Search Results for: 気持ちいいもの

7月

6

思い浮かばない

この数日、気持ちいいものが思い浮かばない。
そういうことはときどきある。
でもなんで?と思ったとき、ふと思い出した。
二十年以上前、箱根に行ってある場所をお酒とお米で供養したこと。
また箱根に行ってみるかな。

6月

21

迷いの渦

気持ちいいものを感じ続けていくと、いつか迷いの渦に巻き込まれるようになった。
「これは本当に気持ちいいのか?」
とても曖昧。
他人に理解してもらうために「気持ちいいもの」を書くのであれば、互いに気持ちいいと思っていることを書き続けるしかなくなる。
その先に進もうとすれば、つまり自分の中にある気持ちいいに降りていくとき、なんだかわけのわからないものに触れる。

6月

6

ブライアン・メイのファンファーレ

金曜に地上波で映画「ボヘミアン・ラプソディ」が流されたそうだ。
それを聞いてあの映画では、始まる寸前に泣かされたことを思い出した。
確かここにも書いたよなと、過去の『日刊 気持ちいいもの』を見たら、書いてない。
No.03712だ。
映画が始まる直前に鳴る20世紀フォックスのファンファーレが、ブライアン・メイのギターで演奏されていたのだ。
その音を聞いた途端に僕は感電死した。
なきがらが映画を見ていた。

6月

4

どこにあるのか

気持ちいいものは、いったいどこにあるのか?
ときどき、考える、感じてみる。
「いまここ」なんて簡単なものではない。
他人に伝えるのにそれしかいいようがないから「いまここ」という。
「いまここ」であり、「永遠の彼方」であり、「宇宙大の広がり」であり、「妄想」であり、「意味のないもの」でもある。
それを知るとはどういうことか。
語り尽くせぬ言葉が溢れる一方で、沈黙が訪れる。

4月

8

あるレベルの悟り

かつてこの「日刊 気持ちいいもの」で、あるレベルの悟りができたと書いた。
そう書いて始めてなるほどと思う。
「あるレベルの悟り」が、レッテルになる。
そうあることが当たり前になる。
そうなったとき、僕はちっとも悟ってない。
自己の肥大が現れる。
そう書いて満足する僕の肥大に直面する。
なるほど。

4月

2

深遠な智慧に開かれていく

いつも「気持ちいい」状態でいることなどできるのだろうかと、この『日刊 気持ちいいもの』を始めた。
その結果、いろんなことが理解できるようになってきた。
最初はきっとリフレーミングの限界と可能性を知ることになるんだろうと思っていたが、結果としてはそれ以上のものになってきた。
かつて理解できなかったことのいくつかが、急に理解できるようになってきた。
なぜそのようになったのか、きちんと説明したいが、それが難しい。
いままでもそのようなことがときどき起こったし、これからも起こっていくんだろうなと漠然と思う。
たとえば、かつて僕は相方の感情に揺らされていた。
相方が怒ると僕も怒らざるを得ない。
だから一度喧嘩が始まると収めるのに時間がかかった。
それが以前ほど揺らされなくなった。
なぜか? と問われて、答えることはできるが、通り一遍の答えでは聞いた人はその恩恵を受けとることはできないだろう。
たとえば、「あらゆるモノがつながっていて、それらに感謝するしかない」と知っていても、相方が怒れば僕も怒る僕だった。
感情が揺らされないためにはいろんな体験と智慧が必要だった。
そしてまた僕は、さらに変化していくんだろう。
相方に感情を揺らされることも起きるだろう。
歳だからそう思うという見方もあるだろう。

3月

23

感情の種

「日刊 気持ちいいもの」では、書いている僕の「感情の種」を探しているという側面がある。
感情の種とは「そのことを思い出すと感情が動いてしまう」その「何か」だ。
嬉しい、たのしい、悲しい、怒りなどと、いろんな種がある。
そういう種があることを知った頃には、「そんなこと、知らなきゃ良かった」としか思えない。
その種を思い出しては感情が揺らされるから。
しばらくするとその感情の揺れをどうやって止めればいいかと考えるようになる。
そのおかげで心理学や宗教の本をたくさん読んだ。
それだけが理由で読んだわけでもないけど、それも理由の一つだった。
そうやって歳を重ねることができて良かったなと思う。
いろんな種があることがうれしい。

3月

11

10年前の今日

10年前、3月1日から試運転した。
3月1日に1991回として、3月11日が2001回の正式稼働。
『日刊 気持ちいいもの』を再開した。
正式オープンの言葉とともに、以下のような文を流した。

—–

生きていること

生きていることは何よりも気持ちいいこと。
もし生きていなかったら
気持ちいいも、気持ち悪いもない。
「愛する」の反対が「憎む」ではなく、
「無関心」とマザーテレサは言った。
「気持ちいい」の反対が「無感覚」としたら
感覚を持てる「生きている」状態は
どれほど素敵なことだろう。
生きている限り、
気持ちいいことを感じていこう。

—–

朝の七時頃に配信して、その日の14時46分、東日本大震災が起きた。
翌日から気持ちいいとはいえない状況の中、「気持ちいいもの」を配信し続ける。
偶然だとはわかっていても、、、

3月

4

聖なる瞬間

ミルチャ・エリアーデの著作に『聖と俗』がある。
そのなかで「聖なる瞬間は繰り返される」という話しがある。
たとえば聖なる瞬間をお祭りなどで反復するのだ。
なるほどと思う。
僕にとっての聖なる瞬間もいくつかあって、それらを記憶の中で反芻している。
この『日刊 気持ちいいもの』で何度か書きたくなる内容は、僕にとっての聖なる瞬間なのだな。
そうだとしたら、同じこと何度か書いてもいいじゃないかと思える。

2月

28

黒い瞳、再び

渡辺貞夫の「黒い瞳」が流れてきた。
何度聞いてもうるっとする。
きっとこの『日刊 気持ちいいもの』にももう書いただろうなと思って調べてみる。
2002年6月14日に書いていた。
以下のようなものだった。

—–

黒い瞳
    
渡辺貞夫の曲に『黒い瞳』がある。
シンプルな詩、シンプルなメロディーを
中学生のコーラスが歌う。
バックはブラジルのパーカッション・チームと
ナベサダの率いるジャズバンド。
うまいとかへたとか、そんな域を遙かに超えて
なぜか心が震えてしまう。
音楽で大事なのは技術だけではないことがよくわかる。
ナベサダの問いかけに中学生たちが
全身全霊で答えている。

—-

これを読んでおやっ?と思う。
あの歌は中学生の声なのか?
すっかり忘れている。
調べると、栃木の中学生だということがわかった。
録音されたのは1997年頃、20年以上前だ。
あの歌を歌っていた中学生はもうアラフォーだ。
あの歌を歌うということが、どういう体験だったのか、聞いてみたい。

2月

14

大きな地震

昨晩23時頃、大きな地震があった。
福島に比べれば東京の揺れはたいしたことはなかったけど、積んであった本が崩れてきた。
大地も生きているな。
そういえば、この「日刊 気持ちいいもの」を再開したのが2011年3月11日だった。
10年後の余震、大地からの挨拶。

1月

23

何をしているのか

「日刊 気持ちいいもの」を書き続けることでいったい僕は何をしているのか?
その理由をかつて書いた。
だけど、新しい理由をもうひとつ見つけた。
僕は誰かを説得しようとは思わない。
ただ自分が感じたことを表現したいだけだ。
誰も共感してくれなくてもいい、誰も賛同してくれなくてもいい。
僕が感じたことは僕だけのものだ。
たまたま同じことを感じる人はいるかもしれない。
たまたま共感する人はいるかもしれない。
それでいい。
誰かを無理矢理説得して、自分と同じ方向を向かせ、自分と同じ考えを持たせることはない。
あなたはあなたのままで、僕の文章を、読みたいときだけ読めばいい。
多様な世界はそこから始まる。
そういうことが感じられる文章とはどんなものか?
それを見つけてみたかった。

12月

31

2020年

今年もいろんなことがありました。
僕という小さな一点から見ると、いいことやら悪いことやらありますが、ほかの視点から見るといいも悪いも僕の判断とは異なり、地球とか、宇宙とかいう大きな視点から見ると、どんなことでもきっとOKなのでしょう。
本年も「日刊 気持ちいいもの」を読んでいただき、ありがとうございました。
また来年も、気持ちのいい年でありますように。
幸せな年をお迎えください。

10月

23

意味をたくさん持つ

毎日気持ちいいものを書くことは気持ちいい。
毎日気持ちいいものを書くことは面倒だ。
毎日気持ちいいものを書くことは勉強になる。
毎日気持ちいいものを書くことは無駄なことだ。
毎日気持ちいいものを書くことは価値のあることだ。
毎日気持ちいいものを書くことは暇な人がすることだ。
毎日気持ちいいものを書くことは心の修養になる。
毎日気持ちいいものを書くことは意味がない。
毎日気持ちいいものを書くことは光を灯すことだ。
毎日気持ちいいものを書くことは闇を見つけることだ。
・・・
こうやって毎日いろんな意味を見つけ続けられることがとてもありがたいこと。
このような状況を生み出してくれた一切の存在、状況、宇宙に、深い感謝を捧げる。

10月

19

ルーティーン

気持ちいいものを書くことが僕の朝のルーティーンだが、時々書けないことがある。
そういうときにルーティーンの大切さが身に染みる。

10月

19

感覚を新しくする

どんなに気持ちいいものでも、慣れてしまうと気持ちいいとは思わなくなる。
慣れたものは「当たり前」になる。
そのことを思い出すと気持ちいいものは身近にたくさんある。
慣れるまで僕のそばにいてくれてありがとう。

9月

12

暑い中の散歩

熱中症に注意と言われながらも、暑い日に散歩するのは案外気持ちいい。
36度を超えるような暑さではやめた方がいいだろうけど、30度前後ならきちんと水分をとって、無理をしないようにして散歩する。
汗をかくのは体にもいい。
気持ちいいものも見つかるかも。

8月

24

考えを反芻する

毎朝この『日刊 気持ちいいもの』を書くために、瞑想したり、考えを反芻したりする。
いろんな思いや考えが現れては消えていく。
反芻した考えを理解するためにはその前提となることも理解しないとならない。
毎日少しずつ考えることは、実は物凄い価値を生む。
その大きな価値は、毎日少しずつ考え続けた人が得る。

8月

7

新月瞑想会

新月の日に瞑想会をしていたことがある。
環境の良い部屋を借りて、そこで瞑想会をした。
いろんな人が来てくれたが、しばらくして嫌になってやめた。
「なぜ新月に瞑想するのですか?」と聞く人が現れた。
バリ島のニュピがほぼ新月の日だったというのが僕のなかでの理由だが、質問する人はその効用を聞きたがる。
「そんなもの知らん」と答えるのもどうかなと思っていたので、色々と言葉を濁したが、それが嫌だった。
今にして思えば「そんなものは知らん」と答えればよかったと思っている。
「僕がそうしたいから」でもよかった。
でも面白いもので、今ではネット上で「新月 瞑想」と検索すると、いろんな理由を読むことができる。
僕はそれらを「本当か?」と思っている。
新月に瞑想するのは、僕がなんとなく良いと思うから、それだけだ。
自分一人だと新月の日に瞑想をするというのはなかなか難しい。
なおざりになってしまったりする。
そこで、ここで宣言をして新月瞑想を再開することにした。
そもそも『日刊 気持ちいいもの』も、自分一人でこっそりやっていたら長続きはしないなと思って始めたこと。
それと同じだ。
天文学的に最も新月である時間というものがある。
それを調べてその時間に瞑想する。
昼間だったり、深夜だったりすることもあるが、都合が悪くてできない時にはそれを伝えます。
もし一緒にやりたい人はやってみてください。
次の新月は8月19日(水) 11:42 です。
「一人でやるのはなぁ」とか「やり方がわからない」という方には、ネット上でZOOMを利用して誘導瞑想をいたします。
こちらからお申し込みください。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/contact/
題名に「8月19日の新月瞑想に参加希望」と書いてください。
返信いたします。
そこにZOOMのURLや、参加のための手引きなどを書いて送ります。
参加費は無料です。
どんな宗教とも関係ありません。
8月19日(水) 11:42 に瞑想状態でいられるように、11:32から誘導を始めます。
11:30にはご入室ください。
11:30を過ぎるとご入室いただけなくなります。
瞑想は11:50頃には終了し、少しだけ皆さんの感想などを聞き、12:10には閉会します。
「なぜ新月に瞑想するのですか?」という質問はしないでください。w

8月

3

矛盾を受け入れる

毎日のように気持ちいいものを書いていると、自分の中で矛盾していることに気がつく。
そういうとき、かつては外界との関係を考えて正しいと思われるほうを選んでいた。
あるときから矛盾をしばらくそのままにするようにした。
すると居心地が悪かった。
今もときどき居心地が悪いことがある。
でも、それをそのままにしておく。
すると、個性化の扉が見えてきた。
その先はなんだろう?

7月

1

不快の区別

気持ちいいものについて4184もの区別を付けてきた。
そうしていると不思議なことが起きてくる。
「不快」のなかに気持ちよさを見つけるようになる。
または、「不快」と思い込んでいた感覚に、別の解釈を許すようになる。
それはいったいどういうことなのか、説明しようとしてもうまく説明できない。
あえて説明するなら、子供の頃に嫌いだった食べ物を大人になって好きになってしまうような感覚とでも言おうか。
「気持ちいいもの」について区別を与えれば与えるほど、「不快なもの」にも区別を与えていたのかもしれない。
それは自分が意図せずにも、心のどこかでそういう自動的な作業が発動していたのかも。
たとえば、気持ちいいものを表現すればするほど、太極図のようにどこかに不快な感覚がついてきて、そこに意図せぬ区別をつけていたのかも。
気持ちいいものを書き続けると、ときどきその作業が嫌になることがある。
それが陰の極まったとき。
それを過ぎて陽が現れるのをじっと待つ。
「気持ちいいもの」を書くように「不快なもの」も書ける気がする。
「不快なもの」を書き続けると、きっと「気持ちいいもの」にたどり着くのだろう。

6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

6月

24

進化の意外な順序

アントニオ・ダマシオの著書、『進化の意外な順序』を読んでいる。
とても面白い。
『日刊 気持ちいいもの』で、表現のしようのない感覚について何度か書いたけど、その説明になるような話が「第7章アフェクト」に登場する。
そうだよそうだよ、と思いながら読んだ。
『日刊 気持ちいいもの』に出てくる理屈っぽい部分が好きな人は読むと面白いかも。

4月

9

無意識の働きに気づく

無意識は普段気づくことができない。
「あ、これ無意識だ」と思ったら、それはもう無意識ではない。
だから無意識の議論は難しいし、自分自身の無意識に気づくことも難しい。
だけど、毎日気持ちいいものを書いていると、あとから無意識の働きに気づくことがある。
それは、偶然かもしれないし、シンクロニシティかもしれないが、無意識の働きだと考えることもできる。
たとえば、この「日刊 気持ちいいもの」を再開した日に311が起きた。
偶然ともいえるし、シンクロニシティともいえるし、無意識の働きだともいえる。
同じように、今年に入って、なぜか朝日を浴び続けていた。
天気が良くて朝日がきれいな日に、ベランダに出て、上半身は作務衣一枚で朝日を浴びていた。
なんでそんなことしているのかよくわからなかったが、なんとなく気持ちいいのでしていた。
そしたら、二月後半からコロナ騒ぎだ。
日を浴びるとビタミンDが生成されて、感染症予防に効くらしい。
偶然かもしれないし、シンクロニシティかもしれないし、無意識の働きかもしれないが、僕は無意識の働きだと思い、そういう気づきを与えてくれているサムシンググレートに感謝する。

3月

23

こういう国

まずは宣言することにした。
こんな状況で気持ちいいものなんか思いつかないよ。
コロナウィルスが蔓延し、各国が閉鎖され、消費前増税で景気が悪かったのに、そこにさらにコロナウィルスの影響で不景気になる。
朝日新聞の記者、青木美希さんが記者を辞めさせられた。
かつてNHKの記者だったがさらにスクープを出しそうなために閑職に回されそうになった相澤冬樹記者がNHKを辞めて大阪日日新聞の記者になり、森友学園の事件の関連で自殺してしまった近畿財務局の赤木俊夫さんの手記(遺言)を発表したにもかかわらず、麻生財務大臣も安倍首相も調査はしないという。
日本はこういう国だったのか。
書いて清々した。