買った。
いろんな本から今日買う本を探す。
あっ、探していた本があった。
五百円しかしないよ。
ラッキー。