3月

11

慈雨のように

草原のきれいなリゾートで、友人たちと一緒に遊んだ。
ちょうどいま、『デカメロン』を読んでいることが影響しているかもしれない。
互いに自分の人生がどうなっていくのか、想像して語るという遊びをしている。
自分の寿命を想定して、それプラス20〜30%先の話まで作る。
たとえば、自分の寿命が100歳ならば、その20年後、30年後はどうなっているかを最後に語る。
草原を見つめてどういう話をしようかと皆が考えているとき、ある友人が「お茶を下さい」と言った。
僕は急須のお茶を注ぎながら「このお茶が春の慈雨のようにあなたの心を満たしますように」と言った。
そこで目覚まし時計が鳴って、目が覚めた。

2月

26

変化

夢の話をFBに書いたら、友人が「僕も最近よく夢を見るようになった」という。
何かが変化しつつあるのかも。
その何かは、集合無意識に関わる何か。

2月

26

気づきのための夢

またしても不思議な夢を見た。
目の前に、それぞれが半透明のようにして、二つの出来事が同時進行して、それぞれに対応している僕がいた。
二つの出来事を正確には覚えていない。
だけどそれに対応している実感があった。
夢だから、そうなのかと受け止めるしかない。
そこで目が覚めた。
トイレにこもって何の夢だったのか考える。
ふつふつと浮上してくる意味。
ある過去と、ある未来を一度に見ていたのだなと思う。
過去も未来も「いま思い浮かべている」という等価なものであることを確認するために。
多次元に生き始めると愛することが当たり前になるという。
いま愛をもって過去を見ると、いまの行動が愛とともに現れる。
同じ過去をもし憎しみや怒りをもって見ると、いまの行動が残酷になる。
どちらを選ぶか。
いま愛をもって未来を見ると、いまの行動が愛とともに現れる。
同じ未来をもし憎しみや怒りをもって見ると、いまの行動が残酷になる。
どちらを選ぶか。
いまの心のありようが、過去にも未来にも影響する。
過去も未来も心にあるから。
愛とは、関わり合う全ての存在をありのままにしてその力を引き出すような、高度な組織化を助ける力。
その力を言葉ではほとんど説明できない。
生命体の機能をすべて言葉で表現できないのと同じ。
あらゆることが同時に起き、かつ時間が異なれば起きることも常に変化する。
それらすべてを言葉で追跡することはできない。
でも、愛する心は、不可能を可能にしようとさまよう。
言葉を多次元に表現する術を得る日、言葉の概念が一新され、それは可能になる。

2月

20

儀式の夢

曇天の空の下、木の枝で十字架を作り、牛の頭蓋骨をそこにかける。
大麻で布を織り、白い服を作って着る。
不思議な音階の石の笛を誰かが吹いている。
その音は、からだの各部に響いて震える。
大きな火を焚く。
葦のような植物性の細い管に、細かく削った骨、トウモロコシ、麦、コメなどを入れ、焚き火の中に刺して立たせる。
しばらくすると熱せられた管から中身が空へと吹き上げられる。
そこで目が覚めた。
いったい何の夢だろう。
感じてみると、COVID-19を無毒化するための儀式だったようだ。

2月

14

美保関隕石と直方隕石

初夢会で面白い話を聞いた。
ある参加者がバイクでツーリング中に、美保関隕石の碑を見つけたのだそうだ。
美保関隕石とは、1994年12月10日に島根県八東郡美保関町にある民家に隕石が落ちた、その隕石の名前だ。
その碑にはもうひとつ直方隕石という隕石の説明も書かれていた。
直方隕石は861年5月19日、当時の暦では貞観3年4月7日に、福岡県直方市の須賀神社に落ちたそうだ。
直方隕石は世界最古の落下目撃隕石だそうだ。
このふたつの隕石は岩石鉱物学的な観察から、同じ母体のしかもすぐ近くから飛んで来たはずだということがわかった。
火星と木星のあいだにある小惑星帯から来たらしいと言われるが、もしそうだとしたら、いったいどういう意味のあることなのか?
あんなに遠いところから、その距離に比すればほぼ一点ともいえるような場所に、1130年を隔てて、ほぼ同じ隕石が落ちる。
しかも、地球は公転と自転をしているし、小惑星帯も違う速度で太陽のまわりを回っているはずだ。
いったいどういうことだろう?
須賀神社ではその隕石が保存されていて、五年に一度の神幸大祭でそれが公開される。
次の神幸大祭は2021年10月らしい。

2月

14

吊るされた板の夢

ときどき不思議な夢を見る。
アクリルかプラスチックでできたような、三角形や四角形の板が、それぞれ頂点の部分がヒモに吊るされていて、それがクルクルと回ったり飛んだりしている。
かなりな枚数あるのだが、それらがなぜかスムーズに動き回っている。
普通であればそれぞれのヒモが交差して、こんがらがってしまうだろうと思うのに、理由がわからないがそれぞれきれいに飛んだり回ったりしている。
いったい何の夢なのか?
「初夢会」というところでその夢の絵を描いた。
絵を描いて、その夢の説明をし、講師にアドバイスをもらうのだが、一緒に参加している人が勝手に「私はこう思った」みたいなことも言う。
別の人が指名されて答えていた。
「この夢はきっと、起きていたときに必死に悩んで、答えが出ないと苦しんでいたので、その答えが夢に出てきたのだと思います」
その人の話を聞いているとき、僕も同じ体験があるなと思っていたら、ふと答えが出てきてしまった。
夢の中では不思議なことが起こる。
いくら論理を追いかけても出てこない答えが、ポコッと出てくることがある。
答えを知ると「なるほど」と思うが、どうしてそんな答えが導きだされるのかわからない。
状況を全体的に把握しないと答えは出ないようなことの答えが出てくる。
この前日に、ある人と話をしていて「レンマ学」という本の話になった。
レンマとは、ロゴスとの対概念である。
ロゴスは論理を言語的、一次元的に追いかけていくこと。
レンマは、全体的な把握から理解していくこと。
夢はレンマ的であると思ったのだ。
すると、板の夢の意味が浮上した。
四次元以上の空間を移動しているものを、四次元の視点で見るとどうなるのか。

1月

24

夢の中で作曲する

夢の中でなぜか作曲することになり、一曲作った。
とても簡単な曲。
目が覚めても覚えていて、なんでこんな曲作ったのかと不思議に思う。

11月

8

赤い部屋

目が覚めると部屋が真っ赤になっていた。
日が昇るのが遅くなり、朝焼けの時間に起きたから。
「部屋が赤いなぁ」と思いながら。いま見ていた夢を思い出す。
中東の人たちになぜか、僕の部屋の本を半分ほどと、机や椅子やPCを盗まれていた。
「なんでこんなものを盗んでいくんだろう?」と思いながら、日本の呪術で呪われると大変だよと思っていた。

9月

18

北極圏の街

三日連続で夢を見るというのは、僕にしては珍しい。
また夢を見た。
北極圏にあるどこかの街に行った。
列車で到着し、その街に一泊する。
翌日は歩いてどこかに行く。
そのどこかがどんな所なのか、地図を広げた。
しかし、自分のいる場所がわからない。
いまいる街の名がわからない。
だけど行くべき場所があるはず。
岬の地図を眺めて目が覚めた。

9月

17

白いテーブルのピアノ

表面がガラスでできた白いテーブルに、鍵盤の絵が浮き上がっている。
その鍵盤に触れるとピアノの音がする。
ポロポロと弾くと光の具合か鍵盤が見えなくなる。
なんとなくこのあたりにこの鍵盤があるだろうと思って弾くと、その通りに音が出る。
しばらく弾いていると、鍵盤の位置がわからないのに、思った通りの音が出てくるようになった。
驚いて手を離すと、それまで見えていなかった鍵盤がうっすらと浮かび上がる。
なんかスゲーッと思って目が覚めた。

9月

15

飴をなめる

今朝、馬がバスに乗っていた。
とても珍しいので一眼レフで何枚か写真を撮った。
一枚がお気に入りになった。
いくつも並ぶつり革の向こうで、馬が楽しそうに隣の人と話をしている。
つり革で遠近感が強調され、馬にフォーカスが合った。
そばにいた馬が前足に飴の袋を抱えていた。
ひづめでは飴の袋を開けられない。
僕が袋を開けてやり、口に一粒含ませてあげた。
僕も一粒いただいた。
見知らぬおばさんが馬の代りに「ありがとう」と言ってくれた。
この夢はいったい僕に何を伝えたかったのだろう?

7月

5

ひなた28号

鉄腕アトムが原子力で動くように、もしソーラーパワーで動くロボットがあったらどうなるかと空想してみた。
名付けて「ひなた28号」。
28号に至るまで、27の試作機が作られてきた。
28号でやっと作者の満足のいくロボットができる。
まず、日に当たってないとパワーが足りないので、曇りの日は必ず休む。
とても有能だが、お天道様の下にいないとかなり仕事がアバウトになる。
ちからを出し尽くすと「身の程を知りましょう」といって日向ぼっこをする。

4月

29

幻を見る

大学生の頃まで、幻を見るということはなかった。
瞑想の時にビジョンを見ることすらできなかった。
それがふとしたきっかけでできるようになる。
以来、寝入りに幻と現実を行ったり来たりすることができるようになった。
慣れてくると面白い。

4月

17

熊の夢

この何ヶ月か、熊のでてくる夢を見続けていた。
一緒に虎もいた。
ときどきそばにやってくるのでちょっと怖い。
でも熊や虎も物陰からこちらをうかがっていた。
いい距離を保って互いを観察している。

4月

13

言葉の山が花盛り

言葉にはいろんな働きがあります。
言葉のおかげで空想を空想としてあなたに伝えることができます。
言葉様々です。
言葉の山が花盛りになるまであと数ヶ月。
きっと素晴らしく麗しい山を愛でることができるでしょう。

9月

21

ガラス球の夢

とあることがあり、寝ながら「どうして人は他人の幸せを妬むんだろう」というようなことを考えていた。
するといつの間にか眠ってしまい、面白い夢を見た。

化学の試験を受けていた。
問題は透明なガラス球の表面に書かれていて、それが地球儀のようにくるくる回せる枠に固定されている。
直径が1m弱の大きなものだった。
それが二人一組に渡される。
僕と組んだのは女の子だった。
表面に書かれた問題文を読んでいく。
僕がある面の文章を読んでいるとき、女の子はその裏側の文章を読んでいた。
問題の文章はとても長くて、何が質問なのかなかなかわからなかった。
これが質問かと思うような文章にやっとたどり着いたとき、女の子が問題の書かれたガラスの球をくるりと回した。
「まだ問題読んでんだから回さないでよ」と言ったが、返事がない。
仕方ないのでさっきとは別の面の問題を読み出す。
その問題も長い。
やっと質問を理解しかけたとき、女の子が球をくるりと回す。
「勝手に回すな」と言ったが無視される。
また別の面を読む。
同じことが起きる。
「いい加減にしろよ、解けたのかよ!」というと、「解ける訳ないでしょ」という。
「だったらなんで回すんだ」
「あんたが問題解きそうだからよ」
「お前が解けない、俺が解けないでどうするんだよ」
「私が解けないんだからあんたも解けないようにしてやるんだよ」
「解いたら教えてやるよ」
「教えられたらカンニングでしょう?」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
そこで目が覚めた。
他人を妬む気持ちが夢に出てきた。
なんかすっきりした。

8月

27

寝入りの風景

ときどき寝入りの時、
不思議な風景を見る。
それは夢のようなものだ。
見たことのないものや景色。
それを見ながら「何だこれは?」と感じている。
見たことのないものだから
それをなんと言ったらいいのかすらわからない。
複雑なモビールのようなものであったり、
砂漠の中の建物か、
はたまた空飛ぶ乗り物のようであったり、
壁際にある意味不明のものだったり。
「なにこれ?」と思いながら夢の中へ。

7月

4

夢についての夢

もう10年以上も前にこんなことを
どこかに書いた。

人は手を自由に使うことで
外界に変化を与えるようになった。

これは確か霊長類を研究している
誰かの本で読んだことだと思う。
それに僕はこんなことを書き加えた。

言葉も、外界を変化させるために
生み出されたものだと思う。

最近読んだユングの
「変容の象徴」に
ボールドウィンの引用があり、
こう書かれていた。

つまり言語は、精神的な意味を発達
させ保存するための具体的で事実に
即した歴史的な道具である。言語は
社会の判断と個人の判断が一致する
ということのすぐれた証言であり、
証明である。妥当であると判断され
た、共通の法則に従う意味は、言語
化されて、社会的に一般化されたも
のとしての「社会的」に意味になる。

これを読んで僕の空想が飛躍する。
夢についての夢を見た。
つまり、夢とは、
外界を変化させることの
できなかった生物が、
自身の心の中で納得するために
生まれた、
出来事を合理化させるための
手段だったのではないかと。

動物に心があるのかないのか
よく議論されたが、
人間の心と同じ「心」は
ないかもしれないが、
心の前駆段階のようなものは
あるだろう。
それは、その生命が置かれた
さまざまな状況を受け入れるために
生み出される思いであり、
人間にとっての夢のようなもの
なのではないかと感じた。

夢は理屈の通った状況を
生み出さない。
なんでこんなことを思うのか
理解不能なものが多い。
それは言語を持つ以前の思考
だったのではないかと思うのだ。
丁寧に説明すると長くなるので
これでやめるが、そう思って、
なんとなくうれしくなったので
ここに書いた。

6月

6

赤の書から抜粋

あなたはこの時代の精神に仕え、深
みの精神を免れることができると思
っている。けれども深みはもはやこ
れ以上ためらわずに、あなたをキリ
ストの密儀に無理やり押し込めるで
あろう。人間が英雄によって救済さ
れるのではなく、自らが一人のキリ
ストとなることがこの密儀に属して
いる。このことはこれまで生きてき
た聖者たちの例が象徴的に教えてく
れる。

—————

赤の書は心理学者ユングの著作。
第一次大戦を前に精神状態が不安定
になり、黒い表紙のノートに夢やヴ
ィジョンを書き連ねて行く。これを
ユングは黒の書と読んだ。当初、ユ
ングはなぜそれを書いているのか、
理由がわからなかった。しかし、第
一次世界大戦の開戦により、心の不
安定さはその予告であったことを知
る。

1914年から16年をかけ、黒の書を清
書した。中世の写本を彷彿とさせる
装飾を施して。この清書は赤い表紙
の大きな革装のノートに書かれたた
め『赤の書』と呼ばれる。

ユングの死後、銀行の金庫に保管さ
れ、内容を知ることはできなかった
が、2009年、遺族が許可を出し、各
国で出版されていった。

5月

21

平成30年5月21日の夢

三日ほど、気持ちいいものが書けなかった。
無理をすれば書けたのかもしれないが、
書くのにちっとも気持ちよくない。
気持ちよくないのに無理に書いて
嘘をつくのは嫌だなと感じる。
いったいどうすればいいんだ?
感情は、さまざまな些細なことの
積み重ねでできている。
自分にとってどうでもいいと思うようなことが
実は重大な影響を与えていたりする。
そのことを今朝の夢で思い出した。
だけど、この体験を意味が通るように
書くことができるのか不安だ。
なぜ僕がそのことを思い出せたのか
僕自身はっきりしていないからだ。
そして、それがなぜ解決できたのか、
きっといろんなことの
些細な積み重ねであるから、
それをひとつひとつ書いても、
その話のどこが効果的だったのか、
結局わからないだろうと思う。
でも、一応書いてみる。
夢はこんなものだった。
ある日、どこかの田舎に行く。
何かの手伝いをしに行った。
その手伝いが終わって帰ろうとすると
もうすでにかなり遅い。
その場所は駅からかなり離れている。
近くにはふたつの駅があり、
どちらの駅まで歩こうかと考える。
ひとつの駅には
雪道を歩かなければならない。
もうひとつの駅には
雪道を歩く必要はない。
僕は雪道を歩こうとして途中まで行ったが
やっぱりやめたと思い
もうひとつの駅に向かう道を選ぶ。
うちに帰るのに遅くなると思い
電話をかける。
そこで気づきがやってきた。
そして目覚める。
目が覚めるとラジオで飛行機の
話をしていた。
そういえば、と思い出す。
飛行機の航路は世界中を巡っている。
どの街とどの街が、
距離は隔たっていても
関係が深いのか、
便数でわかるなと思う。
それでさらに何かが解決した。
そしてなぜか
「日刊 気持ちいいもの」が
書けるような気がした。

4月

27

平成30年4月27日の夢

今朝、夢を見た。
映画「メッセージ」に登場する
「ばかうけ」のような形のUFOが
出てくるのだが、
それはUFOではなく、
何かの機械だった。
フワフワと浮いて立っていた。
それを大きなレバーで
ヘルメットをかぶった兵士が
操作していた。
その兵士に対して僕が何か言う。
いつもの夢と同様、
意味がよくわからない。
今日の南北対話と関係があるのか?

3月

28

シュノーケリングが入口の夢

ここにシュノーケリングのことを書こうとして、
海に潜っていくことを詳細に思い出していた。
海に入ることを思い出そうとしていると
海亀と泳いだことを思い出した。
このあたりでどうやら
眠ってしまった。
夢を見た。
海亀が海の底から泳いで出てきて
海面を泳いでいる僕を追ってくる。
ちょっと避けると行ってしまった。
いっしょに泳いでいた男の人と
海を上がり浜辺に出ると
名刺だと言われて大きな紙をもらう。
紙はたたまれていて、
それを開いていくと
中からいろんなものが出てきた。
なんでこんなものが
名刺から出てくるんだと思いながら
どんどん開いていく。
すべて開き終わってから
その人に聞いた。
「ところであなたの名前は?」
その人はあわてて名前が
書いてあった場所を探す。
ところが名前がない。
「あれー?」とその人が
叫んだところで目が覚めた。
いったい何を表現したい
夢だったんだろう?

1月

31

夢と前世

レゾナンスCafeの
『夢とレゾナンス』に参加するため、
このところ夢を気にしている。
今朝起きて、何か夢を見ていたなと
感じるけれど、それがどんな夢かは
思い出せなかった。
普段ならそこであきらめるのだが、
『夢とレゾナンス』に参加すると
決めていたので、
「思い出せればいいな」と
思っていた。
しばらくして思い出せた。
L字型の部屋で会議をしていた。
僕は2つの方向に伸びた長い部屋の
交差点に座っていた。
ある直線にいる人たちは
僕のことを「つなぶちさん」と呼ぶ。
もうひとつの直線にいる人たちは
僕を別のペンネームで呼ぶ。
ふたつの会議はまったく違う議題。
それぞれに僕は別の名前で
参加していた。
ところがあるとき、ある人が、
また別のペンネームで
呼びかけてきた。
そこで目が覚める。
そのあとふつふつと、
僕の前世とその夢の関係が
理解できてきた。
長いのでここには書かないが、
どういう前世かという話は、
『あなた自身のストーリーを書く』
に書いておいた。
その前世を僕が信じているのか
と問われれば、
正直言って微妙である。
本当かどうかは少し疑っている。
でも、見事にいろんなことが
シンクロしていくので、
「そんなの嘘」とも言い切れない
僕がいる。